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【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】

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0001人間七七四年2011/01/30(日) 17:29:57ID:4dXHFJUm
織田信長の有力家臣として活躍しながらも、
折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。


武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html

佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F

■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/
0334人間七七四年2011/07/12(火) 10:58:18.48ID:QvufKzfG
>>333
よくそういう妄想を平然と事実のように話せるなお前w
0335人間七七四年2011/07/12(火) 14:42:04.04ID:mtDUPuor
長浜は久太郎に与えられることになってたんだと思うよ
寛政重修諸家譜では天正九年九月八日に長浜城主になってる
堀家譜でもそのときに二万五千石(近江坂田のことかもしれんが)を貰ったと記してる
もちろん実際には秀吉は退去してないけどね
ただ、同年春の信長の利家宛朱印状に、能登はくれてやるから越前府中は来年以降は菅谷に譲れとある
長浜でも同じ朱印状が発給されたんじゃないかって言われてる
0336人間七七四年2011/07/12(火) 15:31:08.10ID:1pLOhzIs
信長公は秀吉や光秀など流れ者でも仕事ができれば大封をあたえるけど、
やっぱり好みというのがあって、子供のころから崇拝させている信長親衛隊あがりの
利家や久太郎、森兄弟などをえこ贔屓してるように見えるな
0337人間七七四年2011/07/12(火) 15:48:59.61ID:Pzfe9+k2
寛政重修諸家譜は信用できんが
前田に関しては長頼に家臣の邸宅も含めてすべて引き渡し
妻子・家臣ぜんぶ連れて能登へ移れと命じられていて
年貢に関しては本年分を受領し、来年分は長頼に引き渡すように言われている。
その一方で府中は利長が封ぜられたとも言われている。
その理由は信長の娘と利長が婚姻したことだといわれている。
そして本能寺の直前に利長夫妻は信長に呼ばれて本能寺を目指していたが
これは信長が新たに能登を与えたことから利家から利長を人質にするためのものだったとも言われている。
0338人間七七四年2011/07/12(火) 18:33:56.38ID:GnCe5RuP
>>336
信長が取り立てて大名にした奴は、ほとんど母衣衆や近習あがりだし。
0339人間七七四年2011/07/12(火) 20:00:42.31ID:Pqg3nIRC
なんか「信長の野望」で武将の再配置するときみたいな話だな
0340人間七七四年2011/07/12(火) 23:25:14.67ID:52iMUotk
親族・子飼いで固めるのは家康もやっているから一概に信長が間違っていたとは言いきれないと思う
特に信長の場合だと途中参加の外様の連中が反逆するケースが頻発したわけだし
松永、三好、富田、波多野、荒木・・・・数え上げればきりがない
0341人間七七四年2011/07/12(火) 23:41:32.37ID:EFQzswRe
エ?
0342人間七七四年2011/07/13(水) 03:07:57.04ID:829Z1Al3
家康はまったく逆だろ
外様ほど大封を与えたんだよ
ただし、地理的には僻地でね
で、役職には就けさせなかった
譜代や一門親族は要地に小藩を置いて、そのかわり重役を任せた
0343人間七七四年2011/07/13(水) 10:54:01.38ID:LQiNiUgq
佐久間も、数万石から十万石程度の所領で、織田家筆頭老臣という家中の地位だけに依存して采配を振るい、
独自の勢力を持たなければ追放はなかったのかな?
0344人間七七四年2011/07/13(水) 11:28:59.47ID:R33cHvjd
信長の場合は家臣に与えたのでなく
目付けに監視させた上で領地を預け置いただけだから
佐久間のように気分ひとつでいつでも没収できる。
0345人間七七四年2011/07/13(水) 20:01:21.97ID:WzmZx+lk
信長は、自分以外の人間は自分と違う普通の人、凡人なんだ、って
ことが理解できてなかったっぽいような印象を受けるね
こういう人、今でもよくいると思う
0346人間七七四年2011/07/13(水) 21:40:47.52ID:eiPma5CG
我々程の内の者はもたれ間敷、と自賛を申され候
0347人間七七四年2011/07/13(水) 22:06:15.10ID:jHuiAclV
>>346
信盛の人間像を想像するにはその話が一番インパクトあるね
0348人間七七四年2011/07/13(水) 22:36:34.74ID:s+aznKgg
逆に信長がどんだけキチガイな怒り方をしていたんだと思うと怖いわ。
しかも信長が根に持つ性格なのがよくわかるわ
0349人間七七四年2011/07/13(水) 22:51:36.28ID:jHuiAclV
そうかな?多少なりとも笑っていたんだと俺は想像してる
この発言と追放は全然関係ないと思うよ
0350人間七七四年2011/07/14(木) 00:09:09.55ID:EscdbBYD
>>5
0351人間七七四年2011/07/15(金) 04:03:52.48ID:wzwvKDVN
小牧山城の石垣で日本最古の石垣墨書発見
「佐久間」と書かれていた

http://www.city.komaki.aichi.jp/contents/10000259.html
0352人間七七四年2011/07/15(金) 11:26:23.50ID:kURujalb
佐久間ブランドさすがやな。
0353人間七七四年2011/07/16(土) 01:03:30.18ID:80vCmB4V
>>344
でも実際というか、建前上は少し違ってたんじゃないかな。
そうでなければ、だれも信長についてゆかない。
0354人間七七四年2011/07/16(土) 09:27:20.95ID:1mhhLTId
実際信長死んだら葬儀もやらずに
すぐ家臣たちが織田領を分配するのに熱中して他家と違って節操がまるでないって嘆息されたほど
上記のように多聞院日記に皮肉を書かれたほどの常識を逸した手の平返しをしてるじゃん。

0355人間七七四年2011/07/16(土) 15:07:25.33ID:sZyIgtYu
そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
成立した、というのが発端。
だから中世の武士の倫理観としてはこの契約が破綻したら関係は
終わり。お互いに義務を負い合う双務的な契約だから。
それが「主君第一が家臣のつとめ」になったのは、江戸幕府が朱子学を
基準にしたため、そのように変質していったというのが事実。

こういう武士の倫理観は僧侶や公家には理解できなかっただろう。
0356人間七七四年2011/07/16(土) 20:43:34.31ID:f/wwxMmH
>>355
> そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
> ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
> あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
> 開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
> 成立した、というのが発端。

それ俗説。完全な間違い。

今は武士の発生は、中央の武人貴族が平安期に地方に下り、その地域の国衙軍を
統率、それが固定化し主従化、世襲化した物、というのがほぼ定説になっている。

開墾農民武装化説はほぼ否定されている。というか今の市民が武装化しても軍隊にはならないのと同じで
農民が武装してもそれは武士にはならんよ。
0357人間七七四年2011/07/16(土) 21:33:25.06ID:uMtR0g2z
揚げ足取りぽくてすまんが人の意見に異論を挟むなら言葉はしっかりしないとな
完全な間違い と ほぼ否定されている じゃあ意味が違うぜ
0358人間七七四年2011/07/16(土) 22:32:11.84ID:f/wwxMmH
>>357
わるかった。「ほぼ間違いと現在認識されている」で。
0359人間七七四年2011/07/17(日) 00:59:01.35ID:X6bG8+vK
>>356
旧郡司層と土着した国司の子孫がルーツだと思ってたけど違うの?
0360人間七七四年2011/07/17(日) 02:44:16.27ID:dL1UR5g1
>>359
土着と武士化は全然別だろ。
武士に成る必然性がない。
0361人間七七四年2011/07/17(日) 04:10:07.55ID:X6bG8+vK
>>360
いや、あの、そういう人らがルーツの在庁官人が武士化したんじゃないかと言いたかったんだが…
0362人間七七四年2011/07/17(日) 04:59:23.76ID:JgVXtPvm
武士の起源論は簡単には結論出ないからここで論じても仕方あんめー。

それは措いといて、武士の倫理観の変化という話の部分は正しい
指摘だと思うよ。
見返りを求めない無限の忠誠を要求されたのは江戸時代からで、
それ以前は役に立たない主は捨ててもよかったでしょ。
0363人間七七四年2011/07/17(日) 10:16:23.72ID:39kboqp6
江戸時代でもバカ殿は押し込めてもいいんだよ。
そもそも米で藩から給料もらっているようなもんだし
所属する組織に忠誠するのは当たり前の話。
中国が異民族に侵略された時に漢民族が考え出した朱子学が日本に流入して
日本向けにアレンジされ天皇の再認識がなされ南北朝時代を呼んだわけで
江戸時代に突然変異で変化したわけじゃない。
0364人間七七四年2011/07/17(日) 11:32:36.95ID:T58P/5qq
盛信「ボクはここでもいらない子なの?」
0365人間七七四年2011/07/17(日) 11:46:50.46ID:LwMMEDSE
仁科さん?関さん?
0366人間七七四年2011/07/17(日) 21:38:29.47ID:T58P/5qq
ガチで名前すら間違えたわw
0367人間七七四年2011/07/18(月) 11:02:02.51ID:splUdoaD
そういや、通字は「盛」で合ってる? 信の字は、織田家当主からの偏諱で。
0368人間七七四年2011/07/18(月) 13:28:05.54ID:VU87P8TG
>367
盛重の系統の通字が盛で信盛の系統が信だったと思う
0369人間七七四年2011/07/18(月) 19:07:33.90ID:aqefrIXb
>>367
別に通字ってひとつの家系で永遠不変なわけではないよ
佐久間家の「盛」は、和田義盛-常盛-朝盛-佐久間家盛の流れに由来

信盛系は「信」と「盛」と両方ある(盛進などもいる)
他に安政系は「安」だし勝之系は「勝」だし
0370人間七七四年2011/07/18(月) 19:09:20.16ID:aqefrIXb
とりあえずここ見ればよくわかる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F#.E7.B3.BB.E5.9B.B3
0371人間七七四年2011/07/19(火) 00:33:41.43ID:dH09woFB
えっ 佐久間家って由緒正しい家なの?
信長公(自称藤原、平、ほかなんでも)とか前田利家(自称菅原道真の子孫)みたいに
自称じゃないの自称
0372人間七七四年2011/07/19(火) 01:36:12.26ID:M/HAJgC7
何をもって「由緒正しい」とするか謎だけど
和田朝盛の子の佐久間家盛が御器所を与えられていたことは確認できてるよ
御器所のほうでは室町中期ごろにはもう佐久間の名前は確認できてるし
0373人間七七四年2011/07/19(火) 02:38:38.14ID:dH09woFB
ふうむ そうするとれっきとした平家ですな 御先祖様はまさしく天皇家のお方
家柄いいんじゃ!という自負はあったでしょうな
0374人間七七四年2011/07/19(火) 08:16:49.45ID:nC/WQ95B
藤吉郎:家柄よくねえと名字なんて持っとりゃーせん
0375人間七七四年2011/07/19(火) 18:27:11.86ID:COF3ku9d
秀吉の家はどうも「ハシバ」が隠し姓だったフシがある。
それが元々「羽柴」だったのか、それとも「橋場」「端場」などの地名苗字に
雅字を当てたのかはわからないが。
0376人間七七四年2011/07/19(火) 18:38:07.24ID:i7+jOvwD
>>373
そうでしょうね。当時の佐久間は尾張でも屈指の名家だから。
0377人間七七四年2011/07/19(火) 21:02:09.46ID:yL8L307x
>>375
やはり、秀吉自身が橋端と羽柴をかけて創った姓と言われている
橋のたもとに捨てられていた話との
0378人間七七四年2011/07/19(火) 23:30:22.94ID:dH09woFB
井沢元彦氏などは端柴売りの稗吉という説をとってますね
端柴売りというのはハンパなタキギを売る最下層の木こりかなんかのようです
非常に自虐的な名前ですな 葛飾北斎の別名、画狂人、画狂老人、月痴老人などを
思い出しました なくはないけど、ここまで卑屈にされると逆に怖いですね
奴隷だけが王を殺せる、みたいな凄みを感じます
0379人間七七四年2011/07/19(火) 23:40:43.96ID:W8h78Ylt
そういう貧農説とは逆に、秀吉の実家はある程度規模の大きな百姓で、農業だけでなく
河川流通業も手がけていて、そのため船出し場のある「橋場」あるいは「橋端」の
藤吉さんと呼ばれていた、って話も聞いたことがあるな。
0380人間七七四年2011/07/20(水) 00:12:15.85ID:/MFzUVyT
河川流通業が一番ありそうだよなー
商売人だから算学に明るく奉行職ができ、
美濃の流通業者と顔が利くから蜂須賀らを動かしたり調略もできたとする論拠は織田家でいきなり登場するや奉行スタートですぐ軍勢を率いる立場になると言う大抜擢の裏付けとして一定の説得力がある。
0381人間七七四年2011/07/20(水) 01:49:54.78ID:OPpcMyJl
さて、このスレは何スレだったかのう
0382人間七七四年2011/07/20(水) 09:37:15.43ID:G9pwYxVR
>>369
和田義盛の盛に由来するってのは凄いね。
結城家の朝が頼朝に由来するってぐらいビックリ。

あと安や勝は別家として独立した証左なんでしょうね。
0383人間七七四年2011/07/20(水) 10:33:16.72ID:E2ksmApB
そういえば信長嫡男の信忠(信重)は、明らかに平忠盛(平重盛)からだな。
0384人間七七四年2011/07/20(水) 11:06:43.52ID:upZYDFgj
>>380
おそらく商人人脈としての採用だよな、秀吉は。
かなり早くから津島とか川並衆とかとの統括みたいな位置に居たみたいだし。
ソースがネットのどこかなんで、この情報が間違ってる可能性あるけど。
0385人間七七四年2011/07/20(水) 17:09:03.05ID:JeG8e4Rq
>384
口寄せの人がそんなこと書いてたな
0386人間七七四年2011/07/20(水) 17:11:03.19ID:eUH/Xdz6
武功余話だったような?
0387人間七七四年2011/07/21(木) 03:14:41.53ID:WGzHWCq6
>>382
そうなんよね
勝之は何とかして盛政の家を復興しようと尽力したらしい
中川家に嫁いだ盛政の娘虎姫の息子内記に家を継がせて
自分の娘を嫁がせた
内記が後嗣なく没した後はその自分の娘を中川資重に
嫁がせて資重に家を継がせた

おそらく自分の家は分家で、本家は盛政家、という意識が
あったんだろうと思う
0388人間七七四年2011/07/21(木) 03:34:26.55ID:WGzHWCq6
ざっと鎌倉からの流れを追っていくと

三浦氏の出身の和田義盛が侍所別当として幕府の一角を成し、和田家は一大勢力に
孫の朝盛は三代将軍実朝の覚えめでたい寵臣だった
しかし和田氏は北条氏の陰謀により罠に陥れられ、武力衝突に発展、和田合戦となる
朝盛は実朝に弓を引きたくない思いから、出家しようと京に向かうが、祖父義盛からの
追手に追いつかれ説得されて参戦する
結果は和田一族の敗戦となり一族はほぼ滅亡、朝盛はなんとか逃げ延びた
その後の承久の変では後鳥羽上皇方についた記録がある
朝盛は同じ三浦一族の佐久間家村の養子になっており、朝盛の子家盛はこの家村の
元に逃れた
家盛は承久の変では幕府方で戦い、恩賞として尾張の御器所を賜った
ここに家盛とその子孫が定着し、室町期から戦国期にかけての尾張佐久間氏となる


だいたいこんな感じ
0389人間七七四年2011/07/21(木) 15:04:58.42ID:a4ovz5do
和田の嫡流って、凄い名家じゃないか
三管領や四職なんかよりずっと家格高いぞ
0390人間七七四年2011/07/21(木) 17:47:33.50ID:5mvuhOkL
そんなことはあるまい しょせんは自称が多い坂東平氏
軍事的に貢献して頼朝公の側近になっただけのはなし
三管領は足利一門だから超源氏 田舎の自称平氏あがりとは格が違うと思われる
0391人間七七四年2011/07/21(木) 19:58:09.42ID:jHC4t5H+
尾張の佐久間は所謂「自称」とは違うな。
0392人間七七四年2011/07/22(金) 03:32:41.23ID:JP1aWUOh
>>390
和田氏は坂東平氏の名門中の名門で、八幡太郎義家に従って武勲を立てた三浦一族で武勇の誉れ高い和田義盛の末裔だろ?
鎌倉時代に足利本家から分かれ、室町時代になってようやく家名を高めた細川・斯波・畠山よりずっと由緒正しい家。
0393人間七七四年2011/07/22(金) 09:48:17.38ID:QDWUTPQT
>>392
だから?先祖が有名なら何でも由緒正しいのかお前の脳内は。
0394人間七七四年2011/07/22(金) 11:57:19.12ID:ncYIePpA
「由緒正しい」とか、基準が曖昧なことで言い争うなよ
0395人間七七四年2011/07/22(金) 23:50:14.89ID:bF0KBcYw
先祖が有名だからこそ由緒正しいんだろ
0396人間七七四年2011/07/23(土) 00:01:00.77ID:FQR0oXNk
先祖が有名でなおかつ家を維持している場合だ
0397人間七七四年2011/07/23(土) 01:46:07.32ID:Z963ch1u
いまだに由緒に価値を見いだしてしまうのね
由緒なんて人の評価に何の意味もないのに
0398人間七七四年2011/07/23(土) 02:15:24.72ID:mTR+0G8G
>>392
揚北衆ですか
0399人間七七四年2011/07/23(土) 09:03:32.62ID:gniuPboU
>>397
何を勘違いしてるの?
ここは戦国時代の佐久間氏を語るスレであり、
今現在の価値観を論ずる場所ではない。
0400人間七七四年2011/07/23(土) 14:44:03.59ID:Z963ch1u
道が逸れまくりで肝心の佐久間も論じてなさそうだが?w
0401人間七七四年2011/07/23(土) 23:11:20.54ID:IXQfJTii
佐久間盛政と前田慶次郎はタイマン勝負したらどっちが強いの?
0402人間七七四年2011/07/23(土) 23:57:26.36ID:yddDq+fc
盛政は別に個人的に武芸の達人というわけではないからなぁ
千単位の兵を率いての合戦なら盛政のほうが有利じゃないかな
0403人間七七四年2011/07/24(日) 12:15:45.43ID:s/sHPr5w
>>402
そうかな?

部隊指揮官としての盛政も優秀だったが、槍働きもそこそこ伝えられてるでしょ
例えば
盛政が18歳の時、金森の戦いで前田利家の家臣村井長頼とともに一番首を同時に取ったが
盛政は親父殿(勝家)へ真っ先に報告したかったため
信長に近侍していた前田利家を通じ村井に先を越され信長よりの一番首の名誉を逃した話とか

20歳の時の槙島の戦いでも先陣を切っているし

天正九年に一向門徒の支援受けた上杉軍が佐々が留守している越中の鳥越、二曲城奪われると
電光石火二城を奪い返した時に槍を片手に次々兵を突き倒し血祭りにあげる盛政を恐れて
敵から鬼玄蕃と畏敬をもって呼ばれるのだが

一方慶次は後世の小説などでの脚色が多く史実かどうか曖昧な部分が多い
0404人間七七四年2011/07/24(日) 17:31:04.48ID:CYaQ+KXq
改行うぜえ まで読んだ
0405人間七七四年2011/07/31(日) 14:46:51.48ID:gMuke2nQ
信盛系佐久間氏と盛政系佐久間氏ってどっちが名門なん?
0406人間七七四年2011/07/31(日) 16:51:05.28ID:27QM8Dgn
どっちも言うほど名門として確立してない
0407人間七七四年2011/07/31(日) 18:14:53.70ID:yEyRHuqz
>>405
はっきりどちらが正統であるかはっきり言えないが

佐久間家十二代目盛通には盛明、盛経、朝信、朝次の四子がいたが
名塚城主の次男盛経の嫡男が桶狭間で奮戦戦死した佐久間大学こと盛重
守山城主の三男朝信の嫡男が信盛
御器所西城主の朝次の嫡男が盛次(上洛戦で戦死)、盛政、安政、勝政、勝之四兄弟の父
盛通の長男盛明の系統はよくわからないが織田家には一番早く仕えたらしい
盛明の孫政実は信盛の二男正勝を養嗣子にもらっている

佐久間盛重が桶狭間で戦死してからは佐久間信盛が佐久間一族では棟梁的位置付けかも知れないね
0408人間七七四年2011/07/31(日) 19:55:56.85ID:264/Dkdf
>>405
どっちがっていうか同門だし
0409人間七七四年2011/08/02(火) 15:15:56.53ID:/CEfw13s
秀吉は流通や商人の人脈と顔がきく
光秀は幕府や朝廷の人脈と顔がきく
一益は伊勢国衆と顔がきくから
信長から雇用され他国侵攻や掌握に有利に働いていたが
柴田や佐久間ら尾張人脈に顔がきくだけだから出世競争に最初から思いっきり不利だったよな。
荒木や松永だって結局はそれぞれ地域で顔がきくから信長から有能扱いされただけだし
まあ顔がきき地盤も掌握してるから信長に謀反し易いがな。
0410人間七七四年2011/08/04(木) 19:44:06.18ID:1YYSYTbN
>>409
>秀吉は流通や商人の人脈と顔がきく
???
0411人間七七四年2011/08/05(金) 02:34:34.60ID:FN/OLq8L
柴田勝家と佐久間信盛が織田家の家老のツートップだったのかなあ
0412人間七七四年2011/08/05(金) 02:40:39.06ID:9CKzaY6u
林のワントップ
0413人間七七四年2011/08/05(金) 05:35:14.48ID:g/QcJmS8
柴田が筆頭家老だった時期って案外短いよね
0414人間七七四年2011/08/05(金) 11:18:05.96ID:ZkXKqrfb
そもそも信長の織田家に、重臣という発想はあっても、家中の経営を代行するという意味での
「家老」という発想があったのか?
0415人間七七四年2011/08/05(金) 15:09:20.52ID:9CKzaY6u
信長公記でいう「おとな衆」てのがどういう存在だったのか不明だしな
0416人間七七四年2011/08/05(金) 15:12:32.90ID:a46aVZCo
戦の先鋒は柴田か佐久間だったみたいだけど
0417人間七七四年2011/08/06(土) 02:13:51.76ID:5RUGSlqj
平手と林の息子達が若いくせにおとなっぽいんだよなぁ
林は隠居してたのに息子の戦死で復帰したんじゃなかろうか?
0418人間七七四年2011/08/06(土) 10:53:00.63ID:macDJteK
>>411
天正の初期までは、軍事面ではその二人がツートップだね
長島攻めや将軍義昭との闘争など、信長が五万以上の軍勢を動員するときは
軍勢は三つに分けられ、その司令官は信長、佐久間、柴田の三人が常だった
0419人間七七四年2011/08/07(日) 00:19:40.99ID:fj+tTfII
三方ヶ原に佐久間が平手・水野合わせても3000しか連れて行かなかったのは少ないような。
0420人間七七四年2011/08/07(日) 00:24:23.58ID:MLR7INB2
今日で足利義昭が挙兵してたからそっちの対応に追われてた

…にしても少ないか
0421人間七七四年2011/08/07(日) 00:34:53.34ID:Yaf95qM8
佐久間軍自体はそれほど多くない
軍の規模は与力の次第。
0422人間七七四年2011/08/07(日) 03:37:37.82ID:6qDIYWP7
>>420
まだ義昭は本格的な挙兵をしてない時期
0423人間七七四年2011/08/07(日) 13:22:54.94ID:ft9rXAwM
佐久間信盛は
対本願寺の旗頭として尾張・近江・大和・河内・和泉と西三河、根来衆の寄騎がつけられた

本願寺との和睦で対本願寺軍の存在意義なくなりリストラ
信長が有望な家臣を出世させるには信盛の存在自体が邪魔だったし
0424人間七七四年2011/08/07(日) 20:38:26.39ID:HoSkU3/m
信盛も用済みになったところへ持ってきて信栄がボンクラだからな
跡継ぎが優秀なら隠居ぐらいで済んだかも知れんが
0425人間七七四年2011/08/07(日) 22:55:27.23ID:WzH7oCLj
トップの頭が切れすぎるのも考え物だな。
0426人間七七四年2011/08/08(月) 00:47:44.72ID:rgMV9VGD
岩松八弥の派遣元、
広瀬の佐久間というのも同族?
佐久間全孝
0427人間七七四年2011/08/08(月) 02:27:48.17ID:wIdVAnq0
>>426
たぶん別。
遠江に、佐久間ダムで有名な佐久間という土地があるが、そこから出た
自称藤原系の佐久間というのがもう一つあるらしい。

ちなみに信盛・盛政らの佐久間は安房の佐久間(現鋸南町)の出。
0428人間七七四年2011/08/09(火) 16:38:50.16ID:MngQqYxD
誰かが下総高城氏と縁戚にあったけど、まんざら縁がないわけじゃなかったんだなあ
0429人間七七四年2011/08/10(水) 19:14:33.44ID:Wqt1sadq
佐久間ドロップと関係ある?
0430人間七七四年2011/08/10(水) 23:18:08.85ID:wMwLi7UN
佐久間製菓の創業者は佐久間惣次郎氏だけど、先祖についてはよくわからん

ちなみに女優の佐久間良子さんは御器所佐久間氏系の出身らしい
0431人間七七四年2011/08/11(木) 12:26:43.06ID:pIvovKh6
信長の野望でもっとも過小評価されてる武将だな
統率71は適正だけど知略38、政治57はひどすぎる
どっちかというと策謀家なのに・・・
0432人間七七四年2011/08/11(木) 12:43:33.57ID:EBDuU4dM
コーエーとか文句言うだけ無駄
0433人間七七四年2011/08/11(木) 13:01:59.55ID:0/be1ui4
100/100/100で遊んでろカス
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