【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】
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0001人間七七四年
2011/01/30(日) 17:29:57ID:4dXHFJUm折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。
武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html
佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F
■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/
0296人間七七四年
2011/07/05(火) 23:55:30.70ID:R+YJU0Yu0297人間七七四年
2011/07/06(水) 00:02:47.62ID:WhNDXXSb0298人間七七四年
2011/07/06(水) 00:05:05.88ID:EU1fIGWp0299人間七七四年
2011/07/06(水) 00:09:24.31ID:PigYNCek0300人間七七四年
2011/07/06(水) 00:11:17.58ID:EU1fIGWp0301人間七七四年
2011/07/06(水) 00:12:42.81ID:SDNjrBC+0303人間七七四年
2011/07/06(水) 00:22:00.54ID:dwgdwI8Fあの人はオキテみたいなものを明文化してみんなが納得してから施行ってかんじ
信長公はまさに自分がオキテ どんな罪にどんなバツが与えられるか、
信長公に聞いてみないとわからない 有罪と思ったやつが無罪になったり、
無罪と思ってたのが全員死刑になったりする 平等とは言えないだろうな
0304人間七七四年
2011/07/06(水) 00:48:15.34ID:PigYNCek無罪と思っていたのが死刑って?
一族と家臣は分けて考えると平等ではないが公平でしょ
一族の裁きは厳しい
0306人間七七四年
2011/07/06(水) 00:55:00.62ID:PigYNCek荒木と松永と浅井が裏切ってから最終的に兵を繰り出すまでの対応を比べてみて
0307人間七七四年
2011/07/06(水) 03:26:15.09ID:ef0CLp+k佐久間
0308人間七七四年
2011/07/06(水) 04:00:08.28ID:Uwudbv7vいや、ある程度の地位のある人間は、下の者に手柄を譲って自分は
前にしゃしゃり出ない、というのが美徳だったからね
信盛ほどの重心が全部自分でやろうとしたらどこの家中でも確実に
非難されるよ
0309人間七七四年
2011/07/06(水) 08:38:44.17ID:WhNDXXSb0310人間七七四年
2011/07/07(木) 04:22:31.40ID:QxE21YWV0311人間七七四年
2011/07/07(木) 14:15:13.00ID:iWoauWQY秀吉もウザかっただろうね。
0312人間七七四年
2011/07/07(木) 17:29:46.20ID:ZxhthgdB0313人間七七四年
2011/07/07(木) 19:52:52.41ID:iWoauWQY主が代わったら、時勢を読みそれに合わせて
横暴さを改めら秀吉を支える柔軟性ある人間性があるかどうかだな。
0314人間七七四年
2011/07/09(土) 13:20:07.97ID:IX1gpAhf0315人間七七四年
2011/07/09(土) 16:09:15.95ID:oHgzQBmmほんとにタダのチンピラだったのかな
0316人間七七四年
2011/07/09(土) 17:21:27.24ID:/wW1oDve織田軍の中でも精強だった森軍団が長可の討ち死に後一気に弱兵化したのは、
色々理由があるにせよ長可の指導力を認めていいと思う。
相当武張った凶暴な人間だったのは確かだが、ひとかどの器量の持ち主でも
あったのだろう。
0317人間七七四年
2011/07/09(土) 18:20:53.53ID:IcGYJWvF0318人間七七四年
2011/07/09(土) 20:56:07.41ID:UF24jJknってのがこのスレの模範解答
応用効かすなら
「光秀の讒言による」って記録にあるから光秀はざまぁと思ったかも
って答えるのがベスト
0319人間七七四年
2011/07/09(土) 20:59:45.96ID:McSP37RGしかし信長から見ても非常識な行いだったので逸話として残る
森に限った話ではないがガチ勝負で敗戦を経験すると有能な家臣の補充育成が
追いつかない例が多い 盛政の突撃食らった大名もしかり
なので森家の場合弱体化を当主の力量とするのは可哀相 強さとは人(家臣)
一方北国の織田最強譜代軍団では
貞勝:北の庄では朝から酒ですぞ
勝家:犬は寺の税を横領してるら
利家:それは佐々殿も
成政:ギクッ
盛政:ポカーン
信長:オノレ・・・
↑このような話が残っていても誰一人処罰した形跡が無い
普通一度目の過ちは許されていたと考えると信盛は・・・ 全部光秀が悪い
0320人間七七四年
2011/07/09(土) 23:16:07.39ID:b+Dktnbo忠節・功労・寵愛が比類ない老臣の追放劇に前兆はあったんだろうか?
0321人間七七四年
2011/07/09(土) 23:23:52.80ID:L6eZqQnt> ただのチンピラで20代で20万石の大名にまでなれるわけがない。
こういう、結果からものを見る見方ってけっこう危うい
テレビでやってたからとか有名人が言ってるからとかで騙されてしまうタイプ
>>317
同時代の史料はみんな「なんで?どういうこと?意味不明」という反応
0323人間七七四年
2011/07/10(日) 10:12:43.30ID:4eaVYdrQ「では、前世の因縁以外で、おれの不幸の背景を説明してくれ」
0324人間七七四年
2011/07/10(日) 14:02:29.15ID:uUNa/rt1敵対してくれたなと追放してたかな。
0325人間七七四年
2011/07/10(日) 19:11:37.02ID:XFWmY/k7大封の高齢家臣を順番に全員リストラしてお気に入りの若手将校に
領地を与えたかったのか・・・・ 前者なら次のターゲットは柴田勝家だろうな・・・
0328人間七七四年
2011/07/11(月) 07:45:34.24ID:39R+/vyh気がしてちょっとイヤだな
0329人間七七四年
2011/07/11(月) 13:03:45.25ID:obti1iF0同じ事だろうがw
0330人間七七四年
2011/07/11(月) 13:37:51.05ID:TIR/VmjU0332人間七七四年
2011/07/12(火) 09:22:05.16ID:i/IYVuuN加賀を奪うのに成功したから
柴田は首の皮一枚ギリギリでつながっただけだからな。
謙信が死ぬまでは重鎮柴田を越前に配置せざる負えないが
謙信死後にモタモタしてたら柴田も更迭されていただろう。
どっちにしろ越後攻略に成功したら柴田用済みだろうね。
柴田も陸奥守とかにされそうだしw
0333人間七七四年
2011/07/12(火) 09:45:37.07ID:mtDUPuor実際、本能寺が起きていなければ、秀吉は長浜を取り上げられることになってたし
0335人間七七四年
2011/07/12(火) 14:42:04.04ID:mtDUPuor寛政重修諸家譜では天正九年九月八日に長浜城主になってる
堀家譜でもそのときに二万五千石(近江坂田のことかもしれんが)を貰ったと記してる
もちろん実際には秀吉は退去してないけどね
ただ、同年春の信長の利家宛朱印状に、能登はくれてやるから越前府中は来年以降は菅谷に譲れとある
長浜でも同じ朱印状が発給されたんじゃないかって言われてる
0336人間七七四年
2011/07/12(火) 15:31:08.10ID:1pLOhzIsやっぱり好みというのがあって、子供のころから崇拝させている信長親衛隊あがりの
利家や久太郎、森兄弟などをえこ贔屓してるように見えるな
0337人間七七四年
2011/07/12(火) 15:48:59.61ID:Pzfe9+k2前田に関しては長頼に家臣の邸宅も含めてすべて引き渡し
妻子・家臣ぜんぶ連れて能登へ移れと命じられていて
年貢に関しては本年分を受領し、来年分は長頼に引き渡すように言われている。
その一方で府中は利長が封ぜられたとも言われている。
その理由は信長の娘と利長が婚姻したことだといわれている。
そして本能寺の直前に利長夫妻は信長に呼ばれて本能寺を目指していたが
これは信長が新たに能登を与えたことから利家から利長を人質にするためのものだったとも言われている。
0339人間七七四年
2011/07/12(火) 20:00:42.31ID:Pqg3nIRC0340人間七七四年
2011/07/12(火) 23:25:14.67ID:52iMUotk特に信長の場合だと途中参加の外様の連中が反逆するケースが頻発したわけだし
松永、三好、富田、波多野、荒木・・・・数え上げればきりがない
0341人間七七四年
2011/07/12(火) 23:41:32.37ID:EFQzswRe0342人間七七四年
2011/07/13(水) 03:07:57.04ID:829Z1Al3外様ほど大封を与えたんだよ
ただし、地理的には僻地でね
で、役職には就けさせなかった
譜代や一門親族は要地に小藩を置いて、そのかわり重役を任せた
0343人間七七四年
2011/07/13(水) 10:54:01.38ID:LQiNiUgq独自の勢力を持たなければ追放はなかったのかな?
0344人間七七四年
2011/07/13(水) 11:28:59.47ID:R33cHvjd目付けに監視させた上で領地を預け置いただけだから
佐久間のように気分ひとつでいつでも没収できる。
0345人間七七四年
2011/07/13(水) 20:01:21.97ID:WzmZx+lkことが理解できてなかったっぽいような印象を受けるね
こういう人、今でもよくいると思う
0346人間七七四年
2011/07/13(水) 21:40:47.52ID:eiPma5CG0348人間七七四年
2011/07/13(水) 22:36:34.74ID:s+aznKggしかも信長が根に持つ性格なのがよくわかるわ
0349人間七七四年
2011/07/13(水) 22:51:36.28ID:jHuiAclVこの発言と追放は全然関係ないと思うよ
0351人間七七四年
2011/07/15(金) 04:03:52.48ID:wzwvKDVN「佐久間」と書かれていた
http://www.city.komaki.aichi.jp/contents/10000259.html
0352人間七七四年
2011/07/15(金) 11:26:23.50ID:kURujalb0353人間七七四年
2011/07/16(土) 01:03:30.18ID:80vCmB4Vでも実際というか、建前上は少し違ってたんじゃないかな。
そうでなければ、だれも信長についてゆかない。
0354人間七七四年
2011/07/16(土) 09:27:20.95ID:1mhhLTIdすぐ家臣たちが織田領を分配するのに熱中して他家と違って節操がまるでないって嘆息されたほど
上記のように多聞院日記に皮肉を書かれたほどの常識を逸した手の平返しをしてるじゃん。
0355人間七七四年
2011/07/16(土) 15:07:25.33ID:sZyIgtYuために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
成立した、というのが発端。
だから中世の武士の倫理観としてはこの契約が破綻したら関係は
終わり。お互いに義務を負い合う双務的な契約だから。
それが「主君第一が家臣のつとめ」になったのは、江戸幕府が朱子学を
基準にしたため、そのように変質していったというのが事実。
こういう武士の倫理観は僧侶や公家には理解できなかっただろう。
0356人間七七四年
2011/07/16(土) 20:43:34.31ID:f/wwxMmH> そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
> ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
> あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
> 開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
> 成立した、というのが発端。
それ俗説。完全な間違い。
今は武士の発生は、中央の武人貴族が平安期に地方に下り、その地域の国衙軍を
統率、それが固定化し主従化、世襲化した物、というのがほぼ定説になっている。
開墾農民武装化説はほぼ否定されている。というか今の市民が武装化しても軍隊にはならないのと同じで
農民が武装してもそれは武士にはならんよ。
0357人間七七四年
2011/07/16(土) 21:33:25.06ID:uMtR0g2z完全な間違い と ほぼ否定されている じゃあ意味が違うぜ
0362人間七七四年
2011/07/17(日) 04:59:23.76ID:JgVXtPvmそれは措いといて、武士の倫理観の変化という話の部分は正しい
指摘だと思うよ。
見返りを求めない無限の忠誠を要求されたのは江戸時代からで、
それ以前は役に立たない主は捨ててもよかったでしょ。
0363人間七七四年
2011/07/17(日) 10:16:23.72ID:39kboqp6そもそも米で藩から給料もらっているようなもんだし
所属する組織に忠誠するのは当たり前の話。
中国が異民族に侵略された時に漢民族が考え出した朱子学が日本に流入して
日本向けにアレンジされ天皇の再認識がなされ南北朝時代を呼んだわけで
江戸時代に突然変異で変化したわけじゃない。
0364人間七七四年
2011/07/17(日) 11:32:36.95ID:T58P/5qq0365人間七七四年
2011/07/17(日) 11:46:50.46ID:LwMMEDSE0366人間七七四年
2011/07/17(日) 21:38:29.47ID:T58P/5qq0367人間七七四年
2011/07/18(月) 11:02:02.51ID:splUdoaD0368人間七七四年
2011/07/18(月) 13:28:05.54ID:VU87P8TG盛重の系統の通字が盛で信盛の系統が信だったと思う
0369人間七七四年
2011/07/18(月) 19:07:33.90ID:aqefrIXb別に通字ってひとつの家系で永遠不変なわけではないよ
佐久間家の「盛」は、和田義盛-常盛-朝盛-佐久間家盛の流れに由来
信盛系は「信」と「盛」と両方ある(盛進などもいる)
他に安政系は「安」だし勝之系は「勝」だし
0370人間七七四年
2011/07/18(月) 19:09:20.16ID:aqefrIXbhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F#.E7.B3.BB.E5.9B.B3
0371人間七七四年
2011/07/19(火) 00:33:41.43ID:dH09woFB信長公(自称藤原、平、ほかなんでも)とか前田利家(自称菅原道真の子孫)みたいに
自称じゃないの自称
0372人間七七四年
2011/07/19(火) 01:36:12.26ID:M/HAJgC7和田朝盛の子の佐久間家盛が御器所を与えられていたことは確認できてるよ
御器所のほうでは室町中期ごろにはもう佐久間の名前は確認できてるし
0373人間七七四年
2011/07/19(火) 02:38:38.14ID:dH09woFB家柄いいんじゃ!という自負はあったでしょうな
0374人間七七四年
2011/07/19(火) 08:16:49.45ID:nC/WQ95B0375人間七七四年
2011/07/19(火) 18:27:11.86ID:COF3ku9dそれが元々「羽柴」だったのか、それとも「橋場」「端場」などの地名苗字に
雅字を当てたのかはわからないが。
0378人間七七四年
2011/07/19(火) 23:30:22.94ID:dH09woFB端柴売りというのはハンパなタキギを売る最下層の木こりかなんかのようです
非常に自虐的な名前ですな 葛飾北斎の別名、画狂人、画狂老人、月痴老人などを
思い出しました なくはないけど、ここまで卑屈にされると逆に怖いですね
奴隷だけが王を殺せる、みたいな凄みを感じます
0379人間七七四年
2011/07/19(火) 23:40:43.96ID:W8h78Ylt河川流通業も手がけていて、そのため船出し場のある「橋場」あるいは「橋端」の
藤吉さんと呼ばれていた、って話も聞いたことがあるな。
0380人間七七四年
2011/07/20(水) 00:12:15.85ID:/MFzUVyT商売人だから算学に明るく奉行職ができ、
美濃の流通業者と顔が利くから蜂須賀らを動かしたり調略もできたとする論拠は織田家でいきなり登場するや奉行スタートですぐ軍勢を率いる立場になると言う大抜擢の裏付けとして一定の説得力がある。
0381人間七七四年
2011/07/20(水) 01:49:54.78ID:OPpcMyJl0382人間七七四年
2011/07/20(水) 09:37:15.43ID:G9pwYxVR和田義盛の盛に由来するってのは凄いね。
結城家の朝が頼朝に由来するってぐらいビックリ。
あと安や勝は別家として独立した証左なんでしょうね。
0383人間七七四年
2011/07/20(水) 10:33:16.72ID:E2ksmApB0384人間七七四年
2011/07/20(水) 11:06:43.52ID:upZYDFgjおそらく商人人脈としての採用だよな、秀吉は。
かなり早くから津島とか川並衆とかとの統括みたいな位置に居たみたいだし。
ソースがネットのどこかなんで、この情報が間違ってる可能性あるけど。
0385人間七七四年
2011/07/20(水) 17:09:03.05ID:JeG8e4Rq口寄せの人がそんなこと書いてたな
0386人間七七四年
2011/07/20(水) 17:11:03.19ID:eUH/Xdz60387人間七七四年
2011/07/21(木) 03:14:41.53ID:WGzHWCq6そうなんよね
勝之は何とかして盛政の家を復興しようと尽力したらしい
中川家に嫁いだ盛政の娘虎姫の息子内記に家を継がせて
自分の娘を嫁がせた
内記が後嗣なく没した後はその自分の娘を中川資重に
嫁がせて資重に家を継がせた
おそらく自分の家は分家で、本家は盛政家、という意識が
あったんだろうと思う
0388人間七七四年
2011/07/21(木) 03:34:26.55ID:WGzHWCq6三浦氏の出身の和田義盛が侍所別当として幕府の一角を成し、和田家は一大勢力に
孫の朝盛は三代将軍実朝の覚えめでたい寵臣だった
しかし和田氏は北条氏の陰謀により罠に陥れられ、武力衝突に発展、和田合戦となる
朝盛は実朝に弓を引きたくない思いから、出家しようと京に向かうが、祖父義盛からの
追手に追いつかれ説得されて参戦する
結果は和田一族の敗戦となり一族はほぼ滅亡、朝盛はなんとか逃げ延びた
その後の承久の変では後鳥羽上皇方についた記録がある
朝盛は同じ三浦一族の佐久間家村の養子になっており、朝盛の子家盛はこの家村の
元に逃れた
家盛は承久の変では幕府方で戦い、恩賞として尾張の御器所を賜った
ここに家盛とその子孫が定着し、室町期から戦国期にかけての尾張佐久間氏となる
だいたいこんな感じ
0389人間七七四年
2011/07/21(木) 15:04:58.42ID:a4ovz5do三管領や四職なんかよりずっと家格高いぞ
0390人間七七四年
2011/07/21(木) 17:47:33.50ID:5mvuhOkL軍事的に貢献して頼朝公の側近になっただけのはなし
三管領は足利一門だから超源氏 田舎の自称平氏あがりとは格が違うと思われる
0391人間七七四年
2011/07/21(木) 19:58:09.42ID:jHC4t5H+0392人間七七四年
2011/07/22(金) 03:32:41.23ID:JP1aWUOh和田氏は坂東平氏の名門中の名門で、八幡太郎義家に従って武勲を立てた三浦一族で武勇の誉れ高い和田義盛の末裔だろ?
鎌倉時代に足利本家から分かれ、室町時代になってようやく家名を高めた細川・斯波・畠山よりずっと由緒正しい家。
0394人間七七四年
2011/07/22(金) 11:57:19.12ID:ncYIePpA0395人間七七四年
2011/07/22(金) 23:50:14.89ID:bF0KBcYw■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています