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【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】

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0001人間七七四年2011/01/30(日) 17:29:57ID:4dXHFJUm
織田信長の有力家臣として活躍しながらも、
折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。


武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html

佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F

■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/
0289人間七七四年2011/07/04(月) 15:44:09.51ID:d7Wl5DYV
織田家はブラック企業の体質があって、信長公は密告を奨励してたらしい
柴田勝家の北陸方面軍もほかの部隊から毎日朝から酒を飲んでいるとかチクられてたらしい
0290人間七七四年2011/07/04(月) 16:59:25.04ID:7YuIrJ+h
つーか今の基準ならどこもかしこもブラックだろうて
0291人間七七四年2011/07/05(火) 00:50:42.17ID:ZS8NainO
らしいらしい
ブラック企業じゃない大名を教えて欲しいものだ
0292人間七七四年2011/07/05(火) 07:52:46.31ID:W6HcuaZK
畿内の土豪なんて一癖も二癖もある連中でしょ
やはり反りが合わなかったんかね
0293人間七七四年2011/07/05(火) 14:57:01.00ID:wXtr3EJc
鎌倉公方挙兵以来の大乱戦続きで
やたら地域の山間部を占めて割拠するようになった越後や甲斐は
恣意的に主家の当主をすげ替えたりと国人社員自体がブラック過ぎる。
0294人間七七四年2011/07/05(火) 16:45:24.93ID:+UY8ZY/l
ブラックな奴等の犠牲となった純真な佐久間信盛!
0295人間七七四年2011/07/05(火) 23:18:44.93ID:ZCth+IjU
>>288
さすがの信長も頑張っている奴には滅茶苦茶なこと言わないでしょ
0296人間七七四年2011/07/05(火) 23:55:30.70ID:R+YJU0Yu
織田家は頑張ると馬鹿を見るシステム。
0297人間七七四年2011/07/06(水) 00:02:47.62ID:WhNDXXSb
信長直参出身の目付や軍監を接待し関心を買うのが織田家での出世と保身の術
0298人間七七四年2011/07/06(水) 00:05:05.88ID:EU1fIGWp
柴田勝家も前田利家や佐々成政、不破光治の接待をやりまくってるな。
0299人間七七四年2011/07/06(水) 00:09:24.31ID:PigYNCek
信長ほど裁きに厳正な大名はいないだろ
0300人間七七四年2011/07/06(水) 00:11:17.58ID:EU1fIGWp
信長の裁きが厳正だった例を知らん
0301人間七七四年2011/07/06(水) 00:12:42.81ID:SDNjrBC+
部下に厳しく身内に甘い。
0302人間七七四年2011/07/06(水) 00:17:39.52ID:PigYNCek
>>300 そこから?

>>301 逆だよ
0303人間七七四年2011/07/06(水) 00:22:00.54ID:dwgdwI8F
税金とか裁判とかが公平だったのは家康公というイメージ
あの人はオキテみたいなものを明文化してみんなが納得してから施行ってかんじ
信長公はまさに自分がオキテ どんな罪にどんなバツが与えられるか、
信長公に聞いてみないとわからない 有罪と思ったやつが無罪になったり、
無罪と思ってたのが全員死刑になったりする 平等とは言えないだろうな
0304人間七七四年2011/07/06(水) 00:48:15.34ID:PigYNCek
それは自分でもいってる通り「イメージ」
無罪と思っていたのが死刑って?
一族と家臣は分けて考えると平等ではないが公平でしょ
一族の裁きは厳しい
0305人間七七四年2011/07/06(水) 00:49:41.00ID:6FsKodvi
>>304
じゃあイメージではない実例を出してくださいな
0306人間七七四年2011/07/06(水) 00:55:00.62ID:PigYNCek
朝倉攻めの裁きと甲斐攻めの裁きを比べてみて
荒木と松永と浅井が裏切ってから最終的に兵を繰り出すまでの対応を比べてみて
0307人間七七四年2011/07/06(水) 03:26:15.09ID:ef0CLp+k
たまにはボクの事も思い出してください
佐久間
0308人間七七四年2011/07/06(水) 04:00:08.28ID:Uwudbv7v
>>295
いや、ある程度の地位のある人間は、下の者に手柄を譲って自分は
前にしゃしゃり出ない、というのが美徳だったからね
信盛ほどの重心が全部自分でやろうとしたらどこの家中でも確実に
非難されるよ
0309人間七七四年2011/07/06(水) 08:38:44.17ID:WhNDXXSb
森長可は何をやっても無罪
0310人間七七四年2011/07/07(木) 04:22:31.40ID:QxE21YWV
天罰的面な最期だったけどな
0311人間七七四年2011/07/07(木) 14:15:13.00ID:iWoauWQY
まぁ信長から特別扱いされたDQNだから
秀吉もウザかっただろうね。
0312人間七七四年2011/07/07(木) 17:29:46.20ID:ZxhthgdB
ま、まさか秀吉のやつわざとあのふたりを・・・・
0313人間七七四年2011/07/07(木) 19:52:52.41ID:iWoauWQY
長可に社会性があり
主が代わったら、時勢を読みそれに合わせて
横暴さを改めら秀吉を支える柔軟性ある人間性があるかどうかだな。
0314人間七七四年2011/07/09(土) 13:20:07.97ID:IX1gpAhf
佐久間スレなんだから佐久間を語ろうぜ
0315人間七七四年2011/07/09(土) 16:09:15.95ID:oHgzQBmm
実際のところ、森長可ってどんな人だったんだろう
ほんとにタダのチンピラだったのかな
0316人間七七四年2011/07/09(土) 17:21:27.24ID:/wW1oDve
ただのチンピラで20代で20万石の大名にまでなれるわけがない。
織田軍の中でも精強だった森軍団が長可の討ち死に後一気に弱兵化したのは、
色々理由があるにせよ長可の指導力を認めていいと思う。

相当武張った凶暴な人間だったのは確かだが、ひとかどの器量の持ち主でも
あったのだろう。
0317人間七七四年2011/07/09(土) 18:20:53.53ID:IcGYJWvF
佐久間の追放に同時代の人間はざまぁと思ったの?
0318人間七七四年2011/07/09(土) 20:56:07.41ID:UF24jJkn
同情多数、助けてやりたいが信長がもうイッちゃい始めた頃なので怖くて誰も言えず仕方なく追放に

ってのがこのスレの模範解答
応用効かすなら

「光秀の讒言による」って記録にあるから光秀はざまぁと思ったかも

って答えるのがベスト
0319人間七七四年2011/07/09(土) 20:59:45.96ID:McSP37RG
単純に門番を斬るなと言う規則が無かったから長可を罰せられなかったのだろう
しかし信長から見ても非常識な行いだったので逸話として残る
森に限った話ではないがガチ勝負で敗戦を経験すると有能な家臣の補充育成が
追いつかない例が多い   盛政の突撃食らった大名もしかり
なので森家の場合弱体化を当主の力量とするのは可哀相 強さとは人(家臣)

一方北国の織田最強譜代軍団では
貞勝:北の庄では朝から酒ですぞ
勝家:犬は寺の税を横領してるら
利家:それは佐々殿も
成政:ギクッ
盛政:ポカーン
信長:オノレ・・・
↑このような話が残っていても誰一人処罰した形跡が無い
普通一度目の過ちは許されていたと考えると信盛は・・・                    全部光秀が悪い
0320人間七七四年2011/07/09(土) 23:16:07.39ID:b+Dktnbo
信長が信盛の屋敷に長期滞在するぐらい、覚えもめでたかったんだよな
忠節・功労・寵愛が比類ない老臣の追放劇に前兆はあったんだろうか?
0321人間七七四年2011/07/09(土) 23:23:52.80ID:L6eZqQnt
>>316
> ただのチンピラで20代で20万石の大名にまでなれるわけがない。

こういう、結果からものを見る見方ってけっこう危うい
テレビでやってたからとか有名人が言ってるからとかで騙されてしまうタイプ

>>317
同時代の史料はみんな「なんで?どういうこと?意味不明」という反応
0322人間七七四年2011/07/09(土) 23:39:53.83ID:b+Dktnbo
>>321
では、結果以外の視点から物を見る見方で、森長可のめざましい出世の背景を説明してくれ
0323人間七七四年2011/07/10(日) 10:12:43.30ID:4eaVYdrQ
「きみの不幸の原因が前世の因縁だからツボを買えって、それは騙されてるよ」
「では、前世の因縁以外で、おれの不幸の背景を説明してくれ」
0324人間七七四年2011/07/10(日) 14:02:29.15ID:uUNa/rt1
佐久間の次は柴田に対して、家督相続のときはよくも弟をかついで俺に
敵対してくれたなと追放してたかな。
0325人間七七四年2011/07/10(日) 19:11:37.02ID:XFWmY/k7
一罰百戒的な考えで佐久間を叩いて家臣団全体を引き締めたのか、
大封の高齢家臣を順番に全員リストラしてお気に入りの若手将校に
領地を与えたかったのか・・・・ 前者なら次のターゲットは柴田勝家だろうな・・・
0326人間七七四年2011/07/11(月) 02:18:50.19ID:EDWifn2R
>>325
後者でも、な気が
滝川あたりも意外と失敗しやがれと思って関東に派遣されてたりしてな
0327人間七七四年2011/07/11(月) 02:37:01.68ID:LHktejmV
>>324
佐久間は弟の側だったのに、わざわざ信長に味方したんだったかな
0328人間七七四年2011/07/11(月) 07:45:34.24ID:39R+/vyh
弟の話するとまた「信行という名は正しくない」とかいう人が出てきそうな
気がしてちょっとイヤだな
0329人間七七四年2011/07/11(月) 13:03:45.25ID:obti1iF0
佐久間は本当は名将!っていうスレのやつが何言ってやがる
同じ事だろうがw
0330人間七七四年2011/07/11(月) 13:37:51.05ID:TIR/VmjU
???
0331人間七七四年2011/07/11(月) 17:18:58.59ID:+9WtiZhg
>>329
そうだなw
0332人間七七四年2011/07/12(火) 09:22:05.16ID:i/IYVuuN
謙信が死んで上杉内乱が起きていた隙に
加賀を奪うのに成功したから
柴田は首の皮一枚ギリギリでつながっただけだからな。
謙信が死ぬまでは重鎮柴田を越前に配置せざる負えないが
謙信死後にモタモタしてたら柴田も更迭されていただろう。
どっちにしろ越後攻略に成功したら柴田用済みだろうね。
柴田も陸奥守とかにされそうだしw
0333人間七七四年2011/07/12(火) 09:45:37.07ID:mtDUPuor
畿内や要所は子飼いの馬廻りや腹心で固めるつもりだったんでしょ
実際、本能寺が起きていなければ、秀吉は長浜を取り上げられることになってたし
0334人間七七四年2011/07/12(火) 10:58:18.48ID:QvufKzfG
>>333
よくそういう妄想を平然と事実のように話せるなお前w
0335人間七七四年2011/07/12(火) 14:42:04.04ID:mtDUPuor
長浜は久太郎に与えられることになってたんだと思うよ
寛政重修諸家譜では天正九年九月八日に長浜城主になってる
堀家譜でもそのときに二万五千石(近江坂田のことかもしれんが)を貰ったと記してる
もちろん実際には秀吉は退去してないけどね
ただ、同年春の信長の利家宛朱印状に、能登はくれてやるから越前府中は来年以降は菅谷に譲れとある
長浜でも同じ朱印状が発給されたんじゃないかって言われてる
0336人間七七四年2011/07/12(火) 15:31:08.10ID:1pLOhzIs
信長公は秀吉や光秀など流れ者でも仕事ができれば大封をあたえるけど、
やっぱり好みというのがあって、子供のころから崇拝させている信長親衛隊あがりの
利家や久太郎、森兄弟などをえこ贔屓してるように見えるな
0337人間七七四年2011/07/12(火) 15:48:59.61ID:Pzfe9+k2
寛政重修諸家譜は信用できんが
前田に関しては長頼に家臣の邸宅も含めてすべて引き渡し
妻子・家臣ぜんぶ連れて能登へ移れと命じられていて
年貢に関しては本年分を受領し、来年分は長頼に引き渡すように言われている。
その一方で府中は利長が封ぜられたとも言われている。
その理由は信長の娘と利長が婚姻したことだといわれている。
そして本能寺の直前に利長夫妻は信長に呼ばれて本能寺を目指していたが
これは信長が新たに能登を与えたことから利家から利長を人質にするためのものだったとも言われている。
0338人間七七四年2011/07/12(火) 18:33:56.38ID:GnCe5RuP
>>336
信長が取り立てて大名にした奴は、ほとんど母衣衆や近習あがりだし。
0339人間七七四年2011/07/12(火) 20:00:42.31ID:Pqg3nIRC
なんか「信長の野望」で武将の再配置するときみたいな話だな
0340人間七七四年2011/07/12(火) 23:25:14.67ID:52iMUotk
親族・子飼いで固めるのは家康もやっているから一概に信長が間違っていたとは言いきれないと思う
特に信長の場合だと途中参加の外様の連中が反逆するケースが頻発したわけだし
松永、三好、富田、波多野、荒木・・・・数え上げればきりがない
0341人間七七四年2011/07/12(火) 23:41:32.37ID:EFQzswRe
エ?
0342人間七七四年2011/07/13(水) 03:07:57.04ID:829Z1Al3
家康はまったく逆だろ
外様ほど大封を与えたんだよ
ただし、地理的には僻地でね
で、役職には就けさせなかった
譜代や一門親族は要地に小藩を置いて、そのかわり重役を任せた
0343人間七七四年2011/07/13(水) 10:54:01.38ID:LQiNiUgq
佐久間も、数万石から十万石程度の所領で、織田家筆頭老臣という家中の地位だけに依存して采配を振るい、
独自の勢力を持たなければ追放はなかったのかな?
0344人間七七四年2011/07/13(水) 11:28:59.47ID:R33cHvjd
信長の場合は家臣に与えたのでなく
目付けに監視させた上で領地を預け置いただけだから
佐久間のように気分ひとつでいつでも没収できる。
0345人間七七四年2011/07/13(水) 20:01:21.97ID:WzmZx+lk
信長は、自分以外の人間は自分と違う普通の人、凡人なんだ、って
ことが理解できてなかったっぽいような印象を受けるね
こういう人、今でもよくいると思う
0346人間七七四年2011/07/13(水) 21:40:47.52ID:eiPma5CG
我々程の内の者はもたれ間敷、と自賛を申され候
0347人間七七四年2011/07/13(水) 22:06:15.10ID:jHuiAclV
>>346
信盛の人間像を想像するにはその話が一番インパクトあるね
0348人間七七四年2011/07/13(水) 22:36:34.74ID:s+aznKgg
逆に信長がどんだけキチガイな怒り方をしていたんだと思うと怖いわ。
しかも信長が根に持つ性格なのがよくわかるわ
0349人間七七四年2011/07/13(水) 22:51:36.28ID:jHuiAclV
そうかな?多少なりとも笑っていたんだと俺は想像してる
この発言と追放は全然関係ないと思うよ
0350人間七七四年2011/07/14(木) 00:09:09.55ID:EscdbBYD
>>5
0351人間七七四年2011/07/15(金) 04:03:52.48ID:wzwvKDVN
小牧山城の石垣で日本最古の石垣墨書発見
「佐久間」と書かれていた

http://www.city.komaki.aichi.jp/contents/10000259.html
0352人間七七四年2011/07/15(金) 11:26:23.50ID:kURujalb
佐久間ブランドさすがやな。
0353人間七七四年2011/07/16(土) 01:03:30.18ID:80vCmB4V
>>344
でも実際というか、建前上は少し違ってたんじゃないかな。
そうでなければ、だれも信長についてゆかない。
0354人間七七四年2011/07/16(土) 09:27:20.95ID:1mhhLTId
実際信長死んだら葬儀もやらずに
すぐ家臣たちが織田領を分配するのに熱中して他家と違って節操がまるでないって嘆息されたほど
上記のように多聞院日記に皮肉を書かれたほどの常識を逸した手の平返しをしてるじゃん。

0355人間七七四年2011/07/16(土) 15:07:25.33ID:sZyIgtYu
そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
成立した、というのが発端。
だから中世の武士の倫理観としてはこの契約が破綻したら関係は
終わり。お互いに義務を負い合う双務的な契約だから。
それが「主君第一が家臣のつとめ」になったのは、江戸幕府が朱子学を
基準にしたため、そのように変質していったというのが事実。

こういう武士の倫理観は僧侶や公家には理解できなかっただろう。
0356人間七七四年2011/07/16(土) 20:43:34.31ID:f/wwxMmH
>>355
> そもそもの武士の発生過程というのは、自分たちの開墾地を自衛する
> ために武装した人々がいて、しかし個々は弱いので団結する必要が
> あって、それを束ねる人たちが出てきて、兵役を負担する見返りに
> 開墾地を守ってもらうという、武力の保険制度のような「御恩と奉公」が
> 成立した、というのが発端。

それ俗説。完全な間違い。

今は武士の発生は、中央の武人貴族が平安期に地方に下り、その地域の国衙軍を
統率、それが固定化し主従化、世襲化した物、というのがほぼ定説になっている。

開墾農民武装化説はほぼ否定されている。というか今の市民が武装化しても軍隊にはならないのと同じで
農民が武装してもそれは武士にはならんよ。
0357人間七七四年2011/07/16(土) 21:33:25.06ID:uMtR0g2z
揚げ足取りぽくてすまんが人の意見に異論を挟むなら言葉はしっかりしないとな
完全な間違い と ほぼ否定されている じゃあ意味が違うぜ
0358人間七七四年2011/07/16(土) 22:32:11.84ID:f/wwxMmH
>>357
わるかった。「ほぼ間違いと現在認識されている」で。
0359人間七七四年2011/07/17(日) 00:59:01.35ID:X6bG8+vK
>>356
旧郡司層と土着した国司の子孫がルーツだと思ってたけど違うの?
0360人間七七四年2011/07/17(日) 02:44:16.27ID:dL1UR5g1
>>359
土着と武士化は全然別だろ。
武士に成る必然性がない。
0361人間七七四年2011/07/17(日) 04:10:07.55ID:X6bG8+vK
>>360
いや、あの、そういう人らがルーツの在庁官人が武士化したんじゃないかと言いたかったんだが…
0362人間七七四年2011/07/17(日) 04:59:23.76ID:JgVXtPvm
武士の起源論は簡単には結論出ないからここで論じても仕方あんめー。

それは措いといて、武士の倫理観の変化という話の部分は正しい
指摘だと思うよ。
見返りを求めない無限の忠誠を要求されたのは江戸時代からで、
それ以前は役に立たない主は捨ててもよかったでしょ。
0363人間七七四年2011/07/17(日) 10:16:23.72ID:39kboqp6
江戸時代でもバカ殿は押し込めてもいいんだよ。
そもそも米で藩から給料もらっているようなもんだし
所属する組織に忠誠するのは当たり前の話。
中国が異民族に侵略された時に漢民族が考え出した朱子学が日本に流入して
日本向けにアレンジされ天皇の再認識がなされ南北朝時代を呼んだわけで
江戸時代に突然変異で変化したわけじゃない。
0364人間七七四年2011/07/17(日) 11:32:36.95ID:T58P/5qq
盛信「ボクはここでもいらない子なの?」
0365人間七七四年2011/07/17(日) 11:46:50.46ID:LwMMEDSE
仁科さん?関さん?
0366人間七七四年2011/07/17(日) 21:38:29.47ID:T58P/5qq
ガチで名前すら間違えたわw
0367人間七七四年2011/07/18(月) 11:02:02.51ID:splUdoaD
そういや、通字は「盛」で合ってる? 信の字は、織田家当主からの偏諱で。
0368人間七七四年2011/07/18(月) 13:28:05.54ID:VU87P8TG
>367
盛重の系統の通字が盛で信盛の系統が信だったと思う
0369人間七七四年2011/07/18(月) 19:07:33.90ID:aqefrIXb
>>367
別に通字ってひとつの家系で永遠不変なわけではないよ
佐久間家の「盛」は、和田義盛-常盛-朝盛-佐久間家盛の流れに由来

信盛系は「信」と「盛」と両方ある(盛進などもいる)
他に安政系は「安」だし勝之系は「勝」だし
0370人間七七四年2011/07/18(月) 19:09:20.16ID:aqefrIXb
とりあえずここ見ればよくわかる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F#.E7.B3.BB.E5.9B.B3
0371人間七七四年2011/07/19(火) 00:33:41.43ID:dH09woFB
えっ 佐久間家って由緒正しい家なの?
信長公(自称藤原、平、ほかなんでも)とか前田利家(自称菅原道真の子孫)みたいに
自称じゃないの自称
0372人間七七四年2011/07/19(火) 01:36:12.26ID:M/HAJgC7
何をもって「由緒正しい」とするか謎だけど
和田朝盛の子の佐久間家盛が御器所を与えられていたことは確認できてるよ
御器所のほうでは室町中期ごろにはもう佐久間の名前は確認できてるし
0373人間七七四年2011/07/19(火) 02:38:38.14ID:dH09woFB
ふうむ そうするとれっきとした平家ですな 御先祖様はまさしく天皇家のお方
家柄いいんじゃ!という自負はあったでしょうな
0374人間七七四年2011/07/19(火) 08:16:49.45ID:nC/WQ95B
藤吉郎:家柄よくねえと名字なんて持っとりゃーせん
0375人間七七四年2011/07/19(火) 18:27:11.86ID:COF3ku9d
秀吉の家はどうも「ハシバ」が隠し姓だったフシがある。
それが元々「羽柴」だったのか、それとも「橋場」「端場」などの地名苗字に
雅字を当てたのかはわからないが。
0376人間七七四年2011/07/19(火) 18:38:07.24ID:i7+jOvwD
>>373
そうでしょうね。当時の佐久間は尾張でも屈指の名家だから。
0377人間七七四年2011/07/19(火) 21:02:09.46ID:yL8L307x
>>375
やはり、秀吉自身が橋端と羽柴をかけて創った姓と言われている
橋のたもとに捨てられていた話との
0378人間七七四年2011/07/19(火) 23:30:22.94ID:dH09woFB
井沢元彦氏などは端柴売りの稗吉という説をとってますね
端柴売りというのはハンパなタキギを売る最下層の木こりかなんかのようです
非常に自虐的な名前ですな 葛飾北斎の別名、画狂人、画狂老人、月痴老人などを
思い出しました なくはないけど、ここまで卑屈にされると逆に怖いですね
奴隷だけが王を殺せる、みたいな凄みを感じます
0379人間七七四年2011/07/19(火) 23:40:43.96ID:W8h78Ylt
そういう貧農説とは逆に、秀吉の実家はある程度規模の大きな百姓で、農業だけでなく
河川流通業も手がけていて、そのため船出し場のある「橋場」あるいは「橋端」の
藤吉さんと呼ばれていた、って話も聞いたことがあるな。
0380人間七七四年2011/07/20(水) 00:12:15.85ID:/MFzUVyT
河川流通業が一番ありそうだよなー
商売人だから算学に明るく奉行職ができ、
美濃の流通業者と顔が利くから蜂須賀らを動かしたり調略もできたとする論拠は織田家でいきなり登場するや奉行スタートですぐ軍勢を率いる立場になると言う大抜擢の裏付けとして一定の説得力がある。
0381人間七七四年2011/07/20(水) 01:49:54.78ID:OPpcMyJl
さて、このスレは何スレだったかのう
0382人間七七四年2011/07/20(水) 09:37:15.43ID:G9pwYxVR
>>369
和田義盛の盛に由来するってのは凄いね。
結城家の朝が頼朝に由来するってぐらいビックリ。

あと安や勝は別家として独立した証左なんでしょうね。
0383人間七七四年2011/07/20(水) 10:33:16.72ID:E2ksmApB
そういえば信長嫡男の信忠(信重)は、明らかに平忠盛(平重盛)からだな。
0384人間七七四年2011/07/20(水) 11:06:43.52ID:upZYDFgj
>>380
おそらく商人人脈としての採用だよな、秀吉は。
かなり早くから津島とか川並衆とかとの統括みたいな位置に居たみたいだし。
ソースがネットのどこかなんで、この情報が間違ってる可能性あるけど。
0385人間七七四年2011/07/20(水) 17:09:03.05ID:JeG8e4Rq
>384
口寄せの人がそんなこと書いてたな
0386人間七七四年2011/07/20(水) 17:11:03.19ID:eUH/Xdz6
武功余話だったような?
0387人間七七四年2011/07/21(木) 03:14:41.53ID:WGzHWCq6
>>382
そうなんよね
勝之は何とかして盛政の家を復興しようと尽力したらしい
中川家に嫁いだ盛政の娘虎姫の息子内記に家を継がせて
自分の娘を嫁がせた
内記が後嗣なく没した後はその自分の娘を中川資重に
嫁がせて資重に家を継がせた

おそらく自分の家は分家で、本家は盛政家、という意識が
あったんだろうと思う
0388人間七七四年2011/07/21(木) 03:34:26.55ID:WGzHWCq6
ざっと鎌倉からの流れを追っていくと

三浦氏の出身の和田義盛が侍所別当として幕府の一角を成し、和田家は一大勢力に
孫の朝盛は三代将軍実朝の覚えめでたい寵臣だった
しかし和田氏は北条氏の陰謀により罠に陥れられ、武力衝突に発展、和田合戦となる
朝盛は実朝に弓を引きたくない思いから、出家しようと京に向かうが、祖父義盛からの
追手に追いつかれ説得されて参戦する
結果は和田一族の敗戦となり一族はほぼ滅亡、朝盛はなんとか逃げ延びた
その後の承久の変では後鳥羽上皇方についた記録がある
朝盛は同じ三浦一族の佐久間家村の養子になっており、朝盛の子家盛はこの家村の
元に逃れた
家盛は承久の変では幕府方で戦い、恩賞として尾張の御器所を賜った
ここに家盛とその子孫が定着し、室町期から戦国期にかけての尾張佐久間氏となる


だいたいこんな感じ
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