【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】
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0001人間七七四年
2011/01/30(日) 17:29:57ID:4dXHFJUm折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。
武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html
佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F
■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/
0013人間七七四年
2011/02/02(水) 16:04:40ID:wVsivOWY一般にいう「正勝」に関しては、文書の裏付けがない。
>>10の論理でゆくならば、真田幸村も正しいことになるけど?
0014人間七七四年
2011/02/02(水) 18:02:11ID:9m12kzzJ信盛の「信」は、信秀か信長からもらったんじゃないかと思う
>>13
だ〜から〜。「正しい」というのは、何を意味するの、って話でしょ
ひとりの人の名乗りが、何か現在の戸籍か住民票のような「正式な」
登録みたいなのがあって、ひとつだけが「正しい」という世界だったの、当時?
違うでしょ?
「今のところ、正勝とする同時代の史料が見つかってない」というだけで「正しくない」
というのは東大史観的な古い定説主義くさい
そもそも書状などでは通称(仮名)を書く場合が多かったので、名乗りが書かれた
史料が出てこないからといって「そう呼ばれていなかった」と結論づけることは
そう簡単にはできない
0015人間七七四年
2011/02/02(水) 18:14:03ID:wVsivOWY信用できない。
谷口氏だって「信栄」という署名文書があるからそれを
採ってるんだと思うが。
だいたい父が信盛なのに子が「正勝」っておかしいよ。
たいていは父の一字を貰うものだ。
0016人間七七四年
2011/02/02(水) 19:55:34ID:g86z/Mmh信盛から信が付いてるからそうだろうね。
後に許されて帰参してるから、その時に信勝か信栄にしたのかも?
>>15
林通勝は松永家の家臣と混同されたんだっけ?
でも、尾張や美濃の林は伊予の河野氏由来の林という説もあって、
河野の通字が「通」だから、完全には否定出来ないって2chで見た気が。
0017人間七七四年
2011/02/02(水) 21:31:55ID:9m12kzzJ名前が「正しい」とか「正しくない」というのは無理がある
源氏の嫡流は「義○」だけど、義朝の嫡子は頼朝、その嫡子は頼家
というように、常に同じとは限らない
「正しい」とか「正しくない」ではなくて、史料によっていくつか異なる
名乗りが伝わっているが、なぜかは詳しいことはわからない、ってこと
無理に「どれかひとつの名乗りだけが正しく、残りは正しくない」と
断定しなければならない理由もないし、断定できるほどの根拠もない
「わからない」という保留状態で理解する、ということができない人には
歴史の話は向いてないと思う
0018人間七七四年
2011/02/03(木) 15:07:00ID:HTKLZbre0019人間七七四年
2011/02/03(木) 18:49:52ID:nFfllNihスレチだが
0020人間七七四年
2011/02/03(木) 19:20:08ID:FS/A9y+S諱を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174058450/
大して重要なことでもなかったからな>下の名=諱は。
出世魚や源氏名みたいにコロコロ変える。
あと現在でもファーストネームは親しい人だけで、
普段は「名字」や「ニックネーム」や「役職名」で呼ぶでしょうに。
0021人間七七四年
2011/02/03(木) 19:22:28ID:79uf2Ojk前田利家が逃走したことで負けたけどそれまではいい活躍だった
それが敗因にされるとはアワレ
0022人間七七四年
2011/02/03(木) 21:10:53ID:3mMdAO7P0023人間七七四年
2011/02/04(金) 08:34:18ID:E/M9uf2a少なくとも利家や成政よりは高く評価されていたのは疑いない
0024人間七七四年
2011/02/04(金) 08:44:18ID:IooMH7/80025人間七七四年
2011/02/05(土) 09:37:46ID:pP3D7ex60026人間七七四年
2011/02/05(土) 13:02:44ID:GTV4XrCn0027人間七七四年
2011/02/05(土) 14:57:22ID:6UxHH6Tk柴田勝家が父親替わりみたいになってくれてたらしいね
0028人間七七四年
2011/02/05(土) 15:00:08ID:cT+M9lot佐久間盛政は柴田勝家の部下じゃなかった?
0029人間七七四年
2011/02/05(土) 17:55:38ID:6UxHH6Tkhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6#.E5.AE.B6.E8.87.A3.E3.83.BB.E4.B8.8E.E5.8A.9B
0031人間七七四年
2011/02/06(日) 05:13:06ID:7W5f202Bちょっと違うね。
正勝となっているのが、後世のましてや二次史料だけならば、
「わからない」とは言わない。
参考程度に過ぎない。
そもそも学問というものを理解していない文章だよ。
0032人間七七四年
2011/02/06(日) 12:22:03ID:DXs0Wu5zチラシの裏にでも「ボクの考えた正しい諱」でも書いとけw
0033人間七七四年
2011/02/06(日) 13:20:35ID:rit8ZT6Wないことは当たり前のことだと知っているはず
これまでにも「今まで見つかっていなかった」ものが新たに発見された事例がいくらでもあるわけで
太安万侶にしても武蔵坊弁慶にしても山本勘助にしても前田慶次郎にしても同時代史料がないから
実在しないという人もいたがすべて後に史料が新発見されて実在が確認された
つまり、今まで見つかっていなくても今後未来永劫見つからないと決まってはいないので「わからない」
と保留するのが妥当
0034人間七七四年
2011/02/06(日) 18:54:14ID:uUr5Kxfq資料や信憑性や歴史を語るにあたって(笑)なんて基本的な事までご丁寧に論議しねえといけねえのか、くだらねえ
ガキや知ったかぶりやニワカはおいといて、その先の話で楽しもうぜ
0035人間七七四年
2011/02/06(日) 20:25:35ID:DXs0Wu5zそこそこ活躍していたみたいだし、子の信重の家系は旗本で続いてるんだけどね
0038人間七七四年
2011/02/12(土) 04:14:12ID:OTZvASYeそれは突拍子も無い考えだね。
たとえば上杉謙信は女性である。
という話は「わからない」とするのか?
女性でないという証拠はないけど…。
あと弁慶が実在するって、どこで証明されたのか?
0039人間七七四年
2011/02/13(日) 01:08:04ID:HfkTjDmrhttp://9009.teacup.com/cojimagu/bbs/397
>>35-37
正勝が信雄の家来だったから、その時か。
0040人間七七四年
2011/03/08(火) 18:02:31.78ID:gKLR2dvM> という話は「わからない」とするのか?
寛政譜にそう書いてあるのならな。
まったく話の前提を理解しとらんな。
0041人間七七四年
2011/03/08(火) 18:35:28.76ID:OZLQzX7p0042人間七七四年
2011/03/08(火) 18:55:37.50ID:gKLR2dvM長沼藩のは大失敗だよなぁ。養子が養家を潰すとかね。せっかく分知して分家してたのも全部無駄になるし。
0043人間七七四年
2011/03/09(水) 09:27:39.15ID:49kd9wV/0044人間七七四年
2011/03/10(木) 18:59:43.12ID:LEJntvlJ0045人間七七四年
2011/03/10(木) 20:55:15.80ID:GAMhQvrc江戸時代にそう認識されていたってだけの話だろ。
同時代の文書にどうあるかが問題。
信長の家老、林秀貞を「通勝」としているような系図類だぞ。
その論理でいくならば「真田幸村」も正しいことにならないか?
0046人間七七四年
2011/03/10(木) 21:47:49.64ID:imCNgmVcというか桶狭間で戦死する佐久間大学の子孫
関ケ原で丹羽家の旧臣軍団の一員として西軍について改易されちゃったが、
残っていれば長沼藩なきあとも佐久間系の大名だったのに…
しかしなんでわざわざ改名したのかね?苗字変えなきゃならないほど佐久間盛政とも近くないし
0047人間七七四年
2011/03/11(金) 10:53:11.04ID:SDqSnAcF盛政の妻が大学の娘。つまり盛昭とは義理の兄弟。
0048人間七七四年
2011/03/27(日) 17:35:26.43ID:Uw+pHHNw0049人間七七四年
2011/03/28(月) 11:56:13.54ID:9huerQboこの唄が流行ったと書いてある書物は何時頃書かれた物ですか?
0050人間七七四年
2011/03/28(月) 19:12:24.37ID:3yaG6X5F夜8時ごろじゃね?
0051人間七七四年
2011/04/05(火) 23:43:12.17ID:QjgdmVcxhttp://gouhime.blog119.fc2.com/blog-entry-90.html
0052人間七七四年
2011/04/16(土) 00:39:20.42ID:tJESBJ7Y「佐久間盛政です」
「森長可です」
「三人合わせて!」
「【鬼】トリオで〜す♪」
0053人間七七四年
2011/04/27(水) 22:09:10.42ID:foV+oeRW0054人間七七四年
2011/04/28(木) 04:55:18.03ID:AWDZ+b1z0055人間七七四年
2011/04/28(木) 12:47:35.11ID:9wdQyX8x0056人間七七四年
2011/04/28(木) 15:26:25.94ID:BxmBTu1aたしかに信盛に注目して、キッチリ冷静に公平で平等に評価すれば、信盛の評価は上がると思うよ
でもそういう風に他の武将も丁寧に見ていけば、相対的にまた評価低くなると思うんだよね
おらが村の英雄の地方豪族とかで、その地元だけでクローズアップされてるドマイナーな武将って、みんなその理屈だと思う
0057人間七七四年
2011/04/28(木) 16:54:39.65ID:oSW6eTyZそのまま本能寺につながるからな。
0058人間七七四年
2011/04/28(木) 22:48:50.96ID:vi9AlDag世間的な評価なんてあんまりあてにならないと思うけどね
0059人間七七四年
2011/04/28(木) 22:52:12.21ID:qN7xnvWCそのころ佐久間信盛は相当活躍したと思う よく知らんけど
信長公の叔父とかとの抗争もけっこう激しかったし
0060人間七七四年
2011/04/28(木) 23:01:54.44ID:uyuxauSL「信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門比類無き働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」
0061人間七七四年
2011/04/28(木) 23:13:56.69ID:9tcmQnw00063人間七七四年
2011/04/29(金) 00:09:44.73ID:gWumNjXj「お前は会社の為に充分に貢献してると思ってるのか!」と言われ、
しかも「充分に貢献してる」と言えない空気の屈辱感は異常。
0064人間七七四年
2011/04/29(金) 00:21:48.62ID:plCLLynY保身や遊泳術を身につけず、調子に乗るから
上司や他人のせいにしちゃダメ
0065人間七七四年
2011/04/29(金) 04:10:08.69ID:nGftkkwS0066 忍法帖【Lv=17,xxxPT】
2011/04/29(金) 09:19:32.65ID:lTshcuEv平手と佐久間ぐらい? 信長与党は。
0067人間七七四年
2011/04/29(金) 13:19:58.08ID:gWumNjXj太田牛一も知らないことを書いてるだけだからどこまで事実かもわからん
0068人間七七四年
2011/04/29(金) 16:51:26.88ID:KtEBZNsW悪いのはおれじゃなくてお前だ」
中小ブラック企業の社長なんかが言いそうなことだな
0069人間七七四年
2011/04/30(土) 09:00:42.88ID:jxxRZULE塙は戦死し光秀も敗走してるし…
摂津責任者の荒木も結局は謀反することになるし
完全に損な役回りだわ。
でも織田の大軍勢を統御できるだけの地位にいたのは佐久間くらいしかいないわな。
0070人間七七四年
2011/04/30(土) 09:51:48.37ID:Igzw61z60072人間七七四年
2011/04/30(土) 12:25:32.11ID:VLSkhtvG0073人間七七四年
2011/04/30(土) 13:36:55.05ID:gLiBBD7K0074人間七七四年
2011/04/30(土) 14:26:14.07ID:+002xSfiで、1年くらいで鬱になっちゃったら、社長からクビを宣告される、という
0075人間七七四年
2011/04/30(土) 15:14:33.06ID:Dy4AG8ta0076人間七七四年
2011/05/03(火) 21:32:50.29ID:GiUWgUGo佐久間の讒言であり、水野の領地を佐久間が手に入れたみたいだが
明らかに信長が水野が邪魔だったとしか思えないし家康とも暗黙に合意を得てたっぽいし
信盛って信長のために汚名をかぶって忠勤してたように思えるよな。
0077人間七七四年
2011/05/04(水) 13:35:29.24ID:BlkPscdtで、潰れていったん落ちぶれた水野家だけど家康が神君家康公となるとその母を
輩出した家ということで急に徳川家普代の家臣となった 家臣じゃないのに
0079人間七七四年
2011/05/14(土) 00:58:57.44ID:Eq3tKcKS司馬は一代記が多いから佐久間は書きにくいだろうな
0080人間七七四年
2011/05/15(日) 00:25:41.66ID:tb14Ykkg0081人間七七四年
2011/06/02(木) 13:57:34.77ID:RhX3+kl/全てが終わってから駄目出し追放しても仕方ないだろ
0083人間七七四年
2011/06/06(月) 10:17:04.68ID:rhkj5KM1理解できない、納得できない、という反応が多かったことがわかるよ
それと、信長自身が後に信栄(正勝)を赦して帰参させていることから
しても、追放の正当性には疑問の余地がかなりある
本能寺の黒幕はだれか?というのは人気があるテーマだけど、
信盛追放の真相は?というのも同じくらい謎の多いミステリーだと
思うんだけどなー
0084人間七七四年
2011/06/06(月) 15:11:35.17ID:646tpLudこういう強引なワンマン社長は日本の社会だとなかなかトップになれない
家康が天下人になったのは運だけじゃあるまい ルールを重んじる日本的なやり方が
独裁者信長より高い支持をえたんだろう
0085人間七七四年
2011/06/06(月) 16:09:31.28ID:yk4MAu9E信盛が無能ならそんなのにずっと最強の敵である本願寺を任せたままだった信長も無能だよ
0086人間七七四年
2011/06/06(月) 16:23:05.82ID:04IuuIaF相済ますの処、五ヵ年一度も申越さざるの儀、由断曲事の事」
0087人間七七四年
2011/06/06(月) 16:32:33.02ID:vntxcd3Wもうすこし考えたら?
0088人間七七四年
2011/06/06(月) 17:12:25.35ID:RMBhPoKh宗教絡んでるのに調略しろとか無理ゲー過ぎ
0090人間七七四年
2011/06/06(月) 17:52:25.39ID:yk4MAu9Eだから?
ここでの問題は結局最後まで信長が信盛に対して何もしなかった事だろ
ぼさっと信盛から相談されるのを待ってたの信長は?
0091人間七七四年
2011/06/06(月) 18:03:25.03ID:RafexIytこのまま行ったら織田家自体を凌駕して
ゆくゆくは関白佐久間家が誕生していたからな
0092人間七七四年
2011/06/06(月) 20:02:32.74ID:RMBhPoKh信長直臣の前田や佐々らが目付けとして第二軍閥の柴田は監視されていたが
佐久間を監視してた信長直臣って誰だろ?
明らかにそいつらに讒言されただろ。
0093人間七七四年
2011/06/06(月) 20:16:26.51ID:ikPMXndP0094人間七七四年
2011/06/06(月) 20:23:35.62ID:+RjHG7bm小田原まで行ってとことん秀吉に抵抗したのに許されて蒲生のもとで城を
もらってるし、関ヶ原や大坂の役に参戦したとはいえ、家康からは大名に
取り立ててもらってる
今と違って当時佐久間家の武名はかなり評価されていたと考えていいと
思うんだよね
0095人間七七四年
2011/06/06(月) 20:28:34.33ID:+RjHG7bm江戸時代にはそういうことをやりかねないキャラクターと
見られていたんだろうなー、ということはわかるよね
0096人間七七四年
2011/06/06(月) 20:37:57.73ID:RMBhPoKh一番当たり障りがない明智のせいにするのが一番無難だろ。
謀反して死んだ光秀を知った上での後出しジャンケンに近い
0097人間七七四年
2011/06/07(火) 10:38:10.16ID:GvHT2q7sそりゃ「信盛がダメダメだから追放されました」とは言えんだろう。
誰かのせいにするのが一番いい。
たとえば本能寺の変のとき脱走した織田有楽の家譜には脱走した
ことは書いてない。都合の悪いことは無視。
0098人間七七四年
2011/06/07(火) 13:04:00.05ID:VgTByI34実際信盛がダメダメだったとしても途中で更迭するなりなんなりと言った事をやらず全てが終わってから難癖つけるってアレ過ぎるしな
しかも対織田勢力では最強といっていい石山本願寺担当だぜ
0099人間七七四年
2011/06/07(火) 22:22:02.94ID:cHRYdWsqいや、だから、同時代史料には「なんで信盛追放?えっ?」っていう
反応しかないんだよ
「あー、信盛ねー、あいつは仕方ないな」という反応はない
だから「信盛がダメダメだから」ということを既定の前提にするのはおかしい
当時の人も、後の人もそうは思ってなかった(少なくとも納得はしてなかった)
ことは間違いない
0100人間七七四年
2011/06/08(水) 01:26:10.51ID:09QT/ZBlだが現代でも大きな恨みを買うリストラだから当時はずいぶんひどいことをすると
思われたろう・・・
0101人間七七四年
2011/06/08(水) 09:45:48.21ID:C8+SOSGA目立ちたがり?
0103人間七七四年
2011/06/08(水) 13:21:29.52ID:t92cXX0yあまり多くないんじゃない?
他にあったっけ、って考えてみてもこれといってすぐ思いつかない
原因については、もしかしたら本願寺が落ちないのは信盛が
裏で内通しているからだ、という讒言があって、しかし証拠が
なかったからそれを理由にできなくてああいう形になった、
ということは考えられないか?
0104人間七七四年
2011/06/08(水) 13:30:33.83ID:FpSQjx7W当主が強権を発動した例は結構あるぞ
失敗したか混乱して弱体化した例の方が多かったけど
0105人間七七四年
2011/06/09(木) 13:17:18.71ID:QDdyZelY読売新聞 6月9日(木)9時24分配信
愛知県小牧市教委は8日、織田信長が1563年に築城した同市の小牧山城で、城郭の石に書かれた墨書として日本最古の石材が見つかったと発表した。
本丸北西側の斜面で、堆積岩の一種(縦60センチ、横35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ)の石材に、縦書きで「佐久間」と書かれていた。
城郭の墨書は、信長が1576年に築城を始めた安土城のものが最古とされていた。
市教委によると、「佐久間」は信長が家督を継ぐ以前からの重臣、佐久間信盛(1527〜81年)を指しているとみられる。
小牧山城は信長が手掛けた最初の城で、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は、
「最も目立つ工区に重臣の佐久間信盛を割り当てて仕事をさせた。信長の巧みな人心掌握術をうかがわせ、興味深い」と話す。
10〜22日、小牧市歴史館(0568・72・0712)で公開される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110609-00000190-yom-soci
0107人間七七四年
2011/06/09(木) 14:48:28.12ID:V+j3SNIy信長としての追放理由は「折檻状」にちゃんと示されてるよ。
周りがどう思ったかは別にして。
「信長公記」には載っているが、これは江戸時代には公刊されて
いなかったから、甫庵の「信長記」に載っているかどうかは知らないけど。
0109人間七七四年
2011/06/09(木) 15:26:09.80ID:568mZ3E5本願寺家を一番恐れていたのは信長自身なれば、
その要所で宿敵本願寺と対等に渡り合い、引けを取らなかった佐久間の能力には正直脱帽したに違いない
しかし、その有能さが仇となる
佐久間の能力に恐怖すら覚えた信長は、その傲慢な性格ゆえに佐久間に不信感を覚える
さらに、戦略に関し一切の下知を仰がなかったのも裏目にでる
信長はその傲慢な性格ゆえにこれを良しとせず、かわい気のない不忠心者と罵ったに相違ない
他家臣からの突き上げも多少はあったであろうが
信長の折檻状は佐久間を恐れた信長の謀略とするのが、一番筋が通るではないか
0110人間七七四年
2011/06/09(木) 15:46:14.65ID:ZkZTg1YA0111人間七七四年
2011/06/09(木) 16:38:13.37ID:ln5GsNhNそれに信長が謀反の芽と捉えたからだろう。
特に本願寺戦線は最大兵力で佐久間の解任すらできない本願寺戦線家中サロンを形成。
佐久間も本願寺を破ってしまうと逆に走狗煮られるのがわかっていたからこそ
素直に高野山への道を選んだ。
0112人間七七四年
2011/06/09(木) 17:07:39.54ID:cVCV01ti■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています