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【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】

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0001人間七七四年2011/01/30(日) 17:29:57ID:4dXHFJUm
織田信長の有力家臣として活躍しながらも、
折檻状(偽書の可能性もあり)を突きつけられて追放・客死した「信盛」や、
柴田勝家の右腕・鬼玄蕃として名をなすも、
賤ヶ岳の合戦では敗れ処刑された「盛政」などを中心に、
江戸期には大名や旗本で生き残った佐久間氏一族の興亡を語りましょう。
※今までのまとめは>>2-5の辺り。


武家家伝_佐久間氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sakuma_k.html

佐久間氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F

■過去スレ
織田家家臣団の筆頭格・佐久間信盛
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157214776/
0002まとめ2011/01/30(日) 17:30:45ID:4dXHFJUm
佐久間信盛の業績。
・信行謀反時に大多数の譜代が信行についた中、信長に味方した。
・無難に堺接収。
・三方が原に援軍として出向き、損耗を最小限に抑えて、退却。
・長篠の戦いでは武田家に偽りの謀反を打診。勝頼おびき出しに功有り。
・石山包囲戦では指揮官として損害の大きい我攻めを避け、被害を最小限に抑える。
・次第に電波化してきた信長に絶望し、故意に職務怠慢することで、
 織田家放逐。諸将に警鐘を鳴らし、光秀謀反を引き出す。
0003まとめ2011/01/30(日) 17:32:42ID:4dXHFJUm
※信長の折檻状の内容

一、佐久間信盛・信栄親子ともども天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。
  世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり口惜しい思いをしている。

一、何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに石山本願寺を大敵と考え、
   戦もせず、調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、
   幾年かもすればゆくゆく信長の威光によって引き下がるであろうという見通しだったのか。
   武者道というものはそういうものではない。 
   勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであのに、
   一方的な思慮で持久戦に固辞し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、羽柴秀吉の功労も比類なし。
   池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
   これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。

一、柴田勝家もこらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るのに、五年間それすらない。
0004人間七七四年2011/01/30(日) 17:32:57ID:peEWCtek
正勝って正しくないんでしょ?
0005まとめ2011/01/30(日) 17:34:00ID:4dXHFJUm
一、信盛の与力・保田知宗の書状では本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろうろあり、信盛親子も連判している。 
  今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないか。

一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
  三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
   これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようともこれほど落ち度を取ることはない。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。
  水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく。
  結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断。

一、山崎の地も同様で信長の声かかりの者まで追放してしまう有様。  これも先の刈谷と同じである。

一、譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているなら未だいいがそれも無い。
   ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまった。  これは唐・高麗・南蛮の国まで隠れもないことである。

一、先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところものともせず、結局自身の正当性を吹聴し、
   あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。
   その口程もなくここに在陣し続けていまの働きの程は前代未聞である。
0006まとめ2011/01/30(日) 17:35:30ID:4dXHFJUm
一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。
   その上、いい加減な働きをすれば、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる。

一、与力を専ら使役し、他への取り次ぎや戦事にはこの与力で軍役を済まし自身の家臣を使わない。
   領地をただ遊ばせ無駄にしている。

一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
   自身の思慮を自慢し穏やかなふりをしても綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、信長の代になり30年間奉公し信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない。

一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方が原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。 
   しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、
  その甲斐あって運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。
   あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
0007まとめ2011/01/30(日) 17:36:48ID:4dXHFJUm
寛政重修諸家譜の信栄(正勝)の項には

後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。
信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、
正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ。

とある。
0008人間七七四年2011/01/30(日) 17:39:59ID:4dXHFJUm
とりあえず、こんな感じで。
0009人間七七四年2011/01/30(日) 18:32:55ID:P+KnBgM/
うんこびちびちやねん
0010人間七七四年2011/01/30(日) 23:25:50ID:ZI1DLJkS
>>4
何をもって「正しい」というの?
寛政譜では正勝になってるので、少なくとも子孫からは正勝と
認識されていたことは確認できるよ
0011人間七七四年2011/02/02(水) 01:58:30ID:pdj1f4jt
なんでそう攻撃的なんだろう
ほのぼのいこうぜ
0012人間七七四年2011/02/02(水) 11:06:03ID:g86z/Mmh
『寛政重修諸家譜』では正勝、『佐久間軍記』では信勝らしいが、
「信」の字は追放された時に憚り、外して「正勝」にしたのかな?
代々の通字って程は定着してなかったし。
0013人間七七四年2011/02/02(水) 16:04:40ID:wVsivOWY
谷口克広著「織田信長家臣人名事典」より
一般にいう「正勝」に関しては、文書の裏付けがない。
>>10の論理でゆくならば、真田幸村も正しいことになるけど?
0014人間七七四年2011/02/02(水) 18:02:11ID:9m12kzzJ
>>12
信盛の「信」は、信秀か信長からもらったんじゃないかと思う

>>13
だ〜から〜。「正しい」というのは、何を意味するの、って話でしょ
ひとりの人の名乗りが、何か現在の戸籍か住民票のような「正式な」
登録みたいなのがあって、ひとつだけが「正しい」という世界だったの、当時?
違うでしょ?
「今のところ、正勝とする同時代の史料が見つかってない」というだけで「正しくない」
というのは東大史観的な古い定説主義くさい

そもそも書状などでは通称(仮名)を書く場合が多かったので、名乗りが書かれた
史料が出てこないからといって「そう呼ばれていなかった」と結論づけることは
そう簡単にはできない
0015人間七七四年2011/02/02(水) 18:14:03ID:wVsivOWY
信長の重臣、林秀貞を「通勝」としてる江戸時代の系図なんて
信用できない。
谷口氏だって「信栄」という署名文書があるからそれを
採ってるんだと思うが。
だいたい父が信盛なのに子が「正勝」っておかしいよ。
たいていは父の一字を貰うものだ。
0016人間七七四年2011/02/02(水) 19:55:34ID:g86z/Mmh
>>14
信盛から信が付いてるからそうだろうね。
後に許されて帰参してるから、その時に信勝か信栄にしたのかも?

>>15
林通勝は松永家の家臣と混同されたんだっけ?

でも、尾張や美濃の林は伊予の河野氏由来の林という説もあって、
河野の通字が「通」だから、完全には否定出来ないって2chで見た気が。
0017人間七七四年2011/02/02(水) 21:31:55ID:9m12kzzJ
通字というのは必ずしも絶対的なものではないので、それを根拠に
名前が「正しい」とか「正しくない」というのは無理がある
源氏の嫡流は「義○」だけど、義朝の嫡子は頼朝、その嫡子は頼家
というように、常に同じとは限らない

「正しい」とか「正しくない」ではなくて、史料によっていくつか異なる
名乗りが伝わっているが、なぜかは詳しいことはわからない、ってこと
無理に「どれかひとつの名乗りだけが正しく、残りは正しくない」と
断定しなければならない理由もないし、断定できるほどの根拠もない

「わからない」という保留状態で理解する、ということができない人には
歴史の話は向いてないと思う
0018人間七七四年2011/02/03(木) 15:07:00ID:HTKLZbre
ま、尊氏の子は義詮だしな
0019人間七七四年2011/02/03(木) 18:49:52ID:nFfllNih
そもそも何で3つも4つも名前があったりするんだ?
スレチだが
0020人間七七四年2011/02/03(木) 19:20:08ID:FS/A9y+S
>>19
諱を語る
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174058450/

大して重要なことでもなかったからな>下の名=諱は。
出世魚や源氏名みたいにコロコロ変える。

あと現在でもファーストネームは親しい人だけで、
普段は「名字」や「ニックネーム」や「役職名」で呼ぶでしょうに。
0021人間七七四年2011/02/03(木) 19:22:28ID:79uf2Ojk
鬼玄蕃佐久間盛政もうちょっと評価されてもいいところ
前田利家が逃走したことで負けたけどそれまではいい活躍だった
それが敗因にされるとはアワレ
0022人間七七四年2011/02/03(木) 21:10:53ID:3mMdAO7P
秀吉も自分の配下にしようと口説いたんだよね、盛政は
0023人間七七四年2011/02/04(金) 08:34:18ID:E/M9uf2a
勝家の配下で一番最初に国持になった、しかも二十代でだから、評価が高かったことは間違いない
少なくとも利家や成政よりは高く評価されていたのは疑いない
0024人間七七四年2011/02/04(金) 08:44:18ID:IooMH7/8
盛政って与力だったんだ、ふーん
0025人間七七四年2011/02/05(土) 09:37:46ID:pP3D7ex6
そう。柴田勝家の家臣と書いてあるのは間違い。身分的には信長の直臣
0026人間七七四年2011/02/05(土) 13:02:44ID:GTV4XrCn
柴田の目付だっけ?
0027人間七七四年2011/02/05(土) 14:57:22ID:6UxHH6Tk
盛政の父の盛次が若いうちに亡くなったので、母方の叔父(伯父)だった
柴田勝家が父親替わりみたいになってくれてたらしいね
0028人間七七四年2011/02/05(土) 15:00:08ID:cT+M9lot
あれ? 前田利家と佐々成政とあと現地の武将ひとりが信長の目付、監察官で、
佐久間盛政は柴田勝家の部下じゃなかった?
0029人間七七四年2011/02/05(土) 17:55:38ID:6UxHH6Tk
>>28
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6#.E5.AE.B6.E8.87.A3.E3.83.BB.E4.B8.8E.E5.8A.9B
0030人間七七四年2011/02/05(土) 20:00:27ID:gue2yN/k
>>24>>25
蜂須賀や竹中を秀吉の家臣といってるのと同じ間違いだな。
0031人間七七四年2011/02/06(日) 05:13:06ID:7W5f202B
>>14
ちょっと違うね。
正勝となっているのが、後世のましてや二次史料だけならば、
「わからない」とは言わない。
参考程度に過ぎない。
そもそも学問というものを理解していない文章だよ。
0032人間七七四年2011/02/06(日) 12:22:03ID:DXs0Wu5z
はいはい
チラシの裏にでも「ボクの考えた正しい諱」でも書いとけw
0033人間七七四年2011/02/06(日) 13:20:35ID:rit8ZT6W
歴史を少しでもかじった人間なら、「今まで見つかっていない」と「存在しない」は同じでは
ないことは当たり前のことだと知っているはず
これまでにも「今まで見つかっていなかった」ものが新たに発見された事例がいくらでもあるわけで
太安万侶にしても武蔵坊弁慶にしても山本勘助にしても前田慶次郎にしても同時代史料がないから
実在しないという人もいたがすべて後に史料が新発見されて実在が確認された

つまり、今まで見つかっていなくても今後未来永劫見つからないと決まってはいないので「わからない」
と保留するのが妥当
0034人間七七四年2011/02/06(日) 18:54:14ID:uUr5Kxfq
道がそれてるし話が細けえ事になってんな
資料や信憑性や歴史を語るにあたって(笑)なんて基本的な事までご丁寧に論議しねえといけねえのか、くだらねえ
ガキや知ったかぶりやニワカはおいといて、その先の話で楽しもうぜ
0035人間七七四年2011/02/06(日) 20:25:35ID:DXs0Wu5z
左京亮信辰という信盛の弟もあまり取り上げられないよね
そこそこ活躍していたみたいだし、子の信重の家系は旗本で続いてるんだけどね
0036人間七七四年2011/02/06(日) 20:55:49ID:iF+whgWT
>>35
どんなコネで旗本に召し抱えられたんだろ?
血縁関係か、三方原の一件でで徳川と懇意にでもなったのかな?
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