本山先生のサイトの青山の合戦のページを見て
青山合戦と印南野合戦のスケールの大きさに気付いた。

その一方で原因が播磨守護とは言え居城の置塩城周辺の西播磨三郡ほどに
没落していた赤松晴政と赤松義祐の親子喧嘩から始まったというのも何だけど。

それでも既に秀吉が青山合戦の1569年の頃には恐らくは半兵衛なども伴って播磨の地を踏んでいて
晴政の味方をしていた赤松政秀の義祐攻めの後援をしつつ生野銀山から山名氏本城のあった出石制圧に活躍。

それとは対照的に1545年に黒田職隆が姫路城主になるまで15年間姫路城主だったことから
恐らく職隆と並んで小寺の重臣の八代道慶の息子の足の速い六之助が
官兵衛から「首はいいから兜か馬を奪ってこい」と言われて発奮していた逸話の貧相さと
貧相さと織田軍撤退の一因となった戦果の大きさのギャップが面白い。

赤松政秀に攻められた黒田の娘と浦上政宗の息子の婚姻の日に
八代道慶も左目を負傷して死亡するところなんかも含めて大河で説明があればいいな。