気になったので転載。
これ別所に呼応した小寺本家と手切れになった時に
独立して信長に属したとは見なされなかったのかな?


815 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 01:16:17.88
>>794
これさ、戦国板でもよくこう言う人多いんだけど
クロカンは信長の直臣だった時期はまったくないんだよ
黒田家譜にも信長・秀吉の書状にも秀吉の与騎という表現はない
つか信長と孝高の会見すら信長公記には記録がないくらい軽い扱いで
かろうじて主君の小寺と一緒に一箇所でてくるくらい

理由は簡単で、孝高の主君はこの間小寺政職のままで、信長の直臣でも
秀吉の家臣(織田の陪臣)にもなってないから、あくまで小寺の家老として
馳走せよと命じられているだけで
有岡城からでて、主家の小寺家が御着を退去したあと、そのまま秀吉の
直臣に組み入れられたかたちになる
播磨で一万石の大名になった時は、すでに播磨1国は秀吉の所領で
直接秀吉から知行宛行を受けて禄を貰っているので、
ある意味、信長から寄騎として秀吉につけられた
竹中や蜂須賀よりも豊臣恩顧中の豊臣恩顧というべきなんだが

991 名前:名無しさん@恐縮です[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 05:56:10.98
でも当の黒田家譜自体は、唐入りに対して評価はシビアなんだよ
個別の戦いとか武功とかは、これでもか、ってかんじで書いてるんだけど
全体的な評価としては、日本に攻めても来ない外国にわざわざ攻め入って
結局一寸の領地もとれず、異国の民も日本の民も苦しめて
こんな馬鹿なことしたんだから、豊臣政権は滅んでも仕方ないという
そういう書き方になってるんだわ