>>621
大友宗麟が、九州のなかで畿内の中央政権と良好な関係を築けたのは
北九州で長い間、毛利家と戦っていた要因が大きい
秀吉以前の早い段階から、大友家は対毛利戦の一環として、畿内の織田や
備前の宇喜多(あとで毛利に寝返って、もう一度織田に寝返る)
・浦上と同盟関係を築いてきた経緯がある
織田・豊臣政権にとっては、毛利(中国統一の障害)・島津(九州統一の障害)
の抑えの位置だから良好な関係を維持していた
信長は、本能寺の変がなければ、中国攻めで毛利家を滅ぼしたあと、
大友家に長門・周防を宛てる予定だった