信長公記では北畠を速攻で壊滅させたと記してあるが まったくのウソで
実際は大苦戦しまくりの三ヶ月間で 苦戦した末に信長の方から和睦を言い出してる。
当時はすでに伊勢の国人の大半も織田方になってたので兵力差があったものの・・・
5万対1万6000での伊勢平定戦で織田は大苦戦して和睦をした。 阿坂城では生涯唯一と言われる秀吉の怪我まであった(矢が左股に刺さった)
さらに大河内城でも織田軍は大苦戦しバタバタと将が討ち死にしまくり。 将来の織田幹部候補が大量に死んでる。
結局、和睦になり、北畠側が人質として茶箋丸を取ることになった。そしてやってきた茶箋丸には
警備として織田に寝返った者たちも含めた 尾張・伊勢500が駐屯するようにやってきた。そして織田に内部から乗っ取りを謀られた。
北畠側はその時に和睦が罠だったと気づいた。
信長公記に書かれている 斎藤義龍が范可と署名した時期がおかしい。
また范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが
そんな人物は唐はおろか史記など過去に遡っても見当たらない完全な捏造話である。
信長公記の斉藤道三の記述はウソ 六角氏の記述した道三2人説の方が史学では支持されている。
信長公記と六角氏の記録だと 六角氏の家督などもまったく違うんだよな〜。
信長公記を真実とすると、斎藤や六角の記録の大半を闇に葬るしかなくなるくらい激しく食い違う。
信長公記に関しては天正3年以降の日付はかなり正確になってきたがそれ以前の日付などは間違いも多いし
ん?勝家が長島で大敗してんのも織田史では隠匿されてたのか?
あれはたしか勝家が殿を努めたが猛烈な追撃を受け旗指物を奪われ大負傷しために
柴田軍が殿を勤められなくなり変わって殿をした氏家直元が戦死したろう。その後の柴田は怪我療養中で動きがない。
相変わらず織田史観では手取川といい柴田に優しいんだな。 と思ったら、今度は秀吉が朝倉2万近くの兵を一人で阻止したって?
当時は信長の後詰めが横山城のいたから朝倉が決戦を避けただけ。
織田厨史観では熊見川の戦い自体を否定して上月城は見捨てただけで秀吉が勢力圏を保持したと主張するし
(実際は姫路に信忠の後詰めがあったから毛利が決戦回避しただけ)
織田史観ってほんと相変わらず柴田と秀吉にだけはとことん甘いよな。 まぁ柴田に勝った秀吉はさらにスゴイwww
光秀が波多野秀治を騙して和睦を引き出し処刑し丹波平定
細川が娘を嫁がせてから一色義定を謀殺して丹後平定とか全然かばったりしないのに。
それに義昭が挙兵した時でまだ信玄が生きていた頃の信長は進退に窮して
4月5日には正親町天皇から勅命を出させて何とか義昭と和睦してもらってたじゃん。
志賀の陣でも、のちの本願寺との和睦もそうだけど信長は苦戦の末に正親町天皇に頼りまくってるじゃん。
そういや佐々成政もまったくかばってもらえてないなw
秀吉と柴田が対立してる時期に佐々が魚津城で景勝らと和睦開城を約束しておきながら卑劣にも騙し討ちして魚津城の上杉軍を大量殺戮しまくってる。
織田軍って信義のかけらもない詐術や約束反故や大量虐殺などを常套手段にする理不尽なヤクザも真っ青な悪魔犯罪集団なんだよな。
斎藤義龍に信長は最低でも2回は負けてるのに信長公記には桶狭間の後に義龍に負けた話が見事に書かれてない。
さらに信長公記では桶狭間の戦いの日程自体が間違っている。 これは意図的な操作だろうか?