織田信長は日本最高の過大評価6
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0324人間七七四年
2011/02/04(金) 16:01:34ID:Aikw/WtZ天文15年4月20日に起きた河越夜戦は存在しない。
氏康→簗田政信書状 天文12年4月
憲政らが河越城を取り囲んだこと、氏康が河越近辺に布陣したこと、
憲政の馬廻り等を討ち取ったことなど含め、諸々書いてる
資武→資宗書状11月13日
上記の内容や幻庵と綱成籠城時に扇谷共輩の軍が押し寄せ云々などを
太田資正から資武へ語られた内容を資武から資宗への書状で書いている。
綱成が川越城主と決まったのは天文15年4月の川越夜戦の勝利からだが
攻城自体は天文14年9月だと言うから綱成がその時に川越城を守っているのはまぁ良い。
だが天文12年4月に綱成がすでに川越城にいて川越野戦があったと言うのは明らかにおかしい。
人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。
当事者が書いたなら年を間違わない。 しかも相手に読ませるものを間違えるなどみっともないを越えていて
後世に別人が書いたから事実誤認して年を間違えてる。別人も当時揃えた史料内でリアリティを追求したつもり。
現代はいろいろな史料を突き合わせてチェックできるからミスがチェックできるだけの話。
そもそも日付自体もデタラメな可能性もある。
黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越夜戦」として喧伝されている戦いについては
同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし
当時の川越城は玉縄城主北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから
天文12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。
北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か?
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