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戦国ちょっといい話24

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2010/12/25(土) 13:26:54ID:U0HLGF9L
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっといい話23
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288278217/

姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0033人間七七四年2010/12/31(金) 00:38:06ID:Zh6AHeUt
>「一揆とか弱い連中を一方的に殺戮するならともかく、こっちにも犠牲が出るような戦をするのは嫌でござる!」

優秀な戦国大名じゃん。
「良き敵見つけたり」なんて発想をする馬鹿が出てくるのは講談の中だけだよ。
0034人間七七四年2010/12/31(金) 00:38:16ID:11ix+aVI
親を見てそだったからそんな性格になったような気もする>忠政
0035人間七七四年2010/12/31(金) 00:43:08ID:lrHtuvjp
子は親の鏡 と 反面教師 で先生が勝ったのね^^
0036人間七七四年2010/12/31(金) 00:44:22ID:6EP/7tf3
>>32
秀吉「ですよねー。籠城攻め最高。」
0037人間七七四年2010/12/31(金) 00:55:33ID:7+0yu5Jb
子じゃなくて弟
0038人間七七四年2010/12/31(金) 01:00:03ID:Zv33iGvp
忠政は生年的に親父の顔は全く覚えてないから参考にするのは兄しか無いなw
0039人間七七四年2010/12/31(金) 01:46:50ID:8WCSoI7c
>>33
>「良き敵見つけたり」なんて発想をする馬鹿が出てくるのは講談の中だけだよ。

義弘がまさにそうじゃね?まぁふるぼっこされたけど
0040人間七七四年2010/12/31(金) 06:24:13ID:11ix+aVI
忠政の親兄弟
親→圧倒的不利な状況で戦って討死
長兄→一番乗りしたけど深入りしすぎて討死
三兄→主君守って討死
四兄→同上
五兄→同上
次兄(親代わり)→アレ

そら慎重にもなるわ
0041人間七七四年2010/12/31(金) 13:00:13ID:7MPrldpW
忠政は森家を次代に伝えたのが最大の功績だろうな
5代目で津山藩は召し上げられちゃうけど
0042人間七七四年2010/12/31(金) 13:12:05ID:b9p6U2b9
祟り話が出るような改易理由だよな。
忠政からすると孫世代か?
でも家としてはその後も大名として存続しているから。
0043人間七七四年2010/12/31(金) 16:57:13ID:O3ShwE8j
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4631.htmlの後、
徳川家康の勘気は解かれ、榊原康政を始めとする上田合戦への参加者は、謹慎状態から開放された。
康政のもとには、友人の本多忠勝と井伊直政が訪れ、祝いの酒宴が開かれることになった。

「しかし、このたび康政殿が、身も省みず大殿を諌め、御父子の仲を修復したる事、徳川家のため…いや、
天下のためのお働き。いかなる勲功にも勝りますぞ!」
「ふふん、そうか?」
“幼にして沈静”と言われたさすがの康政も、年下ながら自分より所領の多い直政に持ち上げられ、気を良くした。

「だがのぅ小平太よ。直政の言う事もっともだが、わしには一つ心得ぬことがある。怒らずに聞いてくれい。」
「なんじゃ、平八?わしとお前の仲じゃ、遠慮なく言ってみろ。」

康政にうながされた忠勝は、神妙な顔をして、話を続けた。
「うむ。こう言っては何だが、われら三人、『徳川にその人あり』と天下にその名を知られる身よ。」
「…まあな。」
「そのお前が、佐渡(本多正信)の後ろに控えておったのが心得ぬ。お前ほどの男が、先頭切って上田城に
バーッと乗り込み、ガーッと崩せば、関が原の陣に間に合い、大殿に怒られずに済んだのではないか?」

「……………」
「い…いや忠勝殿、それはですな……」

それ以前に、康政や正信は上田城なんぞ放っておいて、さっさと中山道を進みたかったのである。
だが、秀忠や若手が血気に逸ってそれを許さず、康政らはせいぜい真田にスキを見せないようにしたり、
深入りをしないよう戒めるしかなかったのである。そういう立場なのである。

ついでに言えば、康政・忠勝ともにこの時52歳。上野館林10万石と上総大多喜10万石の大名格であり、
そろそろ孫の一人や二人生まれている立場である。いい大人なのである。

「…でも、忠勝殿はこれでいいんですよね。あははは……」
「そうだよな、平八は変わっちゃダメだよな!ハッハッハッハッハッハッ!」
「?おう、そうだろうとも!ガハハハハハハハハ!!」

三人一同に打ち笑い、その夜は和やかに宴の時を過ごしたという。
0044人間七七四年2010/12/31(金) 17:12:03ID:u2v4eWAV
『徳川にその人あり』と天下にその名を知られる三馬鹿トリオに見えてくるから不思議!
0045人間七七四年2010/12/31(金) 17:13:38ID:IOseUWVO
うわっははははははははは
0046人間七七四年2010/12/31(金) 18:07:53ID:lrHtuvjp
ヤバイ、全然面倒臭くないwww
0047人間七七四年2010/12/31(金) 18:43:22ID:11ix+aVI
つか若手が血気盛んになったのって武功あげたいからなんだから康政があげたら余計こじれるような…
0048人間七七四年2010/12/31(金) 20:49:38ID:skdbaA+B
そうなんだよなあって三人で笑ってうやむやにするパターンもあるな
0049人間七七四年2011/01/01(土) 08:53:14ID:/83kieUQ
「あのぅ殿、まだ元旦の膳を召し上がりませぬか?」
近習の粟屋弥次郎らが呼びかけても、毛利元就は答えようとせず、初日の出に向かって瞑想するのみであった。

再三に渡る弥次郎の呼びかけに、やっと目を開いた元就は、近習たちに問いかけた。
「お前たちは、元旦を祝う理由を知っておるか?」「いえ・・・」


「では教えてやる。巷では理由も知らず日の出を拝み、昆布・栗を食い屠蘇など呑んで、やれ無病息災だ子孫繁栄だと
言って浮かれ、元旦という日を深く考えてもおるまい。
志ある者は違う。元旦は元三とも言い、年の始め、月始め、日の始めなれば、まずは早起きして一年の計を練るのだ。

“一年の計は早春の一月にあり、一月の計は一日にあり、一日の計は早朝にあり”。

例えば昨年を振り返るに、東国は豊作、西国は水害多く実り少なかった。
ならば、今年我らが考えるは、内は倹約に努め、民の貧しきを考えた法度を案ずること。
外は東からの兵火に応じる、あるいは東に攻める際、敵の兵糧豊かなるを予想し、長き陣にならぬよう勤めること。


どうだ?これだけ取っても、元旦だからと寝坊して、いきなり祝いの膳など取って浮かれる暇はあるまい。
一年の計を定めてから、ゆっくり食事を取れば良いのだ。さあ、太刀をよこせ。」

言われた近習たちは元就の部屋を見回したが、それらしき物は見当たらない。しかし、元就の話を熱心に聴いていた
粟屋弥次郎ただ一人は、ふと気づいて立ち上がり大広間に向かうと、正月飾りとともに備えられた具足から
太刀を取って戻った。
「殿、これでございますな?太刀も元旦にあり、と言ったところですかな?」

「うむ!弥次郎は、さっそく思う所あったようだな。」そう答えて、元就は今年始めての笑顔を見せた。
0050人間七七四年2011/01/01(土) 09:40:47ID:VNcuJ8RX
>>49
こういうのもあったよ。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x050.htm
0051人間七七四年2011/01/01(土) 09:47:16ID:bpdDUF0U
>>50
これはひどいw

素直に>>49説教臭いけどいい話だなって書こうとしたのに
0052人間七七四年2011/01/01(土) 10:38:21ID:0awbQdw4
>>50
なぜだろう、どうしても橋之助ボイスで脳内再生されてしまう……
0053人間七七四年2011/01/01(土) 10:49:09ID:/fLmp0PH
>>50
男はいつまで経っても子供なのだなw
おなごにはかなわんか
0054人間七七四年2011/01/01(土) 11:12:15ID:+amXjPnW
和んだ
0055人間七七四年2011/01/01(土) 11:22:35ID:WXIpDj9Z
元旦って年始の挨拶や何やらで、戦国大名にとってはめちゃくちゃ忙しい一日だよね
0056人間七七四年2011/01/01(土) 14:18:24ID:wcg46Jt7
うっかり年始の挨拶を忘れたばかりに謀反を疑われて討たれた人が1人くらいはいると思う。
0057人間七七四年2011/01/01(土) 16:24:00ID:e0UmrO+A
>>56

戦国時代には、お正月の宴会のゴタゴタで家が実質潰れたこともw

屁と恨み
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3035.html
0058人間七七四年2011/01/01(土) 17:15:50ID:mTC5PiA7
あけましておめでとうございます
0059人間七七四年2011/01/01(土) 19:27:11ID:aPin/+Z4
あけましておめでとうございます
アエラの12月号付録の武将の書状カレンダーが
めちゃめちゃ嬉しい2011年です。


昨年、ずんだcityの文学館にいった折
伊達家の正月料理の再現があったので興味深く激写してきた。
写真の腕はアレなので気にしてはいけない・・・

http://www.death-note.biz/up/n/14982.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14983.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14984.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14985.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14986.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14987.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14988.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14989.jpg
http://www.death-note.biz/up/n/14990.jpg

時代は明記してたかどうか失念したが、雑煮に入ってるものが
以前こちらで紹介されていた政宗の頃のものとほぼ同じだったので
あまり時代は変わらないと思う。
いい話って訳でもないが季節ネタってことで。
0060人間七七四年2011/01/01(土) 19:37:01ID:gcZjNpZM
>>50
「ぶたないで」ww

>>59
実際見ると随分と豪勢だな
食ってみたいが当時の味つけは現代人の舌にはあわないのかな
0061人間七七四年2011/01/01(土) 19:46:02ID:WXIpDj9Z
懐石が一般的になる前の日本料理は、飯も汁も冷え切ってるからあまり美味しくはないんだよな。
見た目は豪華だけど
0062人間七七四年2011/01/01(土) 21:01:57ID:R2O4GMX3
元旦に家康は秀頼に挨拶に行かなかった
0063人間七七四年2011/01/01(土) 23:14:02ID:cI2cLIwC
さて、半兵衛と官兵衛のドラマ、どこまで2人を良い人物に描いているか楽しみじゃて
0064人間七七四年2011/01/01(土) 23:37:26ID:R2O4GMX3
やっぱり竹中は綺麗なイメージ
当然、黒田はドロドロなイメージでお願いしたい
0065人間七七四年2011/01/02(日) 01:01:49ID:/985WbCZ
織田信長の黒母衣衆に、伊藤清蔵という者がいた。

ある合戦でのこと。清蔵が陣屋で寝ていると、信長が突然の出撃命令を出した。
ぐっすり寝ていた清蔵は出陣の貝の音を聞くと大いに慌て、寝床から飛び起きると
そのまま戦場に走った!到着した!「やれやれ、間に合った」その時、気がついた!

伊藤清蔵はついうっかり寝ていたときのままの姿、すなわちフンドシ一丁だけで戦場へと駆けつけてしまったのだ。
ふんどし以外、何も身につけていない、裸である、当然、武器も何も手にしていない。これには
清蔵本人も気がついたときは大いに驚いたが、その戦場にある敵や味方はもっと度肝を抜かれた。

「な、なんだあいつは、武器も持たず裸で戦う気か!?頭がおかしいんじゃないか!?」

敵味方から一斉に奇異の目で見られる清蔵。その視線に耐えられなくなった彼は

「うわああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

ヤケになった。
彼はフンドシ一丁の姿で、素手で、敵に向かって突進した。

武器も持たない裸の男が襲ってくる。敵もその、この世のものとは思えぬ光景に少々気圧された。
そのうえ伊藤清蔵は元々、信長の黒母衣衆に選ばれるほどの猛者である。強い。

最初の不幸な遭遇者をぶん殴って槍を奪うと、その槍でバッタバッタっと敵をなぎ倒す。
裸体のバーサーカーと化した清蔵に敵も気を飲まれ次々と犠牲となる。
気がつけば戦場には敵の死骸が累々と残され、その先にはふんどし一丁の殺人鬼、といった
地獄絵図が出来上がっていた。

この清蔵の活躍に、信長も「天晴!」と自ら声をかけ大いに褒めたたえたそうである。

そんな、伊藤清蔵さん、裸で大活躍と言うお話。
0066人間七七四年2011/01/02(日) 01:38:14ID:6PF5j4B6
いい話ではあるんだがその光景は果てしなくシュールとしか言いようがないw
0067人間七七四年2011/01/02(日) 02:00:22ID:uZ4+fJ5M
この戦が終わったあとの清蔵さんのコメントが聞きたいw
0068人間七七四年2011/01/02(日) 02:09:49ID:4OQCBe5m
何故かグルグルパンチで敵中に突っ込んでいく姿を想像したw
0069人間七七四年2011/01/02(日) 02:55:25ID:yGEjdknU
清蔵「無我夢中でヤった。あとは覚えてない」
0070人間七七四年2011/01/02(日) 05:43:21ID:POD9LQfW
まあ、そんな感じだろうなぁw
0071人間七七四年2011/01/02(日) 06:25:22ID:5Row+Qpg
クソワロタ
0072人間七七四年2011/01/02(日) 08:35:53ID:GlwnJVbh
死ななかったのかよwww
0073人間七七四年2011/01/02(日) 09:18:20ID:JwsF0j5y
戦場では気合が重要だというのがよくわかるなw
つうかフンドシ一丁の男に殺された敵兵士たちの無念は想像するに余りあるw
0074人間七七四年2011/01/02(日) 09:24:46ID:RqF8HveI
編笠被ったままだったり小谷攻めでは不幸な事故で丸腰のまま城内に突撃したり……
長久さんはまともな装備をしない方が活躍するキャラなのか?
0075人間七七四年2011/01/02(日) 09:45:46ID:RjQttS5F
>>65-74
刀や槍さえ当たらなければ、逆に重い鎧を着けてるより裸の方が身軽で強いんじゃないか?
0076人間七七四年2011/01/02(日) 10:02:06ID:qnJyffRv
>>65
立花さん家では戦の最中水浴びしてて素っ裸で敵を討ち取ったとかいう人がいたような気がした
0077人間七七四年2011/01/02(日) 10:03:51ID:3c+m0KrM
傷だらけの直政が重装備だったのに対して無傷の忠勝は軽装だったらしいし
避ける技量さえあれば強いかもな
0078人間七七四年2011/01/02(日) 10:19:41ID:IWaFAeVh
>>65
勝頼が裸で城攻めを…という話は鎧を着けずにという事らしいが
これはガチで褌一丁なのかw
0079人間七七四年2011/01/02(日) 10:36:50ID:Ps+00b1o
>>75
当たらなければどうという事はない!ですかw
0080人間七七四年2011/01/02(日) 11:11:02ID:+MTiclYJ
>>77
忠勝は東国無双だからな
よほど命が惜しくない者じゃない限り、近寄ろうともしないだろう

それに対して、直政は家康ですら夢中になるくらいの超絶美男子
敵も味方も「ウホッ、井伊男!」とタックルをかましてくることは想像に難くない
重装備にせざるを得ないのも、傷だらけなのもやむなし、といったところだろう
0081人間七七四年2011/01/02(日) 11:26:05ID:iHSzXeX5
後ろの傷も無数に
0082人間七七四年2011/01/02(日) 11:47:36ID:cnHyAFPt
>>65
裸のほうが強くなってそう
WIZの忍者みたいw
0083人間七七四年2011/01/02(日) 12:03:57ID:Ps+00b1o
アーマークラスが…って、んなアホなw
0084人間七七四年2011/01/02(日) 12:23:25ID:GlwnJVbh
鎧を二枚重ねで着るという常識はずれの重装備で一つの傷も負わなかった武将がいるよ。

なんでも鉄砲の使い手らしい。
0085人間七七四年2011/01/02(日) 12:39:16ID:epnRnGCQ
謙信「毘沙門天の加護があれば、矢になど当たるわけがない」
秀吉「日輪の子のわしが銃弾に当たるわけない」

鬼武蔵「そうだな。名将が銃弾に当たるわけ無いよな」
セジウィック将軍「だいたい、あいつら象にさえ弾を外す腕だしな」
0086人間七七四年2011/01/02(日) 15:32:51ID:4ngxtFfm
小学生の時、集団登校の集合場所に
パジャマで駆けつけたのを思い出した
0087人間七七四年2011/01/02(日) 15:54:27ID:9wHJdKru
日曜の午後に惰眠をむさぼっていたらカーチャンに
「何してんの遅刻だよ!」と叫ばれ
ランドセル背負って町を激走した奴なら知っている
0088人間七七四年2011/01/02(日) 18:22:53ID:9GcPxagR
なんか正月っぽいネタが欲しいです
0089人間七七四年2011/01/02(日) 18:25:56ID:TbFwwuNA
>>65
魔界村のアーサーの原型だなw
0090人間七七四年2011/01/02(日) 18:36:01ID:xYD9XC/0
>>88
逸話ではないが大晦日にやっていた「大戦国鍋TV」という番組で、
お正月に城を落とされた部将として、よりにもよって天庵様が「天才的な戦下手」として
紹介されてた。多分いい悪いスレの影響w
http://www.tvk-yokohama.com/sengokunabe-tv/corner/daisengokunabe/index.html
0091人間七七四年2011/01/02(日) 18:39:52ID:cnHyAFPt
>>88
非有&恵瓊「呼んだ?」

0092人間七七四年2011/01/02(日) 18:52:22ID:0wClpZpJ
>>91
ねえ、もしかして、ひょっとすると、
それって、昔、正月になると先代の林家三平がやってた、

和尚がtwo???



このネタのどこが面白いかと言いますと・・・
0093人間七七四年2011/01/02(日) 20:34:25ID:9GcPxagR
>>90
天庵様ついに地上波か・・・胸が熱くなるな
0094人間七七四年2011/01/02(日) 21:38:32ID:P9A1z8e0
>>65
初笑いがこれとか (ノ∀`)
しかし実のとこコメントに困ったんじゃないか、信長もw
0095人間七七四年2011/01/02(日) 22:46:54ID:a7bxF7TD
伊藤さんは嫁の贅沢のせいでガチハングリー精神で活躍してる人
0096人間七七四年2011/01/03(月) 16:05:11ID:IneLxYYj
司馬の短編にでてきた人か?
ヲチは忘れたけどw
0097人間七七四年2011/01/03(月) 16:23:35ID:YjbfaFUK
前田利家は新たに近習として出仕した者に対しては必ず、このようなことを話したそうだ

「わしが信長公にご奉公に出たのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿の跡目を継ぐこととなり、
合計で1450貫となった。

その後越前府中3万3千3百石を下され、能登一国を下され、
さらにその後秀吉公から加賀の石川郡、河北郡を下され、さらに越中も我らが手により
切り取りにした。

このようにわしは若い頃から色々と骨を折り、主君から引き上げていただき、今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」

前田利家流新入社員への心得(?)というような逸話である。
0098人間七七四年2011/01/03(月) 17:22:25ID:R05pmEYo
>>96
主人公過労死で嫁と二号は面白おかしく暮らしましたとさってオチだったかと
0099人間七七四年2011/01/03(月) 18:38:32ID:IVtnMDmk
利家の場合は全て自慢だからな
0100人間七七四年2011/01/03(月) 18:39:11ID:CMhZf/Gu
正月早々嫌な話を…
0101人間七七四年2011/01/03(月) 21:39:53ID:TyTIM82V
最近は利家アンチまで湧くようになってんな
0102人間七七四年2011/01/03(月) 23:28:45ID:SOr+bBPG
爺臭くて親しみのあるいい話しだと思うけどなあ
0103人間七七四年2011/01/03(月) 23:32:28ID:Qdx1K3kI
>>100>>98へのレスじゃないか?
0104人間七七四年2011/01/04(火) 00:19:03ID:4i0NMg49
天正三年長篠の役、鳥居強右衛門は武田勝頼によって磔にされ殺された。
怒りを抑えることを自らに課していた家康公だが、この時ばかりは怒り顕にして、

「武田勝頼に大将の器量なし。
勝頼は勇士を使う法をまるで知らない男だ。
鳥居のような豪の者には、敵であっても命を助け、その武勇に応えるべきである。
これは味方に忠義を教えることにもなる。
それを、主君のために命を賭けた忠義の士を磔にかけるなど、とんでもないことだ。
見ていろ。勝頼の運が尽きるときは、譜代の武士も代変わりして敵となることだろう。」

と言ったという。
0105人間七七四年2011/01/04(火) 14:58:56ID:0wAMeUdu
>>97

「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった。この時初めて50貫を頂いた。
それからご加増していただいて150貫となった。
でも信長公寵愛の小姓に嫉妬して斬り殺したら追放された。反省はしてない。
森部合戦の後更にご加増していただき、また兄である蔵人殿から強引に家督を奪い
合計で1450貫となった。

その後、出世のために一向門徒を殺しまくったら越前府中3万3千3百石を下され、
能登一国を下され、土壇場で上司の柴田勝家を裏切るというウルトラCで秀吉公から
加賀の石川郡、河北郡を下され、さらにの元同僚の佐々成政が孤立して弱ってたので
越中も我らが手により切り取りにした。

このようにわしは若い頃から色々と汚い手を使い、主君から引き上げていただき、
今かように大きくなった。
其方も希望を富士の山ほどに大きく持って、奉公するのだぞ。」
0106人間七七四年2011/01/04(火) 15:10:06ID:JVJouXOv
wwwwwwwwwwwww
0107人間七七四年2011/01/04(火) 15:27:29ID:nlmKLoph
だいたい合ってる
0108人間七七四年2011/01/04(火) 16:27:25ID:eezC2J2+
>>105
その流れだと最後は「分かったら、おまえも尻奉公に励め」とか言ってきそうw
0109人間七七四年2011/01/04(火) 16:40:48ID:yP2btYx9
前田利家は新たに近習として出仕した者に対しては必ず、このようなことを話したそうだ

「わしが信長公に尻でご奉公したのは14の時だった(チラッ)。この時初めて50貫を頂いた(チラッ)。
0110人間七七四年2011/01/04(火) 17:13:29ID:eezC2J2+
でも犬千代って太閤死後、一瞬とはいえ家康の対抗馬として天下獲りに
名乗りをあげてたよな・・・
家康も少し警戒してたみたいだけど、経歴的に全然敵じゃないだろw
0111人間七七四年2011/01/04(火) 17:18:25ID:nlmKLoph
単体では相手にならんし天下取りに名乗りもあげた事も無いが、
分裂状態の豊臣大名を糾合しうる唯一の人物ではあった。
0112人間七七四年2011/01/04(火) 18:45:35ID:/jAvkES6
現在でもそうだけど、人物の出来の良し悪し以前に尊ばれる事はある
あの時では確かに又佐くらいにしか出来なかったな
ただ、利長が遺志を継いでそれやってたら、家康に取り潰されてた恐れはある
0113人間七七四年2011/01/04(火) 19:36:30ID:VR4k0w+i
利家は分不相応に出世してる気はする。
0114人間七七四年2011/01/04(火) 19:41:47ID:G2i3UGbO
>>112
蒲生氏郷が生きていたらもう少し盛り上がってたかも
0115人間七七四年2011/01/04(火) 20:01:53ID:rTQaRzwq
又左自身は大した人物じゃないけど
豊臣政権内部に友達が多いから侮れない
0116人間七七四年2011/01/04(火) 20:28:54ID:OBCOKX6J
お友達内閣…
あれ?最近どっかで聞いたような?
0117人間七七四年2011/01/04(火) 20:37:41ID:v0tL8FEQ
清洲同盟とかあったから似たようなもんだと思いがちだけど、やっぱり織豊系の大名にとっては家康って外様なんだよな
秀吉が信長ばりに外様大名ぶっ潰して織田系大名配置してたら、
家康が同じように250万石持ってても形勢はわからなかったな
0118人間七七四年2011/01/04(火) 21:08:17ID:/jAvkES6
>>114
まとめで門番に対していちゃもん付けた利家様ご一行の中に氏郷いたよねw
印象ではもっとお行儀よさそう…って言っても、先陣切って
ノブ様に「おめー、いつまで一兵卒の気分でいるんだ」って言われたんだっけ
あの人も人のこと言えないけどw

>>116
やめてよ…。酒が不味くなる
0119人間七七四年2011/01/04(火) 21:22:26ID:bdiAfRl+
ではそんな利家さん関係で

前田利家は豊臣秀吉の関東征伐の時、秀吉の機嫌を甚だ損ね(秀吉に無断で
無血開城したことが原因らしい)、大変立場が悪くなった。

こうなると利家が日ごろ出入りを許し目をかけていた者たちも一気に敵となり
利家を非難しはじめ、秀吉の前であからさまに利家の悪口をいうものも多かった。
利家の軍勢は1万を超えていたのに

「前田殿のご人数は4,5千といったところだそうです」

などと過小に伝えたりもされたそうだ。(つまり軍役をきちんと果たしていない、ということか)

木村常陸介重茲などは利家と兄弟のように親しくしていたのに、そんな彼でさえ
八王子城攻めの頃は利家のことを秀吉に悪し様に報告していたそうだ。
こんな中でも蒲生氏郷と浅野長政などは秀吉に向かって利家を弁護したと言う。


さて、そんな利家が秀吉との関係を修復し、再び重用されるようになると、
利家の京伏見の屋敷には、利家と関係を結びたい人々により門前市をなすという活況となった。
このころ利家は、前に自分に対して悪し様に言った連中を陰で笑っていたそうである。

(ホントにそう書いてある。『前廉支へ口を仕候衆を、陰にて御笑ひなされ候』(村井勘十郎覚書))

利家さんの生涯に何度かあったうち、最後の方の浮沈のお話。
0120人間七七四年2011/01/04(火) 21:24:21ID:KCzVLr07
ありなんありなん
0121人間七七四年2011/01/04(火) 22:32:45ID:dquYRhtL
日本一の藩の祖のわりに大物という気が全くしない犬千代さんだけど
幕末まで大藩を保った前田家はもっと評価されていいと思う。
内ゲバ起こして潰れた家もごろごろあるわけだし。
0122人間七七四年2011/01/04(火) 23:20:38ID:1TsHjgBe
関ヶ原と幕末は何をしてたんだ…って感じだけどなw
逆に、そう家だからこそ100万石を保てたんだろうけど〜
0123人間七七四年2011/01/05(水) 00:46:00ID:TNPjoUr9
幕末の加賀藩だってこんな活躍してるんだぞ
・現在の東大赤門を建てる
・禁門の変で負ける
・アップルジャムをつくる
0124人間七七四年2011/01/05(水) 01:53:53ID:FeY8/ESH
>>121
母親を徳川の人質に送ったり、鼻毛伸ばしてバカ殿装ったりいろいろ苦労してます
0125人間七七四年2011/01/05(水) 07:56:17ID:ocM7vvGm
前田家の家訓は「絶対服従」だからな
0126人間七七四年2011/01/05(水) 08:18:57ID:OwE9n3On
前田家の家訓「一番よりもナンバー2」
0127人間七七四年2011/01/05(水) 08:45:11ID:U+fECar9
>>122
幕末は勤王派の跡継ぎと重臣を粛清して、佐幕派で藩内を統一したと思ったら、第二次長州征伐で幕軍が負けて、
勤王派に鞍替えしなきゃと大慌て。
藩内政治に右往左往している間にいろいろ乗り遅れた。
対外的には何もしてないけど、藩内は大流血してる。
0128人間七七四年2011/01/05(水) 12:29:38ID:7UfslUNG
猫だ、猫になるんだ!と自分自身に言い聞かせ続けたら豚になってたでござブー(´・ω・`)
0129人間七七四年2011/01/05(水) 13:38:01ID:FAdblp3Q
これはちょっといい話かな

【歴史/愛知】甚目寺観音の仁王像の中から福島正則の墨書発見
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1294141215/
0130人間七七四年2011/01/05(水) 16:10:44ID:r38ok/cY
>>129のリンク先で、01はどうのこうのカキコでコーヒー噴いてしまった…
0131人間七七四年2011/01/05(水) 16:44:06ID:4eMjUwDq

天正十年、本能寺の変を受けて関東の情勢も流動的になってくる。
特に上州では神流川合戦の直後、沼田城の真田氏が北条氏に仕掛けて撃退されると、
今まで真田氏に従っていた国人衆は一気に北条寄りか、日和見に傾いて行った。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html

表向きでは和睦を結んだり、北条に従うと言ってみたり、外交の駆け引きを続けて
いる真田昌幸ではあったが、徳川氏や佐竹氏の動きを睨みつつ、逆襲の機会を窺っ
ていた。
そして勿論、北条氏の側もそれを十分承知の上であった。


先の交戦から三ヶ月、今度は北条氏から攻撃を仕掛ける。
富永主膳、多目周防守等を大将として吾妻郡に侵入した北条軍約五千は、大戸真楽
斎&但馬守兄弟の守る手子丸城を落した。

手子丸城を落せば真田信幸の守る岩櫃城まですぐである。
「今すぐに進撃するべきだ」
「いや、一旦建て直し、手子丸の支配を万全にした方がいい」
そんなこんなで長引く軍議。北条軍のお約束だNE☆!
勿論、北条軍は五千、信幸率いる真田軍は八百。数が違う。信幸が取る策は篭城以
外にありえない、と言う余裕があったのだろう。


が、「東の目立たないお兄ちゃん」は「東のミスターパーフェクト」でもあった。
信幸は篭城では勝ち目がないと見るや、八百騎で手子丸城に攻め寄せてきたのであ
る。

まずは二百騎を裂いて城に攻め懸ける。北条軍が応戦に出てくると、すぐに川沿い
を下って退却。追撃にかかる約一千騎を城から引き剥がした。
そして百五十騎で城に攻撃を始めると同時に、裏手の寺に放火する。

寡兵の筈の真田軍が、あちらからも、こちらからも湧いて出てくる。
圧倒的多数の筈の北条軍に動揺が広まり始めた時、
「あ、あれこそが真田信幸!」
寄せ手の中に金の馬鎧をつけた武将を見つけた北条軍は、深く考えるゆとりもなく、
飛びついてしまう。


……ところがどっこい。
この金の馬鎧をつけた武将、唐澤玄蕃允と言う。ハッキリと言ってしまえば囮だ。
本物の信幸はどこに?
そう、主力中の主力、信幸直轄の兵三百と共に森の中に潜んでいた。
唐澤の姿しか見えていない富永&多目の主力部隊の、横腹からその精鋭部隊が伏兵
として襲い掛かる。
圧倒的多数の兵を持ちながら、散々に追い散らされた北条軍は、手子丸城に逃げ込
み、篭城を決め込む。
0132人間七七四年2011/01/05(水) 16:45:14ID:4eMjUwDq


この時点で味方が追い散らされ、自分達を城外に残したままで篭城を始めた事を知
った一千騎(先ほど深追いした連中)、城兵との合流や連携を諦め、厩橋城目指し
て退却を始める。
そしてまた、榛名山の方角に逃げていく味方の旗を見た城内では、我も我もと逃げ
出す兵が続出する有様であった。

この様子を見た信幸は、
「裏門から逃げて行く連中がいるな。よし、裏門を封鎖して落ち延びる連中を片端
から討ち取ってしまえ。後、敵は大手門の防衛ばかりに気を取られ、北の丸には誰
も居ないように見える。そこから侵入するのだ」

この命を受けた唐澤玄蕃允ら五十名は、岩伝いに北の丸に侵入すると、信幸の見た
通り、人っ子一人いない。
ちょうど腹が減った彼等は飯を食って腹ごしらえした後(大手門では只今絶賛戦闘
中)、周囲の建物に火を放ち始める。

富永&多目は城中から上がった火の手を見て、「裏切りだ」「国人衆が寝返った」
などと叫びながら逃げ延びて行った。
北の丸に侵入し五十人は、逃げ延びる敵に紛れ込み、それぞれが五人、三人と討ち
取る高名を挙げたという。
中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち
取る手柄を立て、信幸直属の馬廻りとして取り立てられたという。


思いの他「やる夫真田」を読んでる方が多いようなので、ご存知の話かも知れませ
んが、真田信幸のお兄ちゃん無双。もしくは鬼いちゃんモード発動。
本来なら、引っ張り出された一千騎でも、信幸の総勢より多いんですけどね。
首を斬るより、心を折っちゃったんですかね。

一応、出典は「やる夫」じゃなくて「加沢平左衛門覚書」です。
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