塩硝など日本国内少量生産だろ。だから大規模なてっぽう普及がなかった。
信長の斡旋で大友と島津が和睦し、龍造寺が博多を焼き払った時期だが
隆信は有馬や大村に圧迫をかけながら
教会の友になりたいと申し出てたり
島津はヴァリニャーノやガスパル・コエリュに都から九州に戻ってくる時に国主を訪問して欲しいと伝言し
さらに豪華な使節団を派遣し親善関係を結びたいから島津国主の名でインド副王に馬と太刀を贈りたいし
鹿児島にに教会を立てる土地を与えたいと申し出てる。
ぜんぶポルトガルの定期船目的。
宣教師も信者を弾圧されたくないし
領主との交渉チャンネルは絶対に宣教師側からは切らない。
大村を屈服させ有馬を追い詰めた隆信に家臣が
「大村領のキリシタン壊滅させバテレンを追放し仏像礼拝しましょう」と進言したが
隆信は
「いましばらくはさもない風を装いバテレンにも表向きは丁重に接せよ」とマカオから日本に来るポルトガル定期船による利益を無視できない立場にいることがわかる。