<これが久保田藩260年の歴史だ!!>※年は藩相続時

初代佐竹義宣 1602年 親父のおかげで勢力拡大も、関が原の半端な態度により秋田に減転封。
               秋田移動前の生活程度、家臣の録を維持するために無節操・無計画な鉱山開発や
               秋田杉伐採を断行。秋田藩の財政はすでにこの時点で無理があった。
二代佐竹義隆 1633年 地味君。限りある資源にあぐらをかき、藩の抜本的な問題は解決せず。
               秋田音頭は義隆への上覧音頭と言われている。
三代佐竹義処 1672年 愚鈍で乱費家と名高い。ついに藩の財政を破綻させる。
四代佐竹義格 1715年 賢君と言われるが若くして死んだゆえの過大評価。改革は失敗。
五代佐竹義峯 1715年 倹約令を廃止したり、家臣の給与を差し押さえ借り入れるなど、リアル馬鹿殿。
六代佐竹義真 1749年 藩主期間4年、二十六歳で暗殺される。
七代佐竹義明 1753年 財政改革失敗。反対派と内乱起こす。
八代佐竹義敦 1758年 絵かくの大好き。飢饉、荒廃、佐竹騒動? それな〜に?
九代佐竹義和 1785年 藩校建設。藩財政再建。歴代藩主唯一の名君。
十代佐竹義厚 1815年 三歳で家督相続。知ってか知らずか雪だるま式に借金をつくる。
十一代佐竹義睦 1846年 混沌とした世の中、困窮しきった財政を解消できず。
十二代佐竹義堯 1857年 歴代藩主きっての迷君。官軍と引き換えに裏切りの称号を県民にかぶせ
                わずか一ヶ月の短期間に旧式武器が中心の盛岡・庄内藩相手に
                領土の三分の二まで攻め込まれた軍事的指導力・判断力の欠片もないヘタレ。
                 ぎりぎりの所で奥羽同盟が降参したため、久保田城こそ落ちなかったものの、
                どうせ仙台、山形が堕ちれば終わっていた戦争、黙って奥羽同盟を維持していれば
                いいものを時流を読めず秋田に無駄な犠牲者・恥辱を残す。
                 後の歴史を見れば分かるとおり、官軍で終わるかどうかで県民には大差無かっ
                た。しかし佐竹氏自身は新政府から初代秋田県知事に任命され、現在まで佐竹
                 氏の影響力を残すことに成功している。
                 隣県との醜い争いで流れた尊い血は佐竹氏一族のための血だったのである。