トップページsengoku
380コメント105KB

佐竹氏を語るスレ 4

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2010/10/18(月) 03:20:03ID:zPNl4PPq
とりあえず立てました

あとはたのむ
0002人間七七四年2010/10/18(月) 03:20:47ID:zPNl4PPq
1 名前:新羅三郎義光[] 投稿日:2008/08/19(火) 00:39:40 ID:W7tXt4U7
常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
控え!控え!この扇二月丸が目に入らぬか!
先におわす方を何方と心得る、出羽国主右京大夫佐竹次郎なるぞ。
一同控え!



0003人間七七四年2010/10/18(月) 03:22:04ID:zPNl4PPq
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 14:01:06 ID:k1rslc8D
茨城で一番面白い時代は南北朝だと思う
北畠親房がKYで、すったもんだしながら南北入り乱れて、最後に藤氏一揆で瓦解とか
面白すぎるだろw

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 16:53:41 ID:iaCbZZkR
茨城の南北朝はすげーね。佐竹も一枚かんでる。
常陸の軍勢は、京都まで上洛したくらいだから。

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 11:01:48 ID:REot/YPV
南北朝時代はやたら雄大だからね
常陸も全国有数の激戦地になったし
佐竹は尊氏の旗揚げから従い九州まで転戦したように、一貫して北朝方だったが
南朝方が優勢な常陸に於いては孤軍となる事も度々で悪戦苦闘した
北朝の佐竹、南朝の小田・大掾(後、北朝)・那珂
既にこの頃からこの構図ができあがってたんだよな
0004人間七七四年2010/10/18(月) 12:47:39ID:YyBINwXN
978 :人間七七四年:2010/10/16(土) 17:41:50 ID:jfWHtVXk
みんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?

981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。

982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね

佐竹と関係あるのそれ?

983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ

984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長

覚えとけよ?
0005人間七七四年2010/10/18(月) 17:50:46ID:8AY8J88c
義重は優秀だったのに江戸期の当主は迷君ばっかだったな
0006人間七七四年2010/10/18(月) 21:18:01ID:nX4OmRx7
佐竹の当主の才能は

軍事>>>内政
0007人間七七四年2010/10/19(火) 00:18:23ID:LxveChbw
そんな軍事才能がある当主なんて佐竹の1000年の歴史を見てもいないような・・・
0008人間七七四年2010/10/19(火) 09:39:40ID:wWV6ZZMZ
佐竹の当主って、一部の例外を除けば惰弱なイメージが
0009人間七七四年2010/10/19(火) 10:20:52ID:Jy9J2sLf
勝ち馬に乗れたのは足利支持の時ぐらいだよな。
0010人間七七四年2010/10/23(土) 11:43:45ID:NsGN+k3Z
<これが久保田藩260年の歴史だ!!>※年は藩相続時

初代佐竹義宣 1602年 親父のおかげで勢力拡大も、関が原の半端な態度により秋田に減転封。
               秋田移動前の生活程度、家臣の録を維持するために無節操・無計画な鉱山開発や
               秋田杉伐採を断行。秋田藩の財政はすでにこの時点で無理があった。
二代佐竹義隆 1633年 地味君。限りある資源にあぐらをかき、藩の抜本的な問題は解決せず。
               秋田音頭は義隆への上覧音頭と言われている。
三代佐竹義処 1672年 愚鈍で乱費家と名高い。ついに藩の財政を破綻させる。
四代佐竹義格 1715年 賢君と言われるが若くして死んだゆえの過大評価。改革は失敗。
五代佐竹義峯 1715年 倹約令を廃止したり、家臣の給与を差し押さえ借り入れるなど、リアル馬鹿殿。
六代佐竹義真 1749年 藩主期間4年、二十六歳で暗殺される。
七代佐竹義明 1753年 財政改革失敗。反対派と内乱起こす。
八代佐竹義敦 1758年 絵かくの大好き。飢饉、荒廃、佐竹騒動? それな〜に?
九代佐竹義和 1785年 藩校建設。藩財政再建。歴代藩主唯一の名君。
十代佐竹義厚 1815年 三歳で家督相続。知ってか知らずか雪だるま式に借金をつくる。
十一代佐竹義睦 1846年 混沌とした世の中、困窮しきった財政を解消できず。
十二代佐竹義堯 1857年 歴代藩主きっての迷君。官軍と引き換えに裏切りの称号を県民にかぶせ
                わずか一ヶ月の短期間に旧式武器が中心の盛岡・庄内藩相手に
                領土の三分の二まで攻め込まれた軍事的指導力・判断力の欠片もないヘタレ。
                 ぎりぎりの所で奥羽同盟が降参したため、久保田城こそ落ちなかったものの、
                どうせ仙台、山形が堕ちれば終わっていた戦争、黙って奥羽同盟を維持していれば
                いいものを時流を読めず秋田に無駄な犠牲者・恥辱を残す。
                 後の歴史を見れば分かるとおり、官軍で終わるかどうかで県民には大差無かっ
                た。しかし佐竹氏自身は新政府から初代秋田県知事に任命され、現在まで佐竹
                 氏の影響力を残すことに成功している。
                 隣県との醜い争いで流れた尊い血は佐竹氏一族のための血だったのである。
0011人間七七四年2010/10/23(土) 20:29:02ID:6kFxK95z
南部藩はもっと凄いぞ。

家老が鳥羽伏見の戦い直後の西郷と会談したのに
西郷の力量を見抜けずに幕府についた。
0012人間七七四年2010/10/23(土) 20:31:07ID:6kFxK95z
譜代の井伊や、御三家の尾張が薩長についたのに
鳥羽伏見が終わったあとで幕府についた南部藩はガチにアフォ。
0013仙台藩百姓2010/10/23(土) 20:55:26ID:FTtVW2Rc
本来は井伊や尾張がアホなのだけど( ^ω^)
0014人間七七四年2010/10/23(土) 21:40:02ID:JnavXWsT
>>4
ただの間違いをここまで胸をはっていう佐竹厨ってw
普通少々の間違いだったらネラーならソフトに触れつつも返信するのが筋だろ
0015人間七七四年2010/10/24(日) 09:27:14ID:ZgJmCrUt
武田耕雲斎も別に佐竹氏ゆかりの人物ではないのに
0016人間七七四年2010/10/25(月) 20:08:03ID:nJWFt3qz
新政府軍についた久保田藩が叩かれる理由が分からん
先見の明のなかった奥羽越列藩同盟の妬みだろコレ?
0017人間七七四年2010/10/25(月) 23:09:44ID:v4TmiTov
隣県に随分叩かれたからな。
他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。
むしろ無駄な血が流れた。
0018人間七七四年2010/10/26(火) 02:04:53ID:/TA09GrB
>>17

> 他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。


新政府の殿様に対する待遇がまあまあ良かったとは言えると思う。
0019人間七七四年2010/10/26(火) 02:08:46ID:T2oqD1tZ
庄内藩の一部の村では
西郷の肖像画を家に飾って崇めてるんだよね。
0020人間七七四年2010/10/26(火) 03:25:20ID:/TA09GrB
西郷は降伏者に寛大だったからな。

殿様のメンツを立てたのも良かった。
0021仙台藩百姓2010/10/26(火) 08:16:27ID:zkWoeY3q
会津とか散々な目に遭っているじゃんお( ^ω^)
久保田にしても新政府に協力しろと言われて協力してみれば
戦争が集結したら用済みとばかり逆に言い掛かり付けられたし
だいたい大減封の上に多額の賠償金払わせられて何が寛大だと言うのだお┐ (´ω`) ┌
しかも百姓に罪はないのに実質百姓から搾り取ったわけだし┐ (´ω`) ┌
0022人間七七四年2010/10/26(火) 12:12:10ID:9Qp4gwLa
今の県知事は、それなりに仕事してるのかな?
0023人間七七四年2010/10/26(火) 14:03:03ID:UZS38+N2
いや、寝返ったのは駄目だろ。最悪の判断。
あれのおかげで未だにちょっと歴史に明るいジジイなんかはネチネチ言ってくる。

まあそういう汚名は別としても、隣藩との一連の戦争で秋田は300人以上の戦死者が出ているほか、
市街戦が行われた地域では放火、略奪なんでもあったっていうじゃん。
これって多分無駄な被害なんだよね。日本が近代化するのに必要な血だったとは思わない。
というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、
新政府軍が奥羽越同盟の中心である仙台・庄内あたりを落とせばみんな降伏していたんだから、秋田が戦地になることも無かった。

同盟破って得したのは佐竹家とその家臣くらいだよ。
0024人間七七四年2010/10/26(火) 14:08:50ID:Ldwj/ghL
伊達仙台が超ヘタレだから寝返る気持ちは理解できる
0025人間七七四年2010/10/26(火) 15:22:35ID:2o0Fj//q
長岡藩か庄内藩のトップが大藩に居たらよかったのに
0026人間七七四年2010/10/26(火) 19:34:36ID:W0HkipPp
>>23

> というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、


そうだよな。
0027人間七七四年2010/10/27(水) 19:34:27ID:edDeTfeC
16だがサンクス
様々な意見で参考になる
0028人間七七四年2010/10/28(木) 11:26:29ID:ZJAuAXlQ
佐竹騒動

当時、秋田藩の財政は、各鉱山産出量の低下に加えて森林資源の枯渇により破綻状況にあった。
この緊急事態に対処すべく、全藩挙げての議論の結果、経済に詳しいコンサルタントを雇い入れ、
その指導のもとに藩財政の建て直しを図ることにした。
そこでお雇いとなったのが既に他藩で実績のある人物。
彼の助言に従い銀札を発行したが(反対意見もかなりあった)、お約束通り、銀札の乱発→
物価高騰→銀札の紙屑化→信用失墜→藩内カオスに至り、その混乱を収拾するため、
招聘したコンサルタントと銀札推進派に責任をおっかぶせて鏖殺した。

この一連の騒動が世に言う秋田騒動である。
0029人間七七四年2010/10/28(木) 11:38:52ID:ZJAuAXlQ
最後間違えた。
世に言う佐竹騒動ね。
でも秋田騒動とも言うのかな。
0030人間七七四年2010/10/28(木) 12:29:21ID:RzGUxK8F
どこの藩でも似たような事やってるんだね
水戸藩でも高名な松波勘十郎を呼び寄せて藩政改革を行ったが
結局失敗して松波親子に罪を被せて殺してしまったし
0031人間七七四年2010/10/30(土) 19:55:23ID:L5WjIlPq
いろいろと迷走してる北朝鮮を思い出した。
0032人間七七四年2010/11/02(火) 18:46:24ID:TAuzg8cZ
Tシャツはどっかで見たけど、これは出てたかい?
http://m.rakuten.co.jp/rms/msv/Item?i=10000794&s=240902&c2=2722836469
0033人間七七四年2010/11/11(木) 19:54:46ID:uHBuz3Xb
天明の大飢饉の時の佐竹ってどんな状況だったの?
津軽は米不足で飢餓が始まってたのに
米を載せた船わ京に廻したアホっぷりで壊滅したけど。
0034人間七七四年2010/11/12(金) 00:20:26ID:hpa8/VOR
>>33

壊滅したというが津軽は維新まで改易されなかったぞ。
0035仙台藩百姓2010/11/12(金) 12:19:16ID:iqAIFTlu
改易するかどうかは幕府が決める事だから藩
内がどうなろうと幕府の覚えがめでたければ関係ないお( ^ω^)
0036人間七七四年2010/11/12(金) 13:54:18ID:nXZWLAlK
津軽は岩木山噴火の火山灰の被害もあり餓死と逃亡で人口半減
伊達は同時期に幕府の金流通を禁止し自藩の銀札の使用を強制したら幕府金と仙台銀札交換レートを考えず崩壊財政の仙台銀札を誰も信用せず物流完全ストップで30万餓死し壊滅。
相馬は1/3に人口激減なるも上下協力し一揆が唯一起きなかった。
南部が一番ヤバかったらしく教訓として後世に残った碑で人肉を喰った絵が描かれていたものが八戸にある。
天候不順と群馬の浅間山噴火などで飢饉を予想して手を打たずに
安値だった米価が飢饉により久しぶりに高値になったので
藩財政崩壊の立て直しをするチャンスと
米を京や江戸に運び出して大飢饉を引き起こした。
白河と米沢は米経済だけに依存してないのでアホみたいな米価格暴騰をする前に早期に金で米を買ったりで死者0で乗り切った。
西国に飢饉は起きておらず米自体は欠乏していない完全な経済政策の失政。
唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽したので被害拡大した。
伊達は慶長の飢饉で崩壊が続き
徳川家光の寛永の大飢饉で完璧な財政崩壊をしてたので米価格高値に目が眩みすぎ。
はやく要害制度を廃止しリストラして武士による搾取体制から脱却すべきだった。
民衆への過度な労役による運河作りは平時は米安値叩き売り、高値の時の売却で大飢饉と伊達の水堀運河は飛散さを増しただけの無駄。
佐竹とか他の藩は知らんな。
0037人間七七四年2010/11/12(金) 14:32:03ID:H2SkFHxF
佐竹家北家がお粗末だったせいで十和田湖を青森に取られた
0038人間七七四年2010/11/12(金) 15:09:25ID:5ZQBBtrW
>>36

> 唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで
幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽した


伊達領には幕府の密偵も忍び込んでいたと思うが、
なぜバレなかったのだろうか?
0039人間七七四年2010/11/12(金) 15:59:07ID:nXZWLAlK
大借金藩の伊達を改易しても
借財を引き継いでまで代わりに仙台へ行くアホはいないし
幕府も伊達の大借金を肩代わりするわけがない。
完全に仙台の無能ゆえの杞憂。
仙台にそうまでして継承する価値はない。
0040仙台藩百姓2010/11/12(金) 17:15:25ID:iqAIFTlu
30万が餓死とか南京大虐殺並のネタだおね( ^ω^)
0041人間七七四年2010/11/13(土) 04:30:27ID:TOqPSAlK
>>40
東北で起きた天明大飢饉の影響

日本の人口
安永9年 2,601万
天明6年 2,509万

100万人も激減してます。
0042人間七七四年2010/11/13(土) 09:30:53ID:c9EmaynR
今日のsubちゃん=ID:nXZWLAlK
0043人間七七四年2010/11/13(土) 15:39:04ID:wKxhqduD
伊達統治下になってからの仙台は
飢餓地獄藩で良いことなんて何も無かった。
0044人間七七四年2010/11/13(土) 16:10:15ID:BW9T6Nw+
政令指定都市になれたのは伊達家のおかげなのに何贅沢言ってるの?
0045人間七七四年2010/11/13(土) 16:40:49ID:1laYrKJH
行政の見栄の為に民草が犠牲になるのはいつの世も変わらない
0046人間七七四年2010/11/14(日) 08:29:00ID:TNyvjW1L
常陸の佐竹旧臣としては羨ましい
茨城は天庵様に逆襲されつつあります
旧佐竹領はもう駄目だ
0047人間七七四年2010/11/14(日) 13:17:35ID:t658SS0m
イバラギではあるが
龍ヶ崎は伊達藩の飛び地だったわけだが。
0048人間七七四年2010/11/14(日) 21:31:51ID:7vhP0tQH
現在の佐竹領地
頑張ってる秋田県
0049人間七七四年2010/11/27(土) 00:18:30ID:CUbj267H
保守あげ
0050人間七七四年2010/11/27(土) 14:57:47ID:P+X46Y+J
水戸は呪われてる
本拠地が太田城のままだったら
違った結果になっていたと思う
0051人間七七四年2010/11/28(日) 13:25:46ID:m8OT2VrS
太田じゃ狭くて不便過ぎる
だけど確かに水戸は呪われてるかもしれないw
本拠地置くなら土浦辺りがベストだと思うのだが佐竹領じゃないし
府中あたりがいいかな
義昭が長生きしていたらそうなっていたかもしれない
0052人間七七四年2010/11/30(火) 02:59:38ID:Cre/Filt
照英の曾祖父の実家は佐竹に鐙という名字をもらったらしい
0053人間七七四年2010/11/30(火) 18:26:18ID:Y9PpObJM
へえーーーー
0054人間七七四年2010/12/08(水) 02:34:42ID:Md6DRpoL
佐竹氏は名門すぎる
0055人間七七四年2010/12/14(火) 23:04:34ID:/xXvfLsM
佐竹家の家宝ってなに?
0056人間七七四年2010/12/15(水) 03:13:58ID:2iMsczDE
扇子?
0057仙台藩百姓2010/12/15(水) 17:41:55ID:K50zDglt
納豆じゃないお?( ^ω^)

そう言えば頼朝から貰ったという扇は現存してないのかお( ^ω^)
やはり屈辱的な物だったから頼朝の居なくなった後に
「こんな物いるかお(#^ω^)ピキピキ」と投げ捨てたのだおうか( ^ω^)
0058人間七七四年2010/12/16(木) 03:24:16ID:RAQ7Knlb
助命された山入はその後どうなった?
出家?謀殺?処刑?
0059人間七七四年2010/12/17(金) 11:58:22ID:SvjbLH9N
>>55
佐竹本三十六歌仙絵巻
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99%E7%B5%B5%E5%B7%BB
0060人間七七四年2010/12/24(金) 18:20:16ID:g961Ikfu
このスレ住人としては
佐々木倫明氏の佐竹氏研究の評価はどうなの?
市村高男氏の研究には、佐々木氏の研究はほとんど(全く?)引用されてないし、
逆もまた然りのような気がするが。

まあ気のせいかもしれないがね・・・
0061人間七七四年2010/12/25(土) 00:00:21ID:8IZbcQpx
>>60
対立してるんか?
0062人間七七四年2010/12/29(水) 14:17:07ID:90jVp0OA
また久保田城にいきてぇ
0063人間七七四年2011/01/06(木) 21:48:36ID:ophkjI8G
秋田が遠い・・・・。
0064人間七七四年2011/01/13(木) 20:22:54ID:FFhNbh7L
土崎港城ってそんなに手狭だったの?
0065人間七七四年2011/01/14(金) 18:06:15ID:+DvblZFf
実物の土崎の城は見てないけど、今の土崎神明社の所。
城としては役立たないでしょ。
その近くなら旧出羽の柵跡地がいい。
久保田に移ったのはそれで正解と思う。
旭川を境に内町と外町に分けて新たな町づくり。
そして400年の時を経て土崎と秋田(久保田)が融合して。
0066人間七七四年2011/01/15(土) 18:59:50ID:Ww52LYY7
土崎港城は要塞というより、交易管理施設の意味合いが濃かったのかな?
0067人間七七四年2011/01/18(火) 21:04:37ID:W9PL5HIb
>>66
ま、安東氏でさえ、有事に檜山城に立てこもったくらいだからな
0068人間七七四年2011/01/19(水) 19:52:34ID:wiWZdnXj
>>67

半年くらい籠城できたんだっけ?

奥羽の城としては要害というか上出来だね。
0069人間七七四年2011/01/26(水) 11:17:04ID:tVwZKars
湊城は経済的には良い城だけど守りづらいのか
0070人間七七四年2011/01/26(水) 17:54:27ID:fQnYhI3H
石垣とか堀とかで守備力をアップさせることは可能だったのかもしれないが
その土木工事にかける費用がなかったんだろうか。
0071人間七七四年2011/01/28(金) 19:23:52ID:pupEDIiC
いや単に佐竹は石造りの城を作れる技術が無かったんだよ。
義宣自身がそう言ってるんだから。
>>66が言うように、そもそも義宣はあんまり防御施設としての城を
あまり重要視してなかったらしく、親父に「こんな城で大丈夫か」と聞かれて、
「城から出て戦争することを心掛ける(ニュアンスとしては、「常識的に考えて、
これからの戦争は野戦で片付けるのがトレンドだろ」)」的なことを言ったとされている。
0072人間七七四年2011/01/29(土) 08:19:07ID:spSnM4bI
佐竹はホームゲームでの野戦では粘れる能力があるからなあ。

当時は沼とか泥田んぼや雑木林などあって地理的に守りやすかったんだろうなあ。

地勢を熟知している側は夜襲もできた。
0073人間七七四年2011/01/29(土) 09:10:31ID:lamAhM9g
「こんな城で大丈夫か」
0074人間七七四年2011/01/29(土) 15:06:22ID:6YMwLlmd
石垣技術は大半の大名が持ってない。
伊達の仙台築城も宗薫に金だけ出して丸投げしてる。
宗薫は近江から技術集団を仙台に派遣してる。
0075人間七七四年2011/01/29(土) 15:49:42ID:LYIX0IzK
仙台城は天守閣つくっていないからね。
0076人間七七四年2011/01/29(土) 15:59:27ID:pd7ijZZV
裏は竜の口渓谷だしね。あそこは地層の観察に向いてる。亜炭層もある。
八木山橋からは、たまに投身自殺もあったらしい。
0077人間七七四年2011/01/29(土) 17:54:21ID:+KWodtDv
>>71
太田資正譲りの軍略家、梶原政景の知恵は出なかったんですかね?
0078人間七七四年2011/01/29(土) 21:04:46ID:rW5n4eju
その頃は出奔してたはず>政景
0079人間七七四年2011/01/29(土) 22:53:30ID:zeWPmOzx
>>77
義宣の第一の政策は、有力一門をはじめとした伝統的家臣団から
施政関与権力を奪うことにあったので、そういうことはさせてないと思う。
だから梶原政景が逃げたのも無理はない。
もし政景が佐竹に留まっていたら、義宣は政景を殺害した可能性が高い。
0080人間七七四年2011/01/29(土) 23:04:58ID:MpTgPh/i
太田や久保田で石垣構えをしなかったのは、金子が枯渇していたことが主な理由だろう。
石垣作りの技術は秀吉時代で桃山城や大坂城普請で石垣を沢山作ってる事実があるのだが。
0081人間七七四年2011/01/29(土) 23:46:08ID:zeWPmOzx
>>80
佐竹は石垣の技術を必要としないところを受け持っていたのよ。
0082人間七七四年2011/01/30(日) 00:28:47ID:DuYdui/r
金堀衆も動員して堀や土塀を作ってたんじゃない?
佐竹はそっち系の技術は凄そうじゃん。
0083人間七七四年2011/01/30(日) 00:37:02ID:JZPrzSzQ
鉱山開発なんて奴隷並みの扱いが出来る環境と労働資源があったらどこでも誰でも出来る
0084人間七七四年2011/01/30(日) 00:50:08ID:DuYdui/r
金堀衆も技術集団で大名家はその技術が流出しないようにしてたよ。
だから分け前なんかも金堀衆からぼったくり出来んかった。
0085人間七七四年2011/01/30(日) 23:59:57ID:9WY1HnSC
石垣も金堀も職人が行っていたし大名家自体は技術とか関係ない
いかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
梅津
0086人間七七四年2011/01/31(月) 00:12:52ID:AErj1URZ
訂正

石垣も金堀も職人が行っていたし大名家自体は技術とか関係ない
いかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
佐竹が天下普請で石垣を命じられた時
佐竹家では石垣を造った経験がないから掘担当にして欲しい
と願い出たと梅津政景が記している
逆に有能な金堀衆はいたようだ
佐竹転封の後に水戸徳川家が金堀職人を集めて金山や銅山の開発を度々行ったがことごとく失敗した
それらの鉱山は明治以後に再び結構な量の金や銅を産出したから枯渇していたわけではない
佐竹の方は出羽でも鉱山開発に成功している
0087人間七七四年2011/02/02(水) 18:22:01ID:8XkMtXol
赤館や小幡をあそこまで整備したのはおそらく佐竹だろ。
石垣こそ駄目だが、実戦的な城作りならお手の物じゃねーか。
0088人間七七四年2011/02/02(水) 20:12:03ID:PMAkZ2Yi
須賀川合戦で殿軍して討ち死にし 
味方を無事に帰らせた河合忠條と 
茅根通正はサムライだったな。。 
奥羽永慶軍記―須賀川落城のこと 
佐竹史探訪―秋田さきがけ新報社 
に詳しく書かれてるが。。。
0089人間七七四年2011/02/03(木) 01:35:43ID:FS/A9y+S
>>88
出羽に行ってから粛正された「川井」って、河合忠條の近親者?
0090人間七七四年2011/02/03(木) 21:38:40ID:DhGGh+Hv
河合は身を捨てて味方を生かした 
功労者でしょ 
カワイ違いだ
0091人間七七四年2011/02/08(火) 00:16:22ID:9mwHiXQ0
ぷんすか
0092人間七七四年2011/02/08(火) 01:41:45ID:GVXNrUcp
藤原北家秀郷流小野崎一門
0093人間七七四年2011/02/20(日) 21:26:52.08ID:MNh4plQA
>>92
川井氏が?
0094人間七七四年2011/02/21(月) 04:41:48.15ID:nCRK6nxC
>>85
佐竹氏は、別に石垣職人を抱えて居なかった
別に珍しくないよ
戦国時代石垣造りは、主に西日本の城だよ。
東日本は、主に土塁が主流でした。
0095仙台藩百姓2011/02/21(月) 09:35:20.26ID:vy6qBu9A
江戸時代になっても使わなかったという点では珍しいと思うお( ^ω^)
特に大藩の中では( ^ω^)
0096人間七七四年2011/03/05(土) 13:56:57.80ID:MnNn6kWq
>>72
久保田城から南を見て、今の秋田駅あたりから東は沼地だったみたいだね。
0097人間七七四年2011/03/05(土) 16:30:57.33ID:aYy50DCW
>>96
搦田 のあたりかな?
0098人間七七四年2011/03/19(土) 15:25:06.74ID:ADWAhEFh
あげ
0099人間七七四年2011/03/21(月) 01:57:50.46ID:K38DL0OQ
>>93
茅根通正な
0100人間七七四年2011/03/22(火) 02:16:42.56ID:tmx6g9th
鹿行の城跡は無事?
0101人間七七四年2011/03/30(水) 23:10:42.66ID:5Z0FMTwf
わからぬ
0102人間七七四年2011/04/06(水) 22:24:56.50ID:q5oRCJ4y
佐竹義久は過小評価されてう
0103人間七七四年2011/04/14(木) 21:52:36.20ID:1B+cU163
佐竹・秋田知事が脳出血で入院 県は2日前に虚偽説明
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/2011041401001143.htm

秋田県は14日、佐竹敬久知事が脳出血のため当面の間、入院すると発表した。
症状は安定しており、大型連休明けの5月9日にも公務に復帰する予定という。
県は2日前に症状を把握していたが、脳疾患を否定する虚偽の説明をしていた。
県によると、急激な血圧上昇による少量の脳出血。会話には問題ないが、
「左手が動かしにくい」と訴えているという。
佐竹知事は12日、体調不良を訴えて記者会見を途中で打ち切り入院した。
県は12日夕には病院側から脳出血と聞いていたが、
「現時点で脳疾患の心配はない。静養を兼ねて検査入院した方がいいと医師から言われている」と
虚偽の説明をしていた。
2011年04月14日木曜日
0104人間七七四年2011/04/15(金) 00:49:59.94ID:Y1KhY2JJ
もう年なのに復興支援頑張りすぎなんだよ
そしてやっぱ脳溢血の家系なのか…
0105人間七七四年2011/04/15(金) 00:57:01.75ID:Y1KhY2JJ
もう年なのに復興支援頑張りすぎなんだよ
そしてやっぱ脳溢血の家系なのか…
0106人間七七四年2011/04/15(金) 00:57:14.04ID:Y1KhY2JJ
連投ゴメン
0107人間七七四年2011/04/15(金) 09:29:23.58ID:MAdC//Tk
( ´A`)ぅうむっ。
0108人間七七四年2011/04/15(金) 14:05:11.60ID:a+U/XxuN
>>103
こっちで、盛り上がってる。なんか「殿、がんばれ」「殿、休め」とか
いきなり家臣が増えてやがる。w

ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1302665080/
0109人間七七四年2011/04/17(日) 01:36:58.06ID:Cvj2aWqe
イイハナシダナー
0110人間七七四年2011/04/18(月) 08:40:39.60ID:XxsNxfPq
いつのまにか、こんなスレまで出来てやがる
病床の秋田県知事・佐竹敬久公にエールを送るスレ
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mayor/1303048193/
0111人間七七四年2011/04/18(月) 13:57:51.56ID:lmq9dQNa
震災直後は「枝野、寝ろ」と持ち上げた連中も
今ではすっかり熱が冷めてメタボ呼ばわり。
民衆なんてそんなもん。
0112人間七七四年2011/04/18(月) 22:38:03.08ID:th+Z+uLS
枝野ねろ、よりか、殿ヤスメ、だよな。

こんなタグも広まれば面白いんだが、
さすがにそこまでは無理か。
0113 忍法帖【Lv=3,xxxP】 2011/04/19(火) 00:33:56.64ID:RJ9CIZMw
単に枝野はメッキが剥がれただけ。
0114人間七七四年2011/04/22(金) 14:00:22.51ID:/WxWlvGa
太田城に風穴が空いとる・・・
0115天変地異発動! ◆tenpen5cB. 2011/04/22(金) 17:35:00.54ID:e1+IA2Qe
今回東日本を破滅に向けた、悪魔の家系佐竹氏族。
この戦国時代のスレに存在しているのがネット時代として
日本最大の不幸であろう。

こんな屑家系を語る必要はない。
二度と子孫を作らせず、家系ごと日本から葬れ。
赤子が出来たら包丁で殺せ。
0116人間七七四年2011/04/23(土) 00:44:35.17ID:KXHP75Jq
>>115
なんで悪魔?
0117人間七七四年2011/04/23(土) 12:00:44.80ID:PfowP/u7
キチガイに触れるなよ
0118天変地異発動! ◆tenpen5cB. 2011/04/23(土) 23:13:06.44ID:SinSyra4
強姦、佐竹一族なんて、血を消せよ。
0119人間七七四年2011/04/28(木) 12:59:54.20ID:9wdQyX8x
>>118
気持ち悪いよおとみさん♪
0120人間七七四年2011/05/03(火) 07:46:23.37ID:RflFY0HC
???
0121人間七七四年2011/05/03(火) 08:29:57.33ID:7K7oQVru
佐竹宗家は滅びたよ
0122人間七七四年2011/05/05(木) 00:38:42.92ID:thU7adYD
鎌倉時代は頼朝の敵、戦国時代は家康に中立、幕末は官軍の味方。
少しずつ成長してるな。
0123人間七七四年2011/05/05(木) 14:51:24.01ID:QRldul3h
>>122

足利尊氏の時は早くから味方していた。
0124人間七七四年2011/05/05(木) 16:34:27.31ID:V9FbWB/+
鎌倉幕府倒幕運動に参加してたんだっけ?
0125人間七七四年2011/05/10(火) 12:53:05.33ID:gdWMPx2A
佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」

佐竹歩くところ自殺者多数。

死に神一族、「佐竹氏」
0126人間七七四年2011/05/10(火) 12:55:35.35ID:gdWMPx2A
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/koumu/1300105622/
0127人間七七四年2011/05/12(木) 08:08:15.06ID:xlF7VR1x
佐竹の歴史。

平安末期、源平、奥州征伐
時勢を読めず平氏について源頼朝に負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる


南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
その後も楠正家に負ける。


戦国時代

小田に負けるが上杉謙信公のおかげで逆転勝利。
北条に攻められるが上杉謙信の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田信玄公に助けられる(同盟でいいように使われる)
北条と武田が和睦しまた北条が攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利


安土桃山時代

芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる

伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付き豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。

江戸時代

上杉が義を忘れずに豊臣につくが佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
江戸時代ではずるして石高を過少申告する。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
0128人間七七四年2011/05/12(木) 20:25:35.34ID:AkjSrjjc
まあなんだかんだ言っても、平氏時代から明治維新まで続いたのは凄い。
0129人間七七四年2011/05/19(木) 17:51:42.28ID:BQ3e1zuE
うむ、名門中の名門だしな。
江戸時代なんか、平民大名が多い中、数少ない名門だった。
0130人間七七四年2011/05/20(金) 12:33:34.95ID:51LvZX8N
>>127
>佐竹は明確に徳川に付く
明確についていたら転封されなかっただろ。(後で潰されたと思うがw)
幕末には明確に徳川を潰す側に回ったけどな。(評価されなかったがw)
0131人間七七四年2011/05/21(土) 16:10:20.87ID:RRlslKPT
源平合戦期に裏切った叔父はどうなった?
0132人間七七四年2011/05/21(土) 21:30:21.57ID:iDBCDm4R
>>128
安東島津並みに古い家だもんな。
南部?何それ?と言ってもいいくらい
歴史と由緒がある。
0133人間七七四年2011/05/21(土) 21:56:31.09ID:IRacuP4C
地元に居続けた相馬と島津に比べたら佐竹や安東はまだまだだな。
おそらく一番すごいのは相馬
0134人間七七四年2011/05/21(土) 22:39:00.23ID:CFAzAeoT
>>133
相良もね
0135人間七七四年2011/05/22(日) 14:39:04.78ID:8chlkP+c
戦国期権力佐竹氏の研究 / 佐々木倫朗 買った人いる?

以前出した論文と内容は一緒なのかな?
0136人間七七四年2011/05/22(日) 17:09:41.92ID:mIvNVJlE
>>133
相馬御厨はかなり早い段階で手放してないか?
このスレの主役のせいで
0137人間七七四年2011/05/31(火) 19:53:29.90ID:BqIIcpfc
>>10
初代秋田県知事は佐竹ではない。
もっと勉強しろよ
0138人間七七四年2011/06/09(木) 21:10:17.49ID:xU+d0YZF
UFUFU
0139人間七七四年2011/06/10(金) 17:46:48.77ID:D/E3T78R
家中で武勇、智謀に優れたのは、
誰がいるんだろうか?
どうも当主の名声ばかりが高い気がするのは、おれが素人だからだろうか?
0140人間七七四年2011/06/10(金) 17:59:14.18ID:r3wLzh0a
和田昭為とか。
一度佐竹家から出奔して、白川結城氏に仕えるが
佐竹が白川を攻めた時に内応、義親を捕縛して佐竹に帰参してる。
小貫頼久、人見藤道と並んで佐竹の三奉行と称された。
主に外交で活躍。

北家の佐竹義廉も外交で活躍して、若年の義昭を補佐してる。
0141人間七七四年2011/06/10(金) 18:10:55.83ID:r3wLzh0a
あと陰流の開祖・愛州移香斎も常陸の出身だっけ
子の宗通は佐竹に仕えてるな
0142 忍法帖【Lv=19,xxxPT】 2011/06/10(金) 23:59:03.72ID:cC7wxDz0
真壁氏幹や梶原政景辺りが割と有名どころか
0143人間七七四年2011/06/11(土) 00:03:12.67ID:vG9Cqdg4
智謀は東義久
あとは・・・特に個性なし
0144人間七七四年2011/06/11(土) 17:10:14.43ID:RS/i4ZE1
政治、軍事に活躍したのはこんなところかな
和田昭為
小貫頼久
人見藤道
岡本梅江斎
岡本顕逸
佐竹義久
山形篤定
船尾昭直
荒巻駿河守
小野崎義政
大縄義辰
真壁氏幹
車丹波
赤坂政光
赤坂朝光
根本里行
渋江政光
梅津憲忠
梅津政景
0145人間七七四年2011/06/12(日) 04:01:52.12ID:hv2c69sQ
それ。佐竹血脈だけじゃん。
佐竹と宇都宮の関係から考えようぜ。
0146人間七七四年2011/06/12(日) 06:14:49.20ID:axYSqfbc
>>145
0147 忍法帖【Lv=21,xxxPT】 2011/06/12(日) 12:57:38.87ID:ykyl9a8p
100万石大名について
258 名前:人間七七四年 投稿日:2011/05/31(火) 16:18:52.60 UcK7r4hU
 1  佐竹氏  ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 54万5千4百石
 2  蘆名氏  ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。  5万石
 3  岩城氏  ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 12万石
 4  多賀谷氏  ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。  6万石
 5  宇都宮氏  ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 18万石(改易)
 6  相馬氏  ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。  6万石

佐竹ホールディングス101万石


これの誤爆じゃね
0148人間七七四年2011/06/12(日) 14:21:06.80ID:EHkZqu+3
何度も言われてるけど会津落ちした後の蘆名氏は大名じゃないから
太閤検地の帳簿でも蘆名氏の領地は佐竹氏54万石に含まれている
だから佐竹氏と別に換算するのは明らかに間違い
それと大名時代の宇都宮氏は別に佐竹氏の家臣でも与力でもないし、単に縁戚関係があるだけで行政的には関係ない
宇都宮氏も那須七騎の一部などを与力として付けられて
言わば宇都宮ホールディングスを形成していた
0149人間七七四年2011/06/14(火) 19:50:49.10ID:a7+Q9FJW
車丹波の武勇伝おせーて
水戸城明け渡しで、
ゴタゴタ起こしたの以外で
0150人間七七四年2011/06/14(火) 20:27:03.17ID:9WwgVSB7
佐竹義昭に讒言して、和田昭為を白川氏に走らせ、その一族三人を殺すとか
0151月孔雀2011/06/14(火) 20:48:09.32ID:gLKEDKb9
常陸の美人を秋田に連れて行った佐竹。
DNAで、秋田美人。
0152人間七七四年2011/06/15(水) 02:02:10.34ID:+xfaWP65
>>150
いや、当時は義重だ
義昭は数年前に死んでいる
事の経緯としては
和田昭為が葦名方と内通していると車斯忠が義重に密告
義重が事の真相を確かめようとしたところ昭為は一人で会津へ出奔
その後、白川結城氏に仕えた
これに怒った義重は北義斯、小田部五郎右衛門らに和田氏の討伐を命じる
昭為の子(兵部、彦十郎、善九郎)と一族郎党は篭城し善戦したが、衆寡敵せず全員討ち死にした
と言う事らしい
で、結局昭為の内通疑惑は斯忠の讒言であったらしいが
あくまで和田家の家譜によるものだから鵜呑みにしていいかは分からない
でも、斯忠はかなり素行に問題があったらしく何度も暇を出されたりして
佐竹家、岩城家、蒲生家、上杉家などを転々としているから実際怪しげな感じではある
0153人間七七四年2011/06/16(木) 07:52:23.23ID:RWcLyWOn
歌舞伎者
0154人間七七四年2011/06/17(金) 18:33:35.73ID:1RafdOlE
>>149
佐竹家の鉄砲調達などに活躍し、武勇も優れたが
民政は苦手だったらしく、領地の治世に失敗して岩城氏の下へ逃れたこともあるらしい。
咳が元で発見されたって話しもあるらしく、咳の神様として祀られている。
0155人間七七四年2011/06/17(金) 22:37:42.13ID:puKbM0rw
御用商人とは上手くいったんだね
0156人間七七四年2011/06/22(水) 18:17:35.34ID:UPOmeF6T
花の慶次に出てきてもおかしくないよな。
いまいちなキャラになりそうだが。
0157人間七七四年2011/06/22(水) 18:42:26.26ID:FY1c3s4t
>>156
でてるよ。よく読んでみ
0158人間七七四年2011/06/23(木) 20:11:52.96ID:g0aVXzz+
慶次と接点あるとすると、
関ヶ原直前、上杉に派遣されたときだな
大将格の浪人の一人として、
面識持ったに違いない
0159人間七七四年2011/06/26(日) 23:54:53.96ID:5+4O9Wf/
>>147
佐竹HD wwwww
0160人間七七四年2011/06/27(月) 18:49:48.37ID:SP6WZ+GQ
佐竹義季
0161人間七七四年2011/06/27(月) 20:48:09.29ID:B4dCQWjO
でも、会津落ちの芦名4.5万石が、
佐竹54.5万石の内数とは知らなんだ。
0162人間七七四年2011/06/27(月) 23:16:38.98ID:81xGf2KF
大名格の扱いはされていたけどね
佐竹義久と似たようなもの
0163人間七七四年2011/07/04(月) 08:24:09.34ID:A0ubwOMd
総無事令発令後の滅亡なのだから、
会津復帰は無理でも独立大名として、
領地宛がわれても良さそうなもんだが
0164人間七七四年2011/07/04(月) 11:08:34.29ID:KjFA0x0J
豊臣家が平定した時点の勢力範囲が有効なようだ
総無事令後でも領地の管理は自己責任という事なのだろう
佐竹も伊達に取られた石川庄辺りの領地は返して貰えなかった
0165人間七七四年2011/07/05(火) 17:49:20.33ID:TjpLszkM
葦名は大損したよな
0166人間七七四年2011/07/05(火) 19:42:46.62ID:gCcwFede
葦名も佐竹も総無事令を気にして、
思い切り動けなさそうだし
一方の伊達はそれを鼻で笑っただろうし
やっぱ理不尽だよ
0167人間七七四年2011/07/08(金) 22:39:44.46ID:RhvrnmLa
一番理不尽なのは北条征伐で佐竹方で参陣したのに鹿島一族と一緒に謀殺された島崎氏だよ。
ところで塚原卜伝の時代劇化決定したな。真壁氏幹出ねえかな
0168人間七七四年2011/07/10(日) 11:08:17.14ID:LKOYjNWp
モブとして出るかもしらんね<真壁
それより堺雅人が卜伝役というのはどうなのよ?
0169人間七七四年2011/07/11(月) 20:48:38.53ID:NG9xYp4B
>>167
それは、つまり佐竹が理不尽な行いをしたってことじゃん
0170人間七七四年2011/07/11(月) 22:44:59.44ID:JN4ytJ7O
島崎氏は恐らく佐竹の旗下に入るのを拒んだ為に討伐されたものと思われる
この期に及んで総無事令を無視など出来る訳もなく、豊臣政権の主導もしくは許可の下で行われた事は間違いない
江戸氏や烟田氏、小野崎氏なども小田原へ参陣したが滅ぼされている
江戸氏はどちらの陣営につくか決めかね、家臣の一部だけを佐竹氏に同行させたが
戦後も佐竹氏の旗下に組せず討伐を受けた
笠間氏も同様で、家臣の一部を宇都宮氏に同行させたが、戦後宇都宮氏に討伐された
島崎氏も当主の名前がない事から家臣だけ参陣させた可能性がある
0171人間七七四年2011/07/12(火) 09:11:17.42ID:i/IYVuuN
放置してたら肥後一揆や九戸の乱みたいなことが常陸で起こって根斬りされまくりの大虐殺がおきていただろうから
あれはやっておいて正解。
まあ旧北条家臣に対する見せしめとしても機能したんじゃないか?
豊臣政権公認の家康に服さない場合はこんなことになりますよ的な。
0172人間七七四年2011/07/12(火) 18:29:48.05ID:nAmXOrzM
佐竹昌義の長子・太郎忠義は府中大掾氏を継いだと佐竹氏の系譜に載っているけど
この家系はどうなったの?
大掾氏の系譜には載ってないようだけど
忠義は後に頼朝方と戦って死んだようだが、これで断絶して大掾氏の一族が継承したという事?
0173人間七七四年2011/07/13(水) 08:27:33.09ID:6cZ5xLxZ
確認されている子供は片岡常春正室のみ
また大掾氏自体が多気氏から馬場氏に交代しているから佐竹はあまり関係ない

騙し討ちした佐竹義季の子孫はどこいったんだろ
また美濃佐竹・土佐佐竹ってのがいるらしいがどの系統なんだろ
0174人間七七四年2011/07/13(水) 09:47:53.26ID:U3I1+pYP
>>173
義季の嫡男は上記の忠義の養子になって後に国分氏を名乗ったらしい
次男の義心は叡山に上って出家した

美濃佐竹氏は佐竹秀義の子、六郎義茂(南酒出氏)と八郎季義(北酒出氏)がそれぞれ領地を与えられて立てた

土佐佐竹氏は恐らく無関係
0175人間七七四年2011/07/16(土) 00:08:07.51ID:iN3yrWIb
へー、そうなんだ
0176人間七七四年2011/07/17(日) 20:38:33.09ID:aHO+ucz8
無関係?まじで!_
0177人間七七四年2011/07/22(金) 21:57:24.36ID:USx63WNM
土佐佐竹氏って関係あるんちゃう?
0178人間七七四年2011/07/22(金) 22:42:13.71ID:9XKqEUVU
少なくとも佐竹氏(常陸)の系図類には土佐の記述はないと思う
0179人間七七四年2011/07/22(金) 22:59:41.21ID:z1vWeVpf
武家家伝_土佐佐竹氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/satake_tosa.html
0180人間七七四年2011/07/23(土) 18:03:10.88ID:SZxkruPU
土佐はあるはず
0181人間七七四年2011/07/23(土) 22:38:35.08ID:cPmBvZcQ
かなり怪しげな系図だが
0182人間七七四年2011/07/28(木) 01:21:51.03ID:bTwkD8FA
信用してもええと思うが
0183人間七七四年2011/07/28(木) 03:35:38.87ID:GhOIiVlq
信用する要素がない
0184人間七七四年2011/08/01(月) 14:11:16.03ID:jajPq61o
ところでみんなは、
佐竹のどこに魅力を感じてる?
0185人間七七四年2011/08/02(火) 02:26:44.69ID:Mek+m/SY
土佐の源氏といえば吉良氏
0186人間七七四年2011/08/02(火) 02:31:47.16ID:Q6zcYg/Z
土佐源氏は歴史に残る名作かつ迷作
0187人間七七四年2011/08/07(日) 21:32:08.97ID:OWOxB/NB
えっ
0188人間七七四年2011/08/08(月) 10:57:03.15ID:MINdKIM/
>>184

平氏時代から明治維新まで完走したのは凄い

0189人間七七四年2011/08/08(月) 19:00:53.36ID:ke0Nrb1Z
秋田でまだ走ってるけどな
0190人間七七四年2011/08/09(火) 00:07:41.73ID:i8ZOqdDe
>>189
あ〜、確かに。知事室に不忍池の絵の複製を飾ったりしてな。
こないだは全国知事会とかやってたみたいだな。
当たった割には、お元気そうでな。
0191人間七七四年2011/08/09(火) 01:32:08.56ID:2hphlN1X
死滅する家系と言うことで、水戸黄門も終わったね。
さようなら
0192人間七七四年2011/08/09(火) 16:54:42.27ID:P6CscPKl
このターン儂は上杉謙信を召喚する
0193上杉謙信2011/08/09(火) 17:32:55.91ID:+L7EZcmq
読んだ?
0194人間七七四年2011/08/10(水) 22:24:59.11ID:WzTvvGKF
上杉さんの子孫は、ロケット飛ばしてんでしたっけ?
0195人間七七四年2011/08/10(水) 22:58:47.07ID:9hzQL9VR
地味に大藩だな
五大老に推挙されてもおかしくなかった
0196人間七七四年2011/08/11(木) 06:34:29.82ID:xIarGw54
室町時代後期に(金銭を払って)関東管領にならないかというオファーはあったのではなかったか?
0197人間七七四年2011/08/11(木) 23:14:41.51ID:ILtFk0XP
管領職を自負していたから関東管領はあまり魅力を感じなかったのではなかろうか
0198人間七七四年2011/08/12(金) 03:34:33.79ID:GonQ/GCT
なんのこっちゃ
0199 忍法帖【Lv=18,xxxPT】 2011/08/12(金) 13:20:59.38ID:pcfod/GV
>>196

関東管領の上杉氏から実際にオファーはあったらしいが。

佐竹は由緒ある源氏なんだからカネで関東管領のポスト買わないか的に。
0200人間七七四年2011/08/12(金) 16:06:02.49ID:94x6hHyK
佐竹側の後世の記録のみだがな
憲政も逃亡中で記録する暇無かったのか、米沢上杉が破棄したか、援軍欲しい使者の口から出任せか、佐竹の捏造か
0201人間七七四年2011/08/12(金) 21:42:46.83ID:PP6KolXg
源氏の名門中の名門佐竹の名を捨ててまで格下の上杉を名乗る気はないとのこと
0202佐竹明夫2011/08/12(金) 22:41:15.28ID:zWZC8Dna
佐竹義宣は凱旋する武蔵守秀忠を相模国平塚まで迎えに出ましたが、時すでに遅し!
徳川家康は佐竹の観望反復を咎め、水戸から出羽久保田へ18万石格で電報を命じた
0203人間七七四年2011/08/14(日) 09:13:55.64ID:+QflVXRJ
中身は実質上杉氏ですやん
0204人間七七四年2011/08/14(日) 11:19:25.81ID:2KH4nNLF
そんな事言ったら99.9%ぐらいの家は別物になってまうがな

でも関東管領への打診があったという信憑性が高いのはこの点だよな
血縁関係的に佐竹を頼るのは凄く自然な事だ
だが、佐竹的には将軍家と同祖なわけだし
その家来筋の姓になるのは抵抗が強かっただろう
まあ、現実には敢えて北条を敵にまわしてまで手にいれる価値がないと考えて丁重にお断りしたのだと思う
この頃、義昭は北条とも連携をとりながら順調に勢力を拡大していたから
0205人間七七四年2011/08/16(火) 07:48:32.03ID:XTX62TAR
佐竹と後北条の微妙な関係に関する論文とかはあるの?

0206人間七七四年2011/08/21(日) 17:35:22.95ID:1ulfFn8e
なにその空白
0207人間七七四年2011/08/21(日) 20:06:36.29ID:wXojdyP3
上杉一門出身いうたって初代義人から上杉氏と敵対してんじゃん
0208人間七七四年2011/08/25(木) 17:16:56.56ID:7Gs7tpPx
管領職だけもらえなかったんか?
0209人間七七四年2011/08/26(金) 13:22:25.99ID:QDazOluS
保守
0210人間七七四年2011/08/26(金) 19:17:48.30ID:8qIqMEnk
いがっぺえ
0211人間七七四年2011/08/30(火) 22:25:53.24ID:cGqJ9AY3
武田菱の佐竹の家紋もあるらしいね。
0212人間七七四年2011/09/07(水) 11:09:40.46ID:4sNAOIY2
ところで義重には兄弟いるの?
0213人間七七四年2011/09/07(水) 15:34:41.37ID:c6xEgHF1
南義里の跡を継いだ義尚
西義忠の養子になった小場幽庵が義重の弟
0214人間七七四年2011/09/07(水) 16:31:20.05ID:4sNAOIY2
知らなかったな
どんな人物だろうか
0215人間七七四年2011/09/07(水) 23:06:58.12ID:APrLl2wi
佐竹義重の兄弟達

〇女
佐竹義昭の娘。
岩城親隆の室となる。

〇佐竹五郎義尚
佐竹義昭の次男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
佐竹(南)義里の養子になり南家を相続した。
次いで上那須衆の要請で那須氏の当主になるべく那須資綱と名乗り
重臣荒巻篤応らと共に那須入部を試みるが那須資胤の反撃で失敗し南家に戻った。
後に常陸府中城主(石岡市)となり6246石を領したと言われるが、これは恐らく子の義種と思われ
義尚は元亀2年(1571)8月29日に22歳で没したと見られている。
道号 悦岳 法名 大喜

〇小場三朗義宗
佐竹義昭の三男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
小場城主(常陸大宮市)小場義忠の娘を室とし小場氏を継ぐ。
その正室は嫡子義成を産んですぐに没したので
義重の命で石塚城主(城里町)石塚義国の正室を継室に迎え(義国は子が無く没していた)石塚家の統治も義宗が代行する事になった。
後にその継室との間に生まれた子が石塚義辰と名乗り、石塚家を相続した。
他に荒川秀景の次男を娘婿に迎えて小場宣忠と名乗らせ隠居遺領を相続させた。
義宗は領地を接する大山城主(城里町)大山義景と不仲で度々領地争いを起こし、合戦にまで及んだ事があると言う。
後に義重の命で和睦し起請文を取り交わしている。
秋田転封後は出羽仙北郡六郷に住した。
慶長16年9月25日没、享年60
道号 大雲 法名 宗碩
小場氏は義宗を養子に迎えた事で家格が上がり、秋田転封後は西家を名乗り家中筆頭の地位を占める事になる。

〇女
佐竹義昭の娘。
石川昭光の室となる。

〇南呂院
佐竹義昭の娘。
宇都宮広綱の室となる。宇都宮国綱、結城朝勝、芳賀高武の母。
天正4年8月7日(1576年)、広綱が32歳で没し後を継いだ国綱は9歳と若年であった為、実質的に南呂院が家中を取り仕切った。
兄義重と協力して北条氏などの侵攻を防ぎ
子の朝勝を結城氏へ送り込み佐竹氏・宇都宮氏・結城氏の三国同盟成立に一役を買った事などが知られる。
0216人間七七四年2011/09/09(金) 16:22:09.77ID:8SMd6IJJ
しかし義重が出馬しないと、
戦に弱いよなw
0217人間七七四年2011/09/10(土) 22:09:20.86ID:r+0Ea7ve
義昭が南を、義重が北を指揮出来てたら夢がひろがったな
そんな単純にはいかないか…
0218人間七七四年2011/09/10(土) 23:55:25.77ID:nF8DMA8/
義昭は早死したからなあ
0219人間七七四年2011/09/11(日) 00:45:56.71ID:1S0mJ2Hj
でも実際そういう構想を立ててたんだよな義昭は
義昭が府中を拠点に南下して義重は太田を拠点に北上するという感じで
まあ、義昭が早死にしたから頓挫してしまったが半ば成功していただけに惜しい
義昭も死ぬ前に弟を自分の代理に立てたが、さすがに支持を得られなかったようだ
0220人間七七四年2011/09/11(日) 02:57:52.12ID:Eg6IJ7JV
義昭のことは詳しくは知らないけど、wikiを見る限りだと大した実績。
もっと評価されていいと思うんだけどな。

謙信とは2つ違いで、義重よりもいい関係を作れた気がするし
本当に早世が惜しまれる。
0221人間七七四年2011/09/11(日) 06:45:40.20ID:CjUH6oS8
後北条との戦いでは押されていたようだが。
0222人間七七四年2011/09/11(日) 11:05:09.65ID:BxrdXzZq
義昭の代は後北條と戦ってないと思うが
0223人間七七四年2011/09/11(日) 17:23:00.34ID:MX8ZGQZe
いや、戦国時代全般を通じての話。
0224人間七七四年2011/09/11(日) 19:51:56.57ID:RNe/HsJd
伊勢は時勢を読めずに滅びたし、結局佐竹の勝ちじゃない?
0225人間七七四年2011/09/11(日) 21:04:04.79ID:RlpIhZz+
そういう長期の話をしだすと父祖の地を追い出された佐竹も微妙に
0226人間七七四年2011/09/11(日) 21:13:50.02ID:MX8ZGQZe
父祖の地を追い出されなかったが放射能をばらまかれた相馬も微妙。
0227人間七七四年2011/09/11(日) 22:39:50.92ID:5I/lolV8
佐竹も父祖の地には放射能
0228人間七七四年2011/09/12(月) 00:04:47.80ID:1SIU/0Ug
そうだ土地が空いている北海道へいこう
0229人間七七四年2011/09/12(月) 12:42:45.33ID:rJ/UTNXr
大関氏とは仲がよかったのかな
義宣が晴増と蹴鞠で遊んでるけど
0230人間七七四年2011/09/12(月) 20:52:00.57ID:aCe/Us84
那須宗家とは不仲だったけど大関ら上那須衆とは義昭以来親密だったようだね
0231人間七七四年2011/09/12(月) 21:18:53.53ID:rJ/UTNXr
那須資晴は義宣の正室の兄じゃなかったっけ
不仲だったの?
0232人間七七四年2011/09/13(火) 08:25:01.88ID:Mkdew4B2
北方への調略は順調だけど、
同じ常陸国内でも、南方への調略が駄目な印象
どいつが担当してたんだ?
0233人間七七四年2011/09/13(火) 08:32:35.19ID:2UvSWXKI
>>231
もともと那須と佐竹はぶつかり合っていたが
何度やっても那須に勝てないので
義重が縁組による和睦を持ちかけたんだよ。

>>232
特に担当は決まっていなかった気がする。
独立心バリバリな国人ばかり揃っていた印象。
0234人間七七四年2011/09/13(火) 18:34:05.60ID:dleuj1d5
そういや常陸太田の佐竹寺は震災被害はなかったのか?
全く情報がつかめないんだが
0235人間七七四年2011/09/14(水) 00:41:30.38ID:GMivLL5f
>>226
相馬御厨のあたりも放射線高かったっけ
0236人間七七四年2011/09/14(水) 01:32:10.27ID:4uIy6P0p
>>232
南方は江戸氏、大掾氏、真壁氏、太田氏などが間にいて周囲を切り取っているので
基本的に彼らの支援が佐竹氏の役目だった
だから佐竹氏の主戦場は領地の接する南陸奥だったわけだ

>>233
それは那須記の記載であって実際はやはり佐竹氏が優位だったようだ
それで那須氏は娘を正室に出す事と領地を割譲する事で佐竹氏と和睦をした
それ以後は大きな衝突は起きていない
まあ、那須方は劣勢ながらもなんとか佐竹の主力と引き分けたり
佐竹方の東氏や長倉氏を破ったり
佐竹氏が烏山城を包囲した事もあるけど何とか持ちこたえたりと
かなり精強だったのは間違いないけど

>>234
震災の後、仕事で太田に1ヶ月ぐらい通ってたけど
外から見た感じでは変わりなかったよ
でも常陸太田市も道路はボコボコだし橋はほとんど通行止め
市内でも古い家屋は全壊しているものもあったから恐らく佐竹寺も壁が崩れたり石の構造物は壊れたりしたのではないかと思う
常陸国内は笠間城の天守台が崩落したし土浦城も櫓や門が損傷したようだね
下野でも大田原城や黒羽城見てきたけど地割れや土塁の崩落
建造物(休憩所とかトイレ)も倒壊してたりと被害は少なくなかった
茂木城は意外と無傷だったけど
櫓も普通に登れたし
0237人間七七四年2011/09/14(水) 08:12:14.17ID:p4y3YWSy
茨城も被災地なのにどうしても福島岩手宮城の被害と比べられてしまって
援助も後手に回ってるみたいだね。
知名度の高低よりマスコミの報道に問題があるように見える。
県としても県民の生活優先で文化財どころじゃないんだろうなあ。

http://news.livedoor.com/article/detail/5857259/?utm_source=m_news&utm_medium=rd
0238人間七七四年2011/09/14(水) 14:15:09.36ID:2hXsWe3v
まあテレビ局無いからねぇ
0239人間七七四年2011/09/15(木) 13:36:54.98ID:c4nzO6HE
佐竹関連調べてたら、常陸の旧城主が土着して城の付近に今でも住んでいるという家が結構あるんだね
まあ、殆どが嫡流じゃなくて次男以下の子孫だけど
0240人間七七四年2011/09/20(火) 23:13:08.93ID:EZyYwm1B
南家とか
0241人間七七四年2011/09/21(水) 09:31:17.46ID:3BqUWarD
南家は湯沢へ引越したよ
0242人間七七四年2011/09/21(水) 14:15:45.65ID:X8kuUQaU
小場(西家)、南家、大山、長倉、山方、高部、大沢、赤垣、江戸(水戸)なんかは次男や三男が残って浪人した
その後、他家に仕官した者も多いけど
0243人間七七四年2011/09/21(水) 15:39:20.60ID:3BqUWarD
>南家(中略)次男や三男が残って
南義種には弟がいたのか
一人っ子かと思っていたよ
0244人間七七四年2011/09/26(月) 21:39:52.45ID:BK7Pbxfc
一人っ子政策
0245人間七七四年2011/09/26(月) 22:16:22.03ID:Mn7Oh2Bi
南家はとーちゃんが死んでかーちゃんは実家に帰ったから一人っ子だろ
0246人間七七四年2011/10/03(月) 23:23:55.06ID:CQkgGIra
佐竹義義
0247人間七七四年2011/10/04(火) 07:43:56.98ID:whludhoM
関ケ原前夜、小山で徳川に強襲してたら討てたかな?
0248人間七七四年2011/10/04(火) 13:36:42.12ID:QOdt4t9d
上杉と共同で当たっても徳川勢の半数だし無理
籠城戦に持ち込めば何とかなるかもしれないけど
上杉も佐竹もたいした城ないからな
0249人間七七四年2011/10/04(火) 23:32:48.41ID:k1UPp5jt
佐竹が日和ったと見るか、上杉が煮え切らなかったと見るか
0250人間七七四年2011/10/05(水) 07:49:38.18ID:+5SzjukO
佐竹には徳川憎しの一念がないから、積極的になれなかっただろ。
だから上杉に梯子外されて、困ったな。
0251人間七七四年2011/10/05(水) 09:00:30.17ID:+/YwN+r7
言われてみればそうだな<佐竹には徳川憎しの一念がない
それで2年も経ってから左遷されたのに、3年後には5000石加増されたのか
0252人間七七四年2011/10/05(水) 12:01:22.31ID:JrMGGo/R
佐竹も大藩だから突然手紙一本で石田方に付けと言われても藩論を統一するのは無理だよ
事前に義宣と相談していればまた違ったかもしれない
もっとも義重や義久は次の天下は徳川とみて近付いていたようだから三成も警戒したのがしれない
0253人間七七四年2011/10/05(水) 13:44:46.11ID:FY+B0z0m
義宣も積極的に石田側に付こうとしたわけじゃなさそうだね
もし本気で味方する気なら反対論を押し切ることも出来た
伊達も万が一徳川が負けた場合の保険として
水面下で佐竹と和睦する動きを見せている
結局、東北で本気でガチンコしたのは最上と上杉だけか
0254人間七七四年2011/10/06(木) 01:13:18.42ID:KjKJpHxK
義宣の側近どもは国を大きくする機会だと意気込むも、
実際に兵を抱えている家臣団を反徳川にまとめるのはたいへんそう。
伊達を攻めるぞ!となれば見境なしにやるぞ!となるかも知れないが。
0255人間七七四年2011/10/06(木) 16:56:36.94ID:JfdMhT3d
そもそも佐竹は徳川方に付くのが前提だったし
石田方への荷担に積極的だったのは徳川に怨みがある多賀谷重經と結城朝勝ぐらい
本来なら佐竹は徳川に加勢したところだが、それには一つ問題があった
石田方に人質を取られていた事だ
結局のところ、この人質問題をどうするかで結論が出ずに、消極的徳川支援と言う形に成らざるを得なかった
義宣がバッサリ人質を切り捨てる事が出来れば佐竹の運命も違ったかもしれない
もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど
0256人間七七四年2011/10/06(木) 22:43:28.68ID:a8hQYmiv
石田方の人質というと、正室と母上?
徳川からも改めて人質を出すよう言われて「妻と母が既に(ry」と断ったら
「じゃあ弟のうちの一人を出せ」だの「正室と離縁して徳川養女を妻に」だのと
詰め寄られて閉口したというが
0257人間七七四年2011/10/07(金) 08:01:55.35ID:j3SneDBO
そういえば、東軍が反転するときに
家康は息子や伊達に上杉に
チョッカイ出すなと厳命されていた佐竹にも命令は届いたのだろうか?
0258人間七七四年2011/10/07(金) 12:37:30.52ID:W1fNvjPM
上杉とは南北朝依頼長い縁だし
0259人間七七四年2011/10/07(金) 13:18:54.41ID:Vdtt2N3L
上杉から佐竹へ婿養子が来たこともあったな
でも謙信と義重は仲良しこよしってほどでもなかった
義宣と景勝はどうだったか
0260人間七七四年2011/10/07(金) 14:42:36.81ID:j3SneDBO
数寄者義宣と堅物景勝
一緒に遊ぶことなさそう

でも二人揃って、伊達にイタズラされてた逸話があったような?
0261人間七七四年2011/10/07(金) 16:24:50.81ID:rmm9umoI
>>260
つまみ菜の吸い物の話だね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
0262人間七七四年2011/10/07(金) 16:53:32.05ID:r0motI9+
織田に攻められ滅亡覚悟のレターを出した景勝を知る義重さんからすると
今回も景勝のやつロマンに浸って軍事的冒険か・・・息子が感化されてはたまらんと思ったのかもな。
でもさ、もし積極的に佐竹も上杉と協調してたら
家康は敗北してたと思われ。
0263人間七七四年2011/10/07(金) 17:41:03.30ID:BBdjlda1
万が一佐竹が積極的にやったら
上杉討伐軍が真っ先に常陸に乗り込んできて、佐竹領が焦土になったと思いますw
会津と違って天険もないから八方から攻められ放題。
やっぱり義重・義宣は利口だよ
0264人間七七四年2011/10/07(金) 18:03:31.79ID:r0motI9+
常陸南部は沼沢地だから
やはり栃木や埼玉方面に進出すんじゃないか?
常陸へ上杉が進出するだろうか?
0265人間七七四年2011/10/07(金) 19:20:20.85ID:Poj8AHe4
>>255

> もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど


だと思うね。
0266人間七七四年2011/10/07(金) 19:48:02.52ID:HvWjQqVe
転封前に400年、転封後に400年
佐竹はしぶとい

>>261
わざとらしいほどメンツが揃い過ぎているから、後世の創作だな
しかし政宗がどれほど周辺諸国から嫌われていたかがよくわかる
0267人間七七四年2011/10/07(金) 23:55:51.78ID:oiuYE2hb
>>264
土浦や笠間は徳川方だから沼沢地で迎え撃つのも難しい
特に笠間は水戸に近いし途中に大した城もないから防衛戦には不向きだね
水戸を取られると領内が分断されて詰むし
0268人間七七四年2011/10/08(土) 00:32:03.63ID:3QLO2ozV
当時の常陸国の地図を見るたび感じるんだが
南北じゃなくて東西に分かれてるんだよな、鬼怒川のせいで
霞ヶ浦も今みたいな綺麗なY字型じゃないし
0269人間七七四年2011/10/08(土) 01:43:34.97ID:7MSrts0/
スマン笠間って下総結城秀康だっけ
0270人間七七四年2011/10/08(土) 08:44:23.33ID:9QarNR0H
>>266
そら、あんだけヤンチャかましまくって周囲に迷惑かけて信用まるで無しなのに、
時の権力者からは優遇もされないまでも何故か処断もされず
60万石越えの大大名に治まりかえっていたんだから面憎かろうよ
0271人間七七四年2011/10/08(土) 10:05:22.77ID:9BPojUfM
土下座力は随一だから…
義宣は源氏出自ゆえプライドあり過ぎた
0272人間七七四年2011/10/08(土) 10:25:37.62ID:yWSHIyRl
>>269
笠間は常陸だよ
笠間氏→宇都宮国綱→蒲生秀行→松平康重→小笠原吉次→天領→松平康長→永井直勝→浅野長重→以下略
0273人間七七四年2011/10/08(土) 11:35:31.07ID:Pt+wKG7E
小幡城や多気城(つくば市)は関ヶ原の時に拡張したとも言われてるけどどうなんだろうね
小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城だったみたいだ
土浦から北上してくる敵を食い止めるつもりだったのだろう
あの城を完全復元してもらいたかったのに高速道路造られてしまってはもう無理だな・・・
0274人間七七四年2011/10/10(月) 08:27:03.06ID:QjJi5MlP
豊臣政権下での義宣の交遊関係は
どうだったのかな
源氏直系ってことで、
土民上がりの豊臣大名からは
ちょっと声掛けにくいとか?
孤高なイメージだわ
0275人間七七四年2011/10/10(月) 08:34:04.32ID:jCNgYIN8
豊臣政権での佐竹は目立たない印象がある。
0276人間七七四年2011/10/10(月) 08:36:15.62ID:jCNgYIN8
>>273

> 小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城


あれはなかなか意欲的な築城だったと思う。

想像復元図はどこかに公表されているだろうか?
0277人間七七四年2011/10/10(月) 09:11:08.23ID:OTKVOhQh
全国指折りの石高なのにあれだけ目立たないってのも凄いな。
0278人間七七四年2011/10/10(月) 14:12:53.57ID:JgKN2Md+
佐竹って何でマイナーなんだろうね


>>274
数寄者仲間の古田織部とは親密だったようだ
関ヶ原の時も伏見屋敷の宝物を有事に備えて織部に預けているし
大坂の陣でも、織部が佐竹の陣に遊びに行って鉄砲玉が当たった笑い話が知られている

>>276
外郭まで含めた復元図は見たことないね
歴史群像辺りで取り上げてくれると良いのだが
0279人間七七四年2011/10/10(月) 14:36:11.89ID:n2Vte0Y1
義宣は積極的にはっちゃけるタイプじゃなかったんだろうな
誰かと特別親しくならない代わりに、特に敵対する相手もいなかったと思う
伊達と衝突するのも義重の代で終わった感じ
0280人間七七四年2011/10/10(月) 16:27:09.49ID:Lx4fUClY
>>259
今更ながらその養子 佐竹義人は永享の乱から結城合戦、享徳の乱まで終始上杉家と対立してたんだよな
0281人間七七四年2011/10/10(月) 16:51:20.63ID:9292VdDU
義宣が七将襲撃の時に三成を助けた話も逸話であって
史実じゃないしな。
0282人間七七四年2011/10/10(月) 20:59:56.79ID:n2Vte0Y1
>>281
史実だと思ってたよ。
逸話と史実でどの辺が違うのか、よかったら教えて。
0283人間七七四年2011/10/11(火) 04:11:51.02ID:ScxtgGcU
「佐野地より東のこと」を「一円に彼両家(宇都宮と佐竹のこと)渡進」し
「何遍仕置等任せいるべき」ことを太田資正を通じて約束する

上杉との確執は根深く残っていた気がする。
0284人間七七四年2011/10/11(火) 12:59:20.96ID:ouSZeKks
>>281
自分も史実だと思っていた。つか、創作説は初耳。
0285人間七七四年2011/10/11(火) 18:13:55.63ID:HrRDQDqK
光成氏が笠谷氏の論を紹介しながら七将襲撃の状況を説明していて
三成は逃げずに伏見の自邸、おそらく伏見城内の治部少丸曲輪に入って
小西と寺沢を輝元に遣わして、
輝元による家康への反攻を促してる。
小西や寺沢は大坂はすでに家康方によって出入りを禁じられ
支配されてると輝元に伝えたらしく
大谷も三成に加担するのはよくないが下屋敷へ下がるのもよく無いから兵を揃えて家康と対峙するのがよいと言ってる。
伏見には三成のほかに増田・前田玄以も籠城して家康と対峙しており
結局、三成と増田がこの対立を毛利と上杉に委ねることとして
三成のみの処分で解決するが(増田もただではすまないでしょうとも)
三成がショボーンしてる書状を安国寺から渡されたようで
それを読んだ輝元が涙が出るほど悔しがってる。
0286人間七七四年2011/10/11(火) 21:15:00.85ID:gaCM5gK7
>>285は「佐竹が三成救出に関わっていなかった?」に対する答えかな。
佐竹が関わったのは前田邸からの脱出〜伏見または治部少丸までだから
三成を助けたことに変わりないのでは?
0287人間七七四年2011/10/11(火) 21:22:10.08ID:qbfrOG58
佐竹が同道してることで手が出せなくなってるからな
0288人間七七四年2011/10/12(水) 12:45:05.36ID:wQ0rxzqL
義宣が三成を助けて前田邸から送ったってのは
どの史料に載ってるの?
0289人間七七四年2011/10/12(水) 13:12:20.40ID:si/aG71f
慶長見聞書
岩淵夜話
落穂集
0290人間七七四年2011/10/12(水) 13:17:21.06ID:HjMxor4F
どれもこれも微妙な二次史料だね
石田の手紙には書いてないの?
0291人間七七四年2011/10/12(水) 13:36:02.71ID:si/aG71f
どれも佐竹を持ち上げる必要も無いし、他に史料が無い以上、違うとは言えないんじゃないか?
0292人間七七四年2011/10/12(水) 14:13:15.86ID:eatzImo9
仮に救出に対する礼状を受け取っていたとしても
水戸城引渡し前に処分したか、あるいは赤館・棚倉で焼き捨てているだろう。

徳川方の史料に何かないだろうか。
0293人間七七四年2011/10/12(水) 14:14:06.29ID:HjMxor4F
違うと言ってるのは別の人だよ
史料あげてくれてありがとう
0294人間七七四年2011/10/12(水) 18:46:53.14ID:L6K7a2JR
>>292
棚倉で焼き捨てってのはなにかに載っている話?
そのときは誰が棚倉に入っていたんだっけっか?
0295人間七七四年2011/10/12(水) 22:48:03.86ID:ljHUqsOK
誰が居たというか、転封の時に棚倉に集合したんじゃなかったっけ?
義宣は直ぐ様水戸を立ち退いて移動するように支持を出して、義宣自身は水戸に寄らずに秋田へ向かったはず
0296人間七七四年2011/10/13(木) 08:46:57.11ID:bUglYq0i
和田昭為宛ての手紙に
「南郷者にもつののけ所に 内府様より被仰付候間、其分にいたす可候」
とあるね。
同じ手紙の中で、蔵にある墨蹟等を焼き捨てて掃除するよう指示もしている。
0297人間七七四年2011/10/20(木) 22:25:19.71ID:ouWkbtbn
佐竹は常陸から出羽へ国替えして、イメージが薄くなった
島津とかはご当地大名として有名なままだけど。
0298人間七七四年2011/10/21(金) 09:35:07.28ID:0gi3Vj4c
>>297

戦国以来のご当地大名のまま維新を迎えたのは、島津と相馬と伊東と宗と、他はどこがある?
0299人間七七四年2011/10/21(金) 13:45:21.28ID:Wspk9Eav
佐竹も大河やりゃいいのにな
最初は北条と戦いながら常陸統一で後半は伊達とだろ?
脚本次第じゃ面白そうなのに
0300人間七七四年2011/10/21(金) 14:04:56.45ID:enFQKzp7
>>298
蠣崎、南部、大田原、大関、遠山、松浦、大村、五島、相良、伊東

津軽、柳生は微妙なところだな
0301人間七七四年2011/10/21(金) 21:07:38.89ID:afRHNNHZ
>>299
今の大河の体たらくでは脇役で留めてくれと言いたくなる。
卜伝と同じBSプレミアム枠ならいいかな。
0302人間七七四年2011/10/22(土) 13:02:42.21ID:0Mcu+JfB
今は大河より漫画化の方が余程マシだな
0303人間七七四年2011/10/22(土) 13:05:28.82ID:Fq1l/07j
ここは雪の峠の実写化で
0304人間七七四年2011/10/22(土) 14:53:56.86ID:Uj64Fp14
>>299
おお。良いと思うぞ。清和天皇から秋田県知事までやってくれ。
なんなら一番最後のコーナーで秋田の名産について県知事が一席ぶってくれてもいいぞ。

これが上杉氏だと、最後に当主が出たとたんに、宇宙工学の講義が始まりそうでな。
いや、「ひてん」「はやぶさ」など宇宙研究所でいい仕事をしてると思うけどさ。
0305人間七七四年2011/10/22(土) 17:13:45.23ID:OCtR3F7W
冗談じゃないw
したり顔で愛だ平和だ語る戦国武将にされるのはもううんざりだ
0306人間七七四年2011/10/22(土) 17:54:58.26ID:UdMpQeli
>>299

佐竹では視聴率がとれないw

後北条五代すら実現していないのに。
0307人間七七四年2011/10/22(土) 20:20:38.87ID:8Q4zD1gS
佐竹は甲冑王
0308人間七七四年2011/10/23(日) 12:08:44.52ID:7bQ/wnp3
義重と義宣の甲冑を東京の博物館に展示してけれ。
0309人間七七四年2011/10/23(日) 17:16:15.82ID:FAq4fvKs
そういや義宣の甲冑、ちっさくね?
もっとガタイがいいのを想像していたので意外だった
義重のが大きすぎるのかもしれんがw
0310人間七七四年2011/10/23(日) 21:32:55.03ID:RxZup7HB
片足が無い疑惑w
懐かしいな。
0311人間七七四年2011/10/23(日) 22:47:22.12ID:7NI5YVzF
>>309
肖像画では大柄に見えなくもないが、
佐竹史料館で見た感じはさほどでもなかった。
あの下にもこもこ着込むからゆとりを持たせてあるのかもな。
0312人間七七四年2011/10/24(月) 21:53:32.19ID:oevpSu+q
>>311
佐竹資料館で聞いたら、
あの肖像画は義宣死後に描かれたとする説が濃厚みたいですよ。

0313人間七七四年2011/10/24(月) 21:53:43.42ID:LqQW2hYG
>>300
あと一応戸沢もだなw
0314人間七七四年2011/10/25(火) 02:26:36.35ID:FQ9ZbcXY
>>313
戸沢は角館→新庄なので違うかと。
0315人間七七四年2011/10/25(火) 16:02:50.22ID:Hd8hhepX
>>312
まあ、肖像画は死後に描くのが普通だからね
ちなみに例の義宣肖像画は荻津白銀斎の作と書いてあった
白銀斎は佐竹家臣で幕末から大正にかけての人物だから比較的新しい
0316人間七七四年2011/10/26(水) 18:34:12.80ID:agdvACCG
やっぱり負け戦が多いのがネックかな。
多賀谷の対北条戦線や真壁・太田の対小田戦などは
健闘していても那須責めや対伊達戦での敗北がマイナスイメージ?

個人的には好きな大名なんだけど
0317人間七七四年2011/10/26(水) 18:59:05.88ID:Uc3k16Bq
でも本拠地(本城)まで攻めこまれたことは1度もなかったでしょ。

後北条は小田原城を2度包囲されている。
0318人間七七四年2011/10/26(水) 20:28:11.87ID:aYYvmuZ5
勝利宣言するに至らなかった結果まで負け戦と呼ぶのはどんなもんかな。
適当なところで和睦・休戦に持ち込むのが当時の北関東〜南東北の戦スタイル。

むしろ、領地に踏み込まれない限り積極的に打って出なかったイメージがある。
0319人間七七四年2011/10/26(水) 21:08:59.95ID:Uc3k16Bq
「負け戦」というよるは「押され気味の引き分け」かなあ。
0320人間七七四年2011/10/27(木) 16:05:27.58ID:2uKKjh0P
局地的な勝敗はそれほど重用じゃないからね
信長や家康も局地的には結構ぼろ負けしてるけど結局は誰も勝てなかったし
0321人間七七四年2011/10/27(木) 17:23:41.94ID:BHqUAHZU
身内の小競り合い、なあなあで解決・・・というと聞こえは悪いが、
南東北はそれで結構うまいこと回ってたんだよなー。

西国=ヒエラルヒー確立・ハンコぺたぺた、東国=個対個の契約・花押
と分析した先生がいたが、誰だっけな。
0322人間七七四年2011/10/27(木) 17:29:53.37ID:UBNXK8N0
山室恭子か?そこまで粗雑な議論ではないが
0323人間七七四年2011/10/27(木) 17:37:48.91ID:OZ+PXfI4
まあ、この地域は家が潰れるような事は滅多になかったからな
合戦でどれだけ大敗しても起請文を交換すれば一件落着
領地も殆ど取られないし
そのかわり小競り合いは絶えない
0324人間七七四年2011/10/28(金) 17:16:38.46ID:+o0n7kjk
そのわりに「領民は疲弊し、田畑は荒れ……」にならなかったのが凄いっちゃあ凄い
きっと戦をレクリエーションか何かと思ってるw
0325南原2011/10/28(金) 22:43:40.75ID:9nQcLfXj
佐竹右京太夫は、内府の提示した、常陸、上総、下総、磐城、下野の内に百万石を与えると言うのが、空手形に終わる公算が高いからこそ、決起し、藤堂邸を強襲し、石治少を伏見まで護衛したのである。
0326人間七七四年2011/10/28(金) 23:10:48.66ID:LgXqf6ov
珍説ktkr
0327人間七七四年2011/10/28(金) 23:16:09.56ID:R6I2QIqy
本当にそんな話が有ったとして、信じるのは政宗くらいだな。
0328人間七七四年2011/10/29(土) 01:15:58.78ID:MQj2Pzkc
>>324
戦国期の佐竹の史料で領民について書いたものって本当に少ないよね
全然領民の顔が見えない。
例の悪名高い、唐入りの陣から国許に送った村ごと磔物指令と
江戸氏や那須氏との間で人返し協定を結んだくらいか。
0329人間七七四年2011/10/29(土) 15:16:41.23ID:i1y7ySLA
佐竹の歴史戦編。

平安末期
時勢を読めず平氏について源頼朝に戦で負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる

南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
楠正家に負ける。

戦国時代
小田に負けるが上杉に泣きつきのおかげで逆転勝利。
那須ごときに負ける
北条に攻められるが上杉の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田に助けられる
北条と武田が和睦しまた北条から攻められるが上杉に土下座して援軍に来てもらい勝利


安土桃山時代

芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる

伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。

江戸時代

佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
0330人間七七四年2011/10/29(土) 15:24:33.87ID:uD6DEZs5
バイアスのかかった見方だなあw
特に「明確に徳川に付く」は非常に疑問だ
0331南原幹雄2011/10/29(土) 15:36:52.26ID:dyeKmwdM
佐竹義重と佐竹義宣、父子で意見が割れていたのは周知の事実
0332人間七七四年2011/10/29(土) 22:54:41.47ID:/6wk9dtr
でも義重は義宣の決定に口だすような出しゃばりじゃないから
決断は義宣に一任していたよ
0333人間七七四年2011/10/29(土) 23:29:01.53ID:SxKKWz/3
義重が偉大過ぎて義宣の評価が辛口になりがちだが
久保田目線で見れば二代藩主がまっとうなのは義宣の薫陶あってのことだから
関ヶ原の件だけでどうこう言う気にはなれない
0334人間七七四年2011/10/30(日) 01:58:27.69ID:1ZQ2IS/j
>>333
二代藩主というと義隆?何か名君としてのエピソードがあるんですかね?
ちょっと興味がわいたので
0335人間七七四年2011/10/30(日) 12:38:15.11ID:0JdvfeNw



一 常陸 一 磐城 一 下野 一 下総 一 上総

右五ヶ国之内百万石御本領之事候之間、佐竹右京大夫殿ヘ為可被宛行、進之候、乃如件

慶長五年六月十六日 徳川家康(墨印)
佐竹右京大夫義宣殿
0336人間七七四年2011/10/30(日) 12:44:50.36ID:Qeq3pgHd
ふざけんなよお前ら
のぶやぼでの佐竹氏の
鉄砲適正が低いことになんで怒らないわけ!
0337人間七七四年2011/10/30(日) 23:00:24.76ID:dr6yamPl
>>334
養父に似て真面目で律義者と伝わっている。
いい話悪い話スレまとめにも一度出てきた。

蛇足。
正室・寿流姫(光聚院)の父方の祖父は南義種、母方の祖父は渋江政光。
良妻賢母で有名だよ。
0338人間七七四年2011/10/31(月) 12:53:50.63ID:NgpfqpVp
佐竹は負け戦が多いと書いた316なんだけど、
印象的に敗北の観が強い戦を続けても領土を増やした
外交術や策謀のうまさは評価されると思うんだよね。

と、いうより戦国大名に求められる最大の資質がそれ。
同じ常陸でなら、無敗とかいわれながら超マイナーな
水谷正村が間逆の典型。

ただ、ドラマ的には大きな戦で負け、引き分け続きでは
美味しくないといっただけ。
0339人間七七四年2011/10/31(月) 14:21:26.01ID:GZ7GtZwq
tesyto
0340人間七七四年2011/10/31(月) 15:05:34.35ID:k7PDbYwg
むしろ佐竹は平安時代からいつもギリギリなのが面白い
滅亡寸前まで追い詰められるも外交力を駆使してあの手この手で切り抜けて
いつの間にかそれなりの地位に落ち着くというパターン
0341人間七七四年2011/10/31(月) 17:28:24.28ID:npjyO3qz
佐竹は良くも悪くも伊達政宗の引き立て役の一人になっているから、主人公になるのは難しいわな
0342人間七七四年2011/10/31(月) 18:09:29.63ID:BeBscKaH
>>338

> 佐竹は負け戦が


戦場で負けても、領地を大きく取られたとか、重要な城を占領されたということがあまりない。

惜敗はあってもボロ負けはあまりしなかった印象がある。
0343人間七七四年2011/10/31(月) 19:03:02.83ID:l4HpCSSH
天下獲り競争だけが戦国武将じゃないもんな
0344人間七七四年2011/10/31(月) 21:08:16.90ID:BeBscKaH
戦国大名といっても、ガチで天下を狙っていたところは少ないでしょ。

島津や龍造寺なんかはいくら強くても地理的に天下取りは無理。
0345人間七七四年2011/10/31(月) 22:39:10.32ID:edKVHtMz
佐竹は常陸国内の豪族を虐殺して領地を横領したが、与力大名の領地を併せ70万石。
一方、羽州久保田は表高21万石乍ら、銅山と新田開発により実高40万石で有り
0346人間七七四年2011/11/01(火) 04:00:06.18ID:qPx+5ryI
>>337
いい話〜まとめをチェックしたつもりだったけど見落としてたみたい
ありがとう
義隆に兄弟がいなかったせいか叔父の宣家(宣隆)が玉突きで岩城を継ぐのは
長府藩等でもあったとは言え、特異な印象を受けますね
0347人間七七四年2011/11/01(火) 09:16:55.07ID:mGCKINIz
その辺は義宣もだいぶ苦慮らしいよ。
正確には、宣家は岩城の名跡を継いでおらず「番代」ということになっている。
本人(=義隆)が成長するまで、代わりに後継者順番待ちの列に
並んでもらったようなものかな?

藩祖ほどではないが義隆も面白い逸話がある人物だから
近デジを覗いていみるといいよ。
03483472011/11/01(火) 10:32:02.28ID:mGCKINIz
ごめん、間違えた。
義隆じゃなくて重隆だ。
0349人間七七四年2011/11/04(金) 23:21:16.64ID:2b8I3iGs
いやあ、盛り上がってますね。
では御田之方もそろそろ話題に登りますかね??
0350人間七七四年2011/11/05(土) 14:35:29.69ID:FlXn65k5
オデンの方って誰かと思ったら信繁の娘か
0351人間七七四年2011/11/05(土) 15:18:24.27ID:z5kXDrfl
宣家は当時まだ多賀谷だったね
正室の多賀谷氏は御田の方が側室に上がった頃はまだ存命中だっけ?
0352人間七七四年2011/11/08(火) 13:15:18.60ID:gACyxLkT
>>347
昔の文章読むのは得意じゃないけど、面白かった
義隆が大名になっても夜話の為に家臣の家へ出掛けていって
焼き飯をご馳走になってたとか、厳格な中にも気さくな人柄だったのかな

そういえば、佐竹にも縁がある国分盛重(伊達政重)の入嗣は国分家臣団から反発を受けて
(国分家の仇敵である留守家を兄・政景が継いだせいか?)
輝宗の次男が生まれる迄の「代官」という空約束で押し込れたなぁ

そんな盛重も佐竹家臣となった後は優遇されたようで報われたかな
0353人間七七四年2011/11/08(火) 15:51:41.80ID:NDlAa/Rp
義隆には近デジでは見られない愉快な逸話もあるんだが
いかんせん微妙に戦国時代から外れているので
この板では紹介できない
0354人間七七四年2011/11/10(木) 00:43:31.68ID:sDBk6CEa
宣家は苦労の人じゃね。敗者復活戦を勝ち抜き川中島二万石get!
0355人間七七四年2011/11/10(木) 15:02:17.18ID:w3gtJ+56
>>352

  ∧,,∧
 (;`・ω・)  。・゚・⌒) 殿様のためにチャーハン作るよ!!
 /   o━ヽニニフ))
 しー-J
0356人間七七四年2011/11/10(木) 18:51:10.65ID:FWUMOaeq
ケンミンショー秋田だぞ今夜
0357人間七七四年2011/11/10(木) 23:11:33.77ID:4KBaWTkO
>>355
いかん、これ思い出したw
http://www40.atwiki.jp/83452/pages/496.html

炉端で焼いてたみたいだから、味噌焼きおにぎりみたいなのかな?(あれは旨い)
炉端というと秋田だけに、きりたんぽを連想するけど、あれは猟師の携行食みたいだし…
他にも夜話の肴に煮豆、湯漬けなんかで腹を満たしていたみたいだね(義宣の頃からかな)
0358人間七七四年2011/11/13(日) 21:09:21.51ID:JaSBpZsi
義隆は焼き飯なのか
義宣は渋江内膳の家に夜話に行って煎り豆を馳走になったら
老臣たちに「関東では考えられない贅沢だ」と嘆かれたというぞw
0359人間七七四年2011/11/14(月) 21:20:00.58ID:e3vsDPmf
塚原卜伝最終回で佐竹の名前呼ばれてたな。
あと書状に源(佐竹)義篤の名が書かれてた
0360人間七七四年2011/11/14(月) 21:49:53.70ID:IjQtto7O
採掘した金はぜんぶ武具や開発に投資して
食事は倹約だったのかね義宣時代は。
0361人間七七四年2011/11/15(火) 02:59:36.97ID:YAGnxBSk
戦国大名なんてみんなそんなもんだろ。信長すらそんな感じだ。
0362人間七七四年2011/11/15(火) 03:26:20.89ID:/ypy4Rzm
じゃぁ、浅井親子と義景のドクロに金粉塗ったのはとんでもない贅沢だな。
0363人間七七四年2011/11/15(火) 16:53:03.72ID:k2aSwqL9
煎り豆なんて比叡山の寺小屋で勉強するガキに出されてたレベルだぞw
どんだけ関東貧困なんだw
0364人間七七四年2011/11/15(火) 17:41:56.61ID:Y/c8kIhp
大豆は味噌などに加工できるから、当時は米より貴重だったんだよ
0365人間七七四年2011/11/15(火) 17:58:38.48ID:2YoA/uGa
それは言いすぎ
0366人間七七四年2011/11/15(火) 18:07:42.38ID:ZxsQ3PO0
>>359
出典は?
0367人間七七四年2011/11/15(火) 18:08:29.24ID:ZxsQ3PO0
アンカ間違い
>>358へのレスね。
0368人間七七四年2011/11/15(火) 20:41:12.57ID:371wgjgP
358じゃないが、自分は近代デジタルライブラリーと、もっと昔の本の復刻版で読んだ
真壁道無と梶原政景の話もあるし、昔は戦仕度が第一だったということなんだろう
0369人間七七四年2011/11/16(水) 16:31:28.93ID:suEwy6ql
『卜伝百首』
・武士の、冬の軍に炒豆を、持ずば、不覚得てしあるべし
0370人間七七四年2011/11/16(水) 22:58:16.05ID:P2r75URp
そうだよな、冬には節分があるしな
豆がないと困るよな
0371人間七七四年2011/11/17(木) 09:21:24.45ID:T/Rp0YA9
鬼との戦さか。さすが卜伝だな。
0372人間七七四年2011/11/17(木) 21:48:16.16ID:HGjpYpZt
水戸黄門のコスプレしてたな(笑)
0373人間七七四年2011/11/21(月) 00:04:15.64ID:eDYnDuSy
>>314
でも結局出羽国に復帰できてる
0374人間七七四年2011/11/25(金) 15:12:07.11ID:gc4RCA+N
真壁氏や江戸氏との関係が気になる
0375人間七七四年2011/11/27(日) 22:08:39.24ID:forRq74I
>>374
アッ────── !!!
0376人間七七四年2011/11/28(月) 14:53:45.09ID:0eZ//JBA
国安氏ってどういう系譜?
0377人間七七四年2011/12/03(土) 23:28:46.24ID:fzwe0rZO
>>376
山入氏系
0378人間七七四年2011/12/04(日) 01:49:28.72ID:+By0ZHAS
>>377
それはわかってるんですが滅ぼされた山入嫡流と同じ系図だったので滅亡直前の分家なのか二本松畠山よろしく生き残りが改姓したのか気になりまして
0379人間七七四年2011/12/05(月) 12:17:54.85ID:8tGxVuJ5
山入氏の本拠は国安だからな
分家が国安名乗るのも些か問題があるような気がする
可能性としては藤義が太田城に入城した際、国安に一門を配置したとか?
もしくは山入宗家が滅んだ際に山入(佐竹)を名乗るのを憚って国安に改姓したか
いずれにせよ他の山入一門よりは上位であったようだが
0380人間七七四年2011/12/05(月) 21:27:26.56ID:GSfODKXt
山入氏義・義盛親子が討たれた時に幼児は助命されたらしいからその末裔なんじゃない
家格は恐ろしく下がってしまったけど
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています