佐竹氏を語るスレ 4
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0001人間七七四年
2010/10/18(月) 03:20:03ID:zPNl4PPqあとはたのむ
0002人間七七四年
2010/10/18(月) 03:20:47ID:zPNl4PPq常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
控え!控え!この扇二月丸が目に入らぬか!
先におわす方を何方と心得る、出羽国主右京大夫佐竹次郎なるぞ。
一同控え!
0003人間七七四年
2010/10/18(月) 03:22:04ID:zPNl4PPq茨城で一番面白い時代は南北朝だと思う
北畠親房がKYで、すったもんだしながら南北入り乱れて、最後に藤氏一揆で瓦解とか
面白すぎるだろw
86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/15(水) 16:53:41 ID:iaCbZZkR
茨城の南北朝はすげーね。佐竹も一枚かんでる。
常陸の軍勢は、京都まで上洛したくらいだから。
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/16(木) 11:01:48 ID:REot/YPV
南北朝時代はやたら雄大だからね
常陸も全国有数の激戦地になったし
佐竹は尊氏の旗揚げから従い九州まで転戦したように、一貫して北朝方だったが
南朝方が優勢な常陸に於いては孤軍となる事も度々で悪戦苦闘した
北朝の佐竹、南朝の小田・大掾(後、北朝)・那珂
既にこの頃からこの構図ができあがってたんだよな
0004人間七七四年
2010/10/18(月) 12:47:39ID:YyBINwXNみんな知らないけど水戸徳川はすごい佐竹への弾圧を二度やってるよね
生瀬殺しは有名で、にわかに佐竹を支持する程度の罪の無い百姓を600人惨殺したよね
天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
それを忘れたの?復権って何?
981 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:14:16 ID:rwi0FBKn
武田観柳斎ってwww
なんで天狗党弾圧で「武田観柳斎」の妻が拷問されんだよ。
982 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:20:44 ID:O4v0a1PA
>天狗党弾圧では残党狩りで武田観柳斎の首を妻に持たせながら拷問したよね
佐竹と関係あるのそれ?
983 :人間七七四年:2010/10/17(日) 00:32:55 ID:kmKnVGS/
>>981
得意げに叩きたがるような手合いに限ってこれだもんなww
武田耕雲斎って言いたかったんだろ
984 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:41:51 ID:1Hij7UwS
武田耕雲斎─水戸藩士
武田観柳斎─新撰組組長
覚えとけよ?
0005人間七七四年
2010/10/18(月) 17:50:46ID:8AY8J88c0006人間七七四年
2010/10/18(月) 21:18:01ID:nX4OmRx7軍事>>>内政
0007人間七七四年
2010/10/19(火) 00:18:23ID:LxveChbw0008人間七七四年
2010/10/19(火) 09:39:40ID:wWV6ZZMZ0009人間七七四年
2010/10/19(火) 10:20:52ID:Jy9J2sLf0010人間七七四年
2010/10/23(土) 11:43:45ID:NsGN+k3Z初代佐竹義宣 1602年 親父のおかげで勢力拡大も、関が原の半端な態度により秋田に減転封。
秋田移動前の生活程度、家臣の録を維持するために無節操・無計画な鉱山開発や
秋田杉伐採を断行。秋田藩の財政はすでにこの時点で無理があった。
二代佐竹義隆 1633年 地味君。限りある資源にあぐらをかき、藩の抜本的な問題は解決せず。
秋田音頭は義隆への上覧音頭と言われている。
三代佐竹義処 1672年 愚鈍で乱費家と名高い。ついに藩の財政を破綻させる。
四代佐竹義格 1715年 賢君と言われるが若くして死んだゆえの過大評価。改革は失敗。
五代佐竹義峯 1715年 倹約令を廃止したり、家臣の給与を差し押さえ借り入れるなど、リアル馬鹿殿。
六代佐竹義真 1749年 藩主期間4年、二十六歳で暗殺される。
七代佐竹義明 1753年 財政改革失敗。反対派と内乱起こす。
八代佐竹義敦 1758年 絵かくの大好き。飢饉、荒廃、佐竹騒動? それな〜に?
九代佐竹義和 1785年 藩校建設。藩財政再建。歴代藩主唯一の名君。
十代佐竹義厚 1815年 三歳で家督相続。知ってか知らずか雪だるま式に借金をつくる。
十一代佐竹義睦 1846年 混沌とした世の中、困窮しきった財政を解消できず。
十二代佐竹義堯 1857年 歴代藩主きっての迷君。官軍と引き換えに裏切りの称号を県民にかぶせ
わずか一ヶ月の短期間に旧式武器が中心の盛岡・庄内藩相手に
領土の三分の二まで攻め込まれた軍事的指導力・判断力の欠片もないヘタレ。
ぎりぎりの所で奥羽同盟が降参したため、久保田城こそ落ちなかったものの、
どうせ仙台、山形が堕ちれば終わっていた戦争、黙って奥羽同盟を維持していれば
いいものを時流を読めず秋田に無駄な犠牲者・恥辱を残す。
後の歴史を見れば分かるとおり、官軍で終わるかどうかで県民には大差無かっ
た。しかし佐竹氏自身は新政府から初代秋田県知事に任命され、現在まで佐竹
氏の影響力を残すことに成功している。
隣県との醜い争いで流れた尊い血は佐竹氏一族のための血だったのである。
0011人間七七四年
2010/10/23(土) 20:29:02ID:6kFxK95z家老が鳥羽伏見の戦い直後の西郷と会談したのに
西郷の力量を見抜けずに幕府についた。
0012人間七七四年
2010/10/23(土) 20:31:07ID:6kFxK95z鳥羽伏見が終わったあとで幕府についた南部藩はガチにアフォ。
0013仙台藩百姓
2010/10/23(土) 20:55:26ID:FTtVW2Rc0014人間七七四年
2010/10/23(土) 21:40:02ID:JnavXWsTただの間違いをここまで胸をはっていう佐竹厨ってw
普通少々の間違いだったらネラーならソフトに触れつつも返信するのが筋だろ
0015人間七七四年
2010/10/24(日) 09:27:14ID:ZgJmCrUt0016人間七七四年
2010/10/25(月) 20:08:03ID:nJWFt3qz先見の明のなかった奥羽越列藩同盟の妬みだろコレ?
0017人間七七四年
2010/10/25(月) 23:09:44ID:v4TmiTov他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。
むしろ無駄な血が流れた。
0018人間七七四年
2010/10/26(火) 02:04:53ID:/TA09GrB> 他県は知らんが秋田の場合、官軍になったからって別に良いこと無かったし。
新政府の殿様に対する待遇がまあまあ良かったとは言えると思う。
0019人間七七四年
2010/10/26(火) 02:08:46ID:T2oqD1tZ西郷の肖像画を家に飾って崇めてるんだよね。
0020人間七七四年
2010/10/26(火) 03:25:20ID:/TA09GrB殿様のメンツを立てたのも良かった。
0021仙台藩百姓
2010/10/26(火) 08:16:27ID:zkWoeY3q久保田にしても新政府に協力しろと言われて協力してみれば
戦争が集結したら用済みとばかり逆に言い掛かり付けられたし
だいたい大減封の上に多額の賠償金払わせられて何が寛大だと言うのだお┐ (´ω`) ┌
しかも百姓に罪はないのに実質百姓から搾り取ったわけだし┐ (´ω`) ┌
0022人間七七四年
2010/10/26(火) 12:12:10ID:9Qp4gwLa0023人間七七四年
2010/10/26(火) 14:03:03ID:UZS38+N2あれのおかげで未だにちょっと歴史に明るいジジイなんかはネチネチ言ってくる。
まあそういう汚名は別としても、隣藩との一連の戦争で秋田は300人以上の戦死者が出ているほか、
市街戦が行われた地域では放火、略奪なんでもあったっていうじゃん。
これって多分無駄な被害なんだよね。日本が近代化するのに必要な血だったとは思わない。
というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、
新政府軍が奥羽越同盟の中心である仙台・庄内あたりを落とせばみんな降伏していたんだから、秋田が戦地になることも無かった。
同盟破って得したのは佐竹家とその家臣くらいだよ。
0024人間七七四年
2010/10/26(火) 14:08:50ID:Ldwj/ghL0025人間七七四年
2010/10/26(火) 15:22:35ID:2o0Fj//q0026人間七七四年
2010/10/26(火) 19:34:36ID:W0HkipPp> というのも秋田がどっちつくかなんてのは大勢に影響無かったし、
そうだよな。
0027人間七七四年
2010/10/27(水) 19:34:27ID:edDeTfeC様々な意見で参考になる
0028人間七七四年
2010/10/28(木) 11:26:29ID:ZJAuAXlQ当時、秋田藩の財政は、各鉱山産出量の低下に加えて森林資源の枯渇により破綻状況にあった。
この緊急事態に対処すべく、全藩挙げての議論の結果、経済に詳しいコンサルタントを雇い入れ、
その指導のもとに藩財政の建て直しを図ることにした。
そこでお雇いとなったのが既に他藩で実績のある人物。
彼の助言に従い銀札を発行したが(反対意見もかなりあった)、お約束通り、銀札の乱発→
物価高騰→銀札の紙屑化→信用失墜→藩内カオスに至り、その混乱を収拾するため、
招聘したコンサルタントと銀札推進派に責任をおっかぶせて鏖殺した。
この一連の騒動が世に言う秋田騒動である。
0029人間七七四年
2010/10/28(木) 11:38:52ID:ZJAuAXlQ世に言う佐竹騒動ね。
でも秋田騒動とも言うのかな。
0030人間七七四年
2010/10/28(木) 12:29:21ID:RzGUxK8F水戸藩でも高名な松波勘十郎を呼び寄せて藩政改革を行ったが
結局失敗して松波親子に罪を被せて殺してしまったし
0031人間七七四年
2010/10/30(土) 19:55:23ID:L5WjIlPq0032人間七七四年
2010/11/02(火) 18:46:24ID:TAuzg8cZhttp://m.rakuten.co.jp/rms/msv/Item?i=10000794&s=240902&c2=2722836469
0033人間七七四年
2010/11/11(木) 19:54:46ID:uHBuz3Xb津軽は米不足で飢餓が始まってたのに
米を載せた船わ京に廻したアホっぷりで壊滅したけど。
0034人間七七四年
2010/11/12(金) 00:20:26ID:hpa8/VOR壊滅したというが津軽は維新まで改易されなかったぞ。
0035仙台藩百姓
2010/11/12(金) 12:19:16ID:iqAIFTlu内がどうなろうと幕府の覚えがめでたければ関係ないお( ^ω^)
0036人間七七四年
2010/11/12(金) 13:54:18ID:nXZWLAlK伊達は同時期に幕府の金流通を禁止し自藩の銀札の使用を強制したら幕府金と仙台銀札交換レートを考えず崩壊財政の仙台銀札を誰も信用せず物流完全ストップで30万餓死し壊滅。
相馬は1/3に人口激減なるも上下協力し一揆が唯一起きなかった。
南部が一番ヤバかったらしく教訓として後世に残った碑で人肉を喰った絵が描かれていたものが八戸にある。
天候不順と群馬の浅間山噴火などで飢饉を予想して手を打たずに
安値だった米価が飢饉により久しぶりに高値になったので
藩財政崩壊の立て直しをするチャンスと
米を京や江戸に運び出して大飢饉を引き起こした。
白河と米沢は米経済だけに依存してないのでアホみたいな米価格暴騰をする前に早期に金で米を買ったりで死者0で乗り切った。
西国に飢饉は起きておらず米自体は欠乏していない完全な経済政策の失政。
唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽したので被害拡大した。
伊達は慶長の飢饉で崩壊が続き
徳川家光の寛永の大飢饉で完璧な財政崩壊をしてたので米価格高値に目が眩みすぎ。
はやく要害制度を廃止しリストラして武士による搾取体制から脱却すべきだった。
民衆への過度な労役による運河作りは平時は米安値叩き売り、高値の時の売却で大飢饉と伊達の水堀運河は飛散さを増しただけの無駄。
佐竹とか他の藩は知らんな。
0037人間七七四年
2010/11/12(金) 14:32:03ID:H2SkFHxF0038人間七七四年
2010/11/12(金) 15:09:25ID:5ZQBBtrW> 唯一の大藩の伊達の餓死ぶりは有り得ないレベルで
幕府から失政の責任をとらされて改易を恐れて徹底的に隠蔽した
伊達領には幕府の密偵も忍び込んでいたと思うが、
なぜバレなかったのだろうか?
0039人間七七四年
2010/11/12(金) 15:59:07ID:nXZWLAlK借財を引き継いでまで代わりに仙台へ行くアホはいないし
幕府も伊達の大借金を肩代わりするわけがない。
完全に仙台の無能ゆえの杞憂。
仙台にそうまでして継承する価値はない。
0040仙台藩百姓
2010/11/12(金) 17:15:25ID:iqAIFTlu0041人間七七四年
2010/11/13(土) 04:30:27ID:TOqPSAlK東北で起きた天明大飢饉の影響
日本の人口
安永9年 2,601万
天明6年 2,509万
100万人も激減してます。
0042人間七七四年
2010/11/13(土) 09:30:53ID:c9EmaynR0043人間七七四年
2010/11/13(土) 15:39:04ID:wKxhqduD飢餓地獄藩で良いことなんて何も無かった。
0044人間七七四年
2010/11/13(土) 16:10:15ID:BW9T6Nw+0045人間七七四年
2010/11/13(土) 16:40:49ID:1laYrKJH0046人間七七四年
2010/11/14(日) 08:29:00ID:TNyvjW1L茨城は天庵様に逆襲されつつあります
旧佐竹領はもう駄目だ
0047人間七七四年
2010/11/14(日) 13:17:35ID:t658SS0m龍ヶ崎は伊達藩の飛び地だったわけだが。
0048人間七七四年
2010/11/14(日) 21:31:51ID:7vhP0tQH頑張ってる秋田県
0049人間七七四年
2010/11/27(土) 00:18:30ID:CUbj267H0050人間七七四年
2010/11/27(土) 14:57:47ID:P+X46Y+J本拠地が太田城のままだったら
違った結果になっていたと思う
0051人間七七四年
2010/11/28(日) 13:25:46ID:m8OT2VrSだけど確かに水戸は呪われてるかもしれないw
本拠地置くなら土浦辺りがベストだと思うのだが佐竹領じゃないし
府中あたりがいいかな
義昭が長生きしていたらそうなっていたかもしれない
0052人間七七四年
2010/11/30(火) 02:59:38ID:Cre/Filt0053人間七七四年
2010/11/30(火) 18:26:18ID:Y9PpObJM0054人間七七四年
2010/12/08(水) 02:34:42ID:Md6DRpoL0055人間七七四年
2010/12/14(火) 23:04:34ID:/xXvfLsM0056人間七七四年
2010/12/15(水) 03:13:58ID:2iMsczDE0057仙台藩百姓
2010/12/15(水) 17:41:55ID:K50zDgltそう言えば頼朝から貰ったという扇は現存してないのかお( ^ω^)
やはり屈辱的な物だったから頼朝の居なくなった後に
「こんな物いるかお(#^ω^)ピキピキ」と投げ捨てたのだおうか( ^ω^)
0058人間七七四年
2010/12/16(木) 03:24:16ID:RAQ7Knlb出家?謀殺?処刑?
0059人間七七四年
2010/12/17(金) 11:58:22ID:SvjbLH9N佐竹本三十六歌仙絵巻
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%AD%8C%E4%BB%99%E7%B5%B5%E5%B7%BB
0060人間七七四年
2010/12/24(金) 18:20:16ID:g961Ikfu佐々木倫明氏の佐竹氏研究の評価はどうなの?
市村高男氏の研究には、佐々木氏の研究はほとんど(全く?)引用されてないし、
逆もまた然りのような気がするが。
まあ気のせいかもしれないがね・・・
0061人間七七四年
2010/12/25(土) 00:00:21ID:8IZbcQpx対立してるんか?
0062人間七七四年
2010/12/29(水) 14:17:07ID:90jVp0OA0063人間七七四年
2011/01/06(木) 21:48:36ID:ophkjI8G0064人間七七四年
2011/01/13(木) 20:22:54ID:FFhNbh7L0065人間七七四年
2011/01/14(金) 18:06:15ID:+DvblZFf城としては役立たないでしょ。
その近くなら旧出羽の柵跡地がいい。
久保田に移ったのはそれで正解と思う。
旭川を境に内町と外町に分けて新たな町づくり。
そして400年の時を経て土崎と秋田(久保田)が融合して。
0066人間七七四年
2011/01/15(土) 18:59:50ID:Ww52LYY70067人間七七四年
2011/01/18(火) 21:04:37ID:W9PL5HIbま、安東氏でさえ、有事に檜山城に立てこもったくらいだからな
0068人間七七四年
2011/01/19(水) 19:52:34ID:wiWZdnXj半年くらい籠城できたんだっけ?
奥羽の城としては要害というか上出来だね。
0069人間七七四年
2011/01/26(水) 11:17:04ID:tVwZKars0070人間七七四年
2011/01/26(水) 17:54:27ID:fQnYhI3Hその土木工事にかける費用がなかったんだろうか。
0071人間七七四年
2011/01/28(金) 19:23:52ID:pupEDIiC義宣自身がそう言ってるんだから。
>>66が言うように、そもそも義宣はあんまり防御施設としての城を
あまり重要視してなかったらしく、親父に「こんな城で大丈夫か」と聞かれて、
「城から出て戦争することを心掛ける(ニュアンスとしては、「常識的に考えて、
これからの戦争は野戦で片付けるのがトレンドだろ」)」的なことを言ったとされている。
0072人間七七四年
2011/01/29(土) 08:19:07ID:spSnM4bI当時は沼とか泥田んぼや雑木林などあって地理的に守りやすかったんだろうなあ。
地勢を熟知している側は夜襲もできた。
0073人間七七四年
2011/01/29(土) 09:10:31ID:lamAhM9g0074人間七七四年
2011/01/29(土) 15:06:22ID:6YMwLlmd伊達の仙台築城も宗薫に金だけ出して丸投げしてる。
宗薫は近江から技術集団を仙台に派遣してる。
0075人間七七四年
2011/01/29(土) 15:49:42ID:LYIX0IzK0076人間七七四年
2011/01/29(土) 15:59:27ID:pd7ijZZV八木山橋からは、たまに投身自殺もあったらしい。
0078人間七七四年
2011/01/29(土) 21:04:46ID:rW5n4eju0079人間七七四年
2011/01/29(土) 22:53:30ID:zeWPmOzx義宣の第一の政策は、有力一門をはじめとした伝統的家臣団から
施政関与権力を奪うことにあったので、そういうことはさせてないと思う。
だから梶原政景が逃げたのも無理はない。
もし政景が佐竹に留まっていたら、義宣は政景を殺害した可能性が高い。
0080人間七七四年
2011/01/29(土) 23:04:58ID:MpTgPh/i石垣作りの技術は秀吉時代で桃山城や大坂城普請で石垣を沢山作ってる事実があるのだが。
0082人間七七四年
2011/01/30(日) 00:28:47ID:DuYdui/r佐竹はそっち系の技術は凄そうじゃん。
0083人間七七四年
2011/01/30(日) 00:37:02ID:JZPrzSzQ0084人間七七四年
2011/01/30(日) 00:50:08ID:DuYdui/rだから分け前なんかも金堀衆からぼったくり出来んかった。
0085人間七七四年
2011/01/30(日) 23:59:57ID:9WY1HnSCいかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
梅津
0086人間七七四年
2011/01/31(月) 00:12:52ID:AErj1URZ石垣も金堀も職人が行っていたし大名家自体は技術とか関係ない
いかに有能な職人を抱え込むかという問題
佐竹には石垣職人がいなかったのは間違いない
佐竹が天下普請で石垣を命じられた時
佐竹家では石垣を造った経験がないから掘担当にして欲しい
と願い出たと梅津政景が記している
逆に有能な金堀衆はいたようだ
佐竹転封の後に水戸徳川家が金堀職人を集めて金山や銅山の開発を度々行ったがことごとく失敗した
それらの鉱山は明治以後に再び結構な量の金や銅を産出したから枯渇していたわけではない
佐竹の方は出羽でも鉱山開発に成功している
0087人間七七四年
2011/02/02(水) 18:22:01ID:8XkMtXol石垣こそ駄目だが、実戦的な城作りならお手の物じゃねーか。
0088人間七七四年
2011/02/02(水) 20:12:03ID:PMAkZ2Yi味方を無事に帰らせた河合忠條と
茅根通正はサムライだったな。。
奥羽永慶軍記―須賀川落城のこと
佐竹史探訪―秋田さきがけ新報社
に詳しく書かれてるが。。。
0090人間七七四年
2011/02/03(木) 21:38:40ID:DhGGh+Hv功労者でしょ
カワイ違いだ
0091人間七七四年
2011/02/08(火) 00:16:22ID:9mwHiXQ00092人間七七四年
2011/02/08(火) 01:41:45ID:GVXNrUcp0093人間七七四年
2011/02/20(日) 21:26:52.08ID:MNh4plQA川井氏が?
0094人間七七四年
2011/02/21(月) 04:41:48.15ID:nCRK6nxC佐竹氏は、別に石垣職人を抱えて居なかった
別に珍しくないよ
戦国時代石垣造りは、主に西日本の城だよ。
東日本は、主に土塁が主流でした。
0095仙台藩百姓
2011/02/21(月) 09:35:20.26ID:vy6qBu9A特に大藩の中では( ^ω^)
0098人間七七四年
2011/03/19(土) 15:25:06.74ID:ADWAhEFh0099人間七七四年
2011/03/21(月) 01:57:50.46ID:K38DL0OQ茅根通正な
0100人間七七四年
2011/03/22(火) 02:16:42.56ID:tmx6g9th0101人間七七四年
2011/03/30(水) 23:10:42.66ID:5Z0FMTwf0102人間七七四年
2011/04/06(水) 22:24:56.50ID:q5oRCJ4y0103人間七七四年
2011/04/14(木) 21:52:36.20ID:1B+cU163http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/2011041401001143.htm
秋田県は14日、佐竹敬久知事が脳出血のため当面の間、入院すると発表した。
症状は安定しており、大型連休明けの5月9日にも公務に復帰する予定という。
県は2日前に症状を把握していたが、脳疾患を否定する虚偽の説明をしていた。
県によると、急激な血圧上昇による少量の脳出血。会話には問題ないが、
「左手が動かしにくい」と訴えているという。
佐竹知事は12日、体調不良を訴えて記者会見を途中で打ち切り入院した。
県は12日夕には病院側から脳出血と聞いていたが、
「現時点で脳疾患の心配はない。静養を兼ねて検査入院した方がいいと医師から言われている」と
虚偽の説明をしていた。
2011年04月14日木曜日
0104人間七七四年
2011/04/15(金) 00:49:59.94ID:Y1KhY2JJそしてやっぱ脳溢血の家系なのか…
0105人間七七四年
2011/04/15(金) 00:57:01.75ID:Y1KhY2JJそしてやっぱ脳溢血の家系なのか…
0106人間七七四年
2011/04/15(金) 00:57:14.04ID:Y1KhY2JJ0107人間七七四年
2011/04/15(金) 09:29:23.58ID:MAdC//Tk0108人間七七四年
2011/04/15(金) 14:05:11.60ID:a+U/XxuNこっちで、盛り上がってる。なんか「殿、がんばれ」「殿、休め」とか
いきなり家臣が増えてやがる。w
ttp://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1302665080/
0109人間七七四年
2011/04/17(日) 01:36:58.06ID:Cvj2aWqe0110人間七七四年
2011/04/18(月) 08:40:39.60ID:XxsNxfPq病床の秋田県知事・佐竹敬久公にエールを送るスレ
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mayor/1303048193/
0111人間七七四年
2011/04/18(月) 13:57:51.56ID:lmq9dQNa今ではすっかり熱が冷めてメタボ呼ばわり。
民衆なんてそんなもん。
0112人間七七四年
2011/04/18(月) 22:38:03.08ID:th+Z+uLSこんなタグも広まれば面白いんだが、
さすがにそこまでは無理か。
0114人間七七四年
2011/04/22(金) 14:00:22.51ID:/WxWlvGa0115天変地異発動! ◆tenpen5cB.
2011/04/22(金) 17:35:00.54ID:e1+IA2Qeこの戦国時代のスレに存在しているのがネット時代として
日本最大の不幸であろう。
こんな屑家系を語る必要はない。
二度と子孫を作らせず、家系ごと日本から葬れ。
赤子が出来たら包丁で殺せ。
0117人間七七四年
2011/04/23(土) 12:00:44.80ID:PfowP/u70118天変地異発動! ◆tenpen5cB.
2011/04/23(土) 23:13:06.44ID:SinSyra40119人間七七四年
2011/04/28(木) 12:59:54.20ID:9wdQyX8x気持ち悪いよおとみさん♪
0120人間七七四年
2011/05/03(火) 07:46:23.37ID:RflFY0HC0121人間七七四年
2011/05/03(火) 08:29:57.33ID:7K7oQVru0122人間七七四年
2011/05/05(木) 00:38:42.92ID:thU7adYD少しずつ成長してるな。
0123人間七七四年
2011/05/05(木) 14:51:24.01ID:QRldul3h足利尊氏の時は早くから味方していた。
0124人間七七四年
2011/05/05(木) 16:34:27.31ID:V9FbWB/+0125人間七七四年
2011/05/10(火) 12:53:05.33ID:gdWMPx2A死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
佐竹歩くところ自殺者多数。
死に神一族、「佐竹氏」
0126人間七七四年
2011/05/10(火) 12:55:35.35ID:gdWMPx2A0127人間七七四年
2011/05/12(木) 08:08:15.06ID:xlF7VR1x平安末期、源平、奥州征伐
時勢を読めず平氏について源頼朝に負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる
南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
その後も楠正家に負ける。
戦国時代
小田に負けるが上杉謙信公のおかげで逆転勝利。
北条に攻められるが上杉謙信の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田信玄公に助けられる(同盟でいいように使われる)
北条と武田が和睦しまた北条が攻められるが上杉謙信公に土下座して援軍に来てもらい勝利
安土桃山時代
芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる
伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが上杉に泣き付き豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。
江戸時代
上杉が義を忘れずに豊臣につくが佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
江戸時代ではずるして石高を過少申告する。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
0128人間七七四年
2011/05/12(木) 20:25:35.34ID:AkjSrjjc0129人間七七四年
2011/05/19(木) 17:51:42.28ID:BQ3e1zuE江戸時代なんか、平民大名が多い中、数少ない名門だった。
0130人間七七四年
2011/05/20(金) 12:33:34.95ID:51LvZX8N>佐竹は明確に徳川に付く
明確についていたら転封されなかっただろ。(後で潰されたと思うがw)
幕末には明確に徳川を潰す側に回ったけどな。(評価されなかったがw)
0131人間七七四年
2011/05/21(土) 16:10:20.87ID:RRlslKPT0132人間七七四年
2011/05/21(土) 21:30:21.57ID:iDBCDm4R安東島津並みに古い家だもんな。
南部?何それ?と言ってもいいくらい
歴史と由緒がある。
0133人間七七四年
2011/05/21(土) 21:56:31.09ID:IRacuP4Cおそらく一番すごいのは相馬
0135人間七七四年
2011/05/22(日) 14:39:04.78ID:8chlkP+c以前出した論文と内容は一緒なのかな?
0137人間七七四年
2011/05/31(火) 19:53:29.90ID:BqIIcpfc初代秋田県知事は佐竹ではない。
もっと勉強しろよ
0138人間七七四年
2011/06/09(木) 21:10:17.49ID:xU+d0YZF0139人間七七四年
2011/06/10(金) 17:46:48.77ID:D/E3T78R誰がいるんだろうか?
どうも当主の名声ばかりが高い気がするのは、おれが素人だからだろうか?
0140人間七七四年
2011/06/10(金) 17:59:14.18ID:r3wLzh0a一度佐竹家から出奔して、白川結城氏に仕えるが
佐竹が白川を攻めた時に内応、義親を捕縛して佐竹に帰参してる。
小貫頼久、人見藤道と並んで佐竹の三奉行と称された。
主に外交で活躍。
北家の佐竹義廉も外交で活躍して、若年の義昭を補佐してる。
0141人間七七四年
2011/06/10(金) 18:10:55.83ID:r3wLzh0a子の宗通は佐竹に仕えてるな
0143人間七七四年
2011/06/11(土) 00:03:12.67ID:vG9Cqdg4あとは・・・特に個性なし
0144人間七七四年
2011/06/11(土) 17:10:14.43ID:RS/i4ZE1和田昭為
小貫頼久
人見藤道
岡本梅江斎
岡本顕逸
佐竹義久
山形篤定
船尾昭直
荒巻駿河守
小野崎義政
大縄義辰
真壁氏幹
車丹波
赤坂政光
赤坂朝光
根本里行
渋江政光
梅津憲忠
梅津政景
0145人間七七四年
2011/06/12(日) 04:01:52.12ID:hv2c69sQ佐竹と宇都宮の関係から考えようぜ。
258 名前:人間七七四年 投稿日:2011/05/31(火) 16:18:52.60 UcK7r4hU
1 佐竹氏 ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 54万5千4百石
2 蘆名氏 ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。 5万石
3 岩城氏 ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 12万石
4 多賀谷氏 ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。 6万石
5 宇都宮氏 ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 18万石(改易)
6 相馬氏 ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。 6万石
佐竹ホールディングス101万石
これの誤爆じゃね
0148人間七七四年
2011/06/12(日) 14:21:06.80ID:EHkZqu+3太閤検地の帳簿でも蘆名氏の領地は佐竹氏54万石に含まれている
だから佐竹氏と別に換算するのは明らかに間違い
それと大名時代の宇都宮氏は別に佐竹氏の家臣でも与力でもないし、単に縁戚関係があるだけで行政的には関係ない
宇都宮氏も那須七騎の一部などを与力として付けられて
言わば宇都宮ホールディングスを形成していた
0149人間七七四年
2011/06/14(火) 19:50:49.10ID:a7+Q9FJW水戸城明け渡しで、
ゴタゴタ起こしたの以外で
0150人間七七四年
2011/06/14(火) 20:27:03.17ID:9WwgVSB70151月孔雀
2011/06/14(火) 20:48:09.32ID:gLKEDKb9DNAで、秋田美人。
0152人間七七四年
2011/06/15(水) 02:02:10.34ID:+xfaWP65いや、当時は義重だ
義昭は数年前に死んでいる
事の経緯としては
和田昭為が葦名方と内通していると車斯忠が義重に密告
義重が事の真相を確かめようとしたところ昭為は一人で会津へ出奔
その後、白川結城氏に仕えた
これに怒った義重は北義斯、小田部五郎右衛門らに和田氏の討伐を命じる
昭為の子(兵部、彦十郎、善九郎)と一族郎党は篭城し善戦したが、衆寡敵せず全員討ち死にした
と言う事らしい
で、結局昭為の内通疑惑は斯忠の讒言であったらしいが
あくまで和田家の家譜によるものだから鵜呑みにしていいかは分からない
でも、斯忠はかなり素行に問題があったらしく何度も暇を出されたりして
佐竹家、岩城家、蒲生家、上杉家などを転々としているから実際怪しげな感じではある
0153人間七七四年
2011/06/16(木) 07:52:23.23ID:RWcLyWOn0154人間七七四年
2011/06/17(金) 18:33:35.73ID:1RafdOlE佐竹家の鉄砲調達などに活躍し、武勇も優れたが
民政は苦手だったらしく、領地の治世に失敗して岩城氏の下へ逃れたこともあるらしい。
咳が元で発見されたって話しもあるらしく、咳の神様として祀られている。
0155人間七七四年
2011/06/17(金) 22:37:42.13ID:puKbM0rw0156人間七七四年
2011/06/22(水) 18:17:35.34ID:UPOmeF6Tいまいちなキャラになりそうだが。
0158人間七七四年
2011/06/23(木) 20:11:52.96ID:g0aVXzz+関ヶ原直前、上杉に派遣されたときだな
大将格の浪人の一人として、
面識持ったに違いない
0159人間七七四年
2011/06/26(日) 23:54:53.96ID:5+4O9Wf/佐竹HD wwwww
0160人間七七四年
2011/06/27(月) 18:49:48.37ID:SP6WZ+GQ0161人間七七四年
2011/06/27(月) 20:48:09.29ID:B4dCQWjO佐竹54.5万石の内数とは知らなんだ。
0162人間七七四年
2011/06/27(月) 23:16:38.98ID:81xGf2KF佐竹義久と似たようなもの
0163人間七七四年
2011/07/04(月) 08:24:09.34ID:A0ubwOMd会津復帰は無理でも独立大名として、
領地宛がわれても良さそうなもんだが
0164人間七七四年
2011/07/04(月) 11:08:34.29ID:KjFA0x0J総無事令後でも領地の管理は自己責任という事なのだろう
佐竹も伊達に取られた石川庄辺りの領地は返して貰えなかった
0165人間七七四年
2011/07/05(火) 17:49:20.33ID:TjpLszkM0166人間七七四年
2011/07/05(火) 19:42:46.62ID:gCcwFede思い切り動けなさそうだし
一方の伊達はそれを鼻で笑っただろうし
やっぱ理不尽だよ
0167人間七七四年
2011/07/08(金) 22:39:44.46ID:RhvrnmLaところで塚原卜伝の時代劇化決定したな。真壁氏幹出ねえかな
0168人間七七四年
2011/07/10(日) 11:08:17.14ID:LKOYjNWpそれより堺雅人が卜伝役というのはどうなのよ?
0169人間七七四年
2011/07/11(月) 20:48:38.53ID:NG9xYp4Bそれは、つまり佐竹が理不尽な行いをしたってことじゃん
0170人間七七四年
2011/07/11(月) 22:44:59.44ID:JN4ytJ7Oこの期に及んで総無事令を無視など出来る訳もなく、豊臣政権の主導もしくは許可の下で行われた事は間違いない
江戸氏や烟田氏、小野崎氏なども小田原へ参陣したが滅ぼされている
江戸氏はどちらの陣営につくか決めかね、家臣の一部だけを佐竹氏に同行させたが
戦後も佐竹氏の旗下に組せず討伐を受けた
笠間氏も同様で、家臣の一部を宇都宮氏に同行させたが、戦後宇都宮氏に討伐された
島崎氏も当主の名前がない事から家臣だけ参陣させた可能性がある
0171人間七七四年
2011/07/12(火) 09:11:17.42ID:i/IYVuuNあれはやっておいて正解。
まあ旧北条家臣に対する見せしめとしても機能したんじゃないか?
豊臣政権公認の家康に服さない場合はこんなことになりますよ的な。
0172人間七七四年
2011/07/12(火) 18:29:48.05ID:nAmXOrzMこの家系はどうなったの?
大掾氏の系譜には載ってないようだけど
忠義は後に頼朝方と戦って死んだようだが、これで断絶して大掾氏の一族が継承したという事?
0173人間七七四年
2011/07/13(水) 08:27:33.09ID:6cZ5xLxZまた大掾氏自体が多気氏から馬場氏に交代しているから佐竹はあまり関係ない
騙し討ちした佐竹義季の子孫はどこいったんだろ
また美濃佐竹・土佐佐竹ってのがいるらしいがどの系統なんだろ
0174人間七七四年
2011/07/13(水) 09:47:53.26ID:U3I1+pYP義季の嫡男は上記の忠義の養子になって後に国分氏を名乗ったらしい
次男の義心は叡山に上って出家した
美濃佐竹氏は佐竹秀義の子、六郎義茂(南酒出氏)と八郎季義(北酒出氏)がそれぞれ領地を与えられて立てた
土佐佐竹氏は恐らく無関係
0175人間七七四年
2011/07/16(土) 00:08:07.51ID:iN3yrWIb0176人間七七四年
2011/07/17(日) 20:38:33.09ID:aHO+ucz80177人間七七四年
2011/07/22(金) 21:57:24.36ID:USx63WNM0178人間七七四年
2011/07/22(金) 22:42:13.71ID:9XKqEUVU0179人間七七四年
2011/07/22(金) 22:59:41.21ID:z1vWeVpfhttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/satake_tosa.html
0180人間七七四年
2011/07/23(土) 18:03:10.88ID:SZxkruPU0181人間七七四年
2011/07/23(土) 22:38:35.08ID:cPmBvZcQ0182人間七七四年
2011/07/28(木) 01:21:51.03ID:bTwkD8FA0183人間七七四年
2011/07/28(木) 03:35:38.87ID:GhOIiVlq0184人間七七四年
2011/08/01(月) 14:11:16.03ID:jajPq61o佐竹のどこに魅力を感じてる?
0185人間七七四年
2011/08/02(火) 02:26:44.69ID:Mek+m/SY0186人間七七四年
2011/08/02(火) 02:31:47.16ID:Q6zcYg/Z0187人間七七四年
2011/08/07(日) 21:32:08.97ID:OWOxB/NB0188人間七七四年
2011/08/08(月) 10:57:03.15ID:MINdKIM/平氏時代から明治維新まで完走したのは凄い
0189人間七七四年
2011/08/08(月) 19:00:53.36ID:ke0Nrb1Z0190人間七七四年
2011/08/09(火) 00:07:41.73ID:i8ZOqdDeあ〜、確かに。知事室に不忍池の絵の複製を飾ったりしてな。
こないだは全国知事会とかやってたみたいだな。
当たった割には、お元気そうでな。
0191人間七七四年
2011/08/09(火) 01:32:08.56ID:2hphlN1Xさようなら
0192人間七七四年
2011/08/09(火) 16:54:42.27ID:P6CscPKl0193上杉謙信
2011/08/09(火) 17:32:55.91ID:+L7EZcmq0194人間七七四年
2011/08/10(水) 22:24:59.11ID:WzTvvGKF0195人間七七四年
2011/08/10(水) 22:58:47.07ID:9hzQL9VR五大老に推挙されてもおかしくなかった
0196人間七七四年
2011/08/11(木) 06:34:29.82ID:xIarGw540197人間七七四年
2011/08/11(木) 23:14:41.51ID:ILtFk0XP0198人間七七四年
2011/08/12(金) 03:34:33.79ID:GonQ/GCT0199 忍法帖【Lv=18,xxxPT】
2011/08/12(金) 13:20:59.38ID:pcfod/GV関東管領の上杉氏から実際にオファーはあったらしいが。
佐竹は由緒ある源氏なんだからカネで関東管領のポスト買わないか的に。
0200人間七七四年
2011/08/12(金) 16:06:02.49ID:94x6hHyK憲政も逃亡中で記録する暇無かったのか、米沢上杉が破棄したか、援軍欲しい使者の口から出任せか、佐竹の捏造か
0201人間七七四年
2011/08/12(金) 21:42:46.83ID:PP6KolXg0202佐竹明夫
2011/08/12(金) 22:41:15.28ID:zWZC8Dna徳川家康は佐竹の観望反復を咎め、水戸から出羽久保田へ18万石格で電報を命じた
0203人間七七四年
2011/08/14(日) 09:13:55.64ID:+QflVXRJ0204人間七七四年
2011/08/14(日) 11:19:25.81ID:2KH4nNLFでも関東管領への打診があったという信憑性が高いのはこの点だよな
血縁関係的に佐竹を頼るのは凄く自然な事だ
だが、佐竹的には将軍家と同祖なわけだし
その家来筋の姓になるのは抵抗が強かっただろう
まあ、現実には敢えて北条を敵にまわしてまで手にいれる価値がないと考えて丁重にお断りしたのだと思う
この頃、義昭は北条とも連携をとりながら順調に勢力を拡大していたから
0205人間七七四年
2011/08/16(火) 07:48:32.03ID:XTX62TAR0206人間七七四年
2011/08/21(日) 17:35:22.95ID:1ulfFn8e0207人間七七四年
2011/08/21(日) 20:06:36.29ID:wXojdyP30208人間七七四年
2011/08/25(木) 17:16:56.56ID:7Gs7tpPx0209人間七七四年
2011/08/26(金) 13:22:25.99ID:QDazOluS0210人間七七四年
2011/08/26(金) 19:17:48.30ID:8qIqMEnk0211人間七七四年
2011/08/30(火) 22:25:53.24ID:cGqJ9AY30212人間七七四年
2011/09/07(水) 11:09:40.46ID:4sNAOIY20213人間七七四年
2011/09/07(水) 15:34:41.37ID:c6xEgHF1西義忠の養子になった小場幽庵が義重の弟
0214人間七七四年
2011/09/07(水) 16:31:20.05ID:4sNAOIY2どんな人物だろうか
0215人間七七四年
2011/09/07(水) 23:06:58.12ID:APrLl2wi〇女
佐竹義昭の娘。
岩城親隆の室となる。
〇佐竹五郎義尚
佐竹義昭の次男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
佐竹(南)義里の養子になり南家を相続した。
次いで上那須衆の要請で那須氏の当主になるべく那須資綱と名乗り
重臣荒巻篤応らと共に那須入部を試みるが那須資胤の反撃で失敗し南家に戻った。
後に常陸府中城主(石岡市)となり6246石を領したと言われるが、これは恐らく子の義種と思われ
義尚は元亀2年(1571)8月29日に22歳で没したと見られている。
道号 悦岳 法名 大喜
〇小場三朗義宗
佐竹義昭の三男。母は岩城重隆の娘。義重の同母弟。
小場城主(常陸大宮市)小場義忠の娘を室とし小場氏を継ぐ。
その正室は嫡子義成を産んですぐに没したので
義重の命で石塚城主(城里町)石塚義国の正室を継室に迎え(義国は子が無く没していた)石塚家の統治も義宗が代行する事になった。
後にその継室との間に生まれた子が石塚義辰と名乗り、石塚家を相続した。
他に荒川秀景の次男を娘婿に迎えて小場宣忠と名乗らせ隠居遺領を相続させた。
義宗は領地を接する大山城主(城里町)大山義景と不仲で度々領地争いを起こし、合戦にまで及んだ事があると言う。
後に義重の命で和睦し起請文を取り交わしている。
秋田転封後は出羽仙北郡六郷に住した。
慶長16年9月25日没、享年60
道号 大雲 法名 宗碩
小場氏は義宗を養子に迎えた事で家格が上がり、秋田転封後は西家を名乗り家中筆頭の地位を占める事になる。
〇女
佐竹義昭の娘。
石川昭光の室となる。
〇南呂院
佐竹義昭の娘。
宇都宮広綱の室となる。宇都宮国綱、結城朝勝、芳賀高武の母。
天正4年8月7日(1576年)、広綱が32歳で没し後を継いだ国綱は9歳と若年であった為、実質的に南呂院が家中を取り仕切った。
兄義重と協力して北条氏などの侵攻を防ぎ
子の朝勝を結城氏へ送り込み佐竹氏・宇都宮氏・結城氏の三国同盟成立に一役を買った事などが知られる。
0216人間七七四年
2011/09/09(金) 16:22:09.77ID:8SMd6IJJ戦に弱いよなw
0217人間七七四年
2011/09/10(土) 22:09:20.86ID:r+0Ea7veそんな単純にはいかないか…
0218人間七七四年
2011/09/10(土) 23:55:25.77ID:nF8DMA8/0219人間七七四年
2011/09/11(日) 00:45:56.71ID:1S0mJ2Hj義昭が府中を拠点に南下して義重は太田を拠点に北上するという感じで
まあ、義昭が早死にしたから頓挫してしまったが半ば成功していただけに惜しい
義昭も死ぬ前に弟を自分の代理に立てたが、さすがに支持を得られなかったようだ
0220人間七七四年
2011/09/11(日) 02:57:52.12ID:Eg6IJ7JVもっと評価されていいと思うんだけどな。
謙信とは2つ違いで、義重よりもいい関係を作れた気がするし
本当に早世が惜しまれる。
0221人間七七四年
2011/09/11(日) 06:45:40.20ID:CjUH6oS80222人間七七四年
2011/09/11(日) 11:05:09.65ID:BxrdXzZq0223人間七七四年
2011/09/11(日) 17:23:00.34ID:MX8ZGQZe0224人間七七四年
2011/09/11(日) 19:51:56.57ID:RNe/HsJd0225人間七七四年
2011/09/11(日) 21:04:04.79ID:RlpIhZz+0226人間七七四年
2011/09/11(日) 21:13:50.02ID:MX8ZGQZe0227人間七七四年
2011/09/11(日) 22:39:50.92ID:5I/lolV80228人間七七四年
2011/09/12(月) 00:04:47.80ID:1SIU/0Ug0229人間七七四年
2011/09/12(月) 12:42:45.33ID:rJ/UTNXr義宣が晴増と蹴鞠で遊んでるけど
0230人間七七四年
2011/09/12(月) 20:52:00.57ID:aCe/Us840231人間七七四年
2011/09/12(月) 21:18:53.53ID:rJ/UTNXr不仲だったの?
0232人間七七四年
2011/09/13(火) 08:25:01.88ID:Mkdew4B2同じ常陸国内でも、南方への調略が駄目な印象
どいつが担当してたんだ?
0233人間七七四年
2011/09/13(火) 08:32:35.19ID:2UvSWXKIもともと那須と佐竹はぶつかり合っていたが
何度やっても那須に勝てないので
義重が縁組による和睦を持ちかけたんだよ。
>>232
特に担当は決まっていなかった気がする。
独立心バリバリな国人ばかり揃っていた印象。
0234人間七七四年
2011/09/13(火) 18:34:05.60ID:dleuj1d5全く情報がつかめないんだが
0236人間七七四年
2011/09/14(水) 01:32:10.27ID:4uIy6P0p南方は江戸氏、大掾氏、真壁氏、太田氏などが間にいて周囲を切り取っているので
基本的に彼らの支援が佐竹氏の役目だった
だから佐竹氏の主戦場は領地の接する南陸奥だったわけだ
>>233
それは那須記の記載であって実際はやはり佐竹氏が優位だったようだ
それで那須氏は娘を正室に出す事と領地を割譲する事で佐竹氏と和睦をした
それ以後は大きな衝突は起きていない
まあ、那須方は劣勢ながらもなんとか佐竹の主力と引き分けたり
佐竹方の東氏や長倉氏を破ったり
佐竹氏が烏山城を包囲した事もあるけど何とか持ちこたえたりと
かなり精強だったのは間違いないけど
>>234
震災の後、仕事で太田に1ヶ月ぐらい通ってたけど
外から見た感じでは変わりなかったよ
でも常陸太田市も道路はボコボコだし橋はほとんど通行止め
市内でも古い家屋は全壊しているものもあったから恐らく佐竹寺も壁が崩れたり石の構造物は壊れたりしたのではないかと思う
常陸国内は笠間城の天守台が崩落したし土浦城も櫓や門が損傷したようだね
下野でも大田原城や黒羽城見てきたけど地割れや土塁の崩落
建造物(休憩所とかトイレ)も倒壊してたりと被害は少なくなかった
茂木城は意外と無傷だったけど
櫓も普通に登れたし
0237人間七七四年
2011/09/14(水) 08:12:14.17ID:p4y3YWSy援助も後手に回ってるみたいだね。
知名度の高低よりマスコミの報道に問題があるように見える。
県としても県民の生活優先で文化財どころじゃないんだろうなあ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5857259/?utm_source=m_news&utm_medium=rd
0238人間七七四年
2011/09/14(水) 14:15:09.36ID:2hXsWe3v0239人間七七四年
2011/09/15(木) 13:36:54.98ID:c4nzO6HEまあ、殆どが嫡流じゃなくて次男以下の子孫だけど
0240人間七七四年
2011/09/20(火) 23:13:08.93ID:EZyYwm1B0241人間七七四年
2011/09/21(水) 09:31:17.46ID:3BqUWarD0242人間七七四年
2011/09/21(水) 14:15:45.65ID:X8kuUQaUその後、他家に仕官した者も多いけど
0243人間七七四年
2011/09/21(水) 15:39:20.60ID:3BqUWarD南義種には弟がいたのか
一人っ子かと思っていたよ
0244人間七七四年
2011/09/26(月) 21:39:52.45ID:BK7Pbxfc0245人間七七四年
2011/09/26(月) 22:16:22.03ID:Mn7Oh2Bi0246人間七七四年
2011/10/03(月) 23:23:55.06ID:CQkgGIra0247人間七七四年
2011/10/04(火) 07:43:56.98ID:whludhoM0248人間七七四年
2011/10/04(火) 13:36:42.12ID:QOdt4t9d籠城戦に持ち込めば何とかなるかもしれないけど
上杉も佐竹もたいした城ないからな
0249人間七七四年
2011/10/04(火) 23:32:48.41ID:k1UPp5jt0250人間七七四年
2011/10/05(水) 07:49:38.18ID:+5SzjukOだから上杉に梯子外されて、困ったな。
0251人間七七四年
2011/10/05(水) 09:00:30.17ID:+/YwN+r7それで2年も経ってから左遷されたのに、3年後には5000石加増されたのか
0252人間七七四年
2011/10/05(水) 12:01:22.31ID:JrMGGo/R事前に義宣と相談していればまた違ったかもしれない
もっとも義重や義久は次の天下は徳川とみて近付いていたようだから三成も警戒したのがしれない
0253人間七七四年
2011/10/05(水) 13:44:46.11ID:FY+B0z0mもし本気で味方する気なら反対論を押し切ることも出来た
伊達も万が一徳川が負けた場合の保険として
水面下で佐竹と和睦する動きを見せている
結局、東北で本気でガチンコしたのは最上と上杉だけか
0254人間七七四年
2011/10/06(木) 01:13:18.42ID:KjKJpHxK実際に兵を抱えている家臣団を反徳川にまとめるのはたいへんそう。
伊達を攻めるぞ!となれば見境なしにやるぞ!となるかも知れないが。
0255人間七七四年
2011/10/06(木) 16:56:36.94ID:JfdMhT3d石田方への荷担に積極的だったのは徳川に怨みがある多賀谷重經と結城朝勝ぐらい
本来なら佐竹は徳川に加勢したところだが、それには一つ問題があった
石田方に人質を取られていた事だ
結局のところ、この人質問題をどうするかで結論が出ずに、消極的徳川支援と言う形に成らざるを得なかった
義宣がバッサリ人質を切り捨てる事が出来れば佐竹の運命も違ったかもしれない
もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど
0256人間七七四年
2011/10/06(木) 22:43:28.68ID:a8hQYmiv徳川からも改めて人質を出すよう言われて「妻と母が既に(ry」と断ったら
「じゃあ弟のうちの一人を出せ」だの「正室と離縁して徳川養女を妻に」だのと
詰め寄られて閉口したというが
0257人間七七四年
2011/10/07(金) 08:01:55.35ID:j3SneDBO家康は息子や伊達に上杉に
チョッカイ出すなと厳命されていた佐竹にも命令は届いたのだろうか?
0258人間七七四年
2011/10/07(金) 12:37:30.52ID:W1fNvjPM0259人間七七四年
2011/10/07(金) 13:18:54.41ID:Vdtt2N3Lでも謙信と義重は仲良しこよしってほどでもなかった
義宣と景勝はどうだったか
0260人間七七四年
2011/10/07(金) 14:42:36.81ID:j3SneDBO一緒に遊ぶことなさそう
でも二人揃って、伊達にイタズラされてた逸話があったような?
0261人間七七四年
2011/10/07(金) 16:24:50.81ID:rmm9umoIつまみ菜の吸い物の話だね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
0262人間七七四年
2011/10/07(金) 16:53:32.05ID:r0motI9+今回も景勝のやつロマンに浸って軍事的冒険か・・・息子が感化されてはたまらんと思ったのかもな。
でもさ、もし積極的に佐竹も上杉と協調してたら
家康は敗北してたと思われ。
0263人間七七四年
2011/10/07(金) 17:41:03.30ID:BBdjlda1上杉討伐軍が真っ先に常陸に乗り込んできて、佐竹領が焦土になったと思いますw
会津と違って天険もないから八方から攻められ放題。
やっぱり義重・義宣は利口だよ
0264人間七七四年
2011/10/07(金) 18:03:31.79ID:r0motI9+やはり栃木や埼玉方面に進出すんじゃないか?
常陸へ上杉が進出するだろうか?
0265人間七七四年
2011/10/07(金) 19:20:20.85ID:Poj8AHe4> もっとも、仮に徳川方で活躍しても転封は避けられなかっただろうけど
だと思うね。
0266人間七七四年
2011/10/07(金) 19:48:02.52ID:HvWjQqVe佐竹はしぶとい
>>261
わざとらしいほどメンツが揃い過ぎているから、後世の創作だな
しかし政宗がどれほど周辺諸国から嫌われていたかがよくわかる
0267人間七七四年
2011/10/07(金) 23:55:51.78ID:oiuYE2hb土浦や笠間は徳川方だから沼沢地で迎え撃つのも難しい
特に笠間は水戸に近いし途中に大した城もないから防衛戦には不向きだね
水戸を取られると領内が分断されて詰むし
0268人間七七四年
2011/10/08(土) 00:32:03.63ID:3QLO2ozV南北じゃなくて東西に分かれてるんだよな、鬼怒川のせいで
霞ヶ浦も今みたいな綺麗なY字型じゃないし
0269人間七七四年
2011/10/08(土) 01:43:34.97ID:7MSrts0/0270人間七七四年
2011/10/08(土) 08:44:23.33ID:9QarNR0Hそら、あんだけヤンチャかましまくって周囲に迷惑かけて信用まるで無しなのに、
時の権力者からは優遇もされないまでも何故か処断もされず
60万石越えの大大名に治まりかえっていたんだから面憎かろうよ
0271人間七七四年
2011/10/08(土) 10:05:22.77ID:9BPojUfM義宣は源氏出自ゆえプライドあり過ぎた
0272人間七七四年
2011/10/08(土) 10:25:37.62ID:yWSHIyRl笠間は常陸だよ
笠間氏→宇都宮国綱→蒲生秀行→松平康重→小笠原吉次→天領→松平康長→永井直勝→浅野長重→以下略
0273人間七七四年
2011/10/08(土) 11:35:31.07ID:Pt+wKG7E小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城だったみたいだ
土浦から北上してくる敵を食い止めるつもりだったのだろう
あの城を完全復元してもらいたかったのに高速道路造られてしまってはもう無理だな・・・
0274人間七七四年
2011/10/10(月) 08:27:03.06ID:QjJi5MlPどうだったのかな
源氏直系ってことで、
土民上がりの豊臣大名からは
ちょっと声掛けにくいとか?
孤高なイメージだわ
0275人間七七四年
2011/10/10(月) 08:34:04.32ID:jCNgYIN80276人間七七四年
2011/10/10(月) 08:36:15.62ID:jCNgYIN8> 小幡城は街道(国道6号)を取り込んだ広大な城
あれはなかなか意欲的な築城だったと思う。
想像復元図はどこかに公表されているだろうか?
0277人間七七四年
2011/10/10(月) 09:11:08.23ID:OTKVOhQh0278人間七七四年
2011/10/10(月) 14:12:53.57ID:JgKN2Md+>>274
数寄者仲間の古田織部とは親密だったようだ
関ヶ原の時も伏見屋敷の宝物を有事に備えて織部に預けているし
大坂の陣でも、織部が佐竹の陣に遊びに行って鉄砲玉が当たった笑い話が知られている
>>276
外郭まで含めた復元図は見たことないね
歴史群像辺りで取り上げてくれると良いのだが
0279人間七七四年
2011/10/10(月) 14:36:11.89ID:n2Vte0Y1誰かと特別親しくならない代わりに、特に敵対する相手もいなかったと思う
伊達と衝突するのも義重の代で終わった感じ
0280人間七七四年
2011/10/10(月) 16:27:09.49ID:Lx4fUClY今更ながらその養子 佐竹義人は永享の乱から結城合戦、享徳の乱まで終始上杉家と対立してたんだよな
0281人間七七四年
2011/10/10(月) 16:51:20.63ID:9292VdDU史実じゃないしな。
0283人間七七四年
2011/10/11(火) 04:11:51.02ID:ScxtgGcU「何遍仕置等任せいるべき」ことを太田資正を通じて約束する
上杉との確執は根深く残っていた気がする。
0285人間七七四年
2011/10/11(火) 18:13:55.63ID:HrRDQDqK三成は逃げずに伏見の自邸、おそらく伏見城内の治部少丸曲輪に入って
小西と寺沢を輝元に遣わして、
輝元による家康への反攻を促してる。
小西や寺沢は大坂はすでに家康方によって出入りを禁じられ
支配されてると輝元に伝えたらしく
大谷も三成に加担するのはよくないが下屋敷へ下がるのもよく無いから兵を揃えて家康と対峙するのがよいと言ってる。
伏見には三成のほかに増田・前田玄以も籠城して家康と対峙しており
結局、三成と増田がこの対立を毛利と上杉に委ねることとして
三成のみの処分で解決するが(増田もただではすまないでしょうとも)
三成がショボーンしてる書状を安国寺から渡されたようで
それを読んだ輝元が涙が出るほど悔しがってる。
0286人間七七四年
2011/10/11(火) 21:15:00.85ID:gaCM5gK7佐竹が関わったのは前田邸からの脱出〜伏見または治部少丸までだから
三成を助けたことに変わりないのでは?
0287人間七七四年
2011/10/11(火) 21:22:10.08ID:qbfrOG580288人間七七四年
2011/10/12(水) 12:45:05.36ID:wQ0rxzqLどの史料に載ってるの?
0289人間七七四年
2011/10/12(水) 13:12:20.40ID:si/aG71f岩淵夜話
落穂集
0290人間七七四年
2011/10/12(水) 13:17:21.06ID:HjMxor4F石田の手紙には書いてないの?
0291人間七七四年
2011/10/12(水) 13:36:02.71ID:si/aG71f0292人間七七四年
2011/10/12(水) 14:13:15.86ID:eatzImo9水戸城引渡し前に処分したか、あるいは赤館・棚倉で焼き捨てているだろう。
徳川方の史料に何かないだろうか。
0293人間七七四年
2011/10/12(水) 14:14:06.29ID:HjMxor4F史料あげてくれてありがとう
0294人間七七四年
2011/10/12(水) 18:46:53.14ID:L6K7a2JR棚倉で焼き捨てってのはなにかに載っている話?
そのときは誰が棚倉に入っていたんだっけっか?
0295人間七七四年
2011/10/12(水) 22:48:03.86ID:ljHUqsOK義宣は直ぐ様水戸を立ち退いて移動するように支持を出して、義宣自身は水戸に寄らずに秋田へ向かったはず
0296人間七七四年
2011/10/13(木) 08:46:57.11ID:bUglYq0i「南郷者にもつののけ所に 内府様より被仰付候間、其分にいたす可候」
とあるね。
同じ手紙の中で、蔵にある墨蹟等を焼き捨てて掃除するよう指示もしている。
0297人間七七四年
2011/10/20(木) 22:25:19.71ID:ouWkbtbn島津とかはご当地大名として有名なままだけど。
0298人間七七四年
2011/10/21(金) 09:35:07.28ID:0gi3Vj4c戦国以来のご当地大名のまま維新を迎えたのは、島津と相馬と伊東と宗と、他はどこがある?
0299人間七七四年
2011/10/21(金) 13:45:21.28ID:Wspk9Eav最初は北条と戦いながら常陸統一で後半は伊達とだろ?
脚本次第じゃ面白そうなのに
0301人間七七四年
2011/10/21(金) 21:07:38.89ID:afRHNNHZ今の大河の体たらくでは脇役で留めてくれと言いたくなる。
卜伝と同じBSプレミアム枠ならいいかな。
0302人間七七四年
2011/10/22(土) 13:02:42.21ID:0Mcu+JfB0303人間七七四年
2011/10/22(土) 13:05:28.82ID:Fq1l/07j0304人間七七四年
2011/10/22(土) 14:53:56.86ID:Uj64Fp14おお。良いと思うぞ。清和天皇から秋田県知事までやってくれ。
なんなら一番最後のコーナーで秋田の名産について県知事が一席ぶってくれてもいいぞ。
これが上杉氏だと、最後に当主が出たとたんに、宇宙工学の講義が始まりそうでな。
いや、「ひてん」「はやぶさ」など宇宙研究所でいい仕事をしてると思うけどさ。
0305人間七七四年
2011/10/22(土) 17:13:45.23ID:OCtR3F7Wしたり顔で愛だ平和だ語る戦国武将にされるのはもううんざりだ
0306人間七七四年
2011/10/22(土) 17:54:58.26ID:UdMpQeli佐竹では視聴率がとれないw
後北条五代すら実現していないのに。
0307人間七七四年
2011/10/22(土) 20:20:38.87ID:8Q4zD1gS0308人間七七四年
2011/10/23(日) 12:08:44.52ID:7bQ/wnp30309人間七七四年
2011/10/23(日) 17:16:15.82ID:FAq4fvKsもっとガタイがいいのを想像していたので意外だった
義重のが大きすぎるのかもしれんがw
0310人間七七四年
2011/10/23(日) 21:32:55.03ID:RxZup7HB懐かしいな。
0311人間七七四年
2011/10/23(日) 22:47:22.12ID:7NI5YVzF肖像画では大柄に見えなくもないが、
佐竹史料館で見た感じはさほどでもなかった。
あの下にもこもこ着込むからゆとりを持たせてあるのかもな。
0312人間七七四年
2011/10/24(月) 21:53:32.19ID:oevpSu+q佐竹資料館で聞いたら、
あの肖像画は義宣死後に描かれたとする説が濃厚みたいですよ。
0313人間七七四年
2011/10/24(月) 21:53:43.42ID:LqQW2hYGあと一応戸沢もだなw
0315人間七七四年
2011/10/25(火) 16:02:50.22ID:Hd8hhepXまあ、肖像画は死後に描くのが普通だからね
ちなみに例の義宣肖像画は荻津白銀斎の作と書いてあった
白銀斎は佐竹家臣で幕末から大正にかけての人物だから比較的新しい
0316人間七七四年
2011/10/26(水) 18:34:12.80ID:agdvACCG多賀谷の対北条戦線や真壁・太田の対小田戦などは
健闘していても那須責めや対伊達戦での敗北がマイナスイメージ?
個人的には好きな大名なんだけど
0317人間七七四年
2011/10/26(水) 18:59:05.88ID:Uc3k16Bq後北条は小田原城を2度包囲されている。
0318人間七七四年
2011/10/26(水) 20:28:11.87ID:aYYvmuZ5適当なところで和睦・休戦に持ち込むのが当時の北関東〜南東北の戦スタイル。
むしろ、領地に踏み込まれない限り積極的に打って出なかったイメージがある。
0319人間七七四年
2011/10/26(水) 21:08:59.95ID:Uc3k16Bq0320人間七七四年
2011/10/27(木) 16:05:27.58ID:2uKKjh0P信長や家康も局地的には結構ぼろ負けしてるけど結局は誰も勝てなかったし
0321人間七七四年
2011/10/27(木) 17:23:41.94ID:BHqUAHZU南東北はそれで結構うまいこと回ってたんだよなー。
西国=ヒエラルヒー確立・ハンコぺたぺた、東国=個対個の契約・花押
と分析した先生がいたが、誰だっけな。
0322人間七七四年
2011/10/27(木) 17:29:53.37ID:UBNXK8N00323人間七七四年
2011/10/27(木) 17:37:48.91ID:OZ+PXfI4合戦でどれだけ大敗しても起請文を交換すれば一件落着
領地も殆ど取られないし
そのかわり小競り合いは絶えない
0324人間七七四年
2011/10/28(金) 17:16:38.46ID:+o0n7kjkきっと戦をレクリエーションか何かと思ってるw
0325南原
2011/10/28(金) 22:43:40.75ID:9nQcLfXj0326人間七七四年
2011/10/28(金) 23:10:48.66ID:LgXqf6ov0327人間七七四年
2011/10/28(金) 23:16:09.56ID:R6I2QIqy0328人間七七四年
2011/10/29(土) 01:15:58.78ID:MQj2Pzkc戦国期の佐竹の史料で領民について書いたものって本当に少ないよね
全然領民の顔が見えない。
例の悪名高い、唐入りの陣から国許に送った村ごと磔物指令と
江戸氏や那須氏との間で人返し協定を結んだくらいか。
0329人間七七四年
2011/10/29(土) 15:16:41.23ID:i1y7ySLA平安末期
時勢を読めず平氏について源頼朝に戦で負け所領を没収される。
その後頼朝の犬になる
南北朝
南北朝時代では北条氏の残党ごときに敗れる。
足利直義と足利尊氏での戦いでは足利尊氏に付くが苦戦しまくりその後時勢が読めず勝てないからと直義につき足利尊氏に負ける
楠正家に負ける。
戦国時代
小田に負けるが上杉に泣きつきのおかげで逆転勝利。
那須ごときに負ける
北条に攻められるが上杉の援軍のおかげで助かる
北条に攻められるが武田に助けられる
北条と武田が和睦しまた北条から攻められるが上杉に土下座して援軍に来てもらい勝利
安土桃山時代
芦名に潰されかけるが上杉の仲介で助かる
伊達に人取り橋で負けた後に芦名を滅ぼされる
伊達、北条に征服寸前まで追い込まれるが豊臣に来てもらう。
豊臣が来たからと手も足も出なかった北条をここぞとばかりに攻める。
江戸時代
佐竹は明確に徳川に付くがなぜか東北のど田舎に減封される。
大阪の陣では後藤基次に佐竹義宣が殺されかけるがまたまた上杉に援軍に来てもらい勝利。
0330人間七七四年
2011/10/29(土) 15:24:33.87ID:uD6DEZs5特に「明確に徳川に付く」は非常に疑問だ
0331南原幹雄
2011/10/29(土) 15:36:52.26ID:dyeKmwdM0332人間七七四年
2011/10/29(土) 22:54:41.47ID:/6wk9dtr決断は義宣に一任していたよ
0333人間七七四年
2011/10/29(土) 23:29:01.53ID:SxKKWz/3久保田目線で見れば二代藩主がまっとうなのは義宣の薫陶あってのことだから
関ヶ原の件だけでどうこう言う気にはなれない
0335人間七七四年
2011/10/30(日) 12:38:15.11ID:0JdvfeNw一 常陸 一 磐城 一 下野 一 下総 一 上総
右五ヶ国之内百万石御本領之事候之間、佐竹右京大夫殿ヘ為可被宛行、進之候、乃如件
慶長五年六月十六日 徳川家康(墨印)
佐竹右京大夫義宣殿
0336人間七七四年
2011/10/30(日) 12:44:50.36ID:Qeq3pgHdのぶやぼでの佐竹氏の
鉄砲適正が低いことになんで怒らないわけ!
0337人間七七四年
2011/10/30(日) 23:00:24.76ID:dr6yamPl養父に似て真面目で律義者と伝わっている。
いい話悪い話スレまとめにも一度出てきた。
蛇足。
正室・寿流姫(光聚院)の父方の祖父は南義種、母方の祖父は渋江政光。
良妻賢母で有名だよ。
0338人間七七四年
2011/10/31(月) 12:53:50.63ID:NgpfqpVp印象的に敗北の観が強い戦を続けても領土を増やした
外交術や策謀のうまさは評価されると思うんだよね。
と、いうより戦国大名に求められる最大の資質がそれ。
同じ常陸でなら、無敗とかいわれながら超マイナーな
水谷正村が間逆の典型。
ただ、ドラマ的には大きな戦で負け、引き分け続きでは
美味しくないといっただけ。
0339人間七七四年
2011/10/31(月) 14:21:26.01ID:GZ7GtZwq0340人間七七四年
2011/10/31(月) 15:05:34.35ID:k7PDbYwg滅亡寸前まで追い詰められるも外交力を駆使してあの手この手で切り抜けて
いつの間にかそれなりの地位に落ち着くというパターン
0341人間七七四年
2011/10/31(月) 17:28:24.28ID:npjyO3qz0342人間七七四年
2011/10/31(月) 18:09:29.63ID:BeBscKaH> 佐竹は負け戦が
戦場で負けても、領地を大きく取られたとか、重要な城を占領されたということがあまりない。
惜敗はあってもボロ負けはあまりしなかった印象がある。
0343人間七七四年
2011/10/31(月) 19:03:02.83ID:l4HpCSSH0344人間七七四年
2011/10/31(月) 21:08:16.90ID:BeBscKaH島津や龍造寺なんかはいくら強くても地理的に天下取りは無理。
0345人間七七四年
2011/10/31(月) 22:39:10.32ID:edKVHtMz一方、羽州久保田は表高21万石乍ら、銅山と新田開発により実高40万石で有り
0346人間七七四年
2011/11/01(火) 04:00:06.18ID:qPx+5ryIいい話〜まとめをチェックしたつもりだったけど見落としてたみたい
ありがとう
義隆に兄弟がいなかったせいか叔父の宣家(宣隆)が玉突きで岩城を継ぐのは
長府藩等でもあったとは言え、特異な印象を受けますね
0347人間七七四年
2011/11/01(火) 09:16:55.07ID:mGCKINIz正確には、宣家は岩城の名跡を継いでおらず「番代」ということになっている。
本人(=義隆)が成長するまで、代わりに後継者順番待ちの列に
並んでもらったようなものかな?
藩祖ほどではないが義隆も面白い逸話がある人物だから
近デジを覗いていみるといいよ。
0348347
2011/11/01(火) 10:32:02.28ID:mGCKINIz義隆じゃなくて重隆だ。
0349人間七七四年
2011/11/04(金) 23:21:16.64ID:2b8I3iGsでは御田之方もそろそろ話題に登りますかね??
0350人間七七四年
2011/11/05(土) 14:35:29.69ID:FlXn65k50351人間七七四年
2011/11/05(土) 15:18:24.27ID:z5kXDrfl正室の多賀谷氏は御田の方が側室に上がった頃はまだ存命中だっけ?
0352人間七七四年
2011/11/08(火) 13:15:18.60ID:gACyxLkT昔の文章読むのは得意じゃないけど、面白かった
義隆が大名になっても夜話の為に家臣の家へ出掛けていって
焼き飯をご馳走になってたとか、厳格な中にも気さくな人柄だったのかな
そういえば、佐竹にも縁がある国分盛重(伊達政重)の入嗣は国分家臣団から反発を受けて
(国分家の仇敵である留守家を兄・政景が継いだせいか?)
輝宗の次男が生まれる迄の「代官」という空約束で押し込れたなぁ
そんな盛重も佐竹家臣となった後は優遇されたようで報われたかな
0353人間七七四年
2011/11/08(火) 15:51:41.80ID:NDlAa/Rpいかんせん微妙に戦国時代から外れているので
この板では紹介できない
0354人間七七四年
2011/11/10(木) 00:43:31.68ID:sDBk6CEa0355人間七七四年
2011/11/10(木) 15:02:17.18ID:w3gtJ+56∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) 殿様のためにチャーハン作るよ!!
/ o━ヽニニフ))
しー-J
0356人間七七四年
2011/11/10(木) 18:51:10.65ID:FWUMOaeq0357人間七七四年
2011/11/10(木) 23:11:33.77ID:4KBaWTkOいかん、これ思い出したw
http://www40.atwiki.jp/83452/pages/496.html
炉端で焼いてたみたいだから、味噌焼きおにぎりみたいなのかな?(あれは旨い)
炉端というと秋田だけに、きりたんぽを連想するけど、あれは猟師の携行食みたいだし…
他にも夜話の肴に煮豆、湯漬けなんかで腹を満たしていたみたいだね(義宣の頃からかな)
0358人間七七四年
2011/11/13(日) 21:09:21.51ID:JaSBpZsi義宣は渋江内膳の家に夜話に行って煎り豆を馳走になったら
老臣たちに「関東では考えられない贅沢だ」と嘆かれたというぞw
0359人間七七四年
2011/11/14(月) 21:20:00.58ID:e3vsDPmfあと書状に源(佐竹)義篤の名が書かれてた
0360人間七七四年
2011/11/14(月) 21:49:53.70ID:IjQtto7O食事は倹約だったのかね義宣時代は。
0361人間七七四年
2011/11/15(火) 02:59:36.97ID:YAGnxBSk0362人間七七四年
2011/11/15(火) 03:26:20.89ID:/ypy4Rzm0363人間七七四年
2011/11/15(火) 16:53:03.72ID:k2aSwqL9どんだけ関東貧困なんだw
0364人間七七四年
2011/11/15(火) 17:41:56.61ID:Y/c8kIhp0365人間七七四年
2011/11/15(火) 17:58:38.48ID:2YoA/uGa0368人間七七四年
2011/11/15(火) 20:41:12.57ID:371wgjgP真壁道無と梶原政景の話もあるし、昔は戦仕度が第一だったということなんだろう
0369人間七七四年
2011/11/16(水) 16:31:28.93ID:suEwy6ql・武士の、冬の軍に炒豆を、持ずば、不覚得てしあるべし
0370人間七七四年
2011/11/16(水) 22:58:16.05ID:P2r75URp豆がないと困るよな
0371人間七七四年
2011/11/17(木) 09:21:24.45ID:T/Rp0YA90372人間七七四年
2011/11/17(木) 21:48:16.16ID:HGjpYpZt0373人間七七四年
2011/11/21(月) 00:04:15.64ID:eDYnDuSyでも結局出羽国に復帰できてる
0374人間七七四年
2011/11/25(金) 15:12:07.11ID:gc4RCA+N0375人間七七四年
2011/11/27(日) 22:08:39.24ID:forRq74Iアッ────── !!!
0376人間七七四年
2011/11/28(月) 14:53:45.09ID:0eZ//JBA0377人間七七四年
2011/12/03(土) 23:28:46.24ID:fzwe0rZO山入氏系
0378人間七七四年
2011/12/04(日) 01:49:28.72ID:+By0ZHASそれはわかってるんですが滅ぼされた山入嫡流と同じ系図だったので滅亡直前の分家なのか二本松畠山よろしく生き残りが改姓したのか気になりまして
0379人間七七四年
2011/12/05(月) 12:17:54.85ID:8tGxVuJ5分家が国安名乗るのも些か問題があるような気がする
可能性としては藤義が太田城に入城した際、国安に一門を配置したとか?
もしくは山入宗家が滅んだ際に山入(佐竹)を名乗るのを憚って国安に改姓したか
いずれにせよ他の山入一門よりは上位であったようだが
0380人間七七四年
2011/12/05(月) 21:27:26.56ID:GSfODKXt家格は恐ろしく下がってしまったけど
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