上杉家文書646 吉川元春書状
「去十三日、大坂表警固船盪上候(中略)
此方警固遂一戦、敵船数百艘即時切崩(中略)大坂城中兵粮差籠、」

上杉家文書648 毛利輝元書状
「至大坂諸警固船差上、於木津河口、去十三日敵船数艘切崩、
千余人射捕之、至寺内兵粮入置之、」

上の2つの書状は天正4年に比定されていて、
1回目の木津川沖海戦の様子を伝えたものだけど、
兵糧を輸送する為の船団で戦闘を行い、
そのまま同日中に兵糧搬入に成功した、と読むのが自然。


天正6年については毛利家日記に
「兵粮両度被入、信長公より九鬼大隅守に被命、以大船川口被塞、
雖然打破り、兵粮を入る」
とあるそうなので、2回目についても兵糧搬入の船団で戦闘して、
そのまま木津浦に到着してるんじゃないの。