>>581
いやいや御所への延焼すらお構いなしに
上京を焼き討ちして略奪しまくる暴挙なんて誰もがやるわけねーだろw
>>580
そのカスの六角軍の鯰江城すら落せず八風街道が使用不能で
浅井の謀反の際に美濃へ帰ろうにも帰れず御在所岳の難路を通過する千種街道を使うハメになり、
六角承禎が派遣した杉谷善寺坊に銃撃させ危うく死にそうになった信長www
信長の弟の信治・森可成も討死させられてるしw
だいたい観音寺城が落城したのは六角義秀の織田への内応に過ぎないし、
その義秀の協力のもとで南近江〜京の道が確保できただけ。
義秀が死んだら六角衆も織田から離反し姉川の戦いで朝倉・浅井軍と参加してるし
姉川の戦いは信長公記が織田勝利と書いてるがあれも大嘘だし。

その鯰江城がやっと落城したのも信玄死去後の1573年9月・・・
当時の琵琶湖は現在のような埋め立てられて狭くなったものではなく
信長が京への街道として確保していたのは非常に細いラインでしかなく、
相伴衆仁木義政が伊賀・甲賀衆を率いて挙兵したり
比叡山も焼失の翌年から修築され始めており
一向衆を労働力に山城守護の山岡が石山と今堅田に砦を築いて
信長も2/24には黙視できずわざわざ柴田・明智・蜂屋・丹羽の軍は派兵して
京洛への通路の確保に乗り出さざるおえなくなったり
実質的に鯰江城が陥落してないため南近江は六角支配下だったわけだが。
信長は観音寺城域の狭い範囲を支配してるだけの話で
なぜ蒲生氏郷が信長の娘をもらうなど厚遇されているかと言えば
結局、日野城で甲賀を牽制してる重要な役回りでもあるから厚遇されてんだよ。
それに六角承禎より地位が高いとされる六角義堯が
北畠具親と義景の子である朝倉宮増丸と加賀一向一揆とも引き続き連絡をとって反抗を続けてたし
六角義堯は義昭の先鋒として天正6年正月には阿波・淡路両国の大兵を率いて堺に上陸して
高野山金剛峯寺や大和多武峰の宗徒に呼応してる。
大和多武峰への使者は畠山家臣の遊佐氏が派遣され明らかに畠山氏の関与も見える。
2月磯野員昌が出奔してるし3月に謙信死去があって北陸戦線の構築はできなかったものの
三木城の別所が挙兵し、毛利が宇喜多を先鋒に隆景・元春・輝元の大動員で
秀吉を怯えさせ信長は西播磨の放棄を命じて上月城を見捨てて
信長は至急、呼び戻した信忠軍を姫路においてる。
それを嘲笑するかのように義昭は隆景や元春に対して論功褒賞をしてる。
10月には荒木村重も挙兵してるし
六角氏がカスならこんなことできるかよwww
信虎も義堯のように他国衆の軍を指揮する予定だったのは間違いない。