もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0460人間七七四年
2011/04/29(金) 18:31:18.39ID:o7hj7FD1北畠は1万5000は動かせる。
松永が多聞山城は東大寺と興福寺の仏教勢力の協力なしでは立ち行かないもので
これを押さえているからこそ松永は高く評価されてる。
信長が大和での支配圏の確立に向けて一歩踏み出したのは蘭奢待切り取りの天正2年から。
それ以前の大和国人の大半は織田になびいてない。
しかも永禄4年(天正1年)がもっとも各地での反織田と言う利害で一致して
すさまじい勢いで各地が蜂起してる最盛期であり
秀吉に討たれた時代とはまったく違う。
朝廷の調停は義昭や信玄から条件が提示されるのは明らかで
志賀の陣での失敗の教訓からかなり厳しい条件を信長は飲まないとならない。
そもそも畿内撤退がウルトラCとか意味不明。撤退する時に各地で襲撃されまくり
ズタボロになり泣きながら岐阜まで逃げるつもりか?
京洛の状況は下記のような状況だったんだが
義昭も信玄の上洛に期待して挙兵を促しまくり
摂津の伊丹親興が挙兵したり、京都西岡地方で土一揆挙兵
西近江三井寺光浄院挙兵、
挙兵準備中の義昭自身は信長への和睦条件として
六角氏の甲賀にいた武田信虎に哀願して近江諸将と和睦斡旋してもらうように信長に命令してたり
毛利輝元を右馬頭に任じて隆景に出兵命令出したりと信長との対決姿勢をいよいよ強くしていったことからもわかる。
さらに三好三人衆だけでなく
松永久秀や三好義継を許して信長に対して敵対させるし
信長も事態が切迫して義昭に対して
「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と土下座状態だったが義昭は強気を崩さず
信長はさかんに「義昭の行動を公家や御所はどう思っているのか?」と心配して聞いてる。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています