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【隠された】私の愛したマイナー武将たち【史実】

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0001人間七七四年2010/09/26(日) 15:09:37ID:3h9fmFS9
山本尚治【ヤマモトナオハル】
京都の土豪。
元々、三好方に協力していたようだが
(その前は細川晴元に協力しているので、ここは京都という地の難しさでしょうか・・・)
父・俊尚の時には足利義昭・織田信長に味方をするようになる。
義昭と信長の不和のとばっちりで、父・俊尚が自害に追い込まれ、一時身を隠す。
浅井・朝倉攻めに参加し、帰参を許され、その後の比叡山攻めに参加している。
義昭が信長に反旗を翻すと静原城に立て籠もり、明智光秀軍の猛攻に3か月以上持ちこたえる。
(一乗寺山城にこもったという説もあります)
光秀の調略により降伏、以後、光秀に従うようになる。
(信長公記では調略によって生害、頚は北伊勢東別所まで送られたとあります)
本能事の変後も光秀に味方し、山崎の合戦にて戦死。
0002人間七七四年2010/09/26(日) 15:11:22ID:3h9fmFS9
>>1
×本能事 ○本能寺
0003人間七七四年2010/09/26(日) 15:46:57ID:DG+VRn5H
天童頼貞が好きどす
0004人間七七四年2010/09/26(日) 16:51:40ID:3h9fmFS9
>>3
いいですね、天童頼貞
天童八楯の裏切りで、最上家に敗れなければ・・・
0005人間七七四年2010/09/27(月) 13:38:00ID:Fp+R2RHU
伊勢貞興

名門伊勢氏当主
兄伊勢貞為が病弱なため、20歳ころに当主を継ぐ。
足利義昭の近臣として活躍したが、信長による義昭追放後は明智光秀に仕え
一説には光秀の娘婿となったと言われるなど、大いに重用される。

本能寺の変では織田信忠の籠る二条城攻略を主導し、自ら槍を奮って活躍。
そして山崎の戦いで、敗走する明智軍の殿を引き受け奮戦、討死しわずか24歳の人生を終える。

貞興の跡を継いだ兄貞為の子貞衡は徳川家康に仕え、伊勢氏は徳川家の大身の旗本として
存続する。
0006人間七七四年2010/09/28(火) 00:25:49ID:RGIJtscl
横田村詮、すきだな
0007人間七七四年2010/09/28(火) 02:10:09ID:k1Vz+C2v
長くなっても…いいかな?
0008人間七七四年2010/09/30(木) 22:15:04ID:blyFzt+V
>>7
どうぞ
0009人間七七四年2010/10/07(木) 11:26:20ID:72dsqX/M
>>5
伊勢貞興、いいですね
名門でありながら実力がある珍しい例かと
若くして死んだのが惜しまれる・・・

>>6
横田村詮、シブイですね
派閥抗争になるぐらいだし、欠点もあったんでしょうけど
その卓越した政治手腕への妬みが故にかと・・・
0010人間七七四年2010/10/07(木) 12:13:41ID:72dsqX/M
物集女忠重(もずめただしげ)
京都(西岡、現在の京都府向日市、乙訓郡)の国人。
西岡の国人衆の中心的存在であった物集女氏の最後の棟梁。
1568年の織田信長上洛後、細川藤孝が西岡あたりの支配を認められた。
その際に、細川藤孝は国人らの領土を安堵した。革島氏、神足氏等の他の有力国人が細川藤多孝の支配を受け入れる中
物集女忠重だけが「代々の自分の領地であり参上するいわれはないと」勝竜寺城への御礼に参上しなかったため細川藤孝に謀殺された。

余談ですが、応仁の乱〜江戸時代のこの地域がとても興味深いです。
斉藤道三や松永久秀ゆかりとも言われており、細川ガラシャなんかでも有名です。
0011人間七七四年2010/10/07(木) 12:47:49ID:NycJpGIQ
生涯で戦に破れたのは三度だけの明智光秀
その三度のうちの二度勝利した赤井悪右衛門、素晴らしい
0012人間七七四年2010/10/08(金) 00:07:12ID:6MKnCGyn
的場昌長【まとば・まさなが】(1540?〜1599?)※生没年は推測です

雑賀衆の勇将の一人。別名若大夫、源四郎大夫。的場源四郎の名が有名。
紀伊国海部郡雑賀荘中之島の人。伝説の人物と喧騒されるが、実在の人物。
紀伊国雑賀庄雑賀本郷中之島中津城城主。
紀伊国造紀氏の一族で武内宿弥後裔、紀六郎左衛門保詮十二代目と
伝えられる。的場源内大夫の次男。兄源次郎(七郎左衛門、源七郎ヵ?)
昌清は足利将軍義輝に仕え、後に野上合戦(雑賀庄南郷の戦いヵ?)で
討死したという。

的場源四郎は、若年の頃から槍、弓、鉄砲と腕が立ち、性質も過激で
往来で根来衆の行人武者や太田党の武者と槍や太刀で果し合っては
金品・武器等を奪い、時には銃で狙撃し、殺害して首を取ったりして
近隣を騒がせ、その逃げ足が速いことから『雑賀ノ小雲雀』の異名で
呼ばれていたという。
そのため『陰徳太平記』や伝承に記される雑賀衆の鉄砲名人の一人と
いわれる「小雲雀」は、的場源四郎のことだと推測される。
16歳の時、宮郷太田党との境界争いで初陣して武者首三ツを上げ、
以来、鈴木孫一に従って内外の戦に参戦し、18歳で宿願の33の首を
取り、紀三井寺で首供養を達成した。

その後、宮郷太田党や根来寺、南郷など周辺雑賀衆・根来衆など
雑賀惣内での戦い、元亀元年(1570)8月から始まる大坂・石山本願寺、
三好三人衆と織田信長が激突した石山合戦に本願寺方として従軍。
特に天正四年(1576)5月3日の天王寺合戦では雑賀衆の鈴木孫一、
佐武伊賀守、岡太郎次郎吉正、庄司加仁右衛門、渡辺藤左衛門と
共に三津寺附近で織田方の塙直政を撃退し、翌月6日には寄手の
佐久間安政を撃退した。

天正五年(1577)2月の信長の紀州攻めでは、織田信忠の軍勢十万余と
対峙し、3月某日に小雑賀川(和歌川)附近で織田信忠、丹羽長秀、
明智光秀、堀秀政の寄手一万余と激突。鈴木孫一、的場源四郎、
土橋守重、岡了順ら30余名の雑賀衆の大将が率いる兵二千余は
織田勢を撃退するも、戦局が不利になり降伏、停戦した。
しかし、雑賀内で争乱が起こると鈴木孫一、岡了順ら一向門徒衆、
土橋守重、的場源四郎ら十ヶ郷、雑賀荘の雑賀衆は再び決起し、
天正五年(1577)8月16日、信長方に組した雑賀南郷との戦い
(井ノ松原合戦)、同月南郷の援軍に向かった佐久間信盛率いる
織田勢八万による信長の二度目の紀州攻め、翌天正六年(1578)
5月の宮郷太田党・根来衆との戦い(第一次太田城攻防戦)に
従軍して連戦し、これを打ち破る。

やがて天正八年(1580)8月2日、本願寺顕如が信長と講和し
石山を離れると、鈴木孫一ら門徒衆、的場源四郎は顕如と共に
雑賀に戻り、鷺森御坊に拠る顕如を鎮護したという。
天正十年(1582)1月23日、石山本願寺解体以来反目しあっていた
鈴木孫一と土橋平次(若大夫)守重の対立が激化、ついに鈴木孫一の
一党が土橋守重を切腹に追い込み、2月8日、孫一は岸和田城の
織田信張の軍勢を引き入れ土橋一族を追討した。
同年天正十年(1582)5月、雑賀の動乱を見た織田信長は三度目の
紀州攻めを決行し、堺に駐留していた織田信孝、丹羽長秀らの諸将は
一万五千の兵でもって侵攻、本願寺顕如が隠棲していた鷺森御坊を
攻撃するが、源四郎はこれにいち早く駆けつけ、鈴木孫六、和歌玄意、
三井遊松軒、島與四郎、関掃部守ら二百余人で守り抜き、同年6月2日、
信長が本能寺で横死すると織田勢は撤退した。
0013人間七七四年2010/10/08(金) 00:08:36ID:6MKnCGyn
(続き)
この防衛戦や石山合戦で的場源四郎は大いに功があったことから、
的場源四郎は本願寺顕如より武功を評され、黄金三枚、時服三重、
信国の刀一腰、自筆の名号を与えられた。この時より本来禅宗で
あった源四郎は一向宗へ改宗し、私財を投じて中之島に入願寺を
建立したが、この寺は現在も和歌山市中之島に現存している。
さらに翌年の正月には、顕如御助力の祝儀として、求胞一箱、
青銅一貫が本願寺より源四郎の家に送られた。この祝儀の贈与は
毎年続き、的場源四郎死後の延宝年間(1673〜1681)まで続いたという。

天正十三(1585)年3月、秀吉の紀州攻めが始まると、和泉国郷士の
田中加足と共に根来衆の勢力である和泉国貝塚の沢(佐和)城に
雑賀衆・根来衆・紀州勢・和泉国郷士六千余人を率いて篭城するが、
秀吉方の中村一氏、筒井定次、中山秀政、高山右近の大軍に敗れ、
同月23日に貝塚の卜半斎了珍の仲介で開城した。
しかし源四郎はこれを意とせず紀州に逃れ、佐武伊賀守らと共に
小雑賀の城(弥勒寺山城)に籠城。雑賀の最後の砦だった太田城
(ルイス・フロイスの「イエズス会日本年報」ではオンダナシロ
(Ondanaxiro))は4月22日に降伏したが、源四郎らはその後も抵抗を
続け、秀吉勢の攻撃を32日間にわたって守り抜き、最後は顕如の命に
より秀吉方に降伏した。

紀伊国の解体後、秀吉の仕官を断って本拠の中之島中津城に住むが、
やがて鈴木孫一を中津城に迎えて、自らは紀州を離れて流浪したという。
この鈴木孫一は平井に住んだという平井孫市郎義方という人物で、
重秀、或いは重兼ともいわている、今の和歌山市平井蓮乗寺に
葬られている雑賀孫市である。
源四郎は数年の流浪の後、再び紀州に戻り、和歌山城代の桑山修理
重晴に客分として仕えた。

その後の源四郎の動向はよく分かっていないが、伝承の一つに、
間もなく再び出奔して二回の朝鮮の役に従軍し、戦後は若い妻を
娶って堺に住したが、故あって紀州に戻る途中、年老いた自らを嘆き、
道中で切腹して果てたという説話がある。
この時齢六十手前で、関ヶ原前夜の頃だったという。
嫡男の源八は浅野家に仕え五百石の知行を受け、子孫は紀州藩士、
或いは帰農して現在まで続く。


長くなって申し訳ない、まとめられなくて…
自分はあまり知られていない、雑賀衆・根来衆の構成員などを
挙げていこうと思います。
0014人間七七四年2010/10/08(金) 00:15:10ID:q5MR7unJ
この板はこんなに長いレスを書けるのかw

後でゆっくりと読ませてもらう
0015人間七七四年2010/10/08(金) 11:48:31ID:NcQhAtk7
>>12-13
素晴らしい、これほどの剛の者が・・・
最新兵器を熟知した最強の傭兵集団
熱心な一向宗徒であり、念仏を唱えながら人を殺める狂気の集団
謎多き雑賀衆の続きを楽しみにしています
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