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【名将】 畠山義就を語るスレ 【戦闘オタ】

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0001人間七七四年2010/06/24(木) 01:10:35ID:Bse0lv8F
畠山家の内紛により応仁の乱の引き金をひき、その後、河内一国を
公的資格なしで軍事占拠し続け、戦いにつぐ戦いの中で一生を終え
た戦国時代幕開けを飾る武将。
稀代の名将か、はたまた単なる戦闘オタクか。評価の定まらぬ畠山
義就について語りませんか?
0042人間七七四年2010/08/26(木) 18:55:38ID:SMTVK8at
蠣崎慶広「いやホントにねぇ」
織田信忠「考えさせられる名前だよね」
0043人間七七四年2010/08/26(木) 19:55:52ID:jkWCa3Xe
>>42
奇妙はともかく天才丸に関しては、あの当時そんなにヘンな名前じゃないぞ。
0044人間七七四年2010/08/27(金) 01:16:51ID:yapq9KTG
それゆーたら修羅もさして。。。
0045人間七七四年2010/08/29(日) 14:39:13ID:a/IyvIrp
政長は、細川勝元が死んでからはかなり増長して、管領として専横していたらしい。
そんなんで諸大名からかなり嫌われていたとか。

キャリアや年齢的にも細川勝元、山名宗全、斉藤妙椿が死んで以降は
政長と義就が一番上に来てしまい若年の政元(聡明丸)を無視していたかも。

政元と義就は、後に互いに河内や摂津の占領地を交換し和解している。
勝元時代は政長と組んでいた京兆家は、政元時代には義就と組むようになる。
0046人間七七四年2010/08/29(日) 20:34:51ID:BxE1uxtv
義就は生まれてくるのがちょっと早かったかな
それこそ信玄や謙信、信長がいた時代にいたら面白かったと思うよ
0047人間七七四年2010/08/29(日) 21:25:44ID:aKLR2lm7
戦国武将になくてはならない「幟旗」を発明したのが畠山政長だったそうな。
0048人間七七四年2010/08/30(月) 04:15:37ID:L4V4ZtZI
>>9
「よしなり」になっちょるなw

それと放送大学で見たんだけど政長の兄の弥三郎って諱は義富なんだね
0049人間七七四年2010/08/30(月) 17:27:27ID:6kiXw6TF
弥三郎は政久だろ。
義富は系図上の不確かな諱のはず。
0050人間七七四年2010/08/30(月) 21:29:39ID:d1W0r2O8
畠山義就は、優秀な武将だけど、母親が“売春婦”でさらに実家が皮屋であるせいか
家臣からは、「畠山家の血統を引いていないのでは?」と思われていたらしい。

そして義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている
いわば典型的な足軽女w

流石にBで売春婦で足軽女の息子では、いくら優秀でも家臣は支持を躊躇するわな…

そんなこんなでこれらの事が政長擁立支持の背景となっている。

政長は持国の弟の持富の子だが、母親の方は、家筋的にはまだマシだったらしい。
0051人間七七四年2010/08/30(月) 22:00:56ID:d1W0r2O8
部落解放同盟「顔の見えないインターネットを使った露骨で悪質な差別が見受けられる」
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1283139593/

1 :ぽキール星人φ ★:2010/08/30(月) 12:39:53 0

部落解放同盟福岡県連合会の定期大会が福岡市で開かれ、「人権侵害救済法」の早期制定に
向けて取り組むなどとする大会宣言が採択されました。

福岡市早良区の早良市民センターで開かれた今年度の定期大会には、県内22の地区協議会の
代表などおよそ470人が参加しました。大会では、部落解放同盟中央本部の中央執行委員長も務める、
福岡県連合会の組坂繁之副委員長が、「最近では、顔の見えないインターネットを使った露骨で
悪質な差別が見受けられる。政権交代を果たした民主党を中心に、超党派で人権救済の法整備を
求めるとともに、わたしたちも人権の町作りに向けて頑張っていこう」と呼びかけました。

大会は最後に、人権を守るための独立した国の機関の設置などを盛り込んだ「人権侵害救済法」の
早期制定に向けて取り組むなどとする大会宣言を採択しました。

ソース:NHK北九州のニュース
http://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023629371.html
0052人間七七四年2010/09/08(水) 18:30:31ID:UOlBBVA/
子孫はどこいったんだろうな
政長流⇒高家
能登⇒高家
二本松⇒水野家臣
関東⇒喜連川藩士
日向⇒薩摩藩士
なのに義就流は…
0053人間七七四年2010/10/19(火) 19:55:50ID:VxUMcF8q
畠山尚誠以降が不明なんだね
0054人間七七四年2010/10/21(木) 17:45:38ID:sL0comuK
>>41
修羅場って言葉は、いつ頃からあったんでしょうか?
0055人間七七四年2011/01/23(日) 00:41:43ID:GtNbdeFk
阿修羅と帝釈天の争いが行われたとされる場所、ってんだから仏教伝来辺りか
らあるんじゃないか。
0056人間七七四年2011/03/26(土) 18:15:19.54ID:o3dHWJGD
戦争、戦闘に限って能力をみた場合、義就はどの程度のランクなんだろうか?
まあ武器が違うから、各時代で戦い方は違うが。
0057 忍法帖【Lv=37,xxxPT】 2011/10/09(日) 14:49:23.72ID:T83sHh/e
義就なら帝国陸軍でも立派に一軍の将を務められたな
山県有朋なんかよりずっと将才あると思う
0058人間七七四年2011/10/14(金) 13:23:17.04ID:qiWzl/TZ
山形は将帥であってそのへんの一軍の将とは立場が違うからな
0059人間七七四年2011/10/18(火) 14:49:29.28ID:FgOWA4CN
>>12
応仁の乱終結による東西両軍の停戦や(足利義政による)西軍諸大名の領地の安堵と帰国には一切同調しなかった。

応仁の乱がまさに終わろうとしている時期に義就は、洛中から軍勢を河内に向けて進撃を開始させる、
河内のほぼ全域を占領、それを受けて義就系で元西軍側の大和国人である古市氏や越智氏が大和を制圧する。

これで畠山義就は、将軍足利義政の応仁の乱終結の施策を無視する形で河内と大和を占領し実効支配する事になってしまった。


つまり、畠山義就は、はじめて室町幕府を無視する形で河内と大和の支配を独力の軍事力で実現した大名となってしまった。
しかも支配した場所は、畿内の河内と大和である。

これが、畠山義就が、初めての戦国大名と言われる所以である。
0060人間七七四年2011/10/18(火) 22:48:47.39ID:3GXrupqa
>>59
誉田城の本拠化と城下町形成も先駆的だな
0061人間七七四年2011/10/19(水) 00:29:58.76ID:bfUpQ/5H
>>60
そうだね、一体何処から城下町のアイデアを持って来たのか不思議。
義就は、1483年にも河内に攻めて来た畠山政長の軍勢を淀川の堤防を決壊させて壊滅させている。

大したアイデアマンである事は間違い無い。

義就よりはるかに若い細川政元は、丹波や摂津に散々城や館、砦を造ったが、ついに城下町は造らなかった。
被官で摂津国人の池田氏は城下町を造っていた様だが…

事実上の丹波・摂津両国の守護所は、古代からの大都市である洛中の細川管領邸であった為に
ワザワザ新たぶ城下町を造る必要性を感じなかったのかも知れないが。
0062人間七七四年2011/10/19(水) 01:56:02.71ID:w0qg+f8m
>>61
城下町はどうも、大和の古市氏などが拠点への領域内の政治経済の集権という、城下町形成に近いことを始めているので、
大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい。で、そのあたりと縁の深い義就が影響を受け河内で一国単位で
展開したのが誉田への集権、ということなのだろう。

しかし畿内は土地の権利関係が諸権門の間で錯綜しすぎていたのと、京都の存在感が余りにも大きかったので
なかなか城下町を形成しづらかったのも確かだろうね。

足利義尚の鈎の陣なんて、鈎をあのまま近江の城下町化しようとしていたんじゃないかと思うことがある。
0063人間七七四年2011/10/23(日) 17:06:42.06ID:u96yHLmF
>大和あたりで国人が行い始めた政策っぽい

古市澄胤やその父があたりが、始めたのを義就がパクッタのかな。

大和武士は、ほぼ全員興福寺の衆徒で
興福寺の二大名跡である一乗院とその傘下の筒井氏・越智氏、
大乗院とその傘下の十市氏・古市氏などがいる。

一乗院と大乗院は共に張り合っており、双方の門跡が自己の発言力の増大のために
国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、
自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させていた。

このノウハウが、城下町の形成に役立ったのだろうか?
0064人間七七四年2011/10/23(日) 21:30:44.78ID:y5v3wUby
>>63
そのあたりなんだろうね。応仁の乱で幕府機構からは失脚した形になった義就は、
幕府に頼らない自己の権力確率のためならどんなことでもやってた感じがする。
0065人間七七四年2011/10/31(月) 09:59:36.79ID:J83HZKPv
>幕府に頼らない自己の権力確率←×確立←○のためならどんなことでもやってた

それらの施策の結果として畠山義就は、幕府から独立した戦国大名になってしまう。

義就は、幕府から独立した状態で死去し、息子の基家は、その体制を引継いで
幕府に頼らない独立した河内統治を継続する。

しかし1493年の明応の政変で、管領畠山政長が自害し息子の尚順が、紀伊に逃亡すると
畠山基家は、幕府に復帰する事になる。


そういう意味では、基家は一度は折角にも幕府に帰参したのに、
その後、しばらくしたら幕府には中央政府としての権威も力も無くなってしまう、と言える。
0066人間七七四年2011/11/01(火) 00:30:29.10ID:kyGAvKNE
明応の政変で幕府は、中央政権でもなくなる。
0067人間七七四年2011/11/01(火) 00:33:03.36ID:R8ebT6iE
それは言い過ぎ。国際的な認識も含めて中央政権だったのは間違いない。
0068斯波義敏2011/11/01(火) 01:07:52.33ID:iD0+xVrc
一旦追放した畠山義就を足利義政が不用意に入京を許したりするから畠山政長が怒り、応仁の乱の火種になりました
0069人間七七四年2011/11/01(火) 17:28:56.38ID:pOh25q/6
>>67
将軍の親衛隊(五番衆≠奉公衆)が、明応の政変で解体されるんだぜ。
官僚組織(奉行衆)は、京兆家としても次の将軍も必要だから残したけど。

これでは、中央政権と言えるのかどうか…


しかも政元が、京で兵を挙げ畠山政長とそれに近い人物の邸宅や拠点を制圧。

その後上原と京兆家家宰の安富が率いる京兆家2万の軍勢が、河内に進撃すると
大名達は将軍義材と管領政長を見捨て続々と京兆家軍勢に合流、しかもその時に
一部の奉公衆も逃げ出した。

また、残存した奉公衆と政長勢8000が、正覚寺城に篭城するも、京兆家軍勢に包囲され、
援軍である根来寺衆徒勢と紀州国人衆の斉藤の軍勢1万が、赤松政則に撃退されると、
篭城を諦め政長は切腹、尚順は紀伊に逃亡、将軍義材は降伏する。

この時点で奉公衆は、事実上崩壊する。残りの奉公衆残存部隊が詰衆を結成するが、
将軍のボディーガードにもならない状態になる。
0070人間七七四年2011/11/03(木) 06:02:59.52ID:CP8X/of+
結局、畠山家の内訌は、応仁の乱を挟んで1448年〜1504年まで続いている。

ざっと56年間、三世代継続してやっていた訳だ。
0071人間七七四年2011/11/03(木) 18:24:18.57ID:6iZO42i+
子孫が残らなかったのは暴走し過ぎたから?
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