【武田】2万5千で上洛できっかよ【信玄】その57
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0813人間七七四年
2008/12/28(日) 22:05:28ID:0nMWf30c普通に足弱の移送とかもあるし、存在はしてたんだろう。
一拠点なんだから本格的な作戦発動で意味を大きく持つ駒だから
信長も当面は無視したんだろう。
その連中が織田に対して本格的な反撃が行われた時に動いたらかなりな脅威だと
思うよ。
1572年秋に虎御膳が作られてから、四月の義昭との関連で
信長公記では「朝倉・浅井に取りあい、虎御膳山番手半に候て」とあったはず。
そして武田も東から来てるから「方々御手塞がり」であると。
これはどう解釈してる?
雑賀衆の事は三津寺の時はそんなに大きく取り上げられてないし、
司令官の原田がわざわざ主要武将あらかた連れて攻めてるんだから
それなりの大軍だと思うけど。
連日にわたって野田福島で織田勢のが多いのに一揆達は押し負けず
互角以上に渡り合い撤退させた事は十分な戦闘力の証明だと思うよ。
上杉は北条と北陸で大変だし、駿河も完全な手明きじゃなかったはず。
てか織田領美濃はそういった外部に加えて内部がいろいろ侵食されてて
フル動員はむずかしいんじゃないの、ってな話なんだけど。
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