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【武田】2万5千で上洛できっかよ【信玄】その57

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0001人間七七四年2008/12/15(月) 18:03:25ID:pd70l85k
【武田】2万5千で上洛【信玄】その56
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222518983/l50

ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

スレタイは「できっかよ」に戻す!

テンプレ
>>2-30ぐらい?
0798人間七七四年2008/12/28(日) 21:12:14ID:0/njpoVF
>>777
信玄が病気療養中で動きが止まっていたとはいえ、まだ武田軍が遠征中なのに義昭が反旗を翻すと軍を動かしてるから、元亀四年4月の段階ではまだ直接的な軍事的脅威を感じてなさそうなんだが……
野田城を二月に落とした後、信玄が元気であれば何処まで動けたんかねえ?
0799人間七七四年2008/12/28(日) 21:15:50ID:0nMWf30c
>>784
武田領国と接する国境の門だけどね。
ここを抑えられた事で武田が侵攻できる土壌ができた。
実際織田は長篠の後で真っ先にここの奪還を狙ってる。

長島関連が石山に援助した多くの史実、宝物にかかわる高額な諸費用、
長島が本願寺の一族を迎えて東海の中心となっていた史実、
天文一揆における東海地域の動き、東海一揆の各地に広がる広範囲の活動、
いろいろあるよー。
0800人間七七四年2008/12/28(日) 21:18:14ID:qDq8PQwh
>>793
長島一向一揆が支配していた地域では、伊勢の十分の一もない、と言っているのに。
何故か広義の地名の長島を取り上げて五分の一はあるとか。
また過大解釈ですか。
0801人間七七四年2008/12/28(日) 21:21:36ID:0nMWf30c
>>792
妄想というか資料を見る限りそれだけの力はあるんだけど。
実際織田の城とか攻略してるし、北伊勢から美濃尾張にまで進出も
してるのに。
単独で動いてもしょうがないし,2万動かすのは大変そうだし。
>>794
根拠よろしく。
>>798
その時の行動では天皇を使って和議をしてさっさと美濃に戻ってる。
何度も言ってるけど。
>>797
ちと主語が書いてない。どこの勢力に対しての言葉?
0802人間七七四年2008/12/28(日) 21:23:38ID:0nMWf30c
>>800
言い出したのは君でしょ?
都合悪くなると発言かえられてもね。
実際長島の影響範囲は広いし。
0803人間七七四年2008/12/28(日) 21:30:24ID:1/ljfSoq
>>802
影響が広いって何ですか
他国の農民から年貢でも徴収してたのですか?

何か信仰心みたいな話ばっかりしてるけど一向宗関係者ですか?
あまりにも常識外で的外れな事ばかり並べて正当化されるんで悪いけど疑った
0804人間七七四年2008/12/28(日) 21:33:25ID:wwlnTac/
>>801
2万で遠征は大変って認識なんだね
あくまで長島周辺で後方撹乱なら分からないでもないよ
あなたかどうかわからないが2万で侵攻とか言う人がいたから

織田の動員率に関して
最近は国内疲弊の朝倉が2万で虎御膳を抜くとか言ってる人がいるから
0805人間七七四年2008/12/28(日) 21:34:53ID:0nMWf30c
>>791
もともと長島には法泉寺と同族の願証寺があり、その主が蓮淳に譲ったとされている。
それが長島願証寺略縁起にある。

そんな事いっても実際に計画が煮詰まったのは11月だったし、
第一徳川をある程度叩き、奥三河を確保して岩村に抜けるルートを得ないまま
動いても織田への一斉反撃になりにくいし。

信濃最北端で上杉の城が少しあるだけと内部にまで動かれたり
内応されたりしてるのでは違うと思うけど。

実際そうとでも見ないと諸記録にある一揆勢の兵力が「誇張ありでも」
大名勢力より多く書かれてる事に説明がつかない。

後の検知で見ても四国全土でも80万石。
これで長宗我部はその半分くらいなのに2万3千動かしてる。
0806人間七七四年2008/12/28(日) 21:37:48ID:0nMWf30c
>>803
一向宗関係者じゃないよ。
普通に資料に基づいて話をしてるまで。
>>804
大変って言ってもその気になればできる、って事だから。
恒久的にやるってことじゃなく、って意味。

朝倉二万と浅井数千で普通に虎御膳は抜けるから。
織田の動員率についてもこっちは説明してるでしょ。
0807人間七七四年2008/12/28(日) 21:38:42ID:1/ljfSoq
>>804
虎御膳の話の方が余程マトモだよ
織田派の俺でも全否定しないし議論としてかみ合ってたと思うよ
見てただけだけど
0808人間七七四年2008/12/28(日) 21:44:14ID:ad1Vsea7
>>793
日根野の砦って本当に実在していたのか実在していても織田に無視されるレベルなんじゃ

そりゃ織田の支配下の門徒の中にはそういった連中もいただろうな
実際鉄砲の空打ちや見逃しただの逸話もあるし
でも大勢は織田に従っているんじゃ、本願寺は加賀や石山では全国から門徒集めたわけだけど、
それによって全国の大名が動員すべき兵が減ったとかいうわけでもないし

補充は岡部が派遣されたときだけってことになるのか
あと秀吉は近江をそれなりに支配しているんだから十分だろ
それに横山城代で虎御前山には常時詰めているわけではなかったはずでは
兵力の補給うんぬんは資料に無いが、秀吉が横山に戻っていることは史料にある
これなら秋山らとそう変わらないと思うが

原田の兵力がどの程度だったかは判らないが、雑賀衆の力も大きいのでは
また川の流れの入り組んだ地形でもあるし
野田福島では織田の兵力の方が上だったと思うけど
この時点で大坂に何万も兵がいるのに織田は気づかなかっただとどんだけ鈍いんだってことになるだろうから
たいした兵力はいなかっただろうし
前後にいきなり敵を抱える状態になったのだから織田の方が状況的に不利だったんじゃ

駿河は北条と徳川による万が一の可能性あるだろうし
上野に関しては上杉が
不安定な要素はあると思うが
まあ史実じゃ武田は駿河に岡部か誰かを残していたと思うが

>>795
前スレか前々スレに織田武田の年間遠征期間のまとめがあったような

>>796
法泉寺のこと
こういうの言い出すと他の寺院もどんどん歴史が古くなると思う
0809人間七七四年2008/12/28(日) 21:48:24ID:+Sg/7Pwo
>>803
諸国の門徒が、人員や物資を援助してた事が記録に残ってる。
本願寺側も郡ないし町、檀家や講中単位で指示を与えており、
それは各国に散在している。
くどいようだけど、いわゆる一向一揆の動員可能な範囲というのは、
=直接支配してる領域ではないわけだ。
0810人間七七四年2008/12/28(日) 21:54:46ID:wwlnTac/
>>806
その気になれば出来るの?
そこは考えが違うな、もっと以前からその気になれば良かったのにね
5月攻勢だけ本気って言われても、説得力無いよ
織田も本気になればもっと兵力動員出来るんじゃないかな
朝倉の動員率のことはテンプレ石高換算では1万3千
最近は国内疲弊で統制も不安定なのに2万動員になってるからツッコミたくなっただけ
朝倉二万と浅井数千で織田援軍無しなら虎御膳は落ちる可能性が高いと思うよ
0811人間七七四年2008/12/28(日) 21:59:17ID:1/ljfSoq
寄付とか・・・。 年間30万石くらい米俵でも送ったんですか?

何か もう・・・ あと頼みます キリがねえ
0812人間七七四年2008/12/28(日) 22:02:57ID:+Sg/7Pwo
>>811
何が、「なんかもう」だ。
こっちは、一応はそういう資料などを挙げているわけだが。
それに、「年間30万石」とか極論を吹っかけてるんじゃないよ。
0813人間七七四年2008/12/28(日) 22:05:28ID:0nMWf30c
>>808
普通に足弱の移送とかもあるし、存在はしてたんだろう。
一拠点なんだから本格的な作戦発動で意味を大きく持つ駒だから
信長も当面は無視したんだろう。

その連中が織田に対して本格的な反撃が行われた時に動いたらかなりな脅威だと
思うよ。

1572年秋に虎御膳が作られてから、四月の義昭との関連で
信長公記では「朝倉・浅井に取りあい、虎御膳山番手半に候て」とあったはず。
そして武田も東から来てるから「方々御手塞がり」であると。
これはどう解釈してる?

雑賀衆の事は三津寺の時はそんなに大きく取り上げられてないし、
司令官の原田がわざわざ主要武将あらかた連れて攻めてるんだから
それなりの大軍だと思うけど。
連日にわたって野田福島で織田勢のが多いのに一揆達は押し負けず
互角以上に渡り合い撤退させた事は十分な戦闘力の証明だと思うよ。

上杉は北条と北陸で大変だし、駿河も完全な手明きじゃなかったはず。
てか織田領美濃はそういった外部に加えて内部がいろいろ侵食されてて
フル動員はむずかしいんじゃないの、ってな話なんだけど。
0814人間七七四年2008/12/28(日) 22:06:17ID:1/ljfSoq
>>812
ごめん 若干イラッときてたから もうやめる
0815人間七七四年2008/12/28(日) 22:10:17ID:0nMWf30c
>>810
しっかりした計画もなしにいきなり大変な動員するわけないでしょ。
それでも着実に北伊勢から尾張美濃に勢力伸ばしてるし
周囲の城も攻略してるんだから十分説得力に不足はないと思うよ。

朝倉もいろいろ2万を動員して、信玄の反撃計画に乗って
この反撃で決めるつもりでいたのに
信玄が死んでその目算がつぶれたからがっくりきちゃったんでしょ。
普通に信玄存命での行動は可能と思うけど。
内部動揺や崩壊は信玄死後だから。
0816人間七七四年2008/12/28(日) 22:18:07ID:wwlnTac/
>>
>北伊勢から尾張美濃に勢力伸ばしてるし
詳しく、いわゆる大名のような勢力伸張じゃないよね
恒久的に維持するような

いや信玄生前から統制力は弱まってるよ
朝倉2万動員と同等で織田の動員率も上げてもいいんだよね
0817人間七七四年2008/12/28(日) 22:23:46ID:ad1Vsea7
>>799
織田が信濃三河に進出するというのであれば三国の国境を抑えるこの城は重要だろうけど
織田が守勢にたつのであれば岩村は三河信濃からの侵入を防ぐ最初の城って感じじゃ
地図見ればわかるけど恵那郡加茂郡土岐郡辺りまでは山間部なので
美濃を守るのであれば街道が集まっているこの地域のどこかの城で十分だと思う
また長篠の後真っ先にというが囲んだの信忠らだけであって
織田の主力は越前加賀へと進んでいる

影響が広いのは判るがだから何としか
天文一揆でも畿内では大名とも何とか渡り合えたが東海ではそんなことは無かったし

で具体的にソースは

>>805
>そんな事いっても実際に計画が煮詰まったのは11月だったし、
>第一徳川をある程度叩き、奥三河を確保して岩村に抜けるルートを得ないまま
その結果浅井朝倉は江北に封じ込められたじゃ割りに合わないと思う

美濃の方も最西端最北端と端っこ
内部で動かれているといっても一部門徒が動いているだけじゃ

この場合の皆兵動員の定義が各自でばらばらだと思う

元親記の記録がどこまであてになるというんだ
だったら織田にしても朝倉にしても軍記物の兵力採用しないと

>>811
寺社は基本的に所領が全国に散らばっている
また本寺と末寺の関係から
宗教的支配地域においては他の宗派の寺院の存続信仰を認める代わりに
その寺社から税を取り立てたりと
いろいろと収入の手段があるから

そのため大名との戦争になると末寺の連中が独立求めて武士側についたり
また同じ宗派同士でも収入源である末寺を取り合って争ったりと

>>813
当面は無視だとしても最後まで織田方の記録に残らないってのは変
足弱の移送考えると長島に篭っていたのは難民ばかりで戦闘員は少なかったのではって
ことになると思うが

>その連中が織田に対して本格的な反撃が行われた時に動いたらかなりな脅威だと思うよ。
動けばな、ただ個人的には織田が大きな失態でも起こさない限り動かないと思う

>「朝倉・浅井に取りあい、虎御膳山番手半に候て」
実情は史実考えると浅井朝倉はやる気ないし、武田は動いていないので実情を反映していない
しかし織田家中ではそんな風聞が流れていたのではと思う

上のと合わせるがここで織田が大きな失態例として挙げるなら戦術的な敗退でもしていれば
家中領国の動揺も大きくなって包囲網側にも何らかの逆転の目が出てくると思うが

野田福島の撤退の一番の理由は浅井朝倉だと思う
まあこの時互角以上に戦ったのは事実だろうけど
近江戦線だと一向宗は負けてばっかじゃ

内部がいろいろ侵食って実際には遠藤ぐらいじゃ
それにこの程度で侵食言うのでは朝倉はもっと難しいんじゃ
結局フル動員なんてどこも難しいじゃないの
0818人間七七四年2008/12/28(日) 22:25:10ID:0nMWf30c
>>816
北伊勢の豪族達を自分達の中に取り込んでるよ。
そんで北伊勢の広い範囲を手中にした伊勢長島を攻略すべく
信長は第2次伊勢長島を起こす。

いや、そんなに弱まってないよ。根拠あげてみ。
朝倉代代の領地である越前と比べるには織田の領土は短期のが多いし、
実際各地域で混乱してる。動員率あげられそうなのは
美濃と尾張くらいか。その美濃では内部が不安なのは>>754で説明あり。
0819人間七七四年2008/12/28(日) 22:26:49ID:ad1Vsea7
>>816
もともと北伊勢や海西郡などは一向宗の地域が強くて半独立状態だった
それが織田の上洛前後で一応織田に従い出したがまた離反の動きを見せ始めたってところだな
0820人間七七四年2008/12/28(日) 22:29:30ID:ad1Vsea7
>>818
重臣寝返り
内政問題噴出
後には軍役拒否
酷いものだと思うが

754には反論済み
お互い納得出来ないのでまたループなるだけだろうけど
0821人間七七四年2008/12/28(日) 22:33:28ID:0nMWf30c
>>817
武田にしてみれば岩村は美濃への門。
ここを確保することで安定して軍事活動を美濃に対して展開できる。
長篠の後で5か月にわたって大軍で岩村を包囲してるのに
執着なしとは言えないと思うけど。

東海では普通に一揆勢が畿内に赴いて参戦したりしてるよ。

結構あるから何から語ればいいのやら……
今はスレの流れが早いのですべてを答えるのは長くなりそう。
先にあげた5個くらいの項目でどれをあげてほしいか書いてみて。
0822人間七七四年2008/12/28(日) 22:35:01ID:0nMWf30c
>>820
全然>>754に反論してもらってないんだけど。
重臣寝返りって無礼を働いて勘当されたから
寝返っただけなんだけど。
その軍役拒否は信玄死後ね。勝手に持ち出さないように。
0823人間七七四年2008/12/28(日) 22:38:05ID:wwlnTac/
>>821
コテ付けた方がいいと思うよ
あなたも何回も同じこと言ってるんじゃない
1年以上甲斐に帰らず継戦可能も言ってる人ですか?
0824人間七七四年2008/12/28(日) 22:41:08ID:0nMWf30c
>>817(その2)
閉じ込められたわけじゃないよ。
実際問題として朝倉浅井も武田抜きでは織田には勝てない。
だから武田の動きと一斉反抗に期待してたんだから。
割とか以前の問題だよ。

実際敵対門徒が動きまわっているんだから十分な脅威だと思うけど。
信長自身でさえ家臣の誰が長島派なのかつかめてないのはさらに恐怖。

おいおい。それなら長宗我部の兵力はまるっきり嘘っぱちだとでも?
誇張ありでもそれなりの大軍だった事は事実だろうよ。
そしてそれは単純な四国の半分程度の計算では賄えない兵力だという事も
皆兵動員の動員力を裏付けていると思うが。

てかお願いだから分けて書いてくれ。
一レスがこんなに長くちゃ反論が大変だ。
0825人間七七四年2008/12/28(日) 22:42:30ID:0nMWf30c
>>823
何でコテつけなきゃならんのか。
そっちが何回も同じこといわせるからでしょ。
大内がやっている以上できないとは思えない、とは書いたことあるかな。
0826人間七七四年2008/12/28(日) 22:44:14ID:wwlnTac/
朝倉の統制力については
どうして朝倉だけ2万で虎御膳攻めって動員率になったの、これはいつから
テンプレ完全否定だよね
0827人間七七四年2008/12/28(日) 22:49:33ID:wwlnTac/
>>825
いや、あなたがこのスレを支えてると言っても過言では無いと思うから
反論してもいつも平行線だしね、何回も同じこと言わせるのはどっちもどっちだよ
結論は>>11で出てるし
0828人間七七四年2008/12/28(日) 22:52:19ID:0nMWf30c
>>817(その3)
ごく短期で活動した拠点だから
織田が気づいてなかった可能性も高いと思うが。
足弱は補助兵員として役立つと思うよ。

一斉反撃で諸方から攻勢を受けて織田が苦しくなれば動くと思うよ。

朝倉浅井も十分やる気あると思うが。武田も動いてるし。実情を反映してると思うが。
織田家臣の印象としてはこんな感じだったとみるのが普通だろう。
内部の不安は結構なものだったろう。
ってかその文を見る限り、秀吉勢が虎御膳に常勤してるように見えるんだけど。

一斉反撃で十分逆転の目は狙えそうだけど。逆転とまでいかなくても
織田の勢いがそがれて混戦にはなりそう。

だから諸国の戦歴でばらつきがあると言ってる。
まあ実際は朝倉浅井の戦果でも一揆勢が先陣を務めてる事が結構あったみたいだが。
本願寺が浅井に苦情を申し入れたりしてる。それで先陣を交代制にしてたはず。

遠藤に加えて一揆衆の蠢動、さらには武田の進出による動揺。
これらから見ると結構あやうそうだけど。
朝倉の場合は代代の地盤だし。
フル動員はどこも難しい。だから朝倉は代代の地盤でもそれをやったがために
後で疲弊する。
0829人間七七四年2008/12/28(日) 22:57:02ID:0nMWf30c
>>826
信長公記で朝倉は最後の出陣でさえ2万だしてるから。
他でも二万規模動かしてる記録は朝倉には結構あるし。
連代の地盤と無理をした動員だったんだろう。

>>827
皮肉でいってるわけ?
っていうかそもそもこのスレが平行線である以上、
立つ意味ないと思うんだが。だがスレがある以上、織田派が無理というなら
こちらも反論するまで。
0830人間七七四年2008/12/28(日) 23:20:51ID:wwlnTac/
>>829
テンプレは太閤検地石高換算だから
軍記の誇張が影響しないように作ってあると思うけど
無理して2万か・・
織田も無理すればって話になるよね

真面目に言ってる
立つ意味ないと思うんだがは同意、自分は別に織田厨じゃ無いんだけど
史実じゃないことを語るんだから武田派の主張が苦しいことには同情するけど
仮想スレだから妄想に近い考察だよね

あなたの意見を全て見た訳じゃないけど
信玄生存だと織田もかなり苦しいだろうとは思う
>>11なら上洛可能だなとは思うよ
長島に関しては同意しかねるが
0831人間七七四年2008/12/28(日) 23:31:24ID:LVv4weMo
>>655
お前が納得できないから例えて教えてやったんだろうに
お前が如何におかしなことを言っているかな
まあ、それはいいや
俺の頭がおかしいでいいわ
「資料からどう見ても」
おまえが「どう」みて、相考えるに至ったのか示せよ
楽しみにしてるぞ
0832人間七七四年2008/12/28(日) 23:51:30ID:SgM9TiQT
規制にまきこまれたため、レス代行をしてもらっています。
>>830
だから朝倉の越前は代代の地盤だし、織田の領土は短期で戦闘も起きてて
不安要素も大きいといってるんだが。
だからできそうなのは美濃と尾張くらいで、しかも美濃は内部が不安定と
いってるんだけど。これだけあげてるのに無視するのはいい加減やめてもらえない?
そう言って相手の説明を一方的に妄想とか同情とか見下してるくせに中立ぶられても
こちらは全く信用できません。今までのレスぶりから見てもね。
別に>>11を見る必要もないし、上洛が必要とも思ってないが。
>>831
その後に続いたこちらのレスをちゃんと見ることだね。
一揆勢が諸国で数万の大軍を動かしてること、大名側の記録でも誇張入れても相手が
自分達より大勢か少ないかくらいは明白になること、いろんな大名がくちをそろえて
一揆が大軍を動かしてる事を記述してる事などを見れば明白。

両人ともこのスレがこちらが規制されてる間に埋まったら次スレで反論するから。
ちゃんとこちらのレスを見ておくように。
0833人間七七四年2008/12/29(月) 00:26:50ID:QxF0zqgM
>>832
何、怒ってるのw
無視してないよ、美濃と尾張は動員率を上げてもいいんだね
他地域も無理すればもっと動員できるよね
朝倉が無理してるんなら、織田も無理するだろうってことを言ってるだけだよ

自分も上洛する必要は無いと思うよ
包囲網が一致協力して1年間くらい連携して戦うことが出来れば有利だよね
0834人間七七四年2008/12/29(月) 00:28:01ID:G0ZZF4FR
朝倉氏の不安要素というと、大野郡司家と敦賀郡司家との対立が大きいかな。
これは義昭が越前へ身を寄せる頃から噴出してた問題だしね。
0835人間七七四年2008/12/29(月) 00:40:45ID:Q9xdLbHD
>>821
美濃への入り口だけど、入り口でしかないって感じでは
ここを取らないことには伊那口から美濃に侵入出来ないというべき
その先にまだまだ城がある、実際1574年には高野を固めている
執着無しではないだろうけど優先順位は低いってとこだろうな
信忠他東美濃に所領を持つ物に任せている
1574年も城固めたら勝頼を放置してさっさと上洛している

一揆勢が畿内に赴いて参戦したりしてるのは東海に限らず関東や中国九州も全国から集めている

>>822
無礼を働いたは俗説じゃ
それに本国での家臣の所領横領問題は1572年冬の話

>>824
門徒が単に動き回るのは割と一般的なことなんじゃ
1560年代半ばの朝倉による加賀攻めでも全国から門徒招集しているし

大軍だったのは事実だろうけど誇張はありに決まっている
軍記物においてこと兵力に関しては基本的に嘘なんじゃないか
軍記物信じるでもいいけどそしたら各大名の兵力が増大してしまうが

>>826
誰かが勝手に言ってるだけだと思うテンプレはあくまで石高による一定の基準での目安で
しかも軽い軍役なので最低限の兵力とか遠征用の兵力という扱い
どの勢力も無理すれば更なる動員は可能
あと>>419
>織田派は朝倉に対して、国内が疲弊していると主張しているがこれは、12500程度を動員する国力しかないのに2万も動員しているからと言う理由
こんなこと言ってる人はいないと思う
国内が疲弊しているという根拠は軍役拒否などが理由だったはず
0836人間七七四年2008/12/29(月) 00:48:51ID:Q9xdLbHD
>>828
そんな岐阜から10キロで気づかれないなんてどんだけ小規模な砦なんだってことに

虎御前山は秀長だったはずじゃ

朝倉は代々といっても1560年代後半から内輪もめ繰り返していたようだし
関所の撤廃などによる経済的ダメージ浅井への利益の無い援軍出兵
そして所領問題
決して国内が安定していたわけじゃないし金銭のこと考えると朝倉の方が動員率上げるのは困難だと思うが

>>830
甲陽軍鑑だとこの時期の織田の兵力は10万とか書かれていたような気がする
もっとも武田も嵩上げされていたと思うので比率はさほど変わらなかったと思うが
0837人間七七四年2008/12/29(月) 01:09:25ID:wJU1OyjW
そもそも信玄が生きていれば信長は動けなかった、動きが鈍ったと言うこと自体が決め付けでは?
俺は信玄が生きていようが死んでいようが史実どおりに信長は動いていたと見るね。
武田軍主力が三河に展開していた3月の時点で織田軍は岐阜をがら空きにして足利義昭の篭る二条城を攻撃してる。
武田には岐阜まで進める余力が無い事を見切っての事だと思うよ。

俺は信玄の作戦行動は上洛目的ではなく、遠江を占領する為の物だったと考えている。
でなければ貴重な前線基地になる浜松を放置して三河に進む事が考えられない。
現代の火力と物量にモノを言わせて短期に決着がつく時代ならまだしも
輸送手段も兵力の移動手段も乏しい戦国時代に大軍が飛び地を作って長距離遠征を行うなどまず有り得ない。
ましてや慎重の上に慎重を期す信玄がいくら自身の健康状態に不安があったとしてもその様な行動を取るとは思えん。
おそらく信玄は野田、吉田あたりまで進出して遠江を孤立させた上で撤退するつもりだったのだろう。
信長もその辺を読みきっていたから、あえて武田の攻勢を無視して対朝倉、浅井の撃滅準備に専念した。
0838人間七七四年2008/12/29(月) 02:51:54ID:IXGycQuc
>>835
なんで岩村の優先順位が低いんだい?
岩村の自然環境は防衛・攻略の前線に適している。
岩村をどちらが保持しているかは非常に大きな問題。
重要拠点である事は間違いない。
0839人間七七四年2008/12/29(月) 05:03:30ID:jYNxYtK/
このスレで起こってる奇妙な現象

他スレなら「強かった朝倉を倒した信長は強い」ことを示すために朝倉の動員を2万という織田派が、
「朝倉は脅威ではなかった」ことを主張するために朝倉の動員を1万という。

「一揆に負けた信長だせぇ」と言ってる反織田派が、「一揆勢力は馬鹿にはできない」と言う。

議論ってやっぱり面白いな、と思った。
0840人間七七四年2008/12/29(月) 10:15:26ID:oYmEmGch
朝倉が虎御前山を落として破棄した場合に、冬の間織田が再建できるかの話でも起こってたよ。

織田派:朝倉の撃破された後の木下隊を含む北近江の織田派部隊なら浅井だけでも十分再建を阻止できる。
武田派:浅井だけでは木下隊を含む北近江の織田派部隊には太刀打ちできないので再建を阻止できない。
0841人間七七四年2008/12/29(月) 12:58:33ID:xmw1xfRp
信玄が生きていたら阿閉の寝返りは起こったか?
0842人間七七四年2008/12/29(月) 14:07:18ID:qOfGu1SU
>>840
さすがに織田家主力を出動させないと再建は難しいだろ。
指をくわえて本拠地の目の前に砦を再建させるわけもなく妨害しようとするだろ。
浅井単独では織田家主力が要る場合は妨害は殆ど無理だろうけど北近江の部隊だけだと十分可能だと思うんだが。

>>841
史実で寝返った奴がIFでどうなるかは正直判断しにくい。
織田が守勢だったら寝返らない可能性が高いと思うが、
攻勢に回ったら寝返る可能性が高いと思う。
0843人間七七四年2008/12/29(月) 16:30:45ID:oYmEmGch
>>842
>さすがに織田家主力を出動させないと再建は難しいだろ。
織田派:朝倉に撃破された後の北近江の兵力は激減しているから浅井単独で妨害可能。
武田派:元々北近江の部隊は合計7千。撃破された後でも浅井の2・3千よりは多いはずなので妨害は困難。
0844人間七七四年2008/12/29(月) 20:12:29ID:rWK7nFCp
虎御前再建って結構難しいと思うけどね 
ましてや木下隊で再建出来るなんて織田派の俺でも相当厳しいと思うよ
しかも一度破却されたんなら構造的に同等以上のものを作るんだろ
砦は何回でも作ればいいじゃん って簡単なものじゃないと思うけどね。
0845人間七七四年2008/12/29(月) 20:26:10ID:wJU1OyjW
ここでは朝倉が信玄さえ生きてれば5月から本気出すみたいに言われてるけど
朝倉は信長との戦争にそんな乗り気だったようには見えないんだけどな
冬に朝倉が撤退したとき、まず信玄は自身で朝倉に書状を送って詰問し
本願寺の働きかけもあってようやく朝倉は春からまた動く気になり、信玄もその事と
申し合わせの程を東老軒に頼んでいる。
ここの武田派がいうように5月から本気出すとか長島もそうだがあんまりあてにならない気がする
0846人間七七四年2008/12/29(月) 21:34:09ID:2/ZMUiF1
>>838
地理的に織田が武田に対して攻勢に出るなら落としておく必要がある城だけど、
織田が美濃の主要部を守るのが目的なら替わりの城はいくつかある。
史実では信長は岩村はほとんど放置しているから優先順位は低い。

逆に武田から見れば岩村が織田の手にあるなら、三河伊那への侵入拠点となる、
三河と信濃を分断する拠点となる。
三河侵攻中に岩村から進出されれば武田は背後の一部を遮断されてしまう。
これが原因なのか岩村がはっきりと織田の手にある時期に武田が三河に侵入したことはない。

>>839
こんな例も見かける。
他スレなら武田派が刀根坂の合戦の朝倉の兵力2万は誇張
朝倉は疲弊していて弱かったから信長はたいしたこと無い。
織田派が2万も動員している朝倉を一撃で滅ぼした信長凄いと。

>>841
少なくとも砦を落としていたなら起きなかったと思う。
0847人間七七四年2008/12/30(火) 10:00:51ID:nK5/tmaw
流れが速いのでまずはここまでのまとめ

57スレまとめ
>1-34テンプレ

>37-62虎御前山砦を抜けるか・朝倉の実力・織田朝倉砦に関わる戦果
>69-71朝倉始末記多胡宗右衛門尉宛義景書状
>82箕浦合戦ソース速水真願寺記・松下文書
>89リンク先
>100箕浦合戦ソース丹波松下文書

>87-112刀根坂合戦の朝倉の兵力について・朝倉義景の内政手腕について
>81-134一斉反攻の可能性・書状の信用性・土岐氏にあてた書状について

>113-182朝倉による虎御前山砦への戦果・冬前に虎御前山砦を落としておく価値はあるかないか
>160堀秀村宛書状 春の出兵準備

>182-213秀吉は冬の間何もしていないか・兵の補充の仕方・城砦の普請の有無に史料は絶対に必要か・虎御前山砦を落としておく価値はあるか
>187佐和山城付け城の資材流用による虎御前山の砦建設リンク

>214-228包囲網の実情について
>229-305一斉反攻の可能性・朝倉による虎御前山砦への戦果・秀吉は冬の間何もしていないか・書状の信憑性
>277朝倉義景年未詳3月8日付書状

>307-3721572年11月27日付山県昌景書状の信憑性について
>310-405虎御前山砦を落としておく価値はあるか
 >310-355武田の遠征可能期間・
 >351-405包囲網が有利なら何故史実で動かなかったのか・包囲網は連携できるか・義昭との最初の和睦は急いでいたか
 >349-404兵の補充の仕方・城砦の普請の有無に史料は絶対に必要か

>400-411三方ヶ原後の徳川の戦力・史実での徳川の反撃について
>412-597長島の兵力の実情について・一揆衆はどの程度動員出来るか
>412-522刀根坂合戦の朝倉の兵力について

>427-808まで飛び飛びで続いている 兵の補充について・当時の軍制

>568-591アテネの軍制について

>600-705石山本願寺長島の遠征可能兵力について・何故史実では動かなかったのか・上杉の状況
>617-656志賀の陣での各勢力の和睦状況
>622-661大内について・武田の長期遠征の可能性について

>713-800長島・一揆衆の動員率遠征能力兵の質について・長島の支配範囲影響範囲
>731-799各大名の領国の支配状況・動員率 何故包囲網は動かなかったのか

>784-821岩村の地理的状況とその価値について
>800-各大名の領国の支配状況・長島について
>801-一揆衆は遠征できるか・各大名の領国の支配状況・動員率
0848人間七七四年2009/01/01(木) 18:02:37ID:3f2nnFDW
>>835
この入り口を得たことで武田は美濃に対して軍を展開できる。
武田にしてみればいい拠点だな。
普通に1574年の段階では武田の力がまだ強勢だったからだと思うが。
岩村を攻めたのは長篠の後すぐで5ヶ月に渡って攻め続けてる。大軍で。
これで執着なしとは無理だろう。

俗説か?まあ一次資料に載らない類の話だから、今の所これ以上の離反の理由は
なさそうだが。
軍役拒否問題なのになんで所領横領問題をあげるのか。

だから誇張はありだろうといってる。だがそれでも大軍を動かしていた事実は
十分伺える。これを丸無視して少数しか動かせないみたいに言うほうが逆におかしい。

その言い草はおかしいな。
もともと君が畿内の動きはあったけど東海では動きがなかったとか
言い出したのに答えたものなんだから。
畿内が主戦場である以上、東海は参戦という形での援護になるのは当然。
それを他の地域を出して何をいいたいの?
0849人間七七四年2009/01/01(木) 18:13:24ID:3f2nnFDW
>>836
場所を選んで隠蔽工作に精を出し、目だった動きをしなければ可能だとも
思うが。

虎御前は秀吉だろ。

別にそこまで内輪もめばかりというわけでもないんだが。
国人の堀江が背こうとしてあっさりばれて放逐されたくらいで。
関所撤廃によるダメージっていうのが意味不明だが。
信長は逆に越前の座を保護してたはずだから、越前の既得権益層には関係なさそうだが。
0850人間七七四年2009/01/01(木) 18:15:01ID:3f2nnFDW
>>837
実際動けてない。
その三月末の動きは天皇の停戦を前提にしてて
4月11日には美濃に戻ってると何度もいわれてるでしょ。
0851人間七七四年2009/01/01(木) 18:21:09ID:3f2nnFDW
>>845
実際朝倉が撤退する前に11月の段階で5月にともに兵を出すことは
定められてるし、信玄も計画に多少の齟齬はあったが5月以降の動きは
プログラム通り、って感じだったろう。本願寺や浅井もそれにそって動き出してるし
朝倉も3月の常陸江戸崎の土岐あての書状では武田との連携に乗り気だ。
0852人間七七四年2009/01/01(木) 18:25:44ID:3f2nnFDW
>>846
信長は岩村に遠山勢を派遣して上村で秋山に撃破され、
東美濃18城で封鎖しようとして武田に攻略され、
後詰に出たら武田に撃退され、って感じで別に放置はしてないようだが。

包囲網勢が反撃に移れば普通におきない、って感じだろう。
0853人間七七四年2009/01/01(木) 18:50:17ID:qodZdadT
信玄って、本庄繁長を調略するときとかあと飛騨攻めとかで、
「攻めるよ」って言いながら攻めなかったりしたってどっかで見たんだがどうなんだろう。
0854人間七七四年2009/01/01(木) 19:29:19ID:t6Yv4u9m
>>851
乗り気と可能は違う
可能かどうかは資料により判断せにゃならんが資料が曖昧過ぎるから絶対答えは出ない
劣勢な朝倉浅井が何度も大々的な反抗作戦が出来るとは思えんが
0855人間七七四年2009/01/01(木) 19:32:07ID:JQIPgh+s
笹川、柴辻、鴨川氏ら武田研究家の書籍に11月19日付書状が挙げられてるけど
これをともに兵を出すと定められているものと解釈してるものは1つもないんだけど。
誰か史家でそういう解釈してる人がいるのかな?
0856人間七七四年2009/01/01(木) 19:39:29ID:M71EDqvE
>>855
まともな判断力のある人間ならばそんな解釈は出来ませんよ。
0857人間七七四年2009/01/01(木) 19:45:50ID:Xnn/IQOr
>>855
専門家は誰も解釈していないのかw
五月一斉反攻作戦とやらは奴のただの妄想という事か。
0858人間七七四年2009/01/01(木) 20:16:32ID:3f2nnFDW
>>854
だからこの戦いで決めるつもりだったわけ。
>>855
平山優。柴辻も述べてたと思うけど。
>>856
その根拠よろしく。
>>857
だから平山氏。お喜びのところ悪いけどね。
0859人間七七四年2009/01/01(木) 20:19:19ID:3f2nnFDW
今確認したら柴辻氏の著作でもちゃんと述べられてる。
>>855の人はどんな著作を読んだんだい?
0860人間七七四年2009/01/01(木) 20:43:30ID:JQIPgh+s
中公新書の「信玄の戦略」、新人物往来社の「武田信玄のすべて」
この2書ともこの書状があがってるけど朝倉氏に5月の出兵を求めたものと書いてあって
共闘が成立したとは書いていないんだけど。

0861人間七七四年2009/01/01(木) 20:43:42ID:3f2nnFDW
まさか>>855は「条目」だから「書状」じゃないといいたいのか?
0862人間七七四年2009/01/01(木) 20:52:34ID:+yYOZuGI
>>851
ではなんで、武田および将軍も本願寺も朝倉帰国にあれほど激怒したんだ?
0863人間七七四年2009/01/01(木) 20:58:42ID:3f2nnFDW
>>860
ああ、そういう事か。
似たような例として本願寺が信玄に出馬を要請し、それに答えて
信玄が徳川領土に出馬してる事もあり、書状で求めた事を相手が「しますよ」と返さずに
実行してる事は例がある。
そして包囲網作戦に裏打ちがあった事は信玄がその11月19日付書状・条目の中で
日向玄東に詳しい事を説明させる、と書いてある事や、
本願寺が年末に撤退した朝倉に対して年が明けてから「この前の帰国はかねての手筈とは
違ったじゃないか。今度はちゃんとやってくれよ。」という意味の書状を送ってる事、
信玄も「ようやく朝倉が出てくるみたいだ。今後の申し合わせよろしく。」と
東老軒に頼んでることからも裏づけられる。浅井も朝倉の出兵を報じ、本願寺も信玄にあてて
朝倉の出兵と共にみんなで反撃に移ろうと書状を書いてる事も裏づけになる。

第一その二つの書でも信玄と包囲網勢による連携戦略が成立してると書いてあるはずだけど。
0864人間七七四年2009/01/01(木) 21:01:56ID:3f2nnFDW
>>862
実際当初の予定とは食い違ったわけだからな。
怒るのは仕方ない。
それでも信玄も本願寺も朝倉の再出兵を要請し、
春からの反抗計画を遂行しようとしてる。
一部食い違いはあったが修正可能な範囲だったわけだ。
0865人間七七四年2009/01/01(木) 21:13:31ID:+yYOZuGI
>>864
怒るのも無理はないって、先に予定を破ったのは出陣を遅らせた武田側なんだが。

ところで、そちらのいう「当初の予定」ってのをまず詳しく出してくれないか?

なんで十一月の段階で、翌年五月の出兵を計画しておきながら、十二月に越前に
帰国することを怒るんだ?

それとも信玄の身勝手な予定では、朝倉はずっと江北に留まり続けて越冬して、
そのまま春も過ぎて夏五月に攻勢をかけさせるつもりだったと?
…離反者が続出して軍が崩壊するだけだと思う。
0866人間七七四年2009/01/01(木) 21:21:53ID:3f2nnFDW
>>865
朝倉とかの連絡線確保でもある飛騨を攻めてたんだし仕方あるまい。
てかその最初の予定についてもそっちから詳しく説明お願いね。

ぶっちゃけその「当初の予定」に関してはよくわからん。
ただ本願寺の「この前の帰国はかねての計画と違う!早く出馬して今度はちゃんとやってくれ」
という文面から見て朝倉にもっと留まっていてほしかったんだろう。
これは信玄が、じゃなくて包囲網達の見解だったんだわけだ。
ただ朝倉にしてみれば越年は本国で迎えるのが慣習だったわけで。

5月辺りに予定されてたらしい反抗計画に関しては結構書状があるんだが、
ぶっちゃけ12月の朝倉撤退前における計画がどんなもんだったかは資料がなくて
よくわからん。
0867人間七七四年2009/01/01(木) 22:13:42ID:+yYOZuGI
>>866
>ぶっちゃけその「当初の予定」に関してはよくわからん
よくわかりもせずに、>864で「一部食い違いはあったが修正可能な範囲だった」
なんて言ったのか。

>朝倉とかの連絡線確保でもある飛騨を攻めてたんだし
信玄が飛騨を攻めたのは7月から8月。それ以前から朝倉とも将軍や本願寺
松永等畿内とも連絡は取れているのだが。
さらにいえば、信玄は9月になってから病に倒れて出陣を延期している。
つまり信玄の出陣延期(約定破り)は飛騨攻めと無関係。

>これは信玄が、じゃなくて包囲網達の見解だったんだわけだ
つまり包囲網側は信玄の思惑を無関係に自分達でもいろいろと織田と戦う
ために画策しているわけだ。なのにどうして、史実で勝手に戦っている
連中が信玄の計画に沿って五月に一斉反攻するだとか、信玄が死んだから
戦意を失って引きこもったとかになるんだ?
0868人間七七四年2009/01/01(木) 22:21:12ID:3f2nnFDW
>>867
おいおい。こっちの質問である遅延と当初の予定についても
答えてもらってないぞ。早く答えてね。

実際修正がされてるからな。書状による連携も活発になり、いよいよ攻勢に向けて
動いてる。逆にそっちが修正不可だったというなら遅延と当初の予定について
詳しく説明せい。

9月というなら、
信玄は9月末には山県を出撃させ、10月3日には自身も出ている。
これが約定破りとか致命的とかいうならそちらのいう当初の予定とやらを説明してくれ。

何を言ってるんだ?
信玄と包囲網は普通に戦略で連携が取れているんだが。
でなけりゃ信玄も本願寺と似たような朝倉詰問書状を送るわけがない。
>これは信玄が、じゃなくて包囲網達の見解だったんだわけだ
というのは信玄を含めた包囲網勢の見解、っていう意味なんだけど。
受け取れなかったのか?

まあともかくそちらのいう当初の予定とか言うのを説明してくれ。
人のことをこれだけ言った以上そちらは十分資料に基づいて説明できるんだよな?
0869人間七七四年2009/01/01(木) 22:52:53ID:65CHa8RA
「よいか勝頼、他の者の意見に耳貸さず、己の意見のみ通そうとしても受け入れられぬは必定じゃ
 そして己の一時の利の為に多くの者の信を失うのじゃ この事決して忘れてはならぬ」
0870人間七七四年2009/01/02(金) 12:39:37ID:h6zYna1o
虎御前は秀長が城番だろ?
0871人間七七四年2009/01/02(金) 13:06:49ID:sIcL7+b/
信長公記に虎御前山砦構築の後で
「虎御前山には羽柴藤吉郎を定番として入れ置かれた」
とあるから秀吉だろ。
0872人間七七四年2009/01/02(金) 13:31:48ID:h6zYna1o
それじゃ横山城には誰が?
秀吉が留守中竹中が城代になったことあるから竹中か?
0873人間七七四年2009/01/03(土) 00:24:41ID:ZktTLiMN
太閤記か何かだと秀長が砦に入っているように書かれていたような
0874人間七七四年2009/01/03(土) 16:27:33ID:Lb0dpe2I
前から疑問に思ってたんだけど包囲網時の織田ってどうやって堺を支配してたのかな?
周囲に親織田勢力が多少はいるとしても三好とか本願寺とかの反織田勢力もいるわけだし。
堺に織田の兵を駐屯してたの?
あと堺と京を結ぶ安全なルートとかあったのかな?
0875人間七七四年2009/01/04(日) 09:28:11ID:r5TCm08/
当時は本願寺とは冷戦状態。直接的には敵対してない。
0876人間七七四年2009/01/04(日) 10:59:41ID:AwyIqesF
実際本願寺って、最初の野田・福嶋と途中の三津寺〜天王寺合戦以外に、
織田軍と直接干戈を交えたことってないんだよね。
あ、あと一応木津川口沖海戦か?これは毛利にカウント?

まあ後半は包囲篭城戦ってこともあるけど。ただ、包囲を破るために
こちらから攻撃を仕掛けるってこともないんだよな。
0877人間七七四年2009/01/05(月) 16:34:54ID:PoNrjvT/
武田信玄にここで抵抗する武田厨並みの粘着力があれば天下を盗ることができたのかモナー


0878人間七七四年2009/01/05(月) 21:41:33ID:+pv2vp/w
信玄本人だろ
0879人間七七四年2009/01/06(火) 12:17:20ID:LK7cnXb3
信玄はというよりも他の多くの戦国大名全般的にそうだけど天下を取るなんて発想じたいなかったと思われる。
0880人間七七四年2009/01/06(火) 13:19:14ID:ZOPrUei9
自分の代で天下を獲ろう(治めよう)と考えてたのは
信長や三好、松永、足利将軍くらいかな
0881人間七七四年2009/01/06(火) 15:54:16ID:YiBzamrf
もう一つ言うと、信長の以前と以後で天下獲りの意味合いが変わっている。
0882人間七七四年2009/01/06(火) 18:23:18ID:xczQDx2D
>>880
松永久秀って天下を狙っていたのかい?


0883人間七七四年2009/01/06(火) 22:40:36ID:QBGvrpnb
信長は天下布武と掲げてその通り京都を制圧したのだから
それ以上でもそれ以下でもない。
信長のみが明確なビジョンを持っていたと思いこみたいのは勝手だが・・・・
0884人間七七四年2009/01/06(火) 22:59:44ID:CQIpnBs2
>>879
いや、別にそうでもない。
信玄にも足利将軍家を助けて「天下静謐」を行うという
従来通りの天下統一の理念はあったと思われる。
実際信玄はこの西上で天下静謐を行うと足利に述べている。
>>881
確かに。ただそれはこの元亀の争乱が契機。
信玄と対峙してる時点では信長も足利将軍を擁しての従来通りの
天下静謐を理念としてる。
だが信玄西上で足利がそむき、やがて追放し、帰還交渉も失敗した後で
信長は「天下静謐の護持」こそが優先される事であってそれを乱すものは
足利将軍であろうと廃されるべきであり、その天下静謐を護持する者こそが
信長であるとする新たな天下統一理念を打ち出すわけだ。
0885人間七七四年2009/01/06(火) 23:31:39ID:xczQDx2D
>>884
>信玄にも足利将軍家を助けて「天下静謐」を行うという
その言葉は信長の真似のように見えるけど?
理念があるかどうか判断するには厳しくないか?


0886人間七七四年2009/01/06(火) 23:46:10ID:CQIpnBs2
>>885
ん?天下静謐の理念自体は目新しいものじゃないぞ。
足利自体が代代、方々の大名にこれを行ってくれとお願いしてる。
よく無視されたりしてるが。
信長も当初はこの要請にこたえる形で行動しており、
信長のマネ、という言い方はおかしい。
0887人間七七四年2009/01/06(火) 23:49:34ID:xczQDx2D
>>886
そだな、真似と言うのはおかしいな。
ところで理念の方は?
0888人間七七四年2009/01/06(火) 23:57:51ID:CQIpnBs2
>>887
どういう意味?
信玄にもそりゃうまくいったら足利を大義としてその管領とかにおさまって
天下の第一人者になって天下静謐を維持しようとかいう理念くらい
あったんじゃないのか?
というかこれは当時ではメジャーな理念だから特にクローズアップするものじゃないかもしれんが。
0889人間七七四年2009/01/06(火) 23:59:47ID:xczQDx2D
>>888
それ言ったら信玄だけの話にはならないね。
0890人間七七四年2009/01/07(水) 00:01:00ID:wDhkQxbp
>>889
俺はもともと信玄だけに理念があったなんて言ってないんだが。
信玄存命の時は信長も同じ理念を掲げていたんだしな。
0891人間七七四年2009/01/07(水) 02:26:15ID:vFm+LRpn
>天下静謐
自勢力拡大+外交辞令(建前)=天下静謐
よって、天下静謐を指針していたのか疑わしい。



0892人間七七四年2009/01/07(水) 21:46:41ID:b0chK59M
それいったら信長も同じじゃ。
京都入って義昭を立てたはいいけど、
その後もやってる事は朝倉に難癖付けて攻めたり、
堺や本願寺に金要求したり。
0893人間七七四年2009/01/08(木) 12:37:42ID:VDlC9HXt
>>889
信玄だけとか考えてるのあなただけじゃね

>>892
少なくとも1575年ぐらいまでは細川三好とさほど変わらない
将軍を立てたり対立して争ったり将軍がどっかいったので幕府の代行となったり
違いがあるとしたら信長は幕府の役職にあまり関心を示さないことぐらい

そこから三職推任までは細川三好と一緒だったのか明確な意思があったかは不明
三職推任問題が起きた後は信長から望んだのか要請されたかは判らないが
細川三好とは一線を画する
ただその後室町幕府の焼き直しになるか新たな秩序を打ち立てるかは不明
とこんな所か?
0894人間七七四年2009/01/08(木) 22:36:12ID:5JPlZkST
>>893
不明や判らないばかりなら書くなよ


0895人間七七四年2009/01/08(木) 22:37:41ID:QPDADDVR
分からない事を思いこみで書いてくれるなって事だろうに。
0896人間七七四年2009/01/08(木) 23:10:56ID:5JPlZkST
その程度の内容ならここの住人ならみんな知っているべ?


0897人間七七四年2009/01/09(金) 00:34:09ID:OxJIM5H+
信長も信玄も1570年代前半では同じだという単なる事実確認というか意見のすり合わせだろ。
でないと上みたいに、信玄が信玄がと被害妄想に陥る人間がいるみたいだから。
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