もともと本願寺は、三好党や六角氏などと近い立場にあったのが
蜂起の重要な要素で、蜂起にあたっては朝倉や浅井とも結んでいる。
ただ、小木江を落とした頃には、篠原長房や六角承禎は信長と和睦して
おり、11月暮れ頃には浅井長政と、ついでその翌月は朝倉義景と和睦
している。さらに、本願寺に対しても、10月下旬に、青蓮院から
本願寺へ和睦が促されている(青蓮院は本願寺を「候人」としていた)。

この状態から、次に交戦が起きるのは翌年(元亀二年)五月。
本願寺単独で戦い続けるわけにもいかないので、休戦状態になっていた模様。