尾張刈安賀で勝佑・信佑が戦死した件だが、
上のHP読むとソースの原文の詳細は不明でその土地で戦死したということしか判らない、
また死んだのは9月29日長島の滅亡時の話
信長の長島への攻撃を見ると、周囲の土豪の降伏、長島の周りの砦を攻撃、そして長島の完全包囲と移行している、
もし尾張で長島にそれなりに協力する勢力がいたのであれば、とっくに攻撃されているはずだと思う。

9月29日というと
一部の一揆衆が長島の包囲を突破して逃げ散った日、
逃げ散ったものの一部に
勝佑・信佑がいて刈安賀まで逃げたがそこで戦死したか、
逃げ散ったものが刈安賀まで逃げて
勝佑・信佑らが彼らを保護しようとしたため織田軍に
討たれたと考えるほうがまだ自然じゃないかと思う。

それまで勝佑・信佑が中立を装っていたが長島が滅亡しそうになってから織田に敵対するなんてことは無いだろうし。

あとは中立を装っていたが、9月29日になって、一揆勢から勝佑・信佑らが長島に協力している事実を知って、
この時になって、ようやく攻撃対象とされたとか。

>>457
海津も1560年代前半は支配していたとは言い切れないし
二俣も信玄が死んだせいもあってか周囲は敵
岩村も翌年勝頼が18支城落とすまでは恵那郡で孤立していて敵地といえる、
秀吉も近江坂田郡を支配地域においているので普通に軍役で召集できる。

それに上の方で当時の軍制では領地に帰らないと無理みたいなこと言っていたが、
春日依田秋山にしてもその領地は甲斐や信濃にあるわけで、上の理屈によるなら
そこ出身の兵はやっぱり補充は出来ないってことになるんじゃないかと?

>>533
同感
長篠合戦など、両者の兵力は実際は織田1万2000〜1万3000、徳川4000〜5000とし、武田8000〜1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000〜7000と
高柳氏が述べているが、それが事実なら、織田武田徳川すべての史料が兵力を誇張していることになる。
だから長島に関しても織田本願寺ともに誇張していると考えるほうが自然なのでは。