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【武田】2万5千で上洛できっかよ【信玄】その57

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0001人間七七四年2008/12/15(月) 18:03:25ID:pd70l85k
【武田】2万5千で上洛【信玄】その56
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222518983/l50

ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。

スレタイは「できっかよ」に戻す!

テンプレ
>>2-30ぐらい?
0002人間七七四年2008/12/15(月) 18:21:20ID:5xzLdFv+
できっこないよ。
0003人間七七四年2008/12/15(月) 19:18:39ID:EkYf08uk
材木問屋が、とりあえず世界征服!って言いつつ
九州某県でローカルに戦ってるようなもんだろ。
大きいこと言った方が志気も上がるじゃん。
浅井・朝倉なんかも牽制を頑張るだろうし。
0004人間七七四年2008/12/15(月) 20:02:40ID:5d1hO76E
まあ2万5000、家康の抑えに5000置いておくとして2万ぽっちじゃ信長には勝てんわね。
防衛線に徹するなら一万あれば十分だし、長期の遠征はそれこそ国人が嫌がる。
0005人間七七四年2008/12/15(月) 20:16:10ID:5d1hO76E
武田にできることは織田が手一杯の内に三・遠を侵食すること。
流石にいよいよヤバイとなれば長篠のときのように信長も動く。
その分だけ浅井、朝倉その他の寿命も延びる。
あとは三・遠の要衝を押さえたまま対峙を続けながらチャンスがあればジワリ侵食。
徳川を引き込むことが出来れば形成の逆転も夢ではないというところか。
信玄が三年ぐらい長生きしてその間、上杉、北条との関係が良好なままという希望的な前提が必要だが。
0006人間七七四年2008/12/15(月) 20:18:37ID:5d1hO76E
そもそも信玄って合戦で一気に勝負決めるタイプじゃないよね。
本格的な西上を本気でするつもりはなかったんじゃないかと。
自体が好転すればあるいはぐらいには考えてただろうけど。
0007人間七七四年2008/12/15(月) 20:20:25ID:TVAbZRzn
 ______
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    し´

 \ えっ…と、糞スレはここかな…、と /
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0008人間七七四年2008/12/15(月) 21:25:37ID:XFuXrZpt
北条侵攻と同じように織田の領内を横断しつつ荒らしまくればいい
0009人間七七四年2008/12/15(月) 21:36:47ID:Py6ul5rx
テンプレぐらい貼れよ
0010人間七七四年2008/12/15(月) 23:09:37ID:Z16rgLOL
また立ったのかw
0011人間七七四年2008/12/16(火) 02:18:15ID:k3fWkrs8
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
0012人間七七四年2008/12/16(火) 02:26:51ID:k3fWkrs8
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。

関東
上野:49万6千石/12400

甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375

東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450

北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125

畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500

四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550

各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
0013人間七七四年2008/12/16(火) 02:27:43ID:k3fWkrs8
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況

●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
 面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
 14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
 利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
 もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
 して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
 には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
 松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
 武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
 遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
 18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。

総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0014人間七七四年2008/12/16(火) 02:28:55ID:k3fWkrs8
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。

総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。

●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。

総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0015人間七七四年2008/12/16(火) 02:33:14ID:k3fWkrs8
はってて気付いたんだが
このとき荒木ってまだ織田方だとはっきりさせたわけじゃないよね。
池田家の乗っ取りに四苦八苦してるころじゃない?
あと和田は高山に追放されてなかった?
まあなんにしても畿内勢力は混沌としすぎて
信長とか将軍どころじゃないんだろうけど。
0016人間七七四年2008/12/16(火) 07:14:56ID:+qgqx1xS
五月一斉攻略論者に対する反論。
今回の作戦の快進撃を支えた状況はなんだったのか?
それは、信長が信玄の行動を予想していなかったから。
つまり不意をつかれた。
だから、織田は積極的に行動がとれなかった
信玄側からすれば戦略を展開していく先手をとったことになる。
しかし、一度退却して五月に再包囲網をしたらどうなるか。
織田に包囲網対策の時間を与えることになる。
そうなると、総合的に勝る織田が包囲網勢を退ける可能性は飛躍的に高くなる。




0017人間七七四年2008/12/16(火) 09:29:46ID:26uLEcbf
快進撃してるならそのまま快進撃して尾張蹂躙
徳川降伏 包囲網のさらなる強化 そして織田内部へ寝返り工作
反乱を起こさせる まあ織田では太刀打ちできない
0018人間七七四年2008/12/16(火) 09:42:38ID:v8sOAADd
いきなり同盟破棄しといて快進撃とか…
困ったもんだぢゅ
(●`з´●)
0019人間七七四年2008/12/16(火) 09:47:31ID:26uLEcbf
将軍から上洛要請されてるしなぁ 大義名分は十分にあるし
織田にいわれたくねぇな
0020人間七七四年2008/12/16(火) 09:54:04ID:Ym1FQLqg
三河遠江の電光石火の攻略は凄まじい。あの時点なら信長に負けることもまず無い。
やはり信玄が長命だったらとしか言えない。
0021人間七七四年2008/12/16(火) 09:56:01ID:Ym1FQLqg
>>16
快進撃で落としたのは徳川の城がほとんど
0022人間七七四年2008/12/16(火) 12:19:59ID:v8sOAADd
快進撃というより騙し討ちぢゅ
騙し討ちなら初めのほうは有利に運んで当然ぢゅ
武田は今まで味方だったし、徳川という防波堤があるんだから準備してなくて当然ぢゅ
その兵力を畿内で使ったほうが有効ぢゅ
で、武田が裏切って防波堤の徳川が頑張ってる内に、武田の奴もしかしたら織田領にも入ってくるかもしれんで、そろそろ準備しようかなって時に、結局武田は防波堤を越えられずに帰っていったんだぢゅ
それだけの事ぢゅ
(●`з´●)
0023人間七七四年2008/12/16(火) 12:52:13ID:7UV0xLo2
ところで前スレ終わりで朝倉の戦果朝倉の戦果と連呼してtけど、その戦果は情勢にどう影響を与えたんだ?
織田の小谷城包囲の綻びを作るなり後退させるなりしたの?
0024人間七七四年2008/12/16(火) 16:16:32ID:FNBb+76x
虎御前山砦が健在な所からほとんど影響なし。
一部の人間が戦果戦果と言っているだけで、
他の人は、小競り合いで秀吉が勝ったりすることもあれば、朝倉が勝ったこともあるだろう、
ただ虎御前山砦を落とせていない事から、一戦闘では朝倉にも戦果があったけど、
戦略戦術的には秀吉が勝っている。

一部の人間は本気じゃなかった、落とすのを来春にしただけと主張しているが、
小谷城の目と鼻の先の砦も排除出来ないというのは、城下を荒らされたなどよりも余程影響が大きいだろうから、
単純に落とすことが出来なかったと考えるのが自然。ってとこじゃないかと思う。
0025人間七七四年2008/12/16(火) 17:10:54ID:k3fWkrs8
■三方ヶ原の戦い後の情勢。

1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い

1573年
一月  三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。

三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
   二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。

四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
   七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
   八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。

七月 足利義昭京より逃れる。

八月 朝倉・浅井両家滅亡。
0026人間七七四年2008/12/16(火) 17:18:40ID:k3fWkrs8
■この情勢をもとにした推測。

織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?

武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
0027人間七七四年2008/12/16(火) 17:19:14ID:k3fWkrs8
その他の勢力 東国

●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。

総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。

●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。

●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
 朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)

総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。

●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。

総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。

●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?

●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
0028人間七七四年2008/12/16(火) 17:20:02ID:k3fWkrs8
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。

●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。

●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
 するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。

●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
0029人間七七四年2008/12/16(火) 17:21:11ID:k3fWkrs8
その他の勢力 三好

三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)

 畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。

・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
 その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。

総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。

四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。

・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
  離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。

総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる

 おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。

総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
0030人間七七四年2008/12/16(火) 17:22:10ID:k3fWkrs8
永禄十三年・元亀元年(1570)
  正月武田信玄、駿河に侵攻。(第四次駿河侵攻)
     五ヵ条の条書。僧侶の朝山日乗と幕臣の明智光秀らが証人。(23日)
     信長上洛付書立・同触状。(23日)
  二月織田信長、岐阜城から出陣。(25日)
  三月常楽寺相撲興行。(3日)
     織田信長、上洛。足利義昭や三好義継らと鷹狩。(5日)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第一次元亀の争乱)
  四月織田・幕臣連合軍、若狭から越前に侵攻。(第一次越前侵攻)
     徳川家康、松永久秀、池田勝正、公家衆(飛鳥井雅敦、日野輝資)らも参戦。
     浅井長政の織田陣営から離反。織田・徳川連合軍、敗走。
     織田家部将の丹羽長秀と幕臣の明智光秀、武藤友益を威圧し若狭を平定。
     武田信玄、駿河に侵攻。(第五次駿河侵攻)
  五月守山合戦。
     織田家部将の稲葉良通らが六角残党を掃討。
     織田信長、千草峠を越えて美濃に帰国。
     森可成を宇佐山城、佐久間信盛を永原城、柴田勝家を長光寺城、中川重政を安土城、
     それぞれ諸将を配置し南近江(湖南回廊)を確保。
  六月野洲川落窪合戦。六角残党、敗走。
     織田家部将の佐久間信盛と柴田勝家らが出陣。
     織田・徳川連合軍、北近江に侵攻。(第一次近江侵攻)
     池田城で謀反。荒木村重、池田勝正を追放。
     織田・徳川連合軍、近江姉川で朝倉・浅井連合軍に勝利。(野村・横山合戦)
     木下秀吉を横山城に配置し湖北に備える。
  七月織田家部将の丹羽、水野、河尻、市橋らが佐和山城を包囲。(翌年二月に開城。)
     織田信長、上洛。次いで美濃に帰国。
     三好三人衆と三好康長、細川信元を盟主に掲げ畿内に出陣。(第二次畿内危機)
     三好三人衆と三好康長、中嶋城で挙兵。
     斎藤龍興、三好三人衆側に参加。
     安宅信康、兵庫に上陸。次いで尼崎に布陣。
     安宅信康、池田勝正や伊丹忠親らと戦う。
  八月古橋城合戦。三好長逸、攻略。次いで高安城の松永軍と対峙。
     織田信長、上洛。
     織田・足利連合軍、河内、次いで摂津に進軍。(野田・福島合戦)
  九月石山本願寺、蜂起。(第一次石山合戦)
     朝倉・浅井連合軍(湖北十ヶ寺も含むか?)、西近江に侵攻。(第二次近江侵攻)
     朝倉・浅井連合軍、長期戦を想定し船舶を確保。琵琶湖制海権を掌握。
     坂本合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。織田信治と森可成、戦死。(20日)
     宇佐山城合戦。朝倉・浅井連合軍、大津から山科に転進。(21日)
     織田・足利連合軍、摂津から撤退。(23日)
     織田軍、志賀に着陣。(志賀・堅田合戦)
     朝倉・浅井連合軍、比叡山に布陣。比叡山延暦寺、協力。
     篠原長房、兵庫に出陣。(27日)
  十月高屋城合戦。一向一揆、高屋城の畠山昭高を攻める。(22日)
     徳川家康、近江に援軍を派兵。
 十一月小木江城合戦。長島一向一揆、勝利。織田信興、戦死。(長島一向一揆)
     堅田合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。坂井政尚、戦死。
     織田信長、六角残党と和睦。さらに篠原長房とも和睦。
 十二月織田信長、朝倉義景と浅井長政とも和睦。
     織田信長、美濃に帰国。
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