【武田】2万5千で上洛できっかよ【信玄】その57
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0001人間七七四年
2008/12/15(月) 18:03:25ID:pd70l85khttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222518983/l50
ここでは「武田は上洛できたのか?」から始まって。現在では
「どうすれば武田は上洛できたのか」
「どうして武田は上洛できなかったのか」
など、武田と織田を中心にした戦国時代の話が扱われています。
ネタによっては場所は東北から九州まで、時間は室町から江戸まで
幅広くカバーしております。
スレタイは「できっかよ」に戻す!
テンプレ
>>2-30ぐらい?
0002人間七七四年
2008/12/15(月) 18:21:20ID:5xzLdFv+0003人間七七四年
2008/12/15(月) 19:18:39ID:EkYf08uk九州某県でローカルに戦ってるようなもんだろ。
大きいこと言った方が志気も上がるじゃん。
浅井・朝倉なんかも牽制を頑張るだろうし。
0004人間七七四年
2008/12/15(月) 20:02:40ID:5d1hO76E防衛線に徹するなら一万あれば十分だし、長期の遠征はそれこそ国人が嫌がる。
0005人間七七四年
2008/12/15(月) 20:16:10ID:5d1hO76E流石にいよいよヤバイとなれば長篠のときのように信長も動く。
その分だけ浅井、朝倉その他の寿命も延びる。
あとは三・遠の要衝を押さえたまま対峙を続けながらチャンスがあればジワリ侵食。
徳川を引き込むことが出来れば形成の逆転も夢ではないというところか。
信玄が三年ぐらい長生きしてその間、上杉、北条との関係が良好なままという希望的な前提が必要だが。
0006人間七七四年
2008/12/15(月) 20:18:37ID:5d1hO76E本格的な西上を本気でするつもりはなかったんじゃないかと。
自体が好転すればあるいはぐらいには考えてただろうけど。
0007人間七七四年
2008/12/15(月) 20:20:25ID:TVAbZRzn| |.| ∧∧
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し´
\ えっ…と、糞スレはここかな…、と /
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0008人間七七四年
2008/12/15(月) 21:25:37ID:XFuXrZpt0009人間七七四年
2008/12/15(月) 21:36:47ID:Py6ul5rx0010人間七七四年
2008/12/15(月) 23:09:37ID:Z16rgLOL0011人間七七四年
2008/12/16(火) 02:18:15ID:k3fWkrs8・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
0012人間七七四年
2008/12/16(火) 02:26:51ID:k3fWkrs8ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
0013人間七七四年
2008/12/16(火) 02:27:43ID:k3fWkrs8●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
0014人間七七四年
2008/12/16(火) 02:28:55ID:k3fWkrs8・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
0015人間七七四年
2008/12/16(火) 02:33:14ID:k3fWkrs8このとき荒木ってまだ織田方だとはっきりさせたわけじゃないよね。
池田家の乗っ取りに四苦八苦してるころじゃない?
あと和田は高山に追放されてなかった?
まあなんにしても畿内勢力は混沌としすぎて
信長とか将軍どころじゃないんだろうけど。
0016人間七七四年
2008/12/16(火) 07:14:56ID:+qgqx1xS今回の作戦の快進撃を支えた状況はなんだったのか?
それは、信長が信玄の行動を予想していなかったから。
つまり不意をつかれた。
だから、織田は積極的に行動がとれなかった
信玄側からすれば戦略を展開していく先手をとったことになる。
しかし、一度退却して五月に再包囲網をしたらどうなるか。
織田に包囲網対策の時間を与えることになる。
そうなると、総合的に勝る織田が包囲網勢を退ける可能性は飛躍的に高くなる。
0017人間七七四年
2008/12/16(火) 09:29:46ID:26uLEcbf徳川降伏 包囲網のさらなる強化 そして織田内部へ寝返り工作
反乱を起こさせる まあ織田では太刀打ちできない
0018人間七七四年
2008/12/16(火) 09:42:38ID:v8sOAADd困ったもんだぢゅ
(●`з´●)
0019人間七七四年
2008/12/16(火) 09:47:31ID:26uLEcbf織田にいわれたくねぇな
0020人間七七四年
2008/12/16(火) 09:54:04ID:Ym1FQLqgやはり信玄が長命だったらとしか言えない。
0021人間七七四年
2008/12/16(火) 09:56:01ID:Ym1FQLqg快進撃で落としたのは徳川の城がほとんど
0022人間七七四年
2008/12/16(火) 12:19:59ID:v8sOAADd騙し討ちなら初めのほうは有利に運んで当然ぢゅ
武田は今まで味方だったし、徳川という防波堤があるんだから準備してなくて当然ぢゅ
その兵力を畿内で使ったほうが有効ぢゅ
で、武田が裏切って防波堤の徳川が頑張ってる内に、武田の奴もしかしたら織田領にも入ってくるかもしれんで、そろそろ準備しようかなって時に、結局武田は防波堤を越えられずに帰っていったんだぢゅ
それだけの事ぢゅ
(●`з´●)
0023人間七七四年
2008/12/16(火) 12:52:13ID:7UV0xLo2織田の小谷城包囲の綻びを作るなり後退させるなりしたの?
0024人間七七四年
2008/12/16(火) 16:16:32ID:FNBb+76x一部の人間が戦果戦果と言っているだけで、
他の人は、小競り合いで秀吉が勝ったりすることもあれば、朝倉が勝ったこともあるだろう、
ただ虎御前山砦を落とせていない事から、一戦闘では朝倉にも戦果があったけど、
戦略戦術的には秀吉が勝っている。
一部の人間は本気じゃなかった、落とすのを来春にしただけと主張しているが、
小谷城の目と鼻の先の砦も排除出来ないというのは、城下を荒らされたなどよりも余程影響が大きいだろうから、
単純に落とすことが出来なかったと考えるのが自然。ってとこじゃないかと思う。
0025人間七七四年
2008/12/16(火) 17:10:54ID:k3fWkrs81572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
0026人間七七四年
2008/12/16(火) 17:18:40ID:k3fWkrs8織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
0027人間七七四年
2008/12/16(火) 17:19:14ID:k3fWkrs8●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
0028人間七七四年
2008/12/16(火) 17:20:02ID:k3fWkrs8計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
0029人間七七四年
2008/12/16(火) 17:21:11ID:k3fWkrs8三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
0030人間七七四年
2008/12/16(火) 17:22:10ID:k3fWkrs8正月武田信玄、駿河に侵攻。(第四次駿河侵攻)
五ヵ条の条書。僧侶の朝山日乗と幕臣の明智光秀らが証人。(23日)
信長上洛付書立・同触状。(23日)
二月織田信長、岐阜城から出陣。(25日)
三月常楽寺相撲興行。(3日)
織田信長、上洛。足利義昭や三好義継らと鷹狩。(5日)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第一次元亀の争乱)
四月織田・幕臣連合軍、若狭から越前に侵攻。(第一次越前侵攻)
徳川家康、松永久秀、池田勝正、公家衆(飛鳥井雅敦、日野輝資)らも参戦。
浅井長政の織田陣営から離反。織田・徳川連合軍、敗走。
織田家部将の丹羽長秀と幕臣の明智光秀、武藤友益を威圧し若狭を平定。
武田信玄、駿河に侵攻。(第五次駿河侵攻)
五月守山合戦。
織田家部将の稲葉良通らが六角残党を掃討。
織田信長、千草峠を越えて美濃に帰国。
森可成を宇佐山城、佐久間信盛を永原城、柴田勝家を長光寺城、中川重政を安土城、
それぞれ諸将を配置し南近江(湖南回廊)を確保。
六月野洲川落窪合戦。六角残党、敗走。
織田家部将の佐久間信盛と柴田勝家らが出陣。
織田・徳川連合軍、北近江に侵攻。(第一次近江侵攻)
池田城で謀反。荒木村重、池田勝正を追放。
織田・徳川連合軍、近江姉川で朝倉・浅井連合軍に勝利。(野村・横山合戦)
木下秀吉を横山城に配置し湖北に備える。
七月織田家部将の丹羽、水野、河尻、市橋らが佐和山城を包囲。(翌年二月に開城。)
織田信長、上洛。次いで美濃に帰国。
三好三人衆と三好康長、細川信元を盟主に掲げ畿内に出陣。(第二次畿内危機)
三好三人衆と三好康長、中嶋城で挙兵。
斎藤龍興、三好三人衆側に参加。
安宅信康、兵庫に上陸。次いで尼崎に布陣。
安宅信康、池田勝正や伊丹忠親らと戦う。
八月古橋城合戦。三好長逸、攻略。次いで高安城の松永軍と対峙。
織田信長、上洛。
織田・足利連合軍、河内、次いで摂津に進軍。(野田・福島合戦)
九月石山本願寺、蜂起。(第一次石山合戦)
朝倉・浅井連合軍(湖北十ヶ寺も含むか?)、西近江に侵攻。(第二次近江侵攻)
朝倉・浅井連合軍、長期戦を想定し船舶を確保。琵琶湖制海権を掌握。
坂本合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。織田信治と森可成、戦死。(20日)
宇佐山城合戦。朝倉・浅井連合軍、大津から山科に転進。(21日)
織田・足利連合軍、摂津から撤退。(23日)
織田軍、志賀に着陣。(志賀・堅田合戦)
朝倉・浅井連合軍、比叡山に布陣。比叡山延暦寺、協力。
篠原長房、兵庫に出陣。(27日)
十月高屋城合戦。一向一揆、高屋城の畠山昭高を攻める。(22日)
徳川家康、近江に援軍を派兵。
十一月小木江城合戦。長島一向一揆、勝利。織田信興、戦死。(長島一向一揆)
堅田合戦。朝倉・浅井連合軍、勝利。坂井政尚、戦死。
織田信長、六角残党と和睦。さらに篠原長房とも和睦。
十二月織田信長、朝倉義景と浅井長政とも和睦。
織田信長、美濃に帰国。
0031人間七七四年
2008/12/16(火) 17:22:53ID:k3fWkrs8正月篠原長房、阿波に帰国。
武田信玄、駿河に侵攻。(第六次駿河侵攻)
明智光秀を宇佐山城に配置。
二月佐和山城の磯野員昌、織田信長に投降。
丹羽長秀を佐和山城に配置。
蜂屋頼隆を肥田城に配置か?
備前児島の本太城で反毛利の軍事行動。(毛利と村上の間で確執か?)
四月毛利軍、本太城を包囲戦の末に攻略。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第二次元亀の争乱)
五月箕浦合戦。浅井軍と湖北十ヶ寺の連合軍、敗退。
織田信長、北伊勢に侵攻。(第一次長島合戦)
織田家部将の柴田勝家、負傷。氏家直元、戦死。
篠原長房、備前児島に出陣。(反毛利行動による浦上への支援。)
交野城合戦。松永久秀、安見直政を攻める。安見直政は自害。(第三次畿内危機)
これより摂津・河内・大和は争乱状態に。
六月吹田城合戦。和田惟政、吹田城を攻め落とす。
篠原長房、阿波に帰国。
高屋城合戦。三好義継と松永久秀、畠山昭高を攻めるも撤退。
七月篠原長房、河内に出陣。
和田惟政、三好義継・松永久秀の連合軍と戦う。
八月織田信長、近江に侵攻。余呉・木本を放火。(第三次近江侵攻)
辰市合戦。筒井軍、三好・松永連合軍に勝利。
郡山合戦(白井河原合戦)。荒木村重、勝利。和田惟政、戦死。
九月志村城合戦。織田軍、攻略。小川城、開城。(第一次湖南一向一揆)
金森城合戦。川那辺秀政、降伏。
織田信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。(延暦寺焼討)
明智光秀を坂本城に配置。これにより湖南支配が強化。
織田信長、上洛。
織田信長、竹内季治を斬首。(竹内事件)
織田家部将の明智光秀、高槻城に救援。
この頃、織田信長、細川信元と石成友通たちと和睦か?
織田信長、美濃に帰国。
十月宮部城の宮部継潤、織田信長に投降。
槙島城合戦。三好義継・松永久秀の連合軍、攻勢。
高屋城合戦。三好康長、攻勢。
十一月篠原長房、高屋城包囲戦に合流。(十二月までか?)
0032人間七七四年
2008/12/16(火) 17:23:40ID:k3fWkrs8正月金森城・三宅城で合戦。六角残党と一向一揆、敗退。(第二次湖南一向一揆)
織田家部将の佐久間信盛と柴田勝家らが出陣。
二月利根川対陣。(上杉vs北条・武田)
三月織田信長、近江に侵攻。余呉・木本を放火。(第四次近江侵攻と河内侵攻)
木戸城合戦。田中城合戦。
織田家部将の明智光秀、丹羽長秀、中川重政らが出陣。
織田信長、上洛。(織田信長、細川信元や石成友通らと謁見。)
三好長治と細川真之、讃岐に上陸し阿波へ侵攻。
四月交野城合戦。織田家部将の佐久間信盛や柴田勝家らが三好・松永連合軍に勝利。
五月織田信長、美濃に帰国。
椎名康胤、上杉陣営から離反。
加賀一向一揆、越中に侵攻。
六月神通川合戦。加賀一向一揆、上杉軍に勝利。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第三次元亀の争乱)
七月織田信長、近江に侵攻。(第五次近江侵攻)
小谷城合戦。
朝倉義景、小谷城に後詰。
上桜城合戦。篠原長房、三好長治に攻められて戦死。
毛利輝元、毛利家部将の小早川隆景と共に備前に侵攻。(備前侵攻)
八月朝倉家部将の前波、魚住、富田らが織田軍に投降。
織田家部将の中川重政、召還。
摂津中嶋城合戦。細川昭元、三好・松永連合の攻撃を撃退。
九月織田信長、美濃に帰国。(朝倉軍は小谷城に滞陣のまま。)
一七ヵ条の異見書。
岩村城の城主の遠山景任、死去。
十月武田信玄、甲府を出陣。
第一次岩村城合戦。織田軍(河尻秀隆と池田恒興か?)、攻略。
二俣城合戦。(十一月に開城。)
毛利輝元、浦上宗景と和睦。
十一月第二次岩村城合戦。武田家部将の秋山信友が攻め、開城。
武田信玄、二俣城を開城。
十二月朝倉義景、越前に帰国。
織田信長、佐久間信盛や水野信元、平手汎秀らを援軍として徳川家康に派遣。
三方ヶ原合戦。武田軍、織田・徳川連合軍に勝利。
摂津中嶋城合戦。再度、三好・松永連合の攻撃を撃退。
武田軍、遠江刑部で休止。
上村合戦。武田軍、遠山残党に勝利。
この頃、織田信長と毛利輝元の友好が破綻。
浦上宗景、三村元親、尼子勝久らは織田信長と誼を通じる。
宇喜多直家は毛利輝元と誼を通じる。
0033人間七七四年
2008/12/16(火) 17:24:36ID:k3fWkrs8正月野田城合戦。(二月に落城。)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━(第一次将軍蜂起)
二月武田信玄、野田城を開城。
山岡景友(光浄院暹慶)、近江石山で一向一揆を蜂起。(磯谷、渡辺らも参加。)
北山城でも山本久政らが蜂起。
織田信長、近江に侵攻。(第六次近江侵攻)
近江石山城合戦。落城。
摂津中嶋城合戦。三好・松永連合軍、勝利。細川昭元、堺へ逃走。
今堅田城合戦。開城。(朝倉・浅井連合軍の援軍は無し。)
織田信長、美濃に帰国。
足利義昭、三好義継や松永久秀らと連携し挙兵。
三月織田信長、岐阜城を出陣(25日)。
細川藤孝と荒木村重、織田信長に臣従。(29日)
織田信長、上洛。(29日)
高槻城で謀反。高山重友、幕府派の和田惟長を追放。
足利義昭、織田家部将の村井貞勝の屋敷を包囲。(30日)
四月織田信長、吉田兼和と会見。(1日)
織田信長、京都郊外に放火。(3日)
織田信長、上京に放火。(4日 上京炎上)
二条御所包囲。(4日)
織田信長、朝廷工作により足利義昭と和睦。(7日)
鯰江城合戦。六角残党と一向一揆、敗退。(第三次湖南一向一揆)
織田信長、百済寺を焼き討ち。(百済寺焼討)
織田信長、美濃に帰国。
武田信玄、死去。
五月徳川家康、駿河に侵攻。岡部や久能、さらには駿府に出陣。
六月万里小路惟房、死去。(9日)
高屋城で謀反。遊佐信教、畠山昭高を殺害。三好康長、入城。
0034人間七七四年
2008/12/16(火) 17:26:34ID:k3fWkrs8七月織田信長、上洛。
二条御所合戦。三淵藤英、降伏。
槙島城合戦。将軍足利義昭、降伏。次いで追放。
織田家部将の村井貞勝、京都所司代に任命。(28日)
長篠城合戦。(九月に開城。)
木戸城合戦。田中城合戦。
八月勝龍寺城合戦。三好三人衆の石成友通、戦死。(槙嶋・伏見・淀を制圧。)
織田信長、美濃に帰国。(4日)
万里小路輔房、急死。(5日)
浅井家部将の阿閉貞征、織田信長に投降。
織田信長、近江に侵攻。(第七次近江侵攻)
若狭の織田派(武藤舜秀らか?)、武藤友益ら反織田派を討伐。(若狭平定)
小谷城合戦。(九月に落城。)
朝倉義景、小谷城に後詰に来るも越前に撤退。
刀根坂合戦。朝倉義景、敗走。斎藤龍興、戦死。(第二次越前侵攻)
朝倉義景、自害。
上杉謙信、越中・加賀に侵攻。加賀一向一揆に圧力。
小谷城総攻撃。
浅井久政、自害。
九月浅井長政、自害。
木下秀吉を近江湖北三郡に配置。
丹羽長秀を若狭に配置。
武藤舜秀を越前敦賀郡に配置。
織田信長、美濃に帰国。
徳川家康、長篠城を開城。
織田信長、北伊勢に侵攻。(第二次長島合戦)
十月静原山合戦。織田家部将の明智光秀、勝利。山本久政、戦死。
磯谷久次、近江志賀郡山中から逐電。
織田信長、美濃に帰国。
十一月織田信長、上洛。
織田信長、足利義昭に帰京を説得するも失敗。(9日 堺協議)
若江城合戦。織田家部将の佐久間信盛、勝利。三好義継、戦死。(16日)
織田信長、浦上宗景に備前、美作、播磨を安堵。
織田信長と石山本願寺、和睦。
妙覚寺の茶会。参加者…塩屋宗悦・松江隆仙・津田宗及 点前…不在庵梅雪
妙覚寺の茶会。参加者…松井友閑・今井宗久・山上宗二 点前…千宗易
十二月織田信長、美濃に帰国。
多聞山城合戦。松永久秀、降伏。
0035人間七七四年
2008/12/16(火) 19:15:39ID:xYsI/dXA0036人間七七四年
2008/12/16(火) 22:05:01ID:JtGUq9CS0037人間七七四年
2008/12/16(火) 22:05:59ID:hofCJyb5勝手に多数の意見を決めないでほしい。
虎御膳が存在するなら秀吉のあるいは戦略的には勝利といえるかもしれないけど
戦術的な勝ちではないだろう。
虎御膳を攻略しても冬の間に気づきなおされたりする可能性などを考慮する人もいたし、
秀吉優位としてる人と朝倉優位としてる人の数はそれほど変わりなかったはず。
0038人間七七四年
2008/12/16(火) 22:47:29ID:3KCx3Ood0039人間七七四年
2008/12/16(火) 22:52:54ID:Sa20pBhu虎御前山砦単体で考えてるのが間違いだよ。
虎御前山砦は後方約12キロに位置する横山城との連携が完璧な堅い砦群。
虎御前山と横山城との間の八相山と宮部郷にも砦を築き、
それらを結ぶ、高さ約3メートル程の防御壁も兼ね備えた軍用道路を作ってる。
また信長公記に「御巧を以て、当山の景気興ある仕立、生便敷御要害見聞に及ばざるの由候て、各々耳目を驚かされ候。」
意訳(こんなすげえ砦今まで見たことねえ…と人々がびっくりした)
という記述があり、また牛一自身も「何れも眼前及ぶ所の景気、又丈夫なる御普請、申尽し難き次第なり。」
(周囲一体を見渡せるロケーションと頑丈な砦構えは言葉に言い表せないほどのものだ)
と述べており、虎御前砦がそこらにあるような砦ではなく相当規模の大きい砦だった事が分かる。
0040人間七七四年
2008/12/16(火) 22:59:18ID:hofCJyb5それは織田側の資料。
朝倉側の資料なら朝倉側が織田側を放火して700近い陣屋を焼き打ちにし
被害を与えている事や、同時代の書状にも朝倉が織田側に対して戦果をあげ
それをお祝いされてたりする。
実際戦果は出ているのだから太刀うちできないわけがない。
0041人間七七四年
2008/12/16(火) 23:01:24ID:hofCJyb5前スレじゃ結構朝倉が戦果をあげたり、春に備えて本気出してない事や
急いで攻略しても冬に引くから無意味になるとかは言われてたけど。
0042人間七七四年
2008/12/16(火) 23:26:58ID:86K0wsT/0043人間七七四年
2008/12/16(火) 23:29:11ID:3KCx3Ood大体包囲網勢力の五月反撃ってのも
朝倉が春には動きだすだろうという事は当然信長はわかってるだろうし
武田が美濃進軍か徳川攻略を続けるようなら
朝倉が動けないうちに織田は武田に軍差し向けて
武田を追い返す努力をするだろうから
包囲網勢力の五月一斉反抗が実現するかがそもそも怪しくないか
0044人間七七四年
2008/12/16(火) 23:37:14ID:hofCJyb5みえみえの自演って何のこと?
>>43
信玄死んだ時点で4月半ばなんだけど。
織田はこの間武田に対して兵を向けられてないし、
織田の主力が武田に向かったならその間に朝倉をはじめとする包囲網勢が
動けばいい。
朝倉にはまだ余裕あるけど。
0045人間七七四年
2008/12/16(火) 23:39:03ID:Sa20pBhu放火ってのは確か虎御前山砦が建築されて間もない頃に虎御前山の柴田勝家陣地を放火したってやつ?
それなら、あの後に宮部山砦や八相山砦を増築補強してるんだが。
小競り合いやら放火程度では虎御前山を抜ける根拠にはなり得ないんだが…
0046人間七七四年
2008/12/16(火) 23:44:57ID:hofCJyb5少なくとも抜けない根拠はないよ。
二万数千の兵を擁する浅井朝倉が全力攻勢をかけなくても
織田勢相手に戦果をあげているんだから。
放火も結構な規模だし。
0047人間七七四年
2008/12/16(火) 23:50:46ID:3KCx3Ood2月10日の野田城落城くらいからこの仮想戦記考え始めるんじゃ無かったの?
いつの時点から考え始めるのかはっきりしてくれ
信玄の体調悪化で武田軍が進軍をやめたから
織田は近江に侵攻したり動き出してるし
信玄が健康なら野田城攻略後の武田の動きも違うし
織田の動きだって違ってくるだろ
0049人間七七四年
2008/12/16(火) 23:52:49ID:3Px1Z9ty秀吉隊を絶対抜けないって事はないだろう。
戦果もあがってるみたいだし、
虎御膳があるから大丈夫!ってどっかのCMじゃないんだし。
0051人間七七四年
2008/12/16(火) 23:56:42ID:3Px1Z9tyまず一人の見解だけじゃいつの時点から始めるか
決まるわけもない。ID:hofCJyb5の見解があっても
別のスタートを想定する奴もいるだろう。
信玄健康から織田武田の動きがまるで違くなるとなっては
それこそ予想がつきにくいのでは。
0052人間七七四年
2008/12/16(火) 23:58:23ID:FNBb+76x単に抜けない可能性が高いってだけで。
あと始末記や朝倉が出した書状を何処まで信用していいんだ?確実に誇張表現入っているだろ。
武田派の人間は包囲網有利側のそういった情報はすべて額面どおりに受け止めているみたいだが・・・
0053人間七七四年
2008/12/16(火) 23:58:27ID:3Px1Z9ty戦争は数だよ兄貴!ってやつだろ。
2万数千近くいる大軍に寡兵の秀吉隊がいつまでも
砦頼みでいられるわけないだろ。
0054人間七七四年
2008/12/17(水) 00:01:38ID:3Px1Z9ty誇張かどうかわかんないし、
そう言うならなんで織田のは誇張表現なくて
虎御膳が鉄壁の要塞みたいにいうのか。変だよそれ。
0055人間七七四年
2008/12/17(水) 00:02:48ID:t5pJ5BMc0057人間七七四年
2008/12/17(水) 00:06:39ID:vmK+s/2Fなるんでしょうかね?
あんまり引き抜きすぎると武田本隊の相手する兵力が減りそうですね。
0059人間七七四年
2008/12/17(水) 00:07:23ID:ZShOBLEK『福井県史』通史編から引用
「義景は三月十一日に敦賀まで出陣した(「越州軍記」)。しかし信長方の湖西の守りが固いため滋賀郡方面まで出兵することはできず
また小谷城に対しても普請などの支援を続ける必要もあったので敦賀にとどまらざるをえなかった。」
この記述の後半部は始末記や義景書状を基にしてるわけだからなあ。浅倉側の資料でもこんな状況ではねえ。
0060人間七七四年
2008/12/17(水) 00:08:56ID:vmK+s/2Fこの時まだ北伊勢に勢力をもってますし
信玄の書状でも一向宗の中で特に重要なポイントになってるみたいですから
織田が武田・朝倉の相手に兵を割き過ぎると危なそうです。
0061人間七七四年
2008/12/17(水) 00:13:53ID:5xEjLLJ1もちろん徳川滅亡で武田のその分の兵力と対上杉の兵力も加算されるし
武田4万と上杉の2万に一向宗で織田の後方を撹乱
0062人間七七四年
2008/12/17(水) 00:15:04ID:HwBFXs2k堅固な砦なら寡兵でもいつまでも大丈夫っていうのはどうか。
遺構や絵図って実際見たことあるの?
>>59
それ越州軍記しか資料書いてないだろ。
0063人間七七四年
2008/12/17(水) 00:16:54ID:wdX9GW11といってもここ数スレ見てる感じはそんな印象受けるが。
包囲網有利派はとにかく自己に有利なら何でも主張、相手の言い分認めず。
包囲網不利派にも自己に有利なら何でも主張、相手の言い分認めずって人間も多々いるけど、
自己に有利すぎる情報は誇張だろうと否定、上記の砦の件も
小競り合いで勝ったり負けたりはあっただろうとか全力で損害無視して攻めれば落とすことは可能だろうって感じで、
自己の主張に固執したりしない。
というか上のスタンス取っている人間は単に中立なだけかもしれないけど。
ついでにいうなら厨だの自演だのとの誰に言っているのか分からない単レスに反応して、
織田厨の仕業だって決め付けて騒ぐのも包囲網有利派の人間ばかり。
単レスで荒らすのは織田派っぽい人間が多いかなって印象も受けるが。
0064人間七七四年
2008/12/17(水) 00:19:14ID:fL9APkZo絵図はネットでググってしか見たこと無いけど虎御前山は行ったことあるよ。
昔、木之元のキャンプ場に行った帰りに立ち寄ったことがある。
0065人間七七四年
2008/12/17(水) 00:25:07ID:HwBFXs2k>>小競り合いで勝ったり負けたりはあっただろうとか
資料を見れば明らかに朝倉が戦果挙げてるんだから
それを全否定してたらおかしいと思うんだが。
>>全力で損害無視して攻めれば落とすことは可能だろうって
朝倉浅井のほうが圧倒的に大軍なんだからこれ否定するのもまず無理だろ。
実際織田派は反対派を罵倒した書き込み多いぞ。
ここ数スレ見た印象だけど。
>>64
いいねえ山歩き。
0066人間七七四年
2008/12/17(水) 00:25:58ID:vXsG4+Hw自分の考える仮想戦記を発表
それが実現可能かどうかの色んな意見を聞く場として考えればいい
織田厨は無理と言い
武田厨は可能と言って
ずっと続いてるスレなんだから
0067人間七七四年
2008/12/17(水) 00:28:38ID:wdX9GW11>実際織田派は反対派を罵倒した書き込み多いぞ。
細かくいうなら包囲網不利派は罵倒のみする人間と罵倒煽りせず普通に議論する人に別れている感じ。
包囲網有利派は、罵倒のみする人間と罵倒煽りを混ぜながら議論する人がいるって感じだな。
0068人間七七四年
2008/12/17(水) 00:31:27ID:HwBFXs2kそれ言い方が酷過ぎないか?
有利派にだって普通に議論してる人何人もいるだろ?
なんで一方をそんな酷く言うんだ?偏ってないか?
0069人間七七四年
2008/12/17(水) 00:34:01ID:ZShOBLEKだいたい専門家が何の根拠もなしに書くわけないだろうが。
0070人間七七四年
2008/12/17(水) 00:44:23ID:HwBFXs2k始末記は最終的に悲観的な口調になってるし、
多胡への書状は防備を固めるように言った書状は知ってるが。
4月7日のはどんな内容で?
3月には意気軒昂で武田との連携にノリノリな朝倉の書状があるぞ。
反撃が5月以降なら行けそうだが。
0071人間七七四年
2008/12/17(水) 00:59:34ID:ZShOBLEK西近江路の守りをおこなうように指示という内容。
0072人間七七四年
2008/12/17(水) 01:52:13ID:khH/TYvC>朝倉が戦果挙げてるんだからそれを全否定してたらおかしいと思うんだが
戦果は否定していませんよ。小競り合いで勝ったり負けたりレベルは。
問題は、その小競り合いが何か戦略レベルで戦果を得ているのか?ということ。
>朝倉浅井のほうが圧倒的に大軍なんだからこれ否定するのもまず無理だろ
元亀二年、浅井長政が横山城を攻撃、さらに浅井井規と一向一揆の五千が鎌刃城を
攻撃。秀吉は百騎を率いて出撃、箕浦に陣取っていた浅井・一向一揆軍を攻撃、撃破
浅井軍は八幡で体勢を立て直して秀吉を迎撃したが、ここでも敗れて小谷へ逃走。
一方横山城を攻撃した浅井長政も留守の竹中の奮戦により撃退される。
さらに前年といい、大軍だからって必ず城を落とせるという根拠にはならないね。
秀吉と横山から虎御前砦は、少数で浅井朝倉の攻撃を凌いできた実績があるので。
0073人間七七四年
2008/12/17(水) 08:22:30ID:Ei+IxGHL結局、撤退後に奥三河を維持できなかったあたり武田も侵攻する戦力はあっても占領続ける余裕はなかったみたいだし。
信玄が生きようが死のうが撤退は規定路線なんじゃないかねえ。
0074人間七七四年
2008/12/17(水) 08:26:04ID:Ei+IxGHLイラクとかそうだし。信長だって朝倉倒した後も越前平定するのに手こずってるし。
信玄存命でも獲得した城の地固めで精一杯なんじゃないかねえ。
0075人間七七四年
2008/12/17(水) 08:31:14ID:AT12px5H奥三河だろうが 侵攻してくる武田を相手に決戦挑めないヘタレはどんどん寝返られるだけ
つまり織田も打って出るしかない まあそんな余裕あればだが
0076人間七七四年
2008/12/17(水) 09:34:02ID:aO6gmbTO> 資料を見れば明らかに朝倉が戦果挙げてるんだから
だからその戦果が小谷城ほういにどう影響を与えたか?という話なんだが……
その結果によって織田方の小谷城包囲の一角を崩すなり後退させるなどしたのか?
0077人間七七四年
2008/12/17(水) 13:10:43ID:Vx2qADOkそれは桶狭間のときの織田や三方ヶ原の徳川だから通じる理屈。
国力で圧倒的に落ちる側だから打って出なけりゃジリ貧なわけ。
織田の国力は武田の倍なわけだからうってでなけりゃジリ貧になるのは武田の方。
北条の小田原攻めたときも落とせずに結局、有利な条件での講和で落着しただろ。
まして織田の国力は北条とは比べ物にならない。
0078人間七七四年
2008/12/17(水) 20:34:39ID:QXudKcZq前スレだか前前スレだかでいわれてたけど、
小谷から虎御前を抜いていく事が狙いなら
湖西にこだわる必要はないわけで。
多胡とかに守りを固めてもらえばいいわけで
その間に小谷の補強をおこなってたんでしょ。
>>72
朝倉が全力攻勢をかける前に撤退したんだから戦略レベルを論じても。
箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦で
明らかに誇張が入ってると思うけど。
その信長公記には朝倉方が戦果をあげてる事は一切書いてないのも留意するとね。
信長公記は天下人になった秀吉が生きてる間に書かれたらしいから
かなり秀吉に留意されてる所あるよ。
朝倉が本格的には攻めてないけどね。
0079人間七七四年
2008/12/17(水) 20:39:27ID:QXudKcZq信玄が死んで急きょ撤退した武田軍の後で
徳川が乗り出したからね。
何度も言われてるけど五千も抑えを置けば
徳川の相手は十分。
>>74
さすがにイラクはたとえにならないと思う。
>>76
打撃を与えて戦力を削ったなら後の事を考えれば有益だと思うよ。
>>77
武田だけならね。
包囲網勢はしっかり生きてて信玄とともに動こうとしてるんだから
ジリ貧じゃないよ。
北条との戦いでの小田原ぜめは駿河が狙いだし。
0080人間七七四年
2008/12/17(水) 20:44:23ID:SO8e54YO0081人間七七四年
2008/12/17(水) 21:00:06ID:Qv5gENHM本願寺なんか何度か戦っては和睦してるし、松永もついたり離れたり。
0082人間七七四年
2008/12/17(水) 21:00:34ID:rrTNSm5/>箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦
速水真願寺記・松下文書にも合戦があった記述がある。
0084人間七七四年
2008/12/17(水) 21:15:56ID:Qv5gENHM一万程度の兵に城に篭られればそれでストップしちゃう数だって。
0085人間七七四年
2008/12/17(水) 21:18:07ID:QXudKcZq心配ご無用。
美濃にいる秋山隊と合流すれば本隊は再び2万5千くらいになって
ノープロブレム。
決戦挑まなくても織田主力を足止めして包囲網勢に多方向から暴れさせればいい。
0086人間七七四年
2008/12/17(水) 21:19:55ID:Qv5gENHM0087人間七七四年
2008/12/17(水) 21:21:40ID:DH5qTwNC信長公記の記述に疑問をもつならこの数字もよく精査しなくちゃならんよな。
ちなみに谷口克弘氏は朝倉記の記述等を踏まえて5,6千ぐらいではないかとしているけど。
0088人間七七四年
2008/12/17(水) 21:23:17ID:Qv5gENHM農繁期がどうとかじゃなくて国人の意向的に。
いつまでも内政まかせきりにしとくわけにもいかんし。
0089人間七七四年
2008/12/17(水) 21:25:12ID:rrTNSm5/ああスマンが俺はそれらの史料を読んだ事が無いんだ。
ttp://www.biwa.ne.jp/~bravo/hideyosi/nenpyou.htm
↑のサイトに箕浦での合戦のソースとして信長公記以外にこれらの史料が挙げられている。
このサイトはかなり丁寧に作られているからこれらの史料がソースだというのは信じていいと思うよ。
当時の時系列が事細かに記されているから結構便利なサイト。
0090人間七七四年
2008/12/17(水) 21:27:21ID:QXudKcZqおいおい。義景は史実の戦果を見る限りなかなかのものだぞ。
内政任せることに特に問題あるとも思えんし。
0092人間七七四年
2008/12/17(水) 21:30:09ID:rrTNSm5/前スレからのコピペ↓。
暴れるなんて無理な気がするんだが…
688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/09(日) 20:59:25 ID:Se9BgSnD
五畿の状況をあらまし述べると
・山城
北山城の明智や細川は織田につく。ただし北山城から何人かの豪族は将軍へ。
南では真木島氏や石成が健在。
・大和
大部分を押さえる筒井氏と寺社勢力が織田方。将軍方の松永氏は逼塞状態。
・摂津
三守護のうち、池田氏は1570年に当主の勝正が出奔、弟の重成が建てられるが、
実権は荒木村重が握る。もう一つの和田氏は、当主惟長が高山重友によって
追放される(73年3月)。これは荒木の謀略だったらしい。そして4月には正式に
信長に臣従。
最後の伊丹氏は将軍方につくが、荒木らに攻められて篭城。74年11月までは伊丹
城で頑張る。
あと南に石山本願寺がある。
・河内
北河内半国守護三好義継が73年11月に死ぬまでは将軍方。
南半国守護畠山家では、永禄の頃から家中が纏まらず、当主高政は弟に家督を
譲って出奔。跡を継いだ昭高は将軍方につくが、家中の遊佐氏と対立。73年6月に
殺される。実権を握った遊佐信教は本願寺につくが、翌年信長の攻撃で戦死。
その後は高屋城に三好笑岩が入るが、75年4月に降伏。織田領へ。
・和泉
不明。73年4月には和泉の豪族達が織田に従っている様子が確認できるが具体的に
いつ頃から従ったのかは不明。逆に、将軍や本願寺に従って織田と敵対した
ような記録もない。
73年4月には織田についていたというのなら、信玄の西上や将軍の決起には応じな
かったとみるべきだろうが。
73年4月(信玄がまだ生きていて、武田軍も帰国をはじめていない)頃として
・山城 将軍方優勢だが攻勢に出られるほどか?ほとんどが篭城。
・大和 織田方圧倒的。一部で松永が篭城。
・摂津 織田方圧倒的。一部で伊丹が篭城。
・河内 南北ともに将軍方。ただし家中に問題が大。
・和泉 ほぼ織田方とみなしていいかな?
0093人間七七四年
2008/12/17(水) 21:36:46ID:Qv5gENHM信長が断固ぶっ潰すな構えでやってるから死力尽くして戦ってるところもあるから
条件折れてやれば懐柔とかもできそうだし。
0094人間七七四年
2008/12/17(水) 21:37:19ID:rrTNSm5/一応専門的に研究してる人を信長万歳だからといって切り捨てるのもいかがなものかと思うが…
俺はその論説を読んだ事が無いから何とも言えない。
出来れば>>87は谷口氏のその論説をもう少し詳しく記述してくれ。
0095人間七七四年
2008/12/17(水) 21:37:41ID:QXudKcZqいやね…そういう事じゃないんだよ。
箕浦合戦とやらのソースになると言ってるけどそれが
「織田勢と朝倉勢が箕浦で衝突し織田が勝ったそうだ。」とかいう記述なのか
公記にあるように「秀吉が数百の兵で五千の朝倉・浅井・一揆勢を蹂躙し撃破しました。」
という記述なのかでは全然違うよ。
>>92
あんまりコピペに頼らん方がいいよ…。
包囲網勢は5畿だけじゃないし。第一三好義継が死ぬ1573年11月まで
まだまだ時間あるよ。信玄死んだの4月だし。
それに朝倉浅井伊勢長島本願寺その他がいるし。暴れられないわけがない。
0097人間七七四年
2008/12/17(水) 21:43:31ID:Qv5gENHMリアルタイムで情報の入るわけじゃない戦国時代で戦況の変化に細やかに対応できるのか?
”五月から本気だす”ってそれまで本気出さずにいたわけでもないだろうに。
0098人間七七四年
2008/12/17(水) 21:46:42ID:QXudKcZq信玄の10月の書状や2月の書状や
浅井の2月末の書状や
本願寺の2月末の書状などで
歩調をそろえての反撃が計画されてるのは確か。
本格的な攻勢に備えて力を温存してた事は考慮できるが。
0099人間七七四年
2008/12/17(水) 21:49:29ID:Qv5gENHM家康は地侍の支持とか諸般の事情で出兵せざるをえんかっただろ。
各勢力が武田の都合のいいように動けるとは限らんよ。
所詮はその場限りの同盟にすぎないわけだから。
0100人間七七四年
2008/12/17(水) 21:52:58ID:rrTNSm5/さっきと言ってることが違うくないか?
>>78では>箕浦合戦を出してるけど、信長公記にしか記述ない合戦
とあたかも箕浦で戦がなかったような事を君が言うから、
俺は他にも合戦があったと分かるソースがあるらしいとレスしたんだが…
ちょいと調べてみたけど「丹波松下文書」
「某・徳山右衛門尉へ去る5月6日に鎌刃表に於いて浅井七郎(「浅井」)率いる
一向一揆軍と交戦し大勝した旨を報告。」と記述があるらしいし。
包囲網の面々がどれくらい動けるかについては前レスまでの間に散々
ループしてた話題でどうせまた堂々巡りになるだけだからもうパスしとく。
0101人間七七四年
2008/12/17(水) 21:54:59ID:QXudKcZq朝倉は越年は本国で行う傾向があって
それに従って冬に兵を本国に戻したしな。
これは武田も本願寺もびっくりして書状送ってる。
でも朝倉も両者の要請にこたえて2月末から動きだし
三月末には武田との連携にノリノリな所を見せている。
包囲網勢にしてみれば大敵織田を倒す為に力を合わせるのは
おかしくない。
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