戦国ちょっと悪い話
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001人間七七四年
2008/08/29(金) 20:18:24ID:LZQYPXp2尾張の国に、秀吉の姉妹がいるという噂が聞こえてきた。彼女は農民で、貧しい暮らしをしていた。
それを聞いた秀吉は、彼女の元に使いを出した。
「関白の身内としてそれ相応の待遇をしたいので、急ぎ都に上るように」
女は喜び、近所の幾人かの婦人たちに付き添われ、急ぎ上京した。
しかし
その女は京に入るやいなや捕縛され、付き添いの女たちともども、ことごとく斬首された。
都では、「彼女たちは関白様の過去の秘密を知っていたので、まとめて殺されたのだ」と、囁かれた。
このスレではこんな、戦国のあくどいエピソードを上げていきましょう。
0828人間七七四年
2008/10/20(月) 12:59:07ID:q3d8QAog正直すまんかった
ついくせで
参照
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-303.html#303
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-312.html#312
0829人間七七四年
2008/10/20(月) 16:07:58ID:N8LD91dKこの遺書読んだ上で大泣きしながら忠政に跡継がせる筑前って…
まぁ大きな家だし溢れる浪人の事考えたら妥当か
それに戦国を泳ぎきったから結果オーライなのか
0830人間七七四年
2008/10/20(月) 17:11:36ID:5rP+Dv0TWii 10月23日(木)発売
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http://www.tenchu.net/four/
力丸 :声優 小山力也(ジャック・バウアーなど)
0831人間七七四年
2008/10/20(月) 19:07:50ID:F34QrUlu大坂夏の陣の際、徳川方として参戦しつつ、全滅した隊があった。
大将の名は神保相茂、大和七千石を領する小大名であった。
その全滅の理由は、なんと味方のはずの伊達政宗の軍から一斉射撃
を受けたためであった。
島津家の記録には「この度の戦いにて、伊達政宗殿は味方を撃ち、
全滅させてしまった。家康公や諸侯の者は、伊達殿のなんと卑怯な
振る舞いかと笑いものにした。討たれたのは神保相茂殿である。
彼の従者二百七十名が討ち死にしたことは皆が知っている。」
戦後、この事を幕閣から追求されると政宗は弁明した。
「確かに味方と知って撃ったのは事実です。しかし伊達家の軍法には
敵、味方の差別は無い。神保の隊が我が隊に逃げ込み、我が隊も危うく
なったので、仕方なく討ち取ったまでの事。だからこそ、我が隊はその
後に大手柄をたてて、ご奉公したのです。」
だが神保隊は逃げていたのではなく、休息していた所を伊達隊が進軍の
妨げとして撃払ったのが事実であり、その場にいた複数の隊からも証言
されていた。
あまりにも理不尽な弁明だが、六十万石余を領する伊達家を刺激するの
は好ましくないと幕府は判断し不問とした。
当主と家臣のほとんどを失った神保家は、ほぼ改易の扱いとなるが、
さすがに不憫に思った幕閣達の働きにより、相茂の子茂明に父の旧領
大和七千石が後に与えられた。
伊達政宗の栄光の影に、犠牲になった神保家二百七十名余の惨死があった
事を、忘れてはならない。
(出典 寛政重修諸家譜 旧記雑録 慶長見聞書 より意訳)
0832人間七七四年
2008/10/20(月) 19:10:49ID:XVBAm3GQ0834人間七七四年
2008/10/20(月) 19:25:43ID:AFFHtHB10835人間七七四年
2008/10/20(月) 19:26:37ID:j7hGJY+70836人間七七四年
2008/10/20(月) 19:40:57ID:atgcrood秀吉が伏見にいた折の事。城の中に新しい屋敷を立て、その屋敷の四隅に数奇屋を設けて
それぞれで諸大名に茶の振る舞いをした。
主人役は、秀吉自身、徳川家康、前田利家、そして伊達政宗。
場所はくじで決め,料理の内容や招待客は直前まで知らされない趣向であった。
さて、政宗がくじで当たった数奇屋にいたのは、佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝、
よりにもよって、政宗と仲の悪い大名ベスト5に必ず入るような連中である。
「これは…、嫌がらせをしろということだな!」
政宗は、勿論そう考えた。
しかしとっさの事で、嫌がらせのネタが見つからない。
ふと台所を見ると、料理人が季節の野菜、つまみ菜の吸い物をつくっていた。
「これだ」
当時の茶ではコース料理が振舞われる。
四人の大名の前に、つまみ菜の吸い物の膳が置かれた。
ところがそれが置かれるや否や、次の料理が入ってきた。四人は慌てて
汁を吸った。途端、吸った椀から口を放し唇を押さえはじめた。
彼らの唇は、そろって真赤に晴れ上がっていた。
それは、さっきまでぐつぐつに煮立てられた、必要以上に熱々の汁であったのだ。
その後も料理や酒が出されたが、四人とも唇が痛くてとてもそれを食べられなかった。
政宗、会心のガッツポーズ。
後でこの話を聞いた秀吉、腹を抱えて大笑いしたとか。
0837人間七七四年
2008/10/20(月) 19:42:34ID:hZ84jgrq0838人間七七四年
2008/10/20(月) 19:43:08ID:XVBAm3GQ0840人間七七四年
2008/10/20(月) 19:50:58ID:5yeLiWqcこの発想が素晴らしいw
0841人間七七四年
2008/10/20(月) 19:55:17ID:paMwwoE10842人間七七四年
2008/10/20(月) 19:59:48ID:JQp20x6tこれ、このスレのワースト1だろ…酷い…
0844人間七七四年
2008/10/20(月) 20:31:09ID:ieR92pNz伊達による同士討ちの風聞は当時からあったようだが、
伊達が神保を攻撃するに至ったその理由は諸説あり定かではない
神保の休息中に攻撃したというのも、そのうちの一説であって
事実と認定するのはまだ議論が必要なところだな
0845人間七七四年
2008/10/20(月) 20:40:48ID:JQp20x6t別に貴方の言い分に異論は無いが、ちゃんと出典まで提示
している話に真贋議論を持ち掛けなくても良いのに…
だから出典なんて出しても意味が無いんだよ。
0846人間七七四年
2008/10/20(月) 20:44:10ID:XVBAm3GQ0847人間七七四年
2008/10/20(月) 20:45:09ID:jUFrIQQx待て待て。お前さんの方も落ち着け。
最後の一文は蛇足だろうが>>844は注釈の範囲内でしょう
気持ちはわかるけど肩肘張りすぎずに行きましょうや
0850人間七七四年
2008/10/20(月) 20:54:12ID:uMw6QJwM0851人間七七四年
2008/10/20(月) 20:54:28ID:atgcrood別の説から見た方向性からの光を当ててくれているわけだから、むしろありがたい。
そこは区別しないと。
0852人間七七四年
2008/10/20(月) 20:56:41ID:kYnOeVkZそれで伊達軍と周囲の東軍が一時睨み合ったとか
夏の陣が終わった直後「豊臣の次は伊達か」なんて噂が立つなど
妙な話が多い
伊達軍による(休息中の?)神保隊襲撃は案外実話かもしれんね
島津に限らず、第三者の立場で耳にした大名達は皆不快に思ったろうし
0853人間七七四年
2008/10/20(月) 20:58:28ID:Y52nIi73これはDQNの範疇を突き抜けてる
0854人間七七四年
2008/10/20(月) 20:59:50ID:hZ84jgrqとは思うがこれ以上はスレチ?
まぁどちらにせよ神保タンは気の毒だ。
0856人間七七四年
2008/10/20(月) 21:05:01ID:3KfHBT9IマジレスするとDQNって、一般的な感覚の範疇を突き抜けた人じゃないかな…
しかし「独眼竜」は人気あるんだよね。不思議な感じ。
0857845
2008/10/20(月) 21:08:00ID:JQp20x6t>>844さん、申し訳ございませんでした。
0858人間七七四年
2008/10/20(月) 21:14:14ID:az+FQSIU0859人間七七四年
2008/10/20(月) 21:17:52ID:ieR92pNzいや、別にいいんだけどねw
逸話の真贋を論じるつもりはないけど、>>831で
>だが神保隊は逃げていたのではなく、休息していた所を伊達隊が進軍の
>妨げとして撃払ったのが事実であり
と書いてあったから、諸説あって真実が判明してない事件で
その言い方はちょっと違うんじゃないかと思ったまでさ
0860人間七七四年
2008/10/20(月) 21:23:36ID:nh1tJUId0861人間七七四年
2008/10/20(月) 21:25:46ID:atgcrood大阪冬の陣のおり、島津が着陣するという噂が立ち、家康の使番が大阪の木津に使わされることになった。
このとき秀忠に付いていた使番にも、今後のため木津に行って、家康の使番から色々学ぶように、と
命ぜられた。ところがこの秀忠の使番が、いつまでたっても木津に現れなかった。
家康の使番が陣に帰ってからしばらくして秀忠の使番をみつけ、どうして来なかったのだと尋ねると、
彼はこう答えた。
「すいません。間違って大和の木津に行きました。」
0862人間七七四年
2008/10/20(月) 21:31:15ID:q3d8QAogつか、九州大名の軍が大阪冬の陣に着陣しに来るという所から察しろよ、秀忠の使番・・・
0863人間七七四年
2008/10/20(月) 21:31:26ID:uJgxFrsC一応最低限のフォローはされてたんだな
むしろこれは個人的にはいい話(幕閣的な意味で)
一方神保が捨扶持を貰ってる間政宗は、
大坂の陣の戦功で正四位下参議に昇叙、
更に嫡男にも伊勢宇和島10万石が与えられたのであった
0865人間七七四年
2008/10/20(月) 21:41:28ID:uJgxFrsC後秀宗はこの時には嫡男ではないね、長男だけど
勝ち組と負け組がはっきり分かれて興味深い
0866人間七七四年
2008/10/20(月) 21:42:03ID:GasX7xTp0867人間七七四年
2008/10/20(月) 21:52:14ID:kYnOeVkZ政宗の擁護をしてみる。
味方であれ、逃走してくる兵に雪崩れかかられると、
その後方の軍列は無茶苦茶になり、指揮系統も乱れ、まともに戦えなくなる。
下手すると一緒になって逃げ出す奴まで出てくる。
その混乱に乗じて真田辺りが突撃してきた場合、神保&伊達だけの敗退では済まない。
御味方総崩れ〜!なんて最悪の結果まで生んでしまう。
そうなる前に対処したのかもしれん。
冬の陣でも後藤隊に蹴散らされた佐竹軍&上杉第一陣の藤田隊が、第二陣の水原隊に雪崩れかかって来た。
水原はこれに怒って「左右にどけ!」と、この敗走してきた味方に怒鳴り散らす。
逆に水原自身は前進し、追撃してきた後藤隊に分け入って鉄砲を一斉射撃。そこへ第三陣の安田隊が突撃。
これに驚いた後藤基次は撤退。
見事に佐竹義宣の窮地を救い、後藤基次を退けた軍功が称えられた水原親憲。
徳川秀忠直々に感状を賜るが・・・
0868人間七七四年
2008/10/20(月) 21:55:05ID:6LQgjRic庶子で10万石なんてかなりの勝組っしょ。
嫡男以外で10万石の大名に取り立てられるのなんて将軍家じゃなければ普通は無理。
御三家でもよくて数万石でしょ。(確か紀州藩主になる前の吉宗は3万石の領主)
0869人間七七四年
2008/10/20(月) 22:10:15ID:X55VtsEH0870人間七七四年
2008/10/20(月) 22:13:14ID:3O5Ff2fE伊達これといったは戦果がなく、
一方でたかが旗本の神保が活躍していたのでムカついたのだという説もある。
0871人間七七四年
2008/10/20(月) 22:15:12ID:q3d8QAogdqn家久(忠恒)に「このDQN」とののしられる
まさしくまー君こそ戦国の KING OF dqn
0872人間七七四年
2008/10/20(月) 22:26:23ID:3O5Ff2fE最上義光は伊達輝宗に家督相続で介入されるも、父や妹の仲介もあり
友好状態を保っていた。
甥である政宗も、かわいい手紙や和歌を贈ってきたりして、
「おお、甥っこ賢いなあ、さすが妹の子」とデレデレしている伯父さんだった。
そんな甥が「伯父さん、出陣するから援軍ちょーだい!」と頼んできた。
早速義光は派遣、政宗は見事勝利。山形に礼状が届いた。
「……オレ自ら出たから、結構しつこい敵だったけどぶっ殺せました。
ついでに城主はじめ、女子供から犬猫まで、動くもの皆SATSUGAIしましたw
あそうそう、オッサンはオレの言うこと嘘だと思うかもしんねーけど、
これ超マジっすからwサーセンwww」
ヽ( ;´Д`)ノ「何このDQN手紙…」
【最上家中審議中】
_,,..,,,,_ _,,..,,,,_
_,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_
./ ・ω_,,..,,,,_ l _,,..,,,,_/ω・ ヽ
| / ・ヽ /・ ヽ l
`'ー--l ll l---‐´
`'ー---‐´`'ー---‐´
「もう伊達はだめかもしれんね」
「相馬あたりと包囲網つくろっか」
かくして義光は伊達包囲網を築き、じわじわと甥のDQNぶりと戦うことにした。
でも最上伊達間が冷戦でとどまり、大規模な合戦、流血がなかったのは、
両者がシスコンかつマザコンだったからである…。
0873人間七七四年
2008/10/20(月) 22:30:52ID:XVBAm3GQ0874人間七七四年
2008/10/20(月) 22:56:59ID:paMwwoE1話が混ざりまくってないか?
上杉軍一番隊須田・二番隊安田が崩れかかったところに水原が声を上げ
一番二番隊が避けたところに水原隊一斉射撃、
大坂方がひるんだ所に安田が槍を入れたのは鴫野の戦いで
佐竹が崩れたのは対岸でやってた今福の戦いだろ?
佐竹が崩れたので上杉が対岸から救援に入ったんであって
同士討ちはしてないと思うんだが。
0876人間七七四年
2008/10/20(月) 23:30:12ID:Ch+Ea9p2どんだけ魔性の女だったんだ・・・?
0877人間七七四年
2008/10/20(月) 23:39:58ID:5pu1/BWQ兄が息子を包囲すれば「そんなことするお兄ちゃんなんか大嫌い!」と往復ビンタしながら和平を促した。
最上対伊達の「大崎合戦」で彼女が叫んだ「喜べぇ! 出羽の山まで吹っ飛ばしてくれる!」という声に
最上伊達両軍の兵士はうなされ、不眠症となるものが続出したという。
ttp://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%BE%A9%E5%A7%AB
0878人間七七四年
2008/10/21(火) 00:09:52ID:bKDFTkKg後藤黒が黄色いと…
伊達家の後藤信康は
「性沈勇果敢にして智略あり,国のために力を尽くしいささかも私心なし」
と、 「東藩史稿」に記された勇者で政宗を支えてきた。
黄色い母衣を好んだことから、「黄後藤」とも。
仙台城築城の際には普請総奉行を務めたほどだった。
しかし彼も寄る年波には勝てず。
大坂の陣の出陣者から外された彼は、政宗に直訴し不満を訴えた。
しかし受け入れられなかった彼は、仙台城本丸から愛馬五島とともに
投身自殺した…。
天守台の麓にあるのは彼と愛馬をまつった神社、
という由来もあるけど真相はいかに?
0879人間七七四年
2008/10/21(火) 00:48:12ID:VRa4pw0W物凄い遅レスだけど、褒美について不満言ったのは井伊じゃなくて、井伊の家来の安藤重勝で、
その愚痴をたしなめた相手も、勝重の叔父の安藤直次じゃないか?(武功雑記)
0880人間七七四年
2008/10/21(火) 00:55:05ID:gW1c/+hqところが馬上で姿勢が崩れたところを土肥権右衛門という武者に突かれ、
田んぼに落ちてしまった。起き上がれない忠隣を見た土肥は
「お前みたいな未熟者の首は欲しくない
だが俺は走り回って疲れたのでお前の馬を貰う。せいぜいがんばって起き上がれ」
と言って行ってしまった
家来の助けでなんとか起き上がった忠隣は土肥の槍が落ちていたのでそれを持ち帰った
これを聞いた家康は
「馬も槍も戦いに必要なものだから痛み分けだな。うんうん」と言って忠隣を慰めたという
忠隣のかっこ悪い話
0882人間七七四年
2008/10/21(火) 01:26:18ID:OCOUinze0883人間七七四年
2008/10/21(火) 01:56:10ID:Aysw+zmwワザと槍を落としてやったのかもしれんな
と思うと( ;∀;) イイハナシダナー
0884人間七七四年
2008/10/21(火) 01:59:56ID:QSeALo4F乱戦で邪魔になったから捨てたとか、近くで討ち死にしてたとか。
0885人間七七四年
2008/10/21(火) 02:40:08ID:OaSGULgu0886人間七七四年
2008/10/21(火) 05:56:07ID:p0uWD3oM一口に槍といっても、
足軽用の長槍(4.5m以上)>徒歩侍の槍(3.5mくらい)>騎馬槍(2.5mくらい)>屋内用の槍(2mくらい)
と用途によって長さはおおきく異なるんだよ。
0889人間七七四年
2008/10/21(火) 20:13:07ID:wVk+y2pY面白い
0890人間七七四年
2008/10/21(火) 20:24:50ID:VRa4pw0Wある時客があり、直盛は鯉を料理して出した。それが大変美味だったので、客は
「すばらしい鯉でした。もっと味わいたいので、この鯉の頭も吸い物にして出していただけませんか?」
と頼んだ。
直盛は料理人にそれを命じた。が、いつまでたっても吸い物が出てこない。
そこで台所に行ってみると、料理人が先に、その鯉の頭を煮て食べてしまっていたことがわかった。
激怒した直盛は、その場で料理人を成敗した。
やがて客間に戻ると、「こう言うわけで吸い物は出てきません、大変申し訳ない。
代わりに、これを肴にしてください。」
と、客の前に、料理人の首を差し出した。
0892人間七七四年
2008/10/21(火) 20:50:08ID:7g0ofrGM0893人間七七四年
2008/10/21(火) 20:53:56ID:DiZbD2yj0895人間七七四年
2008/10/21(火) 21:05:49ID:OAHs3UjZ0896人間七七四年
2008/10/21(火) 21:26:10ID:mPPKKZWQ0897人間七七四年
2008/10/21(火) 21:32:09ID:iUyGBnoJ0898人間七七四年
2008/10/21(火) 21:45:38ID:OCOUinze0899人間七七四年
2008/10/21(火) 22:10:10ID:3ikwoBcG0900人間七七四年
2008/10/21(火) 22:20:20ID:2r239BL7これはドン引きだろw
0901人間七七四年
2008/10/21(火) 22:24:55ID:zKp3r9Nv0902人間七七四年
2008/10/21(火) 22:28:01ID:VRa4pw0W0903人間七七四年
2008/10/21(火) 22:32:44ID:W2fnCtJE0904人間七七四年
2008/10/21(火) 23:02:28ID:0fxyS1eU伊達政宗の教育係である片倉喜多は、片倉小十郎の異父姉であり、
鬼庭綱元の異母姉であった。才媛として名高い彼女は、
政宗にとってまさしく育ての母ともいえた。
上洛した政宗に従い、彼女も伊達家の京都屋敷にあった。
そんなある日、政宗留守中に秀吉がやって来た。
好色な秀吉は早速美しい侍女に目をつけ、下げ渡してくれと
頼んだ(侍女ではなく政宗側室説もあり)。
喜多は困ったが、時の権力者には逆らえずやむなく彼女を
秀吉に渡した。
すると帰宅した政宗が大激怒!
「あの女はオレが目をつけてて、ヤるつもりだったのに、
どういうつもりなんだ!?」
と喜多を斬り殺そうとした。
すると喜多は平然と「家の一大事と女への情け、どちらが大切ですか。
私が間違っていると思うなら斬りなさい」
と泰然自若として反論した。さしもの政宗もこれには詰まり、
彼女を追放処分とした。
その後彼女は、弟の領地でひっそりと庵を結び、
藩主の育ての母とは思えぬほど、寂しく一生を終えたと伝わる。
0906人間七七四年
2008/10/21(火) 23:07:40ID:+3ZFMIDB末期だな
0907人間七七四年
2008/10/21(火) 23:14:13ID:VRa4pw0Wあと、政宗は喜多死後の墓前寺を、わざわざ仙台に建立してるし、その墓を守るため
喜多の名跡での片倉家まで創設しているくらいだから、蟄居処分は処分としても、
伊達家でかなり大切にされていたのは間違い無いと思うよ?
0908人間七七四年
2008/10/21(火) 23:26:37ID:OAHs3UjZ豊臣秀吉のように女に優しく
大友宗麟のように身持ちが堅く
前田利家のように気前が良い、
立花宗茂のように俗事に通じた
伊達政宗のように常識敵で
細川忠興のように何事にも動じない
イエズス会士のように敵に寛大な人 を指す
こんなジョークをつくって見た
0911人間七七四年
2008/10/21(火) 23:36:50ID:BIZf8fXcある時、戦場で急に尿意をもようした。
敵は目の前、しょんべんごときで敵に背を向けるのは武門の名折れ
意を決した新兵衛は左手でむんずといちもつを掴みだし、放尿しながら
右手持った槍で敵を三人斬り捨てたのであった。
後に黒田秀忠の乱で幼き上杉謙信の命を救い、謙信の傅役となった
上杉二十五将にも数えられる金津義舊そのひとである
0913人間七七四年
2008/10/21(火) 23:50:25ID:RhkyJuWR>>910
「こんなEU人が理想!」のエピゴーネンですな
「イタリア人のように物事に正確で
一日3食イギリス料理
ルクセンブルグ人のように世界的に有名」
というやつ
0914人間七七四年
2008/10/22(水) 00:55:08ID:M7uaG5UQ池田恒興は織田信雄に味方していたが
本当は秀吉に味方したかった。
だが次男の輝政を信雄に人質としてだしていたので困っていた。
すると信雄が
「恒興は忠臣だ。そんな者から人質を取れば諸将は
わしを疑うだろうから、輝政は返す。」
と、輝政を返してきた。
しめた!と思った恒興はさっさと裏切って犬山城を落としてしまった。
0915人間七七四年
2008/10/22(水) 01:03:42ID:2+5A9/D8「博多はたいへんに人が多く、住民は優雅で礼儀正しかった。ただ、全国いたるところ
私たちが通り過ぎるとその後を、子供と遊民達がついて来た。
彼らは私たちに向かって「オイ!コラ!ワレ!」などと叫んだり、
「悪意ある朝鮮人め!!」と、罵ったりした。時には石まで投げられた。」
0918人間七七四年
2008/10/22(水) 11:37:43ID:0mCktqEH2回汁をかけた。
それを見た親父が
「汁をかける分量を1回で済ませられないとは」
と怒ったらしい。
でも追加で汁をかけることもあるわな?
俺はこれは理不尽と思う。
0919人間七七四年
2008/10/22(水) 11:41:19ID:eGcTgmiH0920人間七七四年
2008/10/22(水) 12:31:14ID:XfsnK8GE0921人間七七四年
2008/10/22(水) 12:45:27ID:LhwaY2SB一応その話には
・毎日麦飯に汁をかけるのに、毎日2回かける
→1回で済ませられない=決断力が鈍い
氏康「北条の世も俺で終わりだ」
そんな氏政だったが、
後北条家最大の勢力を誇ってしまうと言う皮肉なお話。
氏康にもう1人子供がいれば、関東統一なったんだけどね。
その辺は話に出てこない。
理想的なドイツ人とは
ヒトラーのように碧眼金髪で
ヒムラーのように容姿端麗で
ゲーリングのようにスマートである。
っていうのもあったね。
0923人間七七四年
2008/10/22(水) 13:57:40ID:FnbSufYX武田の手が徳川に伸びて来たころ、当然のように徳川家臣への寝返り工作が行なわれた。
最初に目を付けられたのが、大賀弥四郎だった。
弥四郎は小者から武士に取り立てられ、家康の寵愛を受け出世したため、妬むものが多く、
徳川家臣の中で浮いた存在になっていた。
内通が発覚してからの家康の怒り恨みは大きいかった。
刑場へ着いた弥四郎がみたものは、妻子8人の磔にされた姿だった。
弥四郎は足の腱を切断され、手の指10本も切られ、首から下を埋められて板をかまされ、
板の穴から首だけが出た目の前に、指が並べられた。
そして竹のノコギリが脇に置かれ見物人、通行人に首を引かせたのである。
一思いには殺さず、なるべく長い間苦しめて殺そうという極刑である。
恨みを持っていた家臣達や寝返りを許せない家臣達が率先して首をノコギリで引き、
その度に弥四郎は断末魔の叫びを上げる。
磔にされた家族はそれを聞きながら処刑されていった。
弥四郎はのた打ち回ることも許されず。血みどろになりながら6日目になって息絶えた。
0924人間七七四年
2008/10/22(水) 14:09:12ID:2+5A9/D8鋸引きはこの時代、ごく普通にある刑罰だからなあ。戦国大名であれば誰でもやってる。
これをもって残酷と言うのは少し違和感があるな。
むしろ家康はこのあと、本多作左衛門の諫言でこの手の刑罰を控えるようになって、
同時代でもかなり「人道的」な刑罰体系を作っていく。
0926人間七七四年
2008/10/22(水) 14:23:16ID:FnbSufYX確かにその通り。
秀吉、信長に比べこの手の話が殆どない家康でさえ、この時代全体を覆う空気の中では、
行なっていたということを書きたかった。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。