宣教師の報告書

山崎の合戦後に、信長の霊を弔うために明智軍の兵士の首が次々本能寺の
焼け跡にさらされ、その数は2000にも及んだ。
ところで、本能寺から約100メートルの場所に南蛮寺教会があったが、首が
さらされた季節は新暦では7月中旬の夏真っ盛りである。
教会は本能寺の風下にあったため死臭がひどく、臭気に耐えかねて窓を閉め
ると、灼熱の蒸し暑さに耐えなければならなかった。

『窓を閉めても隙間から入ってくる臭気は、「信長の傲慢さ」に匹敵するほど
耐えられないものだった。』、と教会のパードレは報告書で語っている。