戦国ちょっと悪い話
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0001人間七七四年
2008/08/29(金) 20:18:24ID:LZQYPXp2尾張の国に、秀吉の姉妹がいるという噂が聞こえてきた。彼女は農民で、貧しい暮らしをしていた。
それを聞いた秀吉は、彼女の元に使いを出した。
「関白の身内としてそれ相応の待遇をしたいので、急ぎ都に上るように」
女は喜び、近所の幾人かの婦人たちに付き添われ、急ぎ上京した。
しかし
その女は京に入るやいなや捕縛され、付き添いの女たちともども、ことごとく斬首された。
都では、「彼女たちは関白様の過去の秘密を知っていたので、まとめて殺されたのだ」と、囁かれた。
このスレではこんな、戦国のあくどいエピソードを上げていきましょう。
0047人間七七四年
2008/09/01(月) 22:11:36ID:IPHvlexk武田信虎の悪行の話は書かれてるが、あれは中国の故事に何度も出てくるようなパロディだし、あれをそのまま受け取る人はいないでしょ。
敵対していた家には悪い話を事実のように書かれるのも仕方ないこと。もちろん実話かもしれないけど。
いや、ごめんね、こういうスレなんだから信憑性とか突っ込む方がKYなんだけどね
0049人間七七四年
2008/09/01(月) 22:37:41ID:NQFSvZvgおバカで、お茶目で、ストレートで、ちょっとオサレな口説き文句だったものをw
本当に「ちょっと悪い話」で感心した
0050人間七七四年
2008/09/01(月) 22:41:37ID:fAL4m92tこれはチョイ悪にふさわしい萌え話だよねえ?
これが本当ならむしろ信長かわいいじゃんw
本当に悪いな話というのはこういうのだというわけで、秀吉。
秀吉の侍女のひとりが、密通して逐電した。
秀吉は彼女を追跡捕縛すると、女と乳母を三条大橋のそばで釜煎りにして処刑。
女の親は埋められ、七日間にわたって竹鋸でひかせて殺した。
その翌年にはすり・盗人を子供も含めて十名釜煎りに、
河原で同様のもの十九名を磔にした。
これはのちの本では石川五右衛門ということになるが、
真相は軽犯罪者を残虐刑で殺しただけである。
0051人間七七四年
2008/09/01(月) 23:00:11ID:iNpGVbXz病気になって暇を出された侍女が坊さんと結婚したら
処刑されたってのもなかったっけ?
0052人間七七四年
2008/09/01(月) 23:05:16ID:OqZOmtq7秀吉から使者が来て、褒めてくれるのかと思ったら
「誰が勝手に城兵の命助けていいって言ったゴラァ」
って手紙。恐れおののいた利家は、次の八王子城で全員虐殺やった。って話があったな。
秀吉は本気で、人殺しが大好きだったと思う。
0053人間七七四年
2008/09/01(月) 23:15:06ID:a+2+7apd城兵はいわば利家の変わりに殺されたと。
0054人間七七四年
2008/09/02(火) 00:00:22ID:OqZOmtq7細川忠興が、京から、腕利きの左官をつれて領国に下った。
この左官、忠興のお声がかりなのをいい事に、酷く傲慢で、家臣らの評判はすこぶる悪かった。
しかし、実際はきちんとした名字も無い身分。普請の棟梁としてえらそうにふんぞり返っている自分が、
裏でその事を馬鹿にされているかと考えると、いても立ってもいられない。
そこでこの左官、忠興に「武士のような名字を付けてくださいませ。名前も付け替えていただきたい」と、頼み込んだ。
殿様直々に頂いた名乗りであれば、家中のものも馬鹿にする事は無いだろう。そう計算しての事。
最初断った忠興だが、あまりにしつこいので、
「では、こう名乗れ、すさ藁の朝臣鏝次 下地壁右衛門(すさわらのあそんこてつぐ したじへいえもん)」
忠興も人が悪い。この左官の目論見を知っていて、からかったわけですな。
この左官、二度と忠興の前で、名前の件を言わなくなったとか。
0055人間七七四年
2008/09/02(火) 01:40:04ID:6lZ+Ke3c柴田勝家率いる織田軍の前に越中魚津城は落城寸前。
魚津城の武将たちは景勝に悲壮感漂う書状を送る。
今月五日・十一日付の書状二通、昨夜戊の刻に松倉城より届き、謹んで拝見いたしました。
当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げましたとおり、壁際まで取詰められて、
昼夜を問わず四十日にわたり攻められていますが、今日にいたるまで持ちこたえることができました。
しかし、こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。
このことを然るべく景勝公へ御披露くださいますようお頼みいたします。恐々謹言。
(以下、魚津城を守備する十二人の署名)
だが結局、城将は全員切腹して開城。にも関わらず織田軍は城兵を皆殺しにした。
翌日、越中を平定した勝家のもとに悲報が入る。光秀の謀叛による信長の横死であった。
領民に恨まれていた勝家は撤収に手間取ってしまい、もたつくうちに光秀は秀吉に討ち取られてしまう。
ちなみにこの時、城兵の虐殺を主導したのは前田利家。家譜でも誇らしげに「全員攻め殺した」と記す。
一方、別の織田の将は上杉方の奮戦に感動して、城将吉江宗信が用いた槍と采配をその遺族に送り届けている。
利家はこの時から既に勝家の明智討伐の足を引っ張ったわけである。
その後の利家の動静は皆の知るとおり。見事に柴田を裏切って秀吉の天下取りに貢献している。
まつが彼の死に際に経帷子を着せようとしたのも道理である。
0056人間七七四年
2008/09/02(火) 05:06:50ID:n84j5DLW0057人間七七四年
2008/09/02(火) 07:51:57ID:qgquYNm2彼は蓄財好きで有名で兵を抱えるべき金も蓄財に励むので
まつは幾度も咎めたが、利家は蓄財をやめようとはしなかった。
そんなとき、利家の重臣に委ねていた末森城を佐々勢に攻められた。
急いで援軍を差し向けなければ成らないが、兵が足りない。
右往左往する利家をみてまつが「銭を連れて戦争に行け、このバカ野郎」と金壷を投げつけたとかなんとか。
0058人間七七四年
2008/09/02(火) 10:17:01ID:/ZqwujEq0059人間七七四年
2008/09/02(火) 10:57:17ID:6hL/HelIいつも間違えた。金がよほど惜しかったようだ。
0060人間七七四年
2008/09/02(火) 11:21:29ID:crBXjLyk0061人間七七四年
2008/09/02(火) 14:16:05ID:ydYrnm5aその後の話で
秀吉に「敵はぶち殺せよ」と文句付けられた利家が
敵を殺しまくって雑兵どころか非戦闘員まで
首を刎ねさせ「これなら秀吉も満足するだろう」と
大量の首を秀吉に送った。
しかし前田家と一緒に行軍していた上杉は
前田に比べて少しの首しか送らなかった。
そしたら秀吉に「前田の首は雑兵の首ばっかりだけど
上杉は少ないからちゃんと送る首を選んだんだろう」
とか言われた。とかいう逸話があったような。
0062人間七七四年
2008/09/02(火) 14:23:04ID:e3tXaIpLこんなのでも大河の主役として美化されるんだから不思議だ。
0063人間七七四年
2008/09/02(火) 14:26:36ID:fKGuDll/0064人間七七四年
2008/09/02(火) 15:25:53ID:CklEJ1lT秀吉の態度が一貫してないのも問題あるんじゃないかしらん
とこわごわ利家を擁護してみる
それともこの話は、殺すのが少しだけでもいっぱい殺ったよとウソの報告をして、
送る首も合わせて少しだけにすれば・・・とかすればよかったのにという
利家の(要領の)悪さについての話だったのか
0065人間七七四年
2008/09/02(火) 18:45:07ID:hDBFhNH0陶隆房の謀叛により、大内家は大友宗麟の弟、大内義長を
当主とした。だがそれは隆房の傀儡であり、中国の雄、毛利
元就の好餌でしかなかった。
ほどなく大内家は毛利、大友両家に攻め込まれ、義長は且山城
で毛利勢に包囲される。この時、元就は宗麟に「貴殿の弟を助
命致そうか。」と訊ねたが、宗麟は「弟の命はどうでも良い。
だが弟が持っている『瓢箪茶入』は、年来の望みである。ぜひ
賜って頂けないか。」と返答した。
そこで元就は義長を自害させ、瓢箪茶入を宗麟に贈ったと言う。
やはり戦国の世とは、肉親こそが最大の敵であったのだろうか…
0067人間七七四年
2008/09/02(火) 21:43:25ID:s1ykryoj元親豊臣大名だったわけだし。
0068人間七七四年
2008/09/02(火) 21:47:02ID:1g17rhoV0069人間七七四年
2008/09/02(火) 23:05:48ID:W0NapNCf0070人間七七四年
2008/09/03(水) 00:02:04ID:sGRr7fah上杉は親豊臣とも言えんが。
0071人間七七四年
2008/09/03(水) 00:07:22ID:02AXiL0a0072人間七七四年
2008/09/03(水) 00:23:29ID:ymaSWLpj微笑ましい悪い(人の)話だから面白いのに、罵倒してくる阿呆が沸くと途端に萎えるわ
0073人間七七四年
2008/09/03(水) 00:41:20ID:/J5HghFJ南部氏により秀吉に南部領だと勝手に報告されて、
心ならずも南部配下とされてしまう。
剛毅な大槌孫八郎は商才もあったとみえて、名産の鮭を
「南部鼻曲がり鮭」として江戸に売り出し利を得るが、
それが南部家に警戒される元となり、南部利直により
濡れ衣を着せられて南部一族の奥瀬家にお預けになる。
ある日奥瀬家の家人から「暴れ馬を何とかしてくれ」
と頼まれた孫八郎は、馬術の心得もあったので
馬を取り押さえようとするが、とたんに刺客が数人沸いて出てきて
そのまま殺害、大槌に残っていた息子も南部家により殺害され、
大槌家は滅亡して南部藩による代官所が置かれた。
うーん、だいぶ悪い話になったかな?
でも南部がいつも津軽の件では被害者扱いされるんで、書いてみた。
0074人間七七四年
2008/09/03(水) 14:14:59ID:oWH8X3Xu秀吉の九州仕置きの時、大友の鶴崎城攻防戦。
城代は吉岡紀増の妻・妙林尼。
攻め手は島津軍・伊集院久宣、野村文綱、白浜重政。
女とあなどって散々痛めつけられた島津が本気を出してついに落城となった。
妙林尼と侍女たちは城下で囚われの身となったが、折にふれ島津の兵を招いては、
侍女達に酌をさせ、舞を舞い、歌を歌っておおいに笑いあった。
(今で言う合コンですな)
そしていよいよ秀吉が九州上陸という知らせが入り、島津軍は薩摩に帰ることになった。
妙林尼達は「いっしょに連れて行って欲しい」と懇願した。
兵達は、馬よ輿よと騒ぎ立て喜んだ。
ついに出立の日、妙林尼達は、門出の祝いとして将兵全員に酒を配りしたたかに酔わせた。
そして、途中、手配していた手兵に襲撃させたのである。
伊集院と白浜は討ち死に、野村も深手を負い、指揮官を失った兵達は敗走していった。
大友宗麟は「尼の身として稀代の忠節古今の絶類なり」と称えた。
秀吉も是非会って恩賞を取らせたいといったが固辞して受け取らなかった。
0075人間七七四年
2008/09/03(水) 14:35:10ID:ih8VIv8T「毛利は、上意さえもはねつけたと国内外から取りざたされるだろうが、毛利の家(の利益)こそ大事であり、
そのためには将軍の和睦命令など、拒否しても、いっこうに構わない。」
今に残るイメージと違い、隆元の、戦国大名らしい剛腹さの垣間見える逸話。
0076人間七七四年
2008/09/03(水) 15:15:38ID:mFgJxjFS0080人間七七四年
2008/09/04(木) 11:33:02ID:5UBCIv0R高虎なら鈴木重意毒殺だか強制自害だかが有名だけど
0081人間七七四年
2008/09/04(木) 12:40:34ID:0uavHQTo伊賀久隆に妹を嫁がせる→油断させて謀殺→妹自殺
松田元賢に娘を嫁がせる→油断させて謀殺→娘自殺
後藤勝基に娘を嫁がせる→油断させて謀殺→娘自殺
伊賀久隆の娘を嫁に取る→油断させて謀殺→所領奪う
まさに地獄
0082人間七七四年
2008/09/04(木) 14:14:40ID:6PKkhzKZ※プライバシー保護のため音声は変えてあります
0083人間七七四年
2008/09/04(木) 15:03:57ID:+zwxPN6T京の町をウインドショッピングしていた慶次、ある商店の軒先に鐙(あぶみ)が一つぶら下がっていた。
珍しいデザインが目を引き、購入しようとしたが、対の片方は無く、これ一つだと言われた。
しかたなく諦めてしばらく歩いていくと、ある店頭に先ほどの片割れと思われる同じデザインの鐙が置いてあった。
慶次は。左右も確かめず、ただちに購入し、先ほどの店に戻って、もう一つを買い揃えようとした。
店の主人は「あなた様が行かれた後、売れてしまいました」と言う。
慶次は非常に残念がりながらも、しかたないと帰っていった。
実は店の主は急ぎ先回りをして、支店に並べておいたのだった。
0084人間七七四年
2008/09/04(木) 15:29:36ID:y7YOhahr0085人間七七四年
2008/09/04(木) 15:36:23ID:n17SyvK8まんまと売却したわけか
これはちょい悪だw
0086人間七七四年
2008/09/04(木) 17:10:09ID:0uavHQTo織田信長、吉田兼見に諮問をした。
「そなたの父の兼右が、『南都(奈良)、北領(比叡山)が滅亡するなら、王城にも祟りがある』と言ったそうだが、
それは本当であるか?」
兼見「はい?まことでございます。」
信長「それは結構なことである。」
それを聞いて信長は喜び、兼見に褒美まで渡した。
次の日、有名な信長による上京焼き討ちが起こった。当時対立していた将軍、足利義昭を脅すためにである。
信長は先の、吉田兼右の言葉に、南都は、松永久秀の東大寺焼き討ち、北嶺は無論自身の比叡山焼き討ちを
あてはめ、
「上京焼き討ちは信長が恣意的にやったことではなく、予言されていた運命であり、全く仕方の無いことであった。」
と、喧伝したと言う。
0087人間七七四年
2008/09/04(木) 17:27:44ID:OP9vj0x20088人間七七四年
2008/09/04(木) 19:15:59ID:kkr/Xe9E如水なら城井谷とかだけど…あれは講談ですっごい悪い話にされてるから
今更史実に近い話をしてもぬるいかなー…
あー、昔からのつきあいの井口さんちの息子を召し抱えてたんだけどね如水。
長男→戦死 次男→戦死 三男→殉職
という結果になったわけだが、如水がまた井口さんちに行くわけよ。
「おたくの末っ子もうちに仕えさせてくれませんかねえ、息子さんたちの忠義は決して忘れませんから」
でも井口さんはさすがに断るやね。この時実に、井口さんちの子供はたった一人になってた。
ところが如水、あきらめない。
親の目を盗んでたった七、八歳の与一之助(後の黒田二十四騎の一人村田出羽)にお菓子を与えて
「うちに来た方がこのまま親の家にいるよりいいぞ」と言い聞かせそのまま連れて帰ってしまった。
これはあれだね、未成年者略取誘拐……。
0089人間七七四年
2008/09/04(木) 22:02:24ID:TVkE4C7Hなんか暗殺とか謀殺話より切実にきた。
0092人間七七四年
2008/09/05(金) 00:08:37ID:pkMeJIpz「我々は、罪深き仔羊です。四旬節ごとに、罪の償いをしましょう。
一番良い罪の償いは、通りすがりに寺院を見かけたら、それに放火することです。
神もお喜びになるでしょう。」
キリスト教徒が、未だに殉教などと言って被害者面しているのが不思議でしょうがない逸話。
0093人間七七四年
2008/09/05(金) 00:34:49ID:zSM7KckT被害者面するあるいは被害妄想的な発想をするのは開祖のジーザス・クライスト以来の伝統かもね。
あと、キリシタン大名の大友宗麟が、日向遠征の際、寺院仏閣に放火してまわったという伝承もあるよ。
0094人間七七四年
2008/09/05(金) 01:55:55ID:oXihZ12h自分ら=殉教
敵ども=天罰
ダブルスタンダード。
それがキリスト教&シナチョソ&会津の遺恨トリオクオリティーwww
>>93
「かもね」はいらない。
ほんと極悪カルト犯罪集団キリスト教マジイラネ。
跡形なく消え失せればいいのに。
0096人間七七四年
2008/09/05(金) 02:16:06ID:xqPbWGcD0099人間七七四年
2008/09/05(金) 13:06:05ID:/D2kfXQX藤堂高虎が家康から功を立てるのを阻止された話。
大坂夏の陣で井伊直孝と道明寺口の先陣を勤めていたが、味方と敵の間に堤があり、
高虎は、「ここを占拠できれば有利になる」と、家康に援軍を要請した。
家康は「敵に取らせてこそ勝機がある」と言って却下した。
間もなく直孝が堤を占拠したという報告があり、
「直孝ようやった、これで勝ちはきまった」と喜んだ。
家康は高虎が勲功を上げるのを嫌ったのである。
0100人間七七四年
2008/09/05(金) 14:01:22ID:pkMeJIpz大阪方が攻めてくる→諸隊が被害を受ける→井伊の赤備えがやって来て粉砕→大阪方大慌てで逃げる
このパターンばっかりのような。
0101人間七七四年
2008/09/05(金) 14:23:37ID:rkC4KeZK0102人間七七四年
2008/09/05(金) 15:31:15ID:/D2kfXQX井伊隊と組んでいたのが、藤堂、細川。その右に片桐、前田、本多(康紀)、
左に真田(信吉)、本多(忠朝)、浅野、秋田。
これくらいはカバーしたのかもね。
0103人間七七四年
2008/09/05(金) 19:36:53ID:aSMW2rAuここはうちがやるから誰にも譲らんとごねて
結局家康も上杉は仕方ねーなと放っておいたじゃん。
そういう話は夏の陣だとないんかね。
言うこときかなそうな奴は夏の陣では外されてたのか。
0104人間七七四年
2008/09/05(金) 22:56:27ID:IYcLe+69ってわざと遅刻してきた島津
0105人間七七四年
2008/09/05(金) 23:13:41ID:Qcb8tdDp・・・って、そのスレかなり前に落ちたか
0106人間七七四年
2008/09/06(土) 02:17:43ID:y6tdixCV侍所所司代の配下に、骨皮道賢という男がいた。
この男、盗賊などの捕縛を仕事とした目付けの役割を与えられていたのだが、その権限を利用して、
いつしか京の盗賊、あぶれ者たち300人ほどの、頭目となっていた。
さて、応仁の乱が起こる
東軍の細川勝元は、この男の動員力に目を付け、東軍に引き入れる。道賢、政治的な立場があったからではない。
勝元が差し出した呉服や黄金の太刀に眼がくらんでの事である。
道賢とその配下は「足軽」として暴れまわる、西軍の食料補給路を寸断すると、その勢いで七条の民家を
略奪破壊放火。下京に走って五条大宮から高倉までをやっぱり略奪破壊放火。まさにやりたい放題であった。
だが、天罰覿面。道賢とその配下が稲荷社に終結している事を察知した西軍、山名宗全、畠山義就、斯波義兼、
大内政弘という、西軍オールスターメンバーとも言うべき諸将が軍を率いて取り囲む。道賢、女装し輿に載って
脱出を図るが、リアルに「お前のようなババアがいるか!」と正体を見破られ、討ち取られてしまいましたとさ。
この骨皮道賢の悪行があまりに酷かったので、乱の終結後、京の知識層からは、今の核廃絶のような論調で、
足軽廃止論が議論されましたとさ。
ちなみに骨川スネ夫氏は、名字の近似性から、この骨皮道賢と何らかの繋がりがあると思われる。
0107人間七七四年
2008/09/06(土) 02:25:22ID:/0WGOybC0108人間七七四年
2008/09/06(土) 04:10:49ID:oiiFOJJ8那賀郡まで攻め入った際、ここを治める牛岐城(富岡城)主・新開入道道善(新開遠江守忠之)は勇猛で知られており攻めあぐねた。
元親は一計を案じ、和議を申し入れた。天正9年10月16日(新暦1581年11月12日)、道善を丈六寺に呼び出し酒宴を開いた。
和議の条件として、道善に対し四国統一の後に富岡城主の地位の確保し勝浦郡を与えるという案を示した。
好条件に道善主従は大いに満足し、酒宴は盛り上がった。道善主従が、夕刻、宴を辞して帰ろうと縁側に出たところを、隠れていた元親の家臣に襲撃された。
道善主従も応戦したが、多勢に無勢で全員殺害された。この時の手形や足形の血痕は、拭っても消えなかったと言われる。
現在、この縁の板は寺内徳雲院の天井板として用いられており、手形・足形の血痕らしき赤い形が認められる。
0110人間七七四年
2008/09/06(土) 10:12:39ID:gcq+2vA50111人間七七四年
2008/09/06(土) 10:32:58ID:sZ0yePL80112人間七七四年
2008/09/06(土) 11:04:51ID:y6tdixCVそんな時代は、無い。
0113人間七七四年
2008/09/06(土) 15:34:16ID:W+LKs912戦で集落を焼き、田畑を荒らされるよりは謀殺で片付けてくれる方が良策だわな
0117人間七七四年
2008/09/06(土) 17:41:36ID:00ao/M2Xただ兵力や物資をあたら損耗するよりはマシ。
武士は勝つことこそ肝要。
0118人間七七四年
2008/09/06(土) 17:44:07ID:hyrrjz5Mでもそれが良策だったらみんなやっているし、
手打ちの宴なんかにのこのこ敵方が顔を出す
こともなくなるだろう?
やはりイレギュラーなやり方と思うな。
0119人間七七四年
2008/09/06(土) 17:59:42ID:9Xw2eBHeつきあわされて一緒に死地に赴かねばならん下っぱはたまらんよ
下っぱ的にはそんなもん一人で勝手にやってくれよ
こっちは将棋の駒じゃねーんだよ
正々堂々とした決闘したいなら好きなだけその辺の馬場とかで個人的にやってくれよって感じで
いくら汚い手や卑劣な作戦で周りから「ほらあいつ出自が武士じゃないから礼儀知らない」とか
犬畜生のように叩かれ巻くてっても
自軍の損耗最小に抑えて勝つ武将に仕えたいよ
0120人間七七四年
2008/09/06(土) 18:00:29ID:39n8chUO松永・宇喜多はもっと評判いいはずw
0125人間七七四年
2008/09/06(土) 20:44:13ID:oiiFOJJ8中富川の戦いではその先陣をつとめて奮戦、長曽我部軍の勝利に貢献した。
かくして長曽我部元親は、四国統一を成し遂げた。
同年十一月、元親は成祐を夷山城に恩賞のことを話し合いたいと招いた。
成祐は疑うことなく夷山城に赴いたところを、弟主計頭、星合六之進らとともに元親の家臣畑弥助らによって殺害された。
そして、一宮城には元親の武将が城番として入り、一宮氏は没落した。
阿波の武将は人が良すぎるらしい。
0128人間七七四年
2008/09/06(土) 23:01:01ID:y6tdixCV秀吉「予の顔が猿に似ているなどと言う者がいると聞くが、真か!?」とご立腹
近習「これは勿体無い御諚でございます。誰がそのような事を申しましょうか。」
秀吉「ほう、では言ってはおらぬのだな。」
近習「勿論でございます。ただ、世間では、猿が殿下に似たのだと言っておりますが。」
秀吉公、さもあろう、さもあろうと御満悦。
(口が)悪い話
0129人間七七四年
2008/09/06(土) 23:08:05ID:9VFihkF20131人間七七四年
2008/09/07(日) 00:24:14ID:0UV3iztH0132人間七七四年
2008/09/07(日) 00:26:42ID:BT+LsTAa845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/06(土) 23:28:15 ID:j9yEXPFF
宇都宮(城井)鎮房。
毛利(大内)・大友という大勢力の間でうまく立ち回り勢力を保つ。
最盛期には豊前のほぼ全域を支配する。
地方領主の悲しさか、秀吉の権威を読めず、転封を拒否したのは
最大の失敗だったが、黒田氏に反旗を翻し、反豊臣の檄を飛ばした際は
多くの国人が彼に従った。(秀吉が在地の国人を圧迫したせいもあるけど)
僅か300余の兵で居城を奪還。
黒田孝高・長政親子の大軍に攻め込まれるも、地の利を生かしてこれを撃退。
長政は命からがら逃げ帰る。
攻めあぐねた黒田氏は所領安堵と鎮房娘・鶴姫(13歳)と長政の婚姻を条件に和睦。
しかし、騙まし討ちに遭って暗殺される。(鶴姫も後に磔刑)
この際、中津城には黒田氏の陰謀で小姓1人と鎮房だけで乗り込んだのだが
暗殺に際し、黒田方は2人を殺すのに19人の手負いを出したという。
強弓の使い手としても有名で、その武勇は黒田氏も賞賛している。
また築城技術にも優れ、領内のあちこちに砦を築き、敵兵を分散させては
各個撃破するという先述を得意とした戦上手でもあった。
0133人間七七四年
2008/09/07(日) 12:26:14ID:AzrvpKVP二条城対面の直前のころ、清正は正則に次のように申し送った。
「徳川と豊臣の間に合戦が起きたら、池田輝政の姫路城を攻め取り、
大坂に駆けつけよう」
使者に立ったのは平野長泰の弟・長元。
古田織部の茶会の折、そっと告げたのだが、正則の答えは
「それがしは同心致し難く候、家康候より大国を賜り、厚恩これ以て忘れ難く候」
それ以来、険悪な仲になった。
家康も「関が原の忠臣とも言えるが、二条城での秀頼との対面の際、
大坂がもっとも頼りにした将であるのに、仮病を使って出仕しなかった」
ことを憤慨しており、遺言にも正則改易を書き残した。
石田三成憎しだけで東軍に付いたのではないことを、「武功雑記」は記している。
0134人間七七四年
2008/09/07(日) 13:10:27ID:yX83dHClまあこの話、黒田寄りの見方で言うと「如水の留守を狙ってアポなしで武装した兵200を
率いて乗り込んできた(黒田方は足軽雑用含めて100くらい)」って説もありましてね…
この辺は双方+後世含めてどろどろ悪い話で好きw
0135人間七七四年
2008/09/07(日) 17:28:03ID:Y8s9t/oA隆元が生きてるときの将軍は義輝じゃないか?
0136人間七七四年
2008/09/07(日) 18:41:35ID:P/3gB3Zv家康を褒め称えるためには秀吉を悪人にしないと不可能だからな
0137人間七七四年
2008/09/07(日) 18:56:29ID:BT+LsTAa江戸期に秀吉はそんなに悪く言われていない。
秀吉の悪い話はむしろ、明治以降の研究の結果出てきた話が多い。
0138人間七七四年
2008/09/07(日) 19:18:07ID:X5btdmGJ0139人間七七四年
2008/09/07(日) 19:58:03ID:2OgkG6+5・西園寺旧臣を下人扱い
・人妻分捕り
・西園寺公広暗殺
・一揆参加者780人磔
・関係百姓2000人殺害
木村吉清
・葛西旧臣を東夷として差別
・人妻分捕り
・少女分捕り
・百姓分捕り
山内一豊
・浦戸一揆参加者270人殺害
・滝山一揆参加者100人殺害
・長宗我部旧臣を郷士とし差別化
0141人間七七四年
2008/09/07(日) 23:10:39ID:73OXqym4島原の乱など日本で一番隠れキリシタンが多かったキリスト殉教の地の長崎天主堂の近くに投下した原爆でキリスト教信者1万人近くを虐殺後に
崩壊した天主堂の保存運動にアメリカが圧力かけて潰して隠蔽したってテレビでやってましたが事実?
心ある人が被爆してボロボロで目の辺りも黒ずんで盲目になった頭だけのマリア像を去年だかに、天主堂に戻したとか。
被爆したマリア像を見たら被爆死した人々の姿を代弁してるようで涙が出ました。
0142人間七七四年
2008/09/08(月) 19:47:17ID:efwHKosz政宗が江戸にいたとき。喜多七太夫の勧進能があると言うので、能が大好きな政宗公、ワクワクしながら見に行った。
ところが、演場に到着してみると、既に能は終わっており、観客ははけ、役者たちは既に帰り支度。
当然これに激怒した政宗公
「わしのお気に入りの「海女」と「船弁慶」を、これからはじめろ!」
「し、しかし、一座のものがほとんど帰りまして、能はもう出来ません」と、恐る恐る座元が言うと
「政宗ほどの侍が、能を所望すると頼んでいるからには、しないといっても、させてくれよう!
…刀を出せ!!」
と、小姓に刀を出させ、桟敷から舞台に飛び上がり、刀を抜いた!その時
座元が大慌てで呼び返した役者たちが戻ってきた。
「なんだ、能は出来るではないか。あとは観客だな」
と、政宗、今度はわしが胴元の勧進能じゃ!皆のもの見物していけ!とそこらへんうろついてる人達を片っ端から
引っ張ってくる。だが、無理やり連れてきた客のノリが良い訳がない。すると政宗、お前らもっと盛り上がれ、と
用意していた酒、饅頭、肴を、客席に向って投げ込み始めた。たまたま引っ張り込まれた侍など、このとき饅頭が
頭に当たって政宗に向って投げ返す始末。どうもこのあたりから政宗公、能よりこっちのほうが面白くなってきた模様。
今度は大量の銭を持ってこさせ、桟敷に向って投げ始めた!これには勿論周囲は大パニックに。
銭を求めて争っている人々、おびえる座元と役者、真ん中で高笑いしながら酒を飲んでいる政宗、という
地獄絵図であった。
これを息子への書状に書いた細川忠興、
「この話、あまりに現実離れして信じられないかもしれませんが、丹羽長重殿と立花宗茂殿から聞いた
確かな話です。」と、念を入れている。
ちなみにこの騒動、幕府からは例の如く、「政宗だから仕方がない」で、不問に付されたとか。
0143人間七七四年
2008/09/08(月) 20:24:11ID:Bzv+DEiM正宗だから仕方ないな、それは。
0144人間七七四年
2008/09/08(月) 20:46:09ID:TOrCPcNN■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています