戦国ちょっと悪い話
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0001人間七七四年
2008/08/29(金) 20:18:24ID:LZQYPXp2尾張の国に、秀吉の姉妹がいるという噂が聞こえてきた。彼女は農民で、貧しい暮らしをしていた。
それを聞いた秀吉は、彼女の元に使いを出した。
「関白の身内としてそれ相応の待遇をしたいので、急ぎ都に上るように」
女は喜び、近所の幾人かの婦人たちに付き添われ、急ぎ上京した。
しかし
その女は京に入るやいなや捕縛され、付き添いの女たちともども、ことごとく斬首された。
都では、「彼女たちは関白様の過去の秘密を知っていたので、まとめて殺されたのだ」と、囁かれた。
このスレではこんな、戦国のあくどいエピソードを上げていきましょう。
0015人間七七四年
2008/08/30(土) 00:27:00ID:XMpNf2810016人間七七四年
2008/08/30(土) 00:52:34ID:jN1IP28xそんな事ばかりしていた木沢長政を憎む者は多く
最後には細川晴元、三好元長の子・三好長慶、遊佐長教等などに破れ
討ち死にしてしまいましたとさ
0017人間七七四年
2008/08/30(土) 02:03:05ID:YOJDVcFh和泉守護細川常有の家臣に、宇高有光と言う者がいた。
この君臣、関係が非常に悪化し、常有は宇高の屋敷に、軍勢を率いて夜討をかけた。
しかし宇高は常有の軍勢を撃退、そして一族郎党を連れ大和の古市に逃れた。
しばらくすると、古市の宇高の元に、先の管領、細川勝元の使いがやってきた。なんと、自分の直参として
仕えないか?と言う話であった。同じ細川家臣と言っても、傍流の和泉細川家と、勝元の本家とでは、
立場は全く違う。しかも牢人して早々の身。これはありえないほどの幸運であった。
「承知仕りました」
宇高は喜び、一族郎党を引き連れ京へと立った。同じ時古市にいた安位寺経覚と言う僧侶は、この話を聞き、
日記に書いた
「早速の義、はなはだ不審なり。もしくは仔細あるか…」
その6日後、古市に知らせが届いた。宇高は京でだまし討ちに会い、一族郎党皆殺しにされた、と。
勝元と和泉細川家はグルだったのだ。
経覚はその日の日記に、こう書いた
「案ずるが、ごとし。」
0019人間七七四年
2008/08/30(土) 02:57:58ID:Jlfht3gN0020人間七七四年
2008/08/30(土) 06:35:33ID:igbtLWlB0021人間七七四年
2008/08/30(土) 09:44:02ID:YbpasvLl0022人間七七四年
2008/08/30(土) 10:19:25ID:IVUgEJ8U0023人間七七四年
2008/08/30(土) 11:00:12ID:YOJDVcFh信雄に、信長からの指令が届いた
天正四年 十一月二十五日 朝
三瀬に隠棲していた北畠具教の所に、信雄の元から、滝川雄利、長野左京亮、軽野左京進が訪ねて来た。
いずれも、北畠家譜代の者たちであった。
具教は炬燵に入り、三歳と一歳になる、二人の子供と遊んでいた。来客と言うことで
子等を乳母にわたし、出迎えに出た所、長野が突然、持っていた槍で具教を突いた。
滝川、軽野も刀をふるい、具教に止めを刺すと、幼い二人の子供も、乳母ともども切り捨てた。
同じ頃
三瀬から二十キロほど離れた田丸城では、信雄が北畠一族の者たちを、朝食に招いていた。
具教の次男、北畠具藤をはじめ、一族の主だったものほとんどが出席していた。
和やかな食事の最中、突然、鐘が鳴り響いた。
その音と同時に、武装した刺客たちが乱入、一斉に襲い掛かった、北畠一族の者たちは成すすべもなく、
皆、殺された。
織田による、北畠一族への粛清は、この朝のうちに完了した。
北畠の一族の中で、一人だけ、命を助けられたものがいる。先の国主、北畠具房である。
彼は信雄の養父であったために、「父を殺すのは外聞が悪い」と、助けられたのだ。
彼もまた七年後、苦悩と苦悶のうちに、34歳で世を去ったと言う。
0024人間七七四年
2008/08/30(土) 11:04:28ID:BtWyT4Yq0025人間七七四年
2008/08/30(土) 17:58:01ID:UFqnofKNその家の元当主を暗殺した話がなかったっけ。
0027人間七七四年
2008/08/30(土) 20:07:36ID:ChpjI7md0029人間七七四年
2008/08/30(土) 22:45:10ID:YOJDVcFh五人の家臣の手によって、罪を得た三名の侍の、死刑が執行された。
二人の首をはねたあと、残った一人の首をはねようとすると、その侍は哀れみを誘う声でこういった
「お願いです。せめてもの武士の情け。この後ろ手に縛られている手を、前に括っていただけないでしょうか?
そうすれば縛られていても、死ぬ前に神仏にお祈りすることが出来ます。どうか。どうか。」
侍とはいえ、丸腰で縛られている。また、憐れでもある。それに此方は腕の立つものが五人。彼を恐れるのも
馬鹿馬鹿しい話だ。そう思い、囚人の願いを聞き入れ、側にいた一人が後ろに回り縄を解き、前に縛りなおそうとした。
その時である
囚人はすばやく立ち上がると縄を解いた男に猛然と襲い掛かり、相手の刀を奪い取るやいなやたちまち、一刀の下に
切り捨てた。
突然の事に残る四人は狼狽しながらも、囚人を逃がしてなならぬと円陣を組んだ。一人が踏み込む。
が、すばやく横払いされ倒れた。他の三人を目で制し、止めを刺す。三人は恐怖に襲われた。ばらばらに踏み込む。
もはや囚人の思う壺である。家中腕利きの五人はこうして、たちまちのうちに全員が斃された。
囚人はそのまま脱兎の如く逃げた。全身に返り血を浴びて真っ赤な姿で。すると、そこは当時の九州、
近くに教会のあることに気がついた。彼は教会の中に乱入した。そこにいた宣教師に、彼はこう言い放った
「わしは今よりキリシタンとなる!よって、わしを保護せよ!」
囚人であっても、宗徒を名乗った以上、教会は保護しないわけには行かない。また、竜造寺家にとっても、
彼を追跡する事でキリシタンと摩擦が起こった場合、貿易から言っても、領国経営から言っても、難しい判断を
迫られると考えるであろう。これらを全て計算した上での。この囚人の改宗宣言であった。
後日この囚人は教会の手引きにより、長崎へと逃げ延び、無事、生きながらえたと言う。目論見どおりであった。
悪くて強くて頭のいい、戦国の囚人のお話
0030人間七七四年
2008/08/30(土) 23:39:56ID:6BBObNBY0035人間七七四年
2008/08/31(日) 00:35:34ID:61EhceB50036人間七七四年
2008/09/01(月) 00:37:44ID:OqZOmtq7「公方様(足利義昭)が、入洛するため、信長が公方様の元に参陣する。よって、美濃は尾張に対して
停戦するように、との公方様からの仰せがありました。信長が参陣するなど、どうせ嘘だろうとは思いましたが、
もし停戦のご命令に応じなければ、信長は美濃側のせいで参陣出来なかった、などと言い訳するに違いありません。
また、万が一、信長が本気で参陣するのであれば、これは公方様にとっても結構なことなので、我々は
停船命令に従います、と、起請文を書いてご返事いたしました。
ところが、いざ停戦を通告し、美濃領国の通行を認めたところ、案の定信長は約束を破り、美濃を攻めてまいりました。
当方は、どうせこんなことだろうと思っていました。公方様のほうは、酷くがっかりされたとの事。
しかし、公方様まで使って騙まし討ちして、まんまと追い返された信長は、天下に大恥を書いたといってよいでしょう。」
0037人間七七四年
2008/09/01(月) 05:29:54ID:NQFSvZvg0038人間七七四年
2008/09/01(月) 05:55:50ID:GfHMvaFJヤクザや悪徳企業とかわらねぇ。
もっと頼む。
0039人間七七四年
2008/09/01(月) 07:40:38ID:t8ppktj7難で必死に否定する教育するんだろうね
成功者が奴隷たちに真実を知られ自分の地位を奪われたくないからだろうか?
奴隷には聖人君子が向いているし
0040人間七七四年
2008/09/01(月) 16:03:25ID:buFtF2Jb光市の犯人も捕まった当初はそんなこといって笑ってたらしいしな
誰だって生存競争の中では汚いこともやるが、他人を平気で陥れるような人間ばかりになったら
集団・社会としての効率は悪くなり全員で沈没だよ
0042人間七七四年
2008/09/01(月) 21:48:51ID:SUY/3Mg8斎藤義龍未亡人の持つ壷がどうしても欲しくなった信長は、何度も彼女にせがんだ。
しかし彼女は「戦乱の中で紛失した」といってきかない。
それでも信長が迫ったため、彼女は「自害する!」と言い出した。
それでも信長はひかない。すると正室の斎藤氏(濃姫)や旧斎藤家臣が
「壷を欲しがるなら我らも自害いたす!」と大騒ぎをし始めた。
ここまで来てやっと、信長も壷をあきらめましたとさ。
0043人間七七四年
2008/09/01(月) 22:03:03ID:IPHvlexk0044人間七七四年
2008/09/01(月) 22:05:04ID:sfkr+BM2つまり俺の側室になれって脅したけど正室に反対された実話が
そのまんまだと格好悪いから壷に変化したのさ
0047人間七七四年
2008/09/01(月) 22:11:36ID:IPHvlexk武田信虎の悪行の話は書かれてるが、あれは中国の故事に何度も出てくるようなパロディだし、あれをそのまま受け取る人はいないでしょ。
敵対していた家には悪い話を事実のように書かれるのも仕方ないこと。もちろん実話かもしれないけど。
いや、ごめんね、こういうスレなんだから信憑性とか突っ込む方がKYなんだけどね
0049人間七七四年
2008/09/01(月) 22:37:41ID:NQFSvZvgおバカで、お茶目で、ストレートで、ちょっとオサレな口説き文句だったものをw
本当に「ちょっと悪い話」で感心した
0050人間七七四年
2008/09/01(月) 22:41:37ID:fAL4m92tこれはチョイ悪にふさわしい萌え話だよねえ?
これが本当ならむしろ信長かわいいじゃんw
本当に悪いな話というのはこういうのだというわけで、秀吉。
秀吉の侍女のひとりが、密通して逐電した。
秀吉は彼女を追跡捕縛すると、女と乳母を三条大橋のそばで釜煎りにして処刑。
女の親は埋められ、七日間にわたって竹鋸でひかせて殺した。
その翌年にはすり・盗人を子供も含めて十名釜煎りに、
河原で同様のもの十九名を磔にした。
これはのちの本では石川五右衛門ということになるが、
真相は軽犯罪者を残虐刑で殺しただけである。
0051人間七七四年
2008/09/01(月) 23:00:11ID:iNpGVbXz病気になって暇を出された侍女が坊さんと結婚したら
処刑されたってのもなかったっけ?
0052人間七七四年
2008/09/01(月) 23:05:16ID:OqZOmtq7秀吉から使者が来て、褒めてくれるのかと思ったら
「誰が勝手に城兵の命助けていいって言ったゴラァ」
って手紙。恐れおののいた利家は、次の八王子城で全員虐殺やった。って話があったな。
秀吉は本気で、人殺しが大好きだったと思う。
0053人間七七四年
2008/09/01(月) 23:15:06ID:a+2+7apd城兵はいわば利家の変わりに殺されたと。
0054人間七七四年
2008/09/02(火) 00:00:22ID:OqZOmtq7細川忠興が、京から、腕利きの左官をつれて領国に下った。
この左官、忠興のお声がかりなのをいい事に、酷く傲慢で、家臣らの評判はすこぶる悪かった。
しかし、実際はきちんとした名字も無い身分。普請の棟梁としてえらそうにふんぞり返っている自分が、
裏でその事を馬鹿にされているかと考えると、いても立ってもいられない。
そこでこの左官、忠興に「武士のような名字を付けてくださいませ。名前も付け替えていただきたい」と、頼み込んだ。
殿様直々に頂いた名乗りであれば、家中のものも馬鹿にする事は無いだろう。そう計算しての事。
最初断った忠興だが、あまりにしつこいので、
「では、こう名乗れ、すさ藁の朝臣鏝次 下地壁右衛門(すさわらのあそんこてつぐ したじへいえもん)」
忠興も人が悪い。この左官の目論見を知っていて、からかったわけですな。
この左官、二度と忠興の前で、名前の件を言わなくなったとか。
0055人間七七四年
2008/09/02(火) 01:40:04ID:6lZ+Ke3c柴田勝家率いる織田軍の前に越中魚津城は落城寸前。
魚津城の武将たちは景勝に悲壮感漂う書状を送る。
今月五日・十一日付の書状二通、昨夜戊の刻に松倉城より届き、謹んで拝見いたしました。
当地(魚津城)のことは、先だってご報告申し上げましたとおり、壁際まで取詰められて、
昼夜を問わず四十日にわたり攻められていますが、今日にいたるまで持ちこたえることができました。
しかし、こうなった上は、我々は滅亡と決まりました。
このことを然るべく景勝公へ御披露くださいますようお頼みいたします。恐々謹言。
(以下、魚津城を守備する十二人の署名)
だが結局、城将は全員切腹して開城。にも関わらず織田軍は城兵を皆殺しにした。
翌日、越中を平定した勝家のもとに悲報が入る。光秀の謀叛による信長の横死であった。
領民に恨まれていた勝家は撤収に手間取ってしまい、もたつくうちに光秀は秀吉に討ち取られてしまう。
ちなみにこの時、城兵の虐殺を主導したのは前田利家。家譜でも誇らしげに「全員攻め殺した」と記す。
一方、別の織田の将は上杉方の奮戦に感動して、城将吉江宗信が用いた槍と采配をその遺族に送り届けている。
利家はこの時から既に勝家の明智討伐の足を引っ張ったわけである。
その後の利家の動静は皆の知るとおり。見事に柴田を裏切って秀吉の天下取りに貢献している。
まつが彼の死に際に経帷子を着せようとしたのも道理である。
0056人間七七四年
2008/09/02(火) 05:06:50ID:n84j5DLW0057人間七七四年
2008/09/02(火) 07:51:57ID:qgquYNm2彼は蓄財好きで有名で兵を抱えるべき金も蓄財に励むので
まつは幾度も咎めたが、利家は蓄財をやめようとはしなかった。
そんなとき、利家の重臣に委ねていた末森城を佐々勢に攻められた。
急いで援軍を差し向けなければ成らないが、兵が足りない。
右往左往する利家をみてまつが「銭を連れて戦争に行け、このバカ野郎」と金壷を投げつけたとかなんとか。
0058人間七七四年
2008/09/02(火) 10:17:01ID:/ZqwujEq0059人間七七四年
2008/09/02(火) 10:57:17ID:6hL/HelIいつも間違えた。金がよほど惜しかったようだ。
0060人間七七四年
2008/09/02(火) 11:21:29ID:crBXjLyk0061人間七七四年
2008/09/02(火) 14:16:05ID:ydYrnm5aその後の話で
秀吉に「敵はぶち殺せよ」と文句付けられた利家が
敵を殺しまくって雑兵どころか非戦闘員まで
首を刎ねさせ「これなら秀吉も満足するだろう」と
大量の首を秀吉に送った。
しかし前田家と一緒に行軍していた上杉は
前田に比べて少しの首しか送らなかった。
そしたら秀吉に「前田の首は雑兵の首ばっかりだけど
上杉は少ないからちゃんと送る首を選んだんだろう」
とか言われた。とかいう逸話があったような。
0062人間七七四年
2008/09/02(火) 14:23:04ID:e3tXaIpLこんなのでも大河の主役として美化されるんだから不思議だ。
0063人間七七四年
2008/09/02(火) 14:26:36ID:fKGuDll/0064人間七七四年
2008/09/02(火) 15:25:53ID:CklEJ1lT秀吉の態度が一貫してないのも問題あるんじゃないかしらん
とこわごわ利家を擁護してみる
それともこの話は、殺すのが少しだけでもいっぱい殺ったよとウソの報告をして、
送る首も合わせて少しだけにすれば・・・とかすればよかったのにという
利家の(要領の)悪さについての話だったのか
0065人間七七四年
2008/09/02(火) 18:45:07ID:hDBFhNH0陶隆房の謀叛により、大内家は大友宗麟の弟、大内義長を
当主とした。だがそれは隆房の傀儡であり、中国の雄、毛利
元就の好餌でしかなかった。
ほどなく大内家は毛利、大友両家に攻め込まれ、義長は且山城
で毛利勢に包囲される。この時、元就は宗麟に「貴殿の弟を助
命致そうか。」と訊ねたが、宗麟は「弟の命はどうでも良い。
だが弟が持っている『瓢箪茶入』は、年来の望みである。ぜひ
賜って頂けないか。」と返答した。
そこで元就は義長を自害させ、瓢箪茶入を宗麟に贈ったと言う。
やはり戦国の世とは、肉親こそが最大の敵であったのだろうか…
0067人間七七四年
2008/09/02(火) 21:43:25ID:s1ykryoj元親豊臣大名だったわけだし。
0068人間七七四年
2008/09/02(火) 21:47:02ID:1g17rhoV0069人間七七四年
2008/09/02(火) 23:05:48ID:W0NapNCf0070人間七七四年
2008/09/03(水) 00:02:04ID:sGRr7fah上杉は親豊臣とも言えんが。
0071人間七七四年
2008/09/03(水) 00:07:22ID:02AXiL0a0072人間七七四年
2008/09/03(水) 00:23:29ID:ymaSWLpj微笑ましい悪い(人の)話だから面白いのに、罵倒してくる阿呆が沸くと途端に萎えるわ
0073人間七七四年
2008/09/03(水) 00:41:20ID:/J5HghFJ南部氏により秀吉に南部領だと勝手に報告されて、
心ならずも南部配下とされてしまう。
剛毅な大槌孫八郎は商才もあったとみえて、名産の鮭を
「南部鼻曲がり鮭」として江戸に売り出し利を得るが、
それが南部家に警戒される元となり、南部利直により
濡れ衣を着せられて南部一族の奥瀬家にお預けになる。
ある日奥瀬家の家人から「暴れ馬を何とかしてくれ」
と頼まれた孫八郎は、馬術の心得もあったので
馬を取り押さえようとするが、とたんに刺客が数人沸いて出てきて
そのまま殺害、大槌に残っていた息子も南部家により殺害され、
大槌家は滅亡して南部藩による代官所が置かれた。
うーん、だいぶ悪い話になったかな?
でも南部がいつも津軽の件では被害者扱いされるんで、書いてみた。
0074人間七七四年
2008/09/03(水) 14:14:59ID:oWH8X3Xu秀吉の九州仕置きの時、大友の鶴崎城攻防戦。
城代は吉岡紀増の妻・妙林尼。
攻め手は島津軍・伊集院久宣、野村文綱、白浜重政。
女とあなどって散々痛めつけられた島津が本気を出してついに落城となった。
妙林尼と侍女たちは城下で囚われの身となったが、折にふれ島津の兵を招いては、
侍女達に酌をさせ、舞を舞い、歌を歌っておおいに笑いあった。
(今で言う合コンですな)
そしていよいよ秀吉が九州上陸という知らせが入り、島津軍は薩摩に帰ることになった。
妙林尼達は「いっしょに連れて行って欲しい」と懇願した。
兵達は、馬よ輿よと騒ぎ立て喜んだ。
ついに出立の日、妙林尼達は、門出の祝いとして将兵全員に酒を配りしたたかに酔わせた。
そして、途中、手配していた手兵に襲撃させたのである。
伊集院と白浜は討ち死に、野村も深手を負い、指揮官を失った兵達は敗走していった。
大友宗麟は「尼の身として稀代の忠節古今の絶類なり」と称えた。
秀吉も是非会って恩賞を取らせたいといったが固辞して受け取らなかった。
0075人間七七四年
2008/09/03(水) 14:35:10ID:ih8VIv8T「毛利は、上意さえもはねつけたと国内外から取りざたされるだろうが、毛利の家(の利益)こそ大事であり、
そのためには将軍の和睦命令など、拒否しても、いっこうに構わない。」
今に残るイメージと違い、隆元の、戦国大名らしい剛腹さの垣間見える逸話。
0076人間七七四年
2008/09/03(水) 15:15:38ID:mFgJxjFS0080人間七七四年
2008/09/04(木) 11:33:02ID:5UBCIv0R高虎なら鈴木重意毒殺だか強制自害だかが有名だけど
0081人間七七四年
2008/09/04(木) 12:40:34ID:0uavHQTo伊賀久隆に妹を嫁がせる→油断させて謀殺→妹自殺
松田元賢に娘を嫁がせる→油断させて謀殺→娘自殺
後藤勝基に娘を嫁がせる→油断させて謀殺→娘自殺
伊賀久隆の娘を嫁に取る→油断させて謀殺→所領奪う
まさに地獄
0082人間七七四年
2008/09/04(木) 14:14:40ID:6PKkhzKZ※プライバシー保護のため音声は変えてあります
0083人間七七四年
2008/09/04(木) 15:03:57ID:+zwxPN6T京の町をウインドショッピングしていた慶次、ある商店の軒先に鐙(あぶみ)が一つぶら下がっていた。
珍しいデザインが目を引き、購入しようとしたが、対の片方は無く、これ一つだと言われた。
しかたなく諦めてしばらく歩いていくと、ある店頭に先ほどの片割れと思われる同じデザインの鐙が置いてあった。
慶次は。左右も確かめず、ただちに購入し、先ほどの店に戻って、もう一つを買い揃えようとした。
店の主人は「あなた様が行かれた後、売れてしまいました」と言う。
慶次は非常に残念がりながらも、しかたないと帰っていった。
実は店の主は急ぎ先回りをして、支店に並べておいたのだった。
0084人間七七四年
2008/09/04(木) 15:29:36ID:y7YOhahr0085人間七七四年
2008/09/04(木) 15:36:23ID:n17SyvK8まんまと売却したわけか
これはちょい悪だw
0086人間七七四年
2008/09/04(木) 17:10:09ID:0uavHQTo織田信長、吉田兼見に諮問をした。
「そなたの父の兼右が、『南都(奈良)、北領(比叡山)が滅亡するなら、王城にも祟りがある』と言ったそうだが、
それは本当であるか?」
兼見「はい?まことでございます。」
信長「それは結構なことである。」
それを聞いて信長は喜び、兼見に褒美まで渡した。
次の日、有名な信長による上京焼き討ちが起こった。当時対立していた将軍、足利義昭を脅すためにである。
信長は先の、吉田兼右の言葉に、南都は、松永久秀の東大寺焼き討ち、北嶺は無論自身の比叡山焼き討ちを
あてはめ、
「上京焼き討ちは信長が恣意的にやったことではなく、予言されていた運命であり、全く仕方の無いことであった。」
と、喧伝したと言う。
0087人間七七四年
2008/09/04(木) 17:27:44ID:OP9vj0x20088人間七七四年
2008/09/04(木) 19:15:59ID:kkr/Xe9E如水なら城井谷とかだけど…あれは講談ですっごい悪い話にされてるから
今更史実に近い話をしてもぬるいかなー…
あー、昔からのつきあいの井口さんちの息子を召し抱えてたんだけどね如水。
長男→戦死 次男→戦死 三男→殉職
という結果になったわけだが、如水がまた井口さんちに行くわけよ。
「おたくの末っ子もうちに仕えさせてくれませんかねえ、息子さんたちの忠義は決して忘れませんから」
でも井口さんはさすがに断るやね。この時実に、井口さんちの子供はたった一人になってた。
ところが如水、あきらめない。
親の目を盗んでたった七、八歳の与一之助(後の黒田二十四騎の一人村田出羽)にお菓子を与えて
「うちに来た方がこのまま親の家にいるよりいいぞ」と言い聞かせそのまま連れて帰ってしまった。
これはあれだね、未成年者略取誘拐……。
0089人間七七四年
2008/09/04(木) 22:02:24ID:TVkE4C7Hなんか暗殺とか謀殺話より切実にきた。
0092人間七七四年
2008/09/05(金) 00:08:37ID:pkMeJIpz「我々は、罪深き仔羊です。四旬節ごとに、罪の償いをしましょう。
一番良い罪の償いは、通りすがりに寺院を見かけたら、それに放火することです。
神もお喜びになるでしょう。」
キリスト教徒が、未だに殉教などと言って被害者面しているのが不思議でしょうがない逸話。
0093人間七七四年
2008/09/05(金) 00:34:49ID:zSM7KckT被害者面するあるいは被害妄想的な発想をするのは開祖のジーザス・クライスト以来の伝統かもね。
あと、キリシタン大名の大友宗麟が、日向遠征の際、寺院仏閣に放火してまわったという伝承もあるよ。
0094人間七七四年
2008/09/05(金) 01:55:55ID:oXihZ12h自分ら=殉教
敵ども=天罰
ダブルスタンダード。
それがキリスト教&シナチョソ&会津の遺恨トリオクオリティーwww
>>93
「かもね」はいらない。
ほんと極悪カルト犯罪集団キリスト教マジイラネ。
跡形なく消え失せればいいのに。
0096人間七七四年
2008/09/05(金) 02:16:06ID:xqPbWGcD0099人間七七四年
2008/09/05(金) 13:06:05ID:/D2kfXQX藤堂高虎が家康から功を立てるのを阻止された話。
大坂夏の陣で井伊直孝と道明寺口の先陣を勤めていたが、味方と敵の間に堤があり、
高虎は、「ここを占拠できれば有利になる」と、家康に援軍を要請した。
家康は「敵に取らせてこそ勝機がある」と言って却下した。
間もなく直孝が堤を占拠したという報告があり、
「直孝ようやった、これで勝ちはきまった」と喜んだ。
家康は高虎が勲功を上げるのを嫌ったのである。
0100人間七七四年
2008/09/05(金) 14:01:22ID:pkMeJIpz大阪方が攻めてくる→諸隊が被害を受ける→井伊の赤備えがやって来て粉砕→大阪方大慌てで逃げる
このパターンばっかりのような。
0101人間七七四年
2008/09/05(金) 14:23:37ID:rkC4KeZK0102人間七七四年
2008/09/05(金) 15:31:15ID:/D2kfXQX井伊隊と組んでいたのが、藤堂、細川。その右に片桐、前田、本多(康紀)、
左に真田(信吉)、本多(忠朝)、浅野、秋田。
これくらいはカバーしたのかもね。
0103人間七七四年
2008/09/05(金) 19:36:53ID:aSMW2rAuここはうちがやるから誰にも譲らんとごねて
結局家康も上杉は仕方ねーなと放っておいたじゃん。
そういう話は夏の陣だとないんかね。
言うこときかなそうな奴は夏の陣では外されてたのか。
0104人間七七四年
2008/09/05(金) 22:56:27ID:IYcLe+69ってわざと遅刻してきた島津
0105人間七七四年
2008/09/05(金) 23:13:41ID:Qcb8tdDp・・・って、そのスレかなり前に落ちたか
0106人間七七四年
2008/09/06(土) 02:17:43ID:y6tdixCV侍所所司代の配下に、骨皮道賢という男がいた。
この男、盗賊などの捕縛を仕事とした目付けの役割を与えられていたのだが、その権限を利用して、
いつしか京の盗賊、あぶれ者たち300人ほどの、頭目となっていた。
さて、応仁の乱が起こる
東軍の細川勝元は、この男の動員力に目を付け、東軍に引き入れる。道賢、政治的な立場があったからではない。
勝元が差し出した呉服や黄金の太刀に眼がくらんでの事である。
道賢とその配下は「足軽」として暴れまわる、西軍の食料補給路を寸断すると、その勢いで七条の民家を
略奪破壊放火。下京に走って五条大宮から高倉までをやっぱり略奪破壊放火。まさにやりたい放題であった。
だが、天罰覿面。道賢とその配下が稲荷社に終結している事を察知した西軍、山名宗全、畠山義就、斯波義兼、
大内政弘という、西軍オールスターメンバーとも言うべき諸将が軍を率いて取り囲む。道賢、女装し輿に載って
脱出を図るが、リアルに「お前のようなババアがいるか!」と正体を見破られ、討ち取られてしまいましたとさ。
この骨皮道賢の悪行があまりに酷かったので、乱の終結後、京の知識層からは、今の核廃絶のような論調で、
足軽廃止論が議論されましたとさ。
ちなみに骨川スネ夫氏は、名字の近似性から、この骨皮道賢と何らかの繋がりがあると思われる。
0107人間七七四年
2008/09/06(土) 02:25:22ID:/0WGOybC0108人間七七四年
2008/09/06(土) 04:10:49ID:oiiFOJJ8那賀郡まで攻め入った際、ここを治める牛岐城(富岡城)主・新開入道道善(新開遠江守忠之)は勇猛で知られており攻めあぐねた。
元親は一計を案じ、和議を申し入れた。天正9年10月16日(新暦1581年11月12日)、道善を丈六寺に呼び出し酒宴を開いた。
和議の条件として、道善に対し四国統一の後に富岡城主の地位の確保し勝浦郡を与えるという案を示した。
好条件に道善主従は大いに満足し、酒宴は盛り上がった。道善主従が、夕刻、宴を辞して帰ろうと縁側に出たところを、隠れていた元親の家臣に襲撃された。
道善主従も応戦したが、多勢に無勢で全員殺害された。この時の手形や足形の血痕は、拭っても消えなかったと言われる。
現在、この縁の板は寺内徳雲院の天井板として用いられており、手形・足形の血痕らしき赤い形が認められる。
0110人間七七四年
2008/09/06(土) 10:12:39ID:gcq+2vA50111人間七七四年
2008/09/06(土) 10:32:58ID:sZ0yePL80112人間七七四年
2008/09/06(土) 11:04:51ID:y6tdixCVそんな時代は、無い。
0113人間七七四年
2008/09/06(土) 15:34:16ID:W+LKs912戦で集落を焼き、田畑を荒らされるよりは謀殺で片付けてくれる方が良策だわな
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