最近の研究によれば、1615年に羽柴家が滅亡するけど、それまで一応羽柴家
は天下様だったらしいね。徳川と並立する形で。公家や大名の一部は年賀挨
拶を引き続きやっていたらしいし。秀頼の正二位右大臣という官位は天下人
の官位であるので、納得できる。
よく歴史教科書では関が原の合戦を豊臣と徳川の戦いと称し、徳川が勝った
後、家康は豊臣家を処罰する事はなかった、なんて書いているけど、当時の
家康は豊臣公儀の五大老として活動しており、家臣が主君の責任を問う事
はそもそもあり得ない話だろう。
各大名の加増も家康に加増された、と書いてあるが、名目上は秀頼に加増され
ているはずで、おかしい。
豊臣家を65万石の大名にした、とも書いてあるけど、これも疑問視されているようだし。
少なくとも西日本の羽柴家直轄地に関してはかなりの影響力を残していた、と聞いた。