【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その四
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0001人間七七四年
2008/05/20(火) 16:25:28ID:xxvcz5OY家康公を中心として、徳川家全体のスレとして再出発します。
十六神将までカバーしますので、類似過疎スレからの誘導をお願いします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0110人間七七四年
2008/06/21(土) 19:08:30ID:0WXWiat0少し割に合わないけど、人を大事にしてたんじゃないの?
大賀弥四郎や石川数正みたいな例外なんだろうか?
0111人間七七四年
2008/06/21(土) 23:25:41ID:qaHFK3TJこんなところで燻らせておくなんてあいつらが見る目が無いんだ、世の中が間違ってる
↑
こう考える奴もいるんだよ。
こういう奴は相応の評価をして、手厚く遇してやっても不満を抱き続ける。
0112奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2008/06/21(土) 23:27:47ID:lPkMbn5w0113人間七七四年
2008/06/24(火) 15:47:08ID:oziK5n6x>こう考える奴もいるんだよ。
なるほど!
0114人間七七四年
2008/06/27(金) 11:18:41ID:ik12Xl7mξに。。、こξ<結局あたしは酒#(木イ主野)リ奈40歳あきる野・羽村・一の谷小&西中卒左官嫁255アナル
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1214362463/
0115人間七七四年
2008/06/27(金) 15:17:07ID:TQnwi7rZ西軍浪人とか以外は、多少なりとも扶持があって
それなりに暮らせた世の中なのかな?
10石の足軽でも米だけは食える状態だったみたいだから。
0116人間七七四年
2008/06/27(金) 17:33:13ID:51HlilsS多いのも現代に共通する部分である。
0117人間七七四年
2008/06/27(金) 20:30:39ID:M0DoD7LX基本的に都市に暮らすことを義務付けられているから物価は高いし、
収入の三分の一くらいは身分維持費として削れない出費だし、
これでさらに物価の高い江戸での単身赴任とかなったら破綻するぜ。
0118人間七七四年
2008/06/27(金) 21:17:15ID:cq9fVR7I0119人間七七四年
2008/06/28(土) 17:23:45ID:ecOSjw5Yこれの意味が分からんが、
雑兵だと半農なんじゃないの? 自給自足マンセーでしょ。
>>116
両替商に借金?
0120人間七七四年
2008/06/28(土) 17:48:20ID:L1qR8WyI>身分維持費
詳しくは武士の家計簿という本を見てくれ。
ざっとあげると、儀礼費・家来の雇用・交際費・寺社への寄進など。
>借金
同じく武士の家計簿によれば、武士の借金の四割ほどが親戚・同僚の間で行われていたそうな。
0122人間七七四年
2008/06/29(日) 00:23:30ID:8Wm8kLQH>>119
江戸期の雑兵は「同心」といわれる奴ら。
銭形平次などに出てくるような紋付袴のが、実は足軽なんだよ。
戦国期の場合、大体において雑兵の臨時雇いは禁止されている、つまり専業。
ただし主人が半農だった場合にはふだんは農作業を手伝うので半農になるけどね。
0123人間七七四年
2008/07/04(金) 12:37:36ID:S2jPfpBP【万博】日本では知名度低い?開催地サラゴサ…実は“東経135度(日本の中心)でアジアを2分割し植民地支配”する500年前の協定締結地
1 :早よ説教部屋に来栖川芹香 m9( ゚д゚) → ネットナンパ師φ ★:2008/07/04(金) 12:15:36 ID:???0
<参考:サラゴサ協定(Treaty of ZaragozaもしくはTreaty of Saragossa)
この植民地支配を防いだのは、織田信長の国家統一・豊臣秀吉のキリスト教禁止・徳川家康
の鎖国および日中混血ハーフの鄭成功による台湾統治(スペイン・ポルトガルの両国に代わり
極東進出したオランダ拠点を撃破)と言えます>
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1401-1500/1494_torudeshiryasu.html
新航路発見を機に、スペインとポルトガルは争って通商・植民活動に乗り出し、両国が発見し
た土地、島の帰属を巡って紛争が続出した。両国ともローマ教皇下にあったので、1494年、
教皇が教書を出して、両者の進出領域を決定した(トルデシリャス条約)。
アフリカの西岸ベルデ岬諸島の西方の西経45度の子午線を基準に、西方をスペイン、東方
をポルトガルの進出範囲となった。しかし、地球の裏側にも線が必要となるのは明白で、1529
年には、サラゴサ協定によってアジアでの分界線を東経135度に定めた。この線は日本を真っ
二つに分断する。
そして1543年にはポルトガル人が種子島に、1549年にはスペイン人、フランシスコ・ザビエル
が鹿児島に上陸する。まさに日本は二つの侵略国の先端が衝突する地点にあった。
0124人間七七四年
2008/07/07(月) 21:06:11ID:ISqthxJD0125人間七七四年
2008/07/07(月) 21:21:40ID:80RQrlTg0126人間七七四年
2008/07/07(月) 22:24:13ID:ALN9u8qm0127人間七七四年
2008/07/13(日) 18:51:41ID:yCm7YDKe0128人間七七四年
2008/07/14(月) 20:06:31ID:LM3PyLwk0129人間七七四年
2008/07/15(火) 00:04:04ID:o5qd/hpCなんで家康派vs秀吉派みたいな図式になるんだろ
どっちも好きな俺としては悲しいのう
0130人間七七四年
2008/07/15(火) 00:17:46ID:klOvfwbRvs構図になるのは個人的にも心外だけど
0131人間七七四年
2008/07/15(火) 00:20:51ID:xMz0xEi4天下を取った二人だから比較対象にはなるよ
0132人間七七四年
2008/07/15(火) 02:44:43ID:Ld7rCqvJいや、当然のことだろうが、結果的に豊臣潰したからだろ。
秀吉から家康への権力の移行を自然な流れと思うならともかく、三成、幸村みたいな立場としてはやはりもろにぶつかる。
すでに図式ができているから、その図式に乗る奴がいる、としか言えん。
卑怯な狸、みたいな考えは個人的に下らんと思うがな。
0133人間七七四年
2008/07/15(火) 12:35:48ID:Cwz7Ybva0134人間七七四年
2008/07/15(火) 15:39:03ID:4UyAIOl+徳川家康のことである。小牧・長久手の合戦で、豊臣秀吉率いる大軍
に勝利したことから、東海道で最強の武勇の者という家康を讃える称号
である。いずれも、幕府関係者の史料に頻出の呼称である。
明治時代の徳川家康の本には、織田信長の感状から、
元亀元年6月28日から、家康の称号であると伝えている。
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
0135人間七七四年
2008/07/16(水) 01:17:42ID:wtauRxiYその面はある。
豊臣時代、大名の取り成しとかで人望築いたとか、恩を売ったとか言われるけど、一番狙われかねないのが何より家康なんだから。
保身だよ保身。
文治派が進める中央集権は家康にとっても好もしいもんじゃないだろ。
0136人間七七四年
2008/07/16(水) 03:43:28ID:2Tjwkox9家康が落ち込んでるのを周囲の家臣が生暖かい目で見つめる描写とかまんま劉邦のそれと一緒だったから、
家康と劉邦が被るってのはある意味正しい小説の読み方かもw
>>134
信長から感状って元亀年間から信長から家臣扱いされてたのか?>家康
むしろそっちの方が驚きなんだが
0137人間七七四年
2008/07/16(水) 12:00:07ID:Doi8xNuM0138人間七七四年
2008/07/16(水) 13:34:12ID:DMVqfcjo0139人間七七四年
2008/07/16(水) 18:32:13ID:SebkCnit家臣かどうかはかなり微妙だよ
他の方面軍司令官とは明らかに使われ方も違うと思う
家康が家臣になってたらもっとあっちこっち移動させられてない?
姉川の例はあるけどそれ以外にもっとね
それとか別の武将の下に配属させられたりとか
例えばこのスレではどう見られているのか
【盟友?】織田徳川同盟を語っちゃおう【主従?】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1170330190/
織田信長と徳川家康・浅井長政
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1199716245/
0140人間七七四年
2008/07/16(水) 23:46:20ID:wtauRxiY0141人間七七四年
2008/07/18(金) 14:48:34ID:PukfFgSTとんでも番組見てて思うんだが、大名なんて暗殺できるのか? 大老除く
0142人間七七四年
2008/07/18(金) 22:31:26ID:IkIK0aDZ0143人間七七四年
2008/07/18(金) 23:17:15ID:YyJX4Enh0144人間七七四年
2008/07/19(土) 00:11:47ID:RtM65l780145人間七七四年
2008/07/19(土) 01:40:53ID:EiFklQt6余裕で逃げ切れるわけだ。
0146人間七七四年
2008/07/19(土) 14:16:46ID:yRyi9eWK0147人間七七四年
2008/07/19(土) 17:22:59ID:TTUCvgq30148人間七七四年
2008/07/20(日) 15:22:21ID:ploQfMTU0149人間七七四年
2008/07/22(火) 12:19:55ID:Vx8UMqN8土地が痩せている関東に居続けたのはなぜですか?
0150人間七七四年
2008/07/22(火) 14:34:48ID:qmloEMlm天下に号令するには、平地が便利だったとかかなあ?
0151人間七七四年
2008/07/22(火) 14:42:27ID:Zr4CIGgb0152人間七七四年
2008/07/22(火) 15:24:44ID:pVH+iG5z○関ヶ原で譜代の活躍が少なかったため、恩賞としての
国替えなどが行いにくかった。
○三河に戻ると譜代からして土着性が増し、他家の転封や
改易などが行いにくくなるから。
○伊達、上杉への抑えから。
○関八州を北条体制からの切り替え未だ進行中のため。
○豊臣・公家・天皇から離れた地で政治を進めたかったため。
○埋め立て、河川付け替えなどにより開発できる余地が大き
かったため。
○豊臣の大阪に対して、江戸に広大な独自の街を作り上げるため。
○またもどるのメドイから。
あえて結果論も含めてるけど、先見の明があるブレーンがついて
いたなら要素として考えられた可能性もあるということで。
一番大きいと思うのは豊臣・公家・天皇から離れて政治を進め
られることじゃないかな。
0153人間七七四年
2008/07/22(火) 15:41:31ID:p7QnHLoa0154人間七七四年
2008/07/22(火) 15:49:38ID:NzWCNDP9万千代・・・。
0155人間七七四年
2008/07/22(火) 15:59:30ID:p7QnHLoa「いい」も付きます
0156人間七七四年
2008/07/22(火) 16:03:42ID:RUMwcR3c0157人間七七四年
2008/07/22(火) 18:15:07ID:+kaTJyNB【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その四
0158人間七七四年
2008/07/22(火) 18:51:46ID:sV9Nu3h70159人間七七四年
2008/07/23(水) 00:03:01ID:as4QLRaL0160人間七七四年
2008/07/26(土) 01:06:16ID:74QoXQlX0161人間七七四年
2008/07/26(土) 07:14:58ID:gBgN5/+zそれも同意なんだけど、最大要因は朝鮮、中国も
含めた敵から少しでも離れるため、というのはないかな。
薩長が徳川攻撃に出た場合は姫路、大阪はじめ各所の
要塞的な城で対抗できるし、日本海側の交通の要所も押さえてある。
黒船から徳川崩壊がはじまったように、やっぱり海からの攻撃に
日本は弱いわけで、さすがの家康様はそれを理解していたんじゃないかな。
で、300年持たせたわけで、あの時代にそこまで考えていたとするなら
恐ろしいぐらいの天才だと思う。
0162人間七七四年
2008/07/26(土) 11:22:23ID:vjRCy54Q置いたのは朝鮮・中国からの反撃(慶長の役に対しての)
に備えるという意識はあったかもしれないね。
しかも幕末においては却ってそれが裏目に出たということ
かもしんない。
そう考えると江戸時代前期のうちに島津・毛利を改易しな
かった・出来なかったことが悔やまれる。
0163人間七七四年
2008/07/26(土) 11:40:15ID:oWqb12CA思うな、家康の発想は。
下手に改易とかに出てたらもっと早く幕府自体がトラブってたかもしれないし。
安房守以外にもう一人でいいから、人物、が出てたらいまだに
自民党内は、徳川姓がうじゃうじゃ、になってたかもしれん。
ちょっと前に徳川美術館の講演会に言ったらさ、来賓席、というのに
すんごい品の良さそうなお爺ちゃんが座ってるわけよ。
あのお方、絶対に家康の直系の20代目ぐらいの親戚だよね。
サインもらおうかと思った。
0164人間七七四年
2008/07/27(日) 00:08:18ID:84qQLBzj何回みても思うんだが・・・。
あれだけ家康をボロクソ言っている割に、家康はけっこうかっこよく書かれてる気がする。
何回読んでみても、『関ヶ原』の理性的でダンディな家康を見てると、この作者が家康嫌いなように思えないんだけれども。
石田三成とか嶋左近を食うぐらいかっこよかった。
この作者の家康に対する批判はやり過ぎだと思うけれど、この作者の家康の描き方はけっこう好き。
汚い部分も描かれているから良い。家康はダークさもあった方が痺れる。
0165人間七七四年
2008/07/27(日) 11:31:49ID:VWnHUUHN書く人物には、必ずその人物に傾倒している別人物が登場するんで、「関ヶ原」や「覇王の家」にも
そういう人物は居るんだと勝手に思ってたわ。
家康の凄さって、適切な時期に組織の変革をキチンと行えてることだと思う。
勝安房に、「後世に残る毀誉褒貶を出処進退の標にして何ができるか、誠意正心を以て
今に応ずべし」という意味の言葉があるけど、ちょっと家康に通じると思ったな。
0166人間七七四年
2008/07/27(日) 11:50:44ID:jNEZWBpV0167人間七七四年
2008/07/27(日) 22:34:58ID:na0jPKiOこれからは要らないと考えたからああしたわけで
0168人間七七四年
2008/07/28(月) 01:05:06ID:C8MIq9NP「覇王の家」読んだ?最初から最後まで主人公の家康にケチつけまくりなのに、
結局家康の凄さが良く解る様に書かれてるんだよ。あれ読んで心底家康ファンになりますた。
つか、元々全然ダークな人だとは思ってなかったけど。あの時代、あの環境に
生まれて良く頑張ったじゃん、と思う。狸親父なんてひねくれた見方だよ。
0169人間七七四年
2008/07/28(月) 10:11:10ID:jWqIYPuPあくまで、その小説の中の人物像、と割り切って考えないと
ちょっと今時のゲーム娘の、〜ってすっご〜い、に
近くなってしまう気がする。
家康でいつも思うのは、信長が若い頃から同盟したり
殺しあった秀吉でも最後は「頼候」だし、三成でさえ
ヤバい時にはなんと家康の屋敷に逃げ込んでる。
これから判断して、頼られるべき相当な大人物、というのが
今のところの自分の家康像の基本になってるんだよね。
徳川300年の祖を作ったり、日本史どころか世界的にも
稀な大人物じゃなかったのかな。
0170人間七七四年
2008/07/28(月) 18:57:03ID:Q8q+m168三成が逃げ込んだのは家康の居たところと同じ敷地内だっただけのようだけど
詳しくは忘れちゃった、立ち読みしただけなんで
その後に仲裁に入ったのは確かのようで
海外では家康の評価は高いとテレビでちょっとやってた
もちろん長期政権を築いた人と言うことで
0171人間七七四年
2008/07/28(月) 20:27:30ID:pLd6KqL/伏見屋敷だったかな。
ここに逃げれば相手は手を出せない、ということで実質
家康の庇護を期待してるよね。
長期政権を築く、というのもいろんな視点からその素晴らしさを
判定すべきだろうね。
例えば職制、ってのもすごいもんだ。
どんな会社だって総務、営業、広報、経理、いろいろ組織を
作らないといけない。
家康の制定したのはすごいんだよね。
ほんで男系の血を絶やさないために60すぎてから子供
ポコポコ作ったり、その執念もすごい。
そして、朝廷、寺社、というすごい勢力を完全にコントロールした。
朝廷内の浮気事件とか、お坊さんの衣事件とかも、家康が仲介して
おさめてる。
そしてそのまま300年コントロールし続けたシステムを完成させたり。
例を言い出すときりがないね。
0172人間七七四年
2008/07/28(月) 21:31:10ID:WESAKuEa何でも徳富蘇峰が「近世日本国民史」で史料を誤読してから広まった話らしい
面白い話だけに事実じゃなかったとしたら残念だけどね
司馬の「関ヶ原」でも狸と狐の化かしあいとして前半の山場の一つになってるくらい
0173人間七七四年
2008/07/28(月) 21:43:50ID:pLd6KqL/集英社版の日本の歴史12に、家康の伏見屋敷、って書いてある。
このあたりも違ってるわけか。
おぼえておくわ。
0174人間七七四年
2008/07/28(月) 21:46:46ID:Q8q+m168少し遡って秀吉が耄碌を始めた辺りからだけど
あちこちに恩をばらまいて家康派に取り込んでるところがすごい
0175人間七七四年
2008/07/28(月) 21:55:50ID:pLd6KqL/東軍西軍って言うけど、実質、西、西軍の争いにしてしまったのは
家康だものね。
0176人間七七四年
2008/07/28(月) 22:16:16ID:1KABmu8b義を取るか利を取るかということでもない
真心がないと人間は動かないよ
0177人間七七四年
2008/07/28(月) 22:18:32ID:H1X9v62dそれはない
0178人間七七四年
2008/07/28(月) 23:15:14ID:fTCoLc0M笠谷和比古という人の言うには『慶長見聞録』『慶長年中卜斎記』『関原軍記大成』とかでは、伏見城内にあった自分の屋敷(治部少丸)
に逃げ込んだと書いてるらしいね
0179人間七七四年
2008/07/29(火) 06:53:04ID:FADohgd7スレチだが、カサヤは「ツガルサングン〜」でかの寛永原本の
本物認定に名前出されてる。
これ、学者生命一巻の終わりの危機かもなんだが・・
今後の進展が楽しみ。
0180人間七七四年
2008/07/29(火) 10:13:27ID:Hs1jmFC5つうかよく知らんが勝手に名前出された可能性も有るんじゃ>笠谷
戦国時代から江戸時代初期の研究にかけては色々実績
(関ヶ原の秀忠隊本隊説とか)が有るだけに事実なら残念
0181人間七七四年
2008/07/29(火) 10:26:27ID:RI9IQIHqとも聞くけどね。
一番の目玉は92〜93頁でしょう。
「六点の文献そのものは料紙、書体、筆跡のいづれの点においても江戸時代中のものと判断される」という鑑定書。
「国際日本文化研究センター研究部教授 笠谷和比古」の署名捺印入りです。
こんなのもあって古田スレにありますよ。
ま、笠谷が一種のサギにあった、ってとこらしいが。
0183人間七七四年
2008/07/29(火) 22:35:13ID:VwUMqitQ考慮されていたように思うね、秀忠隊。
関東乱入よりは越後奪還の方が可能性的にも
高かったように感じられる>景勝
0184人間七七四年
2008/07/29(火) 22:57:31ID:oF074MXBそこを読んでの決断での西上
0185人間七七四年
2008/07/30(水) 09:09:30ID:DMssfOSz拠るべき城もない中山道の真ん中にポツンと徳川本隊が
残ったとして、なにをどうするつもりだったんだろうね?
0186人間七七四年
2008/07/30(水) 15:16:53ID:JiQQDDRe>下手に改易とかに出てたらもっと早く幕府自体がトラブってたかもしれないし。
たくさんの魚が居る大きな水槽に、1匹だけ天敵入れておいたほうが、
全体として長生きするらしいから
反乱分子居たほうが、組織としてはしっかり機能するらしい。
>家康の凄さって、適切な時期に組織の変革をキチンと行えてることだと思う
従業員・下請けに過酷なコスト削減を強制して
日本経済を停滞させてしまい、
膝元で自殺最多、殺傷事件起こったトヨタは果たしてどう変革するのだろうか?
小泉改革も今では失敗だったと思うが、トヨタ経営も時代遅れに成った気がする。
徳川四天王の待遇は、下請けや従業員よりもはるかにマシだったのでは?
0187人間七七四年
2008/07/30(水) 15:24:49ID:cfUR4bJS政権担当者(譜代大名)の過大な領土はまずいと判断したからだろ。
秀吉見ていると家康が物凄くケチに見えるけど、
やりすぎはやっぱりよくない。
0188人間七七四年
2008/07/31(木) 10:35:45ID:d1i1RjdD前田は参戦しなかっただけだし、鍋島は支藩も入れると50万石。
毛利は石高は30万石くらいにして蝦夷に転封が妥当。
0189人間七七四年
2008/07/31(木) 11:32:30ID:rzwZMRrM0190人間七七四年
2008/07/31(木) 16:01:28ID:Uy0yl4sz関ヶ原の裏工作くらいしかないんじゃない?
方広寺の件も謀略ではなく家康が本気でそう読んでたって説もあるし・・・
だれか秀吉や幕末の連中に負けないだけの家康の聡明なエピソードを
教えて下さい
0191人間七七四年
2008/07/31(木) 16:16:53ID:o8zpr9kb日本史でいえば聖徳太子や空海くらいだから、秀吉と比べるとさすがに分が悪いわ>家康
墨俣一夜城とか割普請、高松城の水攻めとか事実ならどれだけ頭良いねんっつう話になるし
その代わり家康は滅茶苦茶勉強大好きで、爺になってからも
儒教(林羅山)や仏教(天海)、神道(梵舜)や数学(三浦按針)を側近から教わるという
凄い向学心を持ってたみたいだよ
0192人間七七四年
2008/07/31(木) 17:59:12ID:Xy7ZEv4K三河一向一揆の後始末なんかはしたたかというか、えげつないというか。
和睦条項「一、寺は元のとおりにします」
→家康方、即行寺院を破却
→一向宗「ちょ、条項と違うだろ」
→家康「寺が建つ前はもともとのっぱらだったんじゃぼけ」
これを26でやるんだから腹黒いw
0193人間七七四年
2008/07/31(木) 19:16:58ID:if98JR2E大坂方も抵抗した節も無いことから意外と納得できる理由だった
が、やっぱり忘れた
図書館でなく立ち読みだったと思うから新しい本だと思う
0194人間七七四年
2008/07/31(木) 20:01:20ID:2ilwCaBX家康の智謀はその堅固な組織構築だろうよ
これには信長、秀吉は足元にも及ばない
0197人間七七四年
2008/07/31(木) 20:30:25ID:if98JR2E内容なんだっけ
0198人間七七四年
2008/07/31(木) 21:02:34ID:Z23fH/oK当初から、内堀も埋めるという約束で、豊臣方が埋めるはずだったんだけど、いつまでたっても埋めないんで
早く終わらせて本国に帰りたがった、外様大名の伊達とか細川が埋め始めたって説だった
0199人間七七四年
2008/07/31(木) 21:04:18ID:if98JR2Eそれっぽい文書でもあったのかな
0200人間七七四年
2008/07/31(木) 21:25:07ID:o8zpr9kb幕府の政権運営も側近(出頭人)たちが将軍をサポートするという形式で、
むしろ将軍の独裁性が発揮しやすい形態だった
未だ豊臣家や外様の大大名など潜在的な敵国が存在した
ポスト戦国時代に適した政治運営だと言える
日本史的な意味における老中や奉行衆などの職制が整えられたのは、
幕府が安定してきた三代将軍家光の頃
それでも武家諸法度や禁中並公家諸法度などの幕府法を制定した家康の功績は変わらんけどね
0201人間七七四年
2008/07/31(木) 22:23:59ID:2ilwCaBX一応、それで正しいんだけど
家康・秀忠時代と比較しても優れているんです
特に家臣にいらん事考えさせん様にする点が
0202人間七七四年
2008/07/31(木) 22:26:15ID:01lTxbzF崇められるほど偉大な人物ではなかったんですね・・・
0204人間七七四年
2008/07/31(木) 22:38:40ID:2ilwCaBX0205人間七七四年
2008/07/31(木) 22:51:21ID:CukUP2iv存在してるような
0206人間七七四年
2008/08/01(金) 00:53:07ID:3cLOeFp5江戸幕府以前の政権とは比べものにならない
政治システムも以前の政権と比べて段違いに精錬されている
0208人間七七四年
2008/08/01(金) 01:13:40ID:XKjgUPJh江戸幕府の安定感が良いのは、ひとえにそれまでの政権の不備を改善して、発展させたからだと思う
それに、江戸幕府がここまでの安定&長期政権になったのは、
家康だけでなく、秀忠や家光の功績もある事を忘れてはならないと思う
この三代の間でシステムが完成してなかったら、四代目で終わった可能性があるからね
0209人間七七四年
2008/08/01(金) 06:42:15ID:PydxAO25あれは一族の結合が強い大久保一党を解体する目的があると思う
文武は徳川家は忠勝・康政の隠居と直政の死去で有耶無耶ですから
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