家康が浜松から江戸に移る際、関東の知行割りを行った。
奉行衆出身の大久保忠隣や当時新参だった井伊直政が破格の待遇をうけるなか
武辺の本多忠勝四万、榊原康政三万は順当としても
筆頭老臣の嫡子であり家康の従弟でもある酒井家次には二万石が与えられただけだった。

あまりの冷遇ぶりに隠居の忠次が家康を訪ねて加増を訴えると
「お前でも我が子は可愛いか」
と吐き捨てられた。
忠次は失意のなか亡くなったという・・・

こんなお話。