武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
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0001人間七七四年
2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP0169人間七七四年
2008/02/21(木) 02:04:02ID:ZehnsOCS0170人間七七四年
2008/02/21(木) 02:08:06ID:EasfvWop家康を誘いだしてから遠州の奥深くまで進行して、
徳川側の城を占拠して家康と岡崎の連絡を絶つ。
完全に敵対状態だろう。
兵が小競り合いするわけじゃないからそこは理解しろ。
あと引いたというが、武田にとって予想外の家康の反応と情勢が悪化したから兵を引いたんだろう。
それもお茶濁し程度の手紙一枚の謝罪。
これらもすでに言われてること。
もう一度言う、話をループさせるな。
0171人間七七四年
2008/02/21(木) 02:58:13ID:tGTEmqmP罠にかけて不意打ちしたまではよかったけど、
徳川が意外と強かったことと、駿河情勢も怪しくなった上に北条が敵対したので
諦めて兵を引いたってことかな。
徳川の掛川開城における氏真との交渉や北条との交渉は単に武田と敵対しているからでは、
でも家康はその後は信玄の要請による信長の仲介を受けて、
武田の危機的な状況時に武田の弱みに付け込むようなことはせずに対武田には参戦しないで、
専守防衛に徹している感じがする。
0172人間七七四年
2008/02/21(木) 16:08:20ID:tDhNEfbM秋山が見附を占領して見附から大井川までの遠江の大半を武田領として確保
徳川に対して掛川攻めを要請して出て来た所、見附を占領して徳川の退路を断って城下の盟を強要する
もし従わなければ駿河にいる本隊と挟み撃ちにして徳川を葬り去るという構想だったんだろう
駿河情勢の悪化と北条の態度硬化(駿河侵入と同時に北条が武田と絶縁)によって駿河の武田本隊が逆に徳川、北条、今川に挟み撃ちされかねないから一旦引く
で、秋山が敵地で孤立した形になって長く見附を維持できないから見附も徳川に明け渡す(返還する)、ということだったんだろう
徳川、北条を読み切れなかったのが失敗の原因だが、その近視的な戦略が武田を滅ぼす最大の原因
もし義信の構想通り三国同盟を堅持して信長と同盟せず美濃へ侵攻したら、信長の飛躍的な成長はなく武田も信長に滅ぼされる事無かった
0173人間七七四年
2008/02/21(木) 20:38:26ID:Msy+UBMi12月12日北条氏政小田原出陣、沼津着 ←静岡県史だから信憑性は微妙
駿東郡八幡郷に禁制
12月13日蒲原城に北条氏信『地方史静岡22』
12月15日北条氏規沼津の竜雲寺に禁制 秋山遠江進入
12月16日氏規富士郡に禁制
12月19日氏政、大宮城の富士に感状
12月18日の段階で既に北条は行動している
>>125
>第一北条が全力で入ってこれるかは別問題。北条が上杉に対して利権の多くを譲る決断を
>するのはまだ先の事。
敵対して全力で武田に向かえる状態ではないとはいえ既に北条が武田に対して行動しはじめているのに
その上徳川とも敵対するわけにはいかないだろう、武田としては駿河の方が優先だし
だから信玄が謝罪して兵を引かせ、信長を通じて徳川に明確な敵対行動を取らせないようにして
北条の問題を片付けて後に全力で徳川に向かったのは正しい判断
この機会を活かせなかった徳川は戦国大名としては甘い気もする、
徳川としては織田との関係もあるから仕方が無かったのかもしれないけど
>>147
秀吉の北条征伐のきっかけとか考えれば検証するまでも無いと思うが
逆に問うがいきなり同盟破って侵攻してきて侵攻側の都合が悪くなったので謝罪しました
そして元のような同盟関係でいられるって例は存在するのか?
人質とかもださないで
しかも国境でのちょっとした利権争いとかじゃなくて、武田の場合は完全に軍事行動だしな
金ヶ崎直後に浅井が謝罪していれば謝罪だけで許されていただろうか?武田はそれぐらいの行動してると思う
それ以前に一方的にいきなり同盟破って攻めこんだら、ほとんどの場合そのまま敵対し続けるか、
情勢が変化するまで敵対し続けるような気がするが
>>158
叩かれるというか、単に事実を言われてるだけ、
単にあなたが異常に武田を擁護しようとするからこんな風になってるだけだと思う
>>162
当時の価値観としての話として軍艦の例を挙げているのに
そんなこと言っても見当違いなだけじゃ
つか人にレス読んだのかという前に少し落ち着いて話の流れを読んでレスしたほうが
武田を批判されると流れ無視してレスの一部に対して条件反射でレスしているように感じられる
だから回りの人間にはあなたが話を逸らしまくっているように感じられちゃうんじゃ
0174人間七七四年
2008/02/22(金) 04:14:08ID:25Cav3Biまぁ既に遠山夫人は亡くなっていたが遠山夫人の産んだ勝頼嫡男(後の信勝)は存在してるから無碍にもできないだろう
武田将来の当主の可能性のある人物が縁戚関係にある織田とその同盟である徳川は武田に対して攻勢に出づらいって面もやはり存在する
この面は外交的信用の関係になってくるから家康の判断は間違いないと思うが?
0175人間七七四年
2008/02/22(金) 12:55:57ID:7M+aiNoSただこういった盟約破りの不意打ちは初動で上手くいけばいいけど失敗すれば大変だと思う
毛利は陶裏切った時は即座に動いて安芸をほぼ制圧して体勢整えることに成功
浅井は織田裏切った時は失敗してジリ貧ってなったし
0176人間七七四年
2008/02/22(金) 16:01:05ID:9vwB/sa70177人間七七四年
2008/02/22(金) 19:34:54ID:fVHbQOzRいや、実際問題、厳島への誘導という策略が失敗したら次の策を用意するだけだろう、元就は
0178人間七七四年
2008/02/22(金) 19:58:22ID:3s2im/s+成功してる人間の「もし失敗していたら」という妄想はイマイチ面白くないな
その逆じゃないと夢がない
ちなみに元就の厳島誘導は陶の内部分裂を画策した上での成功なんだから
運というよりも実力の結果
あまりIFの対象にはならない
0179人間七七四年
2008/02/22(金) 21:15:20ID:xMxdtSQI0180人間七七四年
2008/02/23(土) 03:19:43ID:RDymhVlh超理論展開した挙句に、不利になると不当な武田叩きはとかスレ違いなどと突然言い出し、
周りに自分の方が正当と思わせようとイメージ戦略展開してそれも駄目だと散々煽って立ち去る。
無理に武田を擁護しようとしなければ知識はあるんだから板的に有用な人間になるだろうに。
0181人間七七四年
2008/02/24(日) 09:23:12ID:3vimAracまぁ無理に武田を擁護しようとしてるからこうなるんだろうが…
0182人間七七四年
2008/02/25(月) 21:31:22ID:SW2IXP8h1554年春に陶が石見に攻めこんで吉見と戦っていた時に突如裏切ったこと
毛利は5月に裏切ると陶が動けない隙に、安芸国内の大内方の諸城
銀山城己斐城草津城桜尾城仁保城を5月中に落として、更に厳島を占拠して
門山城を落として能美島占拠して、折敷畑で迎撃に成功すると
翌年には安芸の南東部の保木城丸屋城を落として、安芸の大半を制圧して
どうにか大内が本格侵攻するまでに、大内とどうにか少しは戦えるような状況にまで持っていった
まあ結果は厳島での鮮やか過ぎるほどの大勝利なため
その前段階での裏切ってからの一年ほどの行動もまた凄いことなのにあまり目立たない
0183人間七七四年
2008/02/25(月) 23:53:58ID:lqODLoOAその協力があったからこそ、という意見もあるしな。
一見、奇跡のように思える大勝利にも、当然のように
要因となった努力の細かい積み重ねがある訳だ。
0184人間七七四年
2008/02/26(火) 01:12:36ID:EOcYsqvt0185人間七七四年
2008/02/26(火) 02:11:53ID:/njrzkH2せめて北条相手に勝って小田原制圧とかやらかしてくれたら良かったんだけどな
信玄が織田信長や毛利元就くらいの戦の天才だったら、関東進出も成功してたかもしんない
でも逆に言えば、危なっかしく思える自転車操業ながらも信玄は上手に敵を選んでいたと思う
今川義元に滅ぼされる事もなく(半分以上親父のお陰だけど)、豪族を潰していって着々と領土拡大
なんせ唯一勝った国持ち大名が、今川氏真だってんだから徹底してるよ、これは凄い
謙信や氏康と団栗の背比べして延々消耗戦やらかした辺り、大局的な視野には乏しかったんだろうけど
なんというか、悪党として獲物を選ぶ眼があった、とでもいうべきかな
勝てなかったけど負けなかったし
結局、信玄の本質って戦に強い名将ではなく、謀略で相手の裏をかく策士だったから
その軋みが出たんだろうねぇ。信玄のやり方ゆえに領土が増えて、それゆえに滅んだ
0186人間七七四年
2008/02/26(火) 02:30:59ID:xPqVLn4mとても獲物を選ぶ眼があったとは思えんw
>上田原
信玄は自分より兵力が上の相手に勝った事が一度もないもんだから
信玄厨はしばしば、大軍で負ける方が無能なだけと抜かすが
当の信玄が聞いたら耳が痛くて仕方ないだろう
首を取られずに負傷で済んだから良かったものを
まだ若かったから、あんな酷い大敗を喫しても仕方ないってんなら
大軍に負けた家康、長野業盛、今川氏真、全員が信玄より遥かに若い青二才だ
0187人間七七四年
2008/02/26(火) 05:55:52ID:NGxLvygM織田のほうが自滅で先に滅びた可能性もあるわけだが
0188人間七七四年
2008/02/26(火) 13:05:38ID:/njrzkH2信長なんて稲生合戦の時点で、普通なら勝てずに死んでたかも知れんし
勝頼が長篠で信長の首を取れた可能性だってあるかも知れない
でも実際に織田の手によって武田は滅ばされた訳で
その原因が信長を激怒させた信玄の裏切りにあるのではないか
と言及されるのは自然な事だろう
>>獲物を選ぶ眼
俺個人としては、信玄は晩年も信長に対してはあくまで腰の低い手紙を送り続けているし
織田が朝倉と争ってる隙に火事場泥棒的に徳川領を頂いて、事が済んだら織田には頭下げて再び同盟結ぶ気だったんじゃないかなぁ
と推測してたりする。旧今川領争奪から始まる「徳川家」との争いであって大恩ある織田と反目する気はなし、としてね
その辺は信長って意外と甘い奴で、裏切って自軍に歯向かった相手でも謝ってきたら許したりしてるし
まぁ残ってる書状の信長の激怒っぷりから察するに、実際にそうして成功したかどうかは分からんけど
あの慎重な戦略家の信玄(既に50の坂を越えて、自分が病弱なのも知っている)が
本気で織田を打倒して上洛を考えていた、なんてロマン溢れる説よりは現実的じゃないか
0189人間七七四年
2008/02/26(火) 13:52:26ID:kNQKLXpYもっと冷静になってから書き込めばよかろうに
0190人間七七四年
2008/02/26(火) 14:00:25ID:kyYnyhbT事実だからしょうがない。
信玄は孫子の信条通り、確実に勝てる相手としか戦わないから弱小勢力を潰しながら大きくなったのだが、
周りが大勢力ばかりになると損するタイプ。
大局を見る目がないというか戦略眼がないというか、目先の利益だけで動いてたとしか見えん。
0191人間七七四年
2008/02/26(火) 14:27:28ID:/njrzkH2あと、戦国大名として出発した時点で恵まれた環境にあり
常に自分より弱い豪族らと戦い続けた事が、結果的に信玄の用兵家としての成長を妨げたのかも知れない
(勿論、信長や元就なんて天才レベルは初陣や若い頃の戦功も半端ないと承知の上で)
終生、自分と兵力・国力が同程度以上の相手には勝つ事が出来ず、行き詰まりを迎えてしまった
用兵が全てではないが、少なくとも信長や元就のような国力の差を用兵によって覆せる男ではなかった
山賊の英雄が、都会の軍人の英雄と戦ってしまった悲劇、という表現はしっくり来る
ある意味、信玄は充分に優秀で、優秀すぎて
それまでの自分のやり方が通じない程に強大な相手と戦うまでに成長してしまった事に悲劇性があるのだと思う
0192人間七七四年
2008/02/26(火) 14:52:46ID:xPqVLn4m信玄も優秀だから戦術が中の上レベルだったり晩年に失態多いのを残念がられるんであって
局地的な戦略眼や内政手腕は一流の英雄
思えば信虎も、信玄とは逆に閉鎖的な甲斐において近代的な改革を押し進め権力集中を図った結果、家臣に追放されたし
勝頼も含めて不遇な一族だよな
>189
不当な武田叩きをしてしまってサーセンw
0194人間七七四年
2008/02/26(火) 19:20:23ID:UkewBYl6「信長を裏切ったから滅んだ」というのは違うでしょ
織田のほうが自滅で先に滅びた可能性のほうが確率から言ったら高いでしょ
信長はたまたま運良く宝くじに当たったようなもんでしょ
0195人間七七四年
2008/02/26(火) 19:27:37ID:kS2Q/wAo信長はまあそれなりに苦境に立っていたし、少しでも敵を減らして北近江戦線に集中したいだろうから
一時的な再同盟なら結ぶかもね。
ただし、織田の天下が安定期になったら武田家は冷遇されること間違い無しだろうな。
(それまで武田家が存続できていたらだが)
ただ単に徳川領に侵攻した程度なら頑張り次第で信頼を多少回復できるかもしれないが、
岩村城でのやらかしで信長の怒りを沈静化することは不可能フラグたっちまったんだよなあw
>>188のレスでもあるように信長は敵に対しても意外と甘い。
しかしそれ以上に血族に対して甘く、秋山が信長の叔母に当たる遠山夫人を強奪されて怒りはMAX寸前。
更に追い討ちをかけるように息子の坊丸(勝長)を拉致で怒りゲージが計測不能なまでに上昇でオワタ・・・
もし、最初から再同盟を考えていたのなら岩村城での行動は短絡的な行動なんだよなあ。
まあ息子を人質程度ならどうにか怒りの矛先を収めることも可能かもしれないが、
未亡人を強奪という織田家一族にとってこの上ない屈辱を与えてしまった行動が余計すぎる。
息子拉致と未亡人強奪しといて「いやこれは徳川との争いで織田さんに対しては反目する気はないっす」て主張はさすがに無理だろうな。
0196人間七七四年
2008/02/26(火) 19:34:49ID:kS2Q/wAo岩村城での件は秋山の独断だと釈明して秋山に腹切らせて有耶無耶にって手段もあるけど、
これだと秋山の与力の晴近衆や他の家臣たちの不信を増長させてしまい将来的な禍根になりかねないね。
もし将来的に織田家と衝突した際に離反者を出しかねない。
やっぱり秋山の独断でしたというのも厳しいな。
0197人間七七四年
2008/02/26(火) 21:57:14ID:/njrzkH2あ、その件に関しては秋山の暴走として…とレスしようと思ってたのに先手を打って釘を刺されたね
まぁ信玄の目的は徳川領のみ、という説はあくまで俺の考えに過ぎないんで
他の人が受け入れられなくてもしょうがない。それが当たり前
明確な根拠がある訳ではなく、妄想の域を出ないし
ただ、やはり本気で織田と敵対しようとしていただなんて
それまでの信玄の冷静さを考えると、どうしても違和感がある
自分の死期が近い事を悟っていた、なんて予知能力はないにせよ
年齢と体調を考慮して寿命が少ない事くらいは自覚していただろう
なんせ、信玄がその生涯にわたって切り取った領地の、10倍近くもの国力を持つ織田が相手(単純に石高だけで8倍ほど
しかも信玄の生涯の基本戦略は、常に自分より国力で劣る相手を選ぶ事にあった(上杉や北条も動員兵力では基本的に下
最後の最後で、死期が近く時間が残されてない信玄が、そんな無謀な目標を持っていたとは思えない
耄碌してた可能性も否めないが、上洛だなんて周囲に対するアピールに過ぎず(織田との和睦後の牽制含む
あくまで格下の徳川を、強大な後ろ盾の織田が動けない内に潰して領土を増やすだけのつもりだった
と考えた方が、それまでの信玄の戦略と基本路線が変わらず、受け入れやすい
まぁ俺個人が信玄スキーというか、信虎や勝頼も含めて武田スキーなんで、どうも信玄を過大評価(織田家との敵対は滅亡の主因だからね
してるかも知れんけど、こういう考え方もあるって事で温かい目で見てやって下さい
0199人間七七四年
2008/02/27(水) 03:33:36ID:GzMG46b/彼が先頭を切って走るその後に新たな世界が広がっていく。
0200人間七七四年
2008/03/02(日) 23:05:39ID:y/vYW8ms三国志に天下三分の計とかあるけど、当時の日本は
頼朝が鎌倉に幕府を立てた、その前に富士川で20万の兵を集めて
兵士を追い払った事、さらに溯ること平将門の反乱があったこと。
という事から天下二分の計のようなものがあったと。
で、信長がどうなるかはわからなかったが。源氏の八幡太郎義家の
子孫である武田氏が関東を制すれば結果、織田がどんなに大きくなろうと
対抗できる”力”を得ることができると考えてたのかもしれない。
(事実、関東で力をつけた家康が天下を取ったわけだし)
信虎時代も武田・上杉氏vs今川・北条氏で戦ってたように。
(関東管領の力が弱ってたのを見定めて)駿河と関東を手にしようと
たくらんでた可能性も否定できない。
で、こっからはおいらの脳内イメージだが。信玄は関東の地を得て
信勝が成人するまで生きる予定だったが。関東制覇がおもいのほか
進まないのと。(氏政がアホだから楽観的だった部分もあるけど。
当時言われてたのが、北条の土地から出て行くものはあったけど、
帰ってくるものもいた。だが、武田の土地から出ていって帰ってくる例は
なしといわれるように領民からすれば北条の方がかなりマシと考えてたから)
あとは信玄自身も死期が近いのを悟っていたからとも
で上洛して勝頼の諏訪家が朝廷よりなんらかの官位を頂いて
武田家よりも諏訪家の方が上の要職につけるか。
仮に上洛できなくても織田の主力部隊との”決戦”を挑み
勝っておけば次世代の勝頼がたとえアホでも簡単に上洛しやすい
環境にしておこうと考えたのかもしれないな。
0202人間七七四年
2008/03/03(月) 11:35:34ID:yJW+h/P+つーか、義家の嫡男暗殺をかまして関東源氏から総スカンを食らって逃げた義光の子孫が甲斐武田氏だろう。
釣りでなければアホ過ぎ。
0203人間七七四年
2008/03/03(月) 18:03:43ID:MyBlvakw目先の領土欲に目が眩んで最悪の裏切りかました挙句に、嫡男死なせた信玄が一番アホと言われてもしゃあないぞ。
駿河侵攻以前の信玄は英雄と呼ぶに相応しいが、晩年の所業はハッキリ言ってフォロー不可能。
0204人間七七四年
2008/03/04(火) 14:19:46ID:1SEAYXbA秋山の家康占領地侵犯について…一言
「大井川を境に、つまり駿府は武田、遠江は徳川で折半する」
↑これは『三河物語』『甲陽軍艦』などの軍記物にしか載っていません!!
信玄と家康がやり取りした書状を郷土史、
特に『静岡県史』資料編7 中世三などで探してみても見当たりません。
なので、私は遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています。
それを証明できる決定的な書状があります。
それは永禄十二年12月23日付 信玄→家康あて書状「恵林寺文書」です。そこに次のような文章がありますよ。
「…略…(私も)遠江にまかり立ちたいのですが、
(武田に降伏してきた)駿河の諸士たちの仕置きがあるから(←これはウソで実際には北条の援軍が来たから)、
一両日伸ばさざるを得ません。
三日のうちに(遠江に向かって)出陣しますから、
早々に掛川を包囲してください。
かの地で(あなたと)対面することは、
大変めでたいです。
恐々謹言」
信玄は、氏真の首を取るために…
秋山別働隊をあからじめ掛川の背後に動かし、
自分は正面の駿府から攻めるつもりだったのではないでしょうか?
だけど北条の援軍が早く到着したことで、掛川侵攻作戦を中断したんじゃないのかな?
あまりにも急だったので秋山には知らせていなかったんだと思うよ。
0206人間七七四年
2008/03/12(水) 19:44:45ID:YB0BPNUn「今川領折半密約は信憑性の低い史料にしかないから疑わしい。一次資料を見ればむしろそういった約束はなかったと考えられる。」
という主張でよろしいでしょうか。
だとすれば、この主張には一定の説得力はあると思います。
ただ、だから信玄の行動(秋山の行動)には問題がなかったとはなりません。
理由はあなたが書いてあるとおりです。
>遠江に関しては、切り取り自由だったのではないかと思っています
これが事実だと仮定の上で話を進めますが、これは当然遠江の’今川領’に関することでしょう。
だとしたら、’徳川占領地’は当然に徳川が切り取った、徳川のものです。
それが武田の軍に侵入して攻撃して占領したとなれば、当然、武田の約束違反になります。
つまり「武田が約束を先に破ったから徳川は武田と敵対することにした」というこれまでの
通説は変わりません。あなたの主張によっても、通説は否定されないのです。
「遠江切り取り自由というのは、そこが徳川占領地であっても有効。つまり武田は徳川を攻めても
そこが遠江なら信義に反したことにはならない。逆に徳川には抗議する資格も無い。」
なんて約束が交わされていたというのなら話は別ですがね。しかし、比較すれば弱小とはいえ、
一国を支配する大名である徳川がこんな無茶苦茶な約束をしたとはどう妄想を連ねても考えられません。
0207人間七七四年
2008/03/13(木) 21:27:41ID:k3PZUGX+徳川贔屓が入っているところもあって、全てを鵜呑みにするのは危険だけれど。
0208人間七七四年
2008/03/14(金) 00:01:01ID:L88mvp6Dこの中に信玄が家康に陳謝したという手紙が蒐集されていると聞きました。
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようですが、それを覆すほどの論拠がおありなのでしょうか
それがあるなら素直に「川きりは嘘」と認識を改めたいのですが、それなしに「きっと・・・だろう」では研究者の意見に軍配をあげざるを得ないところです。
いかがでしょうか。
0209人間七七四年
2008/03/14(金) 00:09:07ID:EFnnA+cNその手紙の陳謝は
同盟中ってほどでもないが一応友好関係にあるのに秋山と徳川勢が戦ったことについてであって
徳川の取り分である遠江に侵攻したことについて謝っているわけではない、
と思う
なので必ずしも上の意見と完全に相反するわけではないと思う
0210人間七七四年
2008/03/14(金) 11:01:40ID:L88mvp6D川切りがなかったと主張するのであれば、「武徳編年集成」を実際に読んで原文掲載のうえで反論しなければ。
また、例え川切りがなかったにしろ、同盟国に戦闘を仕掛けたという時点ですでに手紙による陳謝ではすまない責任問題だと思いますが?
0211人間七七四年
2008/03/14(金) 11:37:57ID:d/uHtLy7あなたが読んで示してないのに相手には読んで原文を挙げる事を
要求するのはどうかと思われる。
相手に要求する以上まずそちらも原文を挙げて示すべきではなかろうか。
世の中にはいろんな研究者がいる事をお忘れなく。
それから武徳編年集成は江戸時代の1740年に幕臣木村が編纂し
1741年に徳川吉宗に献上した徳川家康を称える為の一代記。
同時代資料でもなく、戦国時代から100年以上経った徳川史観全盛期の頃に
書かれたもので他に同時代資料の裏づけが無い場合は信憑性に疑問を持たれる書物。
0212人間七七四年
2008/03/14(金) 12:36:02ID:M6HD4h7Nキミも信憑性に問題があると思うならその根拠を挙げるべきだろう。
あと、川切りがあろうがなかろうが、徳川に掛川城攻めを要請した時点で
徳川に対して掛川はおまえの切り取り分だと言ってるのと同じ。
しかも徳川に対して2度も掛川攻めを要請しておきながら徳川が出陣して掛川に攻めかかったら、
秋山が徳川の背後に回り徳川の守備隊を排除して見附を強引に占拠。
切り取り自由だとしても同盟国がすでに確保済みのものを攻め落としていいわけがなく、
ましてやこの行動は徳川本隊と岡崎の連絡を絶つこの上ない敵対行為。
例えるなら織田が金ヶ崎攻めの最中に裏切った浅井の行動と同じレベル。
それを「遠江は切り取り自由」「武田は謝罪だけ」と重箱の隅を突っつくような反論で弁護できるほど、
武田の行動は甘くないよ。
それとも武田家では一部将が勝手に軍を動かして同盟国だろうとどこだろうと攻め取れる決まりになってるのか?
普通は勝手に軍を動かしたら謹慎以上の処分だろうに。
0213人間七七四年
2008/03/14(金) 12:47:23ID:d/uHtLy72段目以下の事には特に触れていないよ。
ただ武徳編年集成の信憑性の是非について指摘してるだけ。
信憑性に疑問があるという根拠は
>>211に書いてるとおり武徳編年集成自体が戦国時代から100年以上経った
1740年に幕臣によって
徳川家康を称えるために編纂されたものだから。
同時代資料の裏づけが無いなら鵜呑みにするのは危険だよ、と言っている。
0214人間七七四年
2008/03/14(金) 12:53:43ID:M6HD4h7N一次史料の裏付けがあるなら信憑性があるでしょう。
武徳編年集成の記述が一次史料と不一致の部分があるなら信憑性がないかもしれないけど、
そういう論点ならちゃんと不一致の部分を挙げるべき。
あと、一次資料に基づいた編纂史料は価値がないとおしゃるなら、
現在保存されてる一次資料以外の史料はすべてシュッレター行き?
家康をたたえるからって、当時の幕府では盲目な武田マンセーのかなり酷かったと思うけど?
0215人間七七四年
2008/03/14(金) 13:01:27ID:d/uHtLy7>>205からの流れを見返してほしい。
信玄が家康に謝った手紙が>>205の人は探してみても見つからず、
逆に信玄が家康に遠江でお会いしましょう、と言ってる書状があると述べてる。
それで>>208の人が武徳編年集成にその記述があるらしい、と述べているので
武徳編年集成単独での資料価値について疑問点を指摘したんよ。
それを言ったら甲陽軍鑑とかのほうが武徳よりはるかに成立年代も早いけど
それを同時代資料とつき合わせずに鵜呑みにしていいの?という問題がある。
まして百年以上先では。
0216人間七七四年
2008/03/14(金) 13:21:42ID:M6HD4h7Nなるほど、そういう流れか。
それなら手紙に関する武徳編年集成の記述を検証すればいいだけじゃない?
内容も見ずに信憑性のあるなしを論議するのは不毛だと思う。
甲陽軍鑑だろうと武徳編年集成だろうと内容ではなく編纂された年代だけで信憑性を判断するのはおかしいでしょう。
0217人間七七四年
2008/03/14(金) 13:32:31ID:d/uHtLy7たいていの傾向として
同時代資料に記述が無いのは信憑性を疑われる。
後世にいろいろ付け加えられるわけだし。
基本的に同時代資料>>>後世の編纂物。
そういう場合はむしろなぜそのように書かねばならなかったのか?
という点を研究されるらしい。
それから>>205の人が無いといっていたのは信玄と家康が今川領土を
大井川でわけあうという書状が無い、という事だった。
それで>>208の人が信玄が家康に謝った記述が武徳にはあるといってた。ごめん。
0218人間七七四年
2008/03/14(金) 20:14:32ID:WzheFc5mいや孫引きというか引用ではあるが読んだ上での意見なんだが、
それ以前にあなたは何か勘違いしているようだが。
手紙の内容はあくまで徳川と秋山が戦ったことに対しての謝罪であって
何らかの協定を結んでいた文章はあるものの、その書状だけでは
武田と徳川が大井川を境とする協定を結んでいたかまでは分からない。
定説では、何らかの協定=軍鑑などにある大井川での分割協定と考えて、この書状を分割協定の根拠にしているらしいが
何らかの協定が対今川で共闘、領土に関しては切り取り自由という協定だった可能性も無いわけではない
上の信玄が家康に陳謝したという手紙というのでは、
徳川武田間で何らかの協定盟約があったことの証明にはなっても
その協定の内容までも証明する史料ではないということ。
まあその実際の協定が軍鑑などにある大井川での分割以外に有力なのが見つかっていないので、
研究者の間では、その手紙の存在を以って、「川きりの盟約はあつた」とするのが定説になっているようだが。
0219人間七七四年
2008/03/15(土) 13:41:48ID:9qg1tX1Y「同年五月二十三日付けの信玄の書状によれば、
家康は「先約」に基づいて遠江の人質を受け取りたいと主張し、
信玄もこれを認めている。
氏真が遠江の武士から取っていた人質を、家康が引き継いだのだと思われる。
これは、家康が遠江に君臨することを意味するが、
そういう「先約」があったわけである。」
とあります。
順当に考えてやはり遠江は家康が領有するという密約があつたということではないでしょうか。
0220人間七七四年
2008/03/28(金) 11:31:15ID:6sNY6jgBそこから美濃に行くか越中に行くかは、考えどころだけど。
織田との関係は悪くなかったんだから同盟を結び、越中を手中におさめ、信濃との二方面から越後に乱入する。
0221人間七七四年
2008/03/28(金) 15:39:59ID:s5FDYWaZ0222人間七七四年
2008/03/29(土) 01:32:47ID:Vaa8ooBE0223人間七七四年
2008/03/29(土) 08:59:31ID:MX1epd3Dその方が結果的に武田が後世に生き残ることになると思うけど
0224人間七七四年
2008/03/29(土) 14:12:36ID:WHfaepXp0225人間七七四年
2008/04/01(火) 20:04:43ID:iq7excejその採掘に支配地から男女を無理矢理連れて来て恨みを残し(度々叛乱あり)
無駄な長期戦を意地になって勝つまでやるし
しかもそのせいで重臣はバタバタ死ぬし(無敗?ぷぷ、損得勘定できないガキの戦)
気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて、遺体は腐ってしまいました(残念!!)
0226人間七七四年
2008/04/01(火) 22:16:25ID:QxklzeYC0227人間七七四年
2008/04/01(火) 23:17:04ID:GdmunYx3信玄自身も「上杉とむきなって戦ったのは不味かった」と認めてる。
信長や伊達ならさっさと頭下げて状況打破できたんじゃね?
0228人間七七四年
2008/04/01(火) 23:52:24ID:jv9fs5EF信長なら自分より国力下の上杉なんて楽勝(信玄の立場なら後背の今川との同盟で憂いがないから
0229人間七七四年
2008/04/02(水) 01:27:52ID:OUSFtdVk0230人間七七四年
2008/04/02(水) 02:42:48ID:MLa10qNlそれまでに培った信頼というものが皆無だからな
結局軍事的を背景にした外交しかできなかった
これはあきらかに信玄の限界
0231人間七七四年
2008/04/02(水) 07:42:34ID:/D5RDjX5もしかしたら信玄は内部の者に暗殺されたのかも…
「老い先短いジジイの今生の想い出作りに付き合わされて無駄死にさたかないべ」
「やっちまうべ?」
「んだんだ」って感じで
しょせんは豪族の集まりの田舎軍団だし
0232人間七七四年
2008/04/02(水) 07:44:17ID:e0T+PVpD0233人間七七四年
2008/04/02(水) 09:24:39ID:LPf2BBWa0234人間七七四年
2008/04/02(水) 23:23:06ID:NjprYtua信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
信玄があと一月長生きしてたら、関ヶ原あたりまで誘いこまれて信長の大軍に四方から囲まれて重臣もことごとく打ち取られてただろうね
0235人間七七四年
2008/04/02(水) 23:28:03ID:hWsSo1ig0236人間七七四年
2008/04/03(木) 00:34:17ID:YQcg4/iA0237人間七七四年
2008/04/03(木) 02:21:04ID:BM4XlB+k>気がついてみればジジイになっていて、慌てて計画性の無い上洛軍を挙げるも事切れて
この辺が春休みムキ出しなんだが
頭大丈夫か?w
0238人間七七四年
2008/04/03(木) 05:15:47ID:ETUXSpJ+各所に最低限の備えを残しても7、8万は動員できるだろ
敵地の中たかが二万五千で何ができる?
あと武田には恨みはないよ
ただ武田マンセーからかうと面白いだけ
0239人間七七四年
2008/04/03(木) 09:12:49ID:jzyLywvfそもそも信玄最後の戦闘、通称「西上作戦」は
アホの言う「慌てて計画性の無い上洛軍を挙げる」ではなく
本願寺や足利義昭からの再三の要請を無視できなくなって
やっと重い腰を上げで挙兵した物だよ。
しかもこれは上洛を目的としていた物ではない可能性が非常に高い。
その辺を全く考慮していない(知らないのなら無理もないが)アホ発言なんだよ。
からかわれてるのは お ま え www
0240人間七七四年
2008/04/03(木) 09:27:17ID:ETUXSpJ+死ににきたの?
腐りにきたの?
それとも囲まれて打ち取られて塩漬けにされにきたの?
0241人間七七四年
2008/04/03(木) 09:29:16ID:hCTeww1b0242人間七七四年
2008/04/03(木) 09:53:16ID:ETUXSpJ+0243人間七七四年
2008/04/03(木) 14:42:29ID:8K1yrV1H>>241
将軍が「織田を滅ぼせ」と言えばそれだけで
織田攻撃を正当化するための立派な「大義名分」になる時代なんだよ
それで織田の周囲が全部敵に廻って一斉に攻撃を仕掛ければ織田を潰せるじゃんか
>>242
信玄の展望の小ささはこのスレでも再三既出
改めてアホのお前が書く必要もない
信玄は将軍や本願寺に懇願されて
仕方なく形だけ上洛するように見せかけて挙兵した
断れない理由もちゃんとあった
実際の目的は上洛ではなく織田領の切り取りで
或る程度の所まで来たら停戦協定を結んで引き上げざるをえない状態
0244人間七七四年
2008/04/03(木) 14:58:51ID:ETUXSpJ+チミのゆーとーりだよ
あの時代では致命的だね
戦が強いから自分の代はだいじょうぶでも、次の代では武田が滅ぶ事までも見えずに敵を増やし、更には織田にまで喧嘩売ったんだか
タイトルどおり、武田が滅んだのは信玄のせい
チミとは違うかもしれないけど、やたら信玄マンセーしてるバカにも教えとけよ
信玄は猪武者だって
0245人間七七四年
2008/04/03(木) 15:06:00ID:hCTeww1bで、実際に義昭はがんばってそれをやったわけだが。
結果は足並みがそろうはずもなく織田に各個撃破された訳だ,
どんな大義名分があっても勝てない戦にはでないのが名将ってもんだろ
0246人間七七四年
2008/04/03(木) 15:21:20ID:8K1yrV1H>>244
ちなみにオレは初代スレの>>1な
>>245
当然足並みは揃わなかったが
織田は滅亡寸前ぐらいの窮地に追い込まれていた
領土が急激に広がり敵対勢力も急激に増えたために各地に奔走しまくっていた
明智救出のために信長自身が出馬して重症を負ったりもしてる
信玄が存命だった時期はまだ織田家に圧倒的な力があったわけではないし
武田は独力で織田に勝てなくても、他の勢力と共闘して潰す事ができる唯一の後期でもあった
信玄死去をきっかけに敵対勢力を個別に潰す事ができるようになったので
それで徐々に体制を整えて行けただけの話
信長マンセーもほどほどにね
0247人間七七四年
2008/04/03(木) 15:33:25ID:sURl3ijU体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
武田がようやっと出てきた頃には畿内の反織田勢力は虫の息。
将軍の命令も、信長と戦う理由のあるものに大義名分を与えただけで、信長と
戦う理由のないもの、信長と結んだ方が得をするものは将軍の命令なんか無視
して信長と結んだ。
わざわざレス有難うござる。
特に私の意見を捕捉してくれた人には「大井」に感謝!!
まず、長いので私から皆さんへのレスを2つに分けますね。
・「川きり」協定に関して。
・秋山の行動に関して。→これは次回ね。
1.簡潔にまとめ
今川領の遠江は「切り取り自由」と言う事もありうるのではないか?
その根拠は、
(1).「川きり」の書状がないこと。
(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
もし協定が「川きり」ならば、掛川は大井川から相当離れているから「編纂物」と「書状」の記述は矛盾するでしょ。
あの「長泰殴打事件」みたいにね。
(3).この書状「恵林寺文書」は大変有名で実物も残っている(『武田信玄の生涯』に写真が掲載されている)。
これは写しではなくオリジナルのものだから間違いなく「一級史料」なわけで、
これに関しては編纂物に引用されている「書状写」より信頼できるんじゃないの?
(4).他の国分け協定、例えばあの「越相同盟」や氏真→氏直の「駿河譲渡」それに「毛利と宇喜多の国分け」などは、
具体的な内容の書状が残っているんだけど、
この協定に関しては『武徳編年集成』や『軍艦』『三河物語』などの編纂物しか具体的な記述がないんだ。
皆さんは「駿河は信玄、遠江は家康」と明確に記された書状がないのがおかしいと思わないのかな?
2.『武徳』は他にも書状と矛盾している記述がある。2つ。
(1).「信玄は父を追放した親不孝者である」
→追放された信虎が信玄のグチをこぼした書状がない。あの昌幸だって高野山から書いた手紙で(信之に)本音を述べているのにね。
(2).「信玄は氏真妹を駿河へ送り返した」
→これも、関連書状を読む限りでは、氏真の方から何らかの理由(謙信との密約?)があって、送り返すように要請し、その代わりに氏真→信玄に誓詞を送ったらしいよ。(ただし「誓詞」は現存せず)
3.『三河』は知っての通り三代家光の時代、寛永三年(1626)頃、旗本の大久保彦左衛門によって書かれたもので、大雑把に言うと2つの目的で書かれたものなんだよ。
(1).大久保家がどんなに徳川家に忠誠を尽くしてきたか? どれほど(の血を流して)働いてきたか?
(2).元和偃武(1615年)以降、新鋭の文官達が官僚として出世していくのに対し、彦左衛門以下、譜代の武官達は疎外されていく事。
つまり、彦左が理想とする「(戦国時代の)主従の在り方」を社会にアピールする目的で書かれたものであり、一概に「歴史」を残すために書かれたとは言えないんだよね。
確かに自身も従軍したと思われる「第一次上田城攻防戦。神川の戦い」(天正十三年)なんかは、大変細かい描写で書かれていて面白いし、それにこの戦いは、なぜかあまり書状がないので『三河』を信用するしかないんだけどさ…
「駿遠分割協定」(永禄十一年)に関しては、彼がまだ9〜10歳でしょ? だから信用できないんだよね。やはり、これに実際携わったと考えられる信玄・家康・梅雪・酒井忠次などの書状や同時代人の『家忠日記』の方が信用できるんだよ。
結論1としては、
「川きり」の協定もそうだけど…
「編纂物を100%信用するのは、ちょっと危険かな」
「定説・通説だけど改めて調べてみると、新しい発見があるかもよ」
と、言いたかったのさ!!
宿題としては、
『武徳編年集成』で調べてみるしかないね。(入手が難易だけど…)
0249人間七七四年
2008/04/03(木) 15:41:09ID:hCTeww1bなんだかんだいって織田に喧嘩を売ったのは信玄最大の失策
だったんじゃないかという気がするけど。
信玄の第一次武蔵・相模侵攻(永禄十二年8月24日から10月7日まで)の時、
つまり、三増峠の戦い(永禄十二年(1569年)10月6日)の時、
馬場美濃は高坂弾正の後詰として、信州牧之嶋城(長野県信州新町興禅寺)の留守居役を任じられていたが、
「面白いので法度を破って高見の見物に来た」とのたまわって勝手に軍を率いて信玄に合流したが、
お咎めなしだったよ!!
0251人間七七四年
2008/04/03(木) 16:08:04ID:8K1yrV1H信玄の西上作戦の時の信長の行動は
徳川に援軍として佐久間の手勢を送ったが「動くな」と指示した
信長は京都から岐阜に戻ったが軍勢を整える事もなくそのまま待機
おそらく信長は信玄の行軍を岐阜まで許しておいて、そこで対峙しようと考えていたのだろう
野戦で短期決戦なら家康のようにコテンパンに叩かれる恐れもあるけど
信玄の西上作戦の軍勢は長期戦には向いてないからな
織田のほうが圧倒的に強いのであれば織田領に入れずに三河で武田と決戦をすればいいが
当時の織田は四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった
>体制を建て直し戦線を整理した結果、どの方面でも織田側が有利で押す展開に。
それは信玄死去以降の話だな
0252人間七七四年
2008/04/03(木) 16:13:02ID:Wj4CcV25あなたが「あの」書状を指摘してくれたおかげでようやくあの「三増峠」第一幕が完成しました。
その「返礼」ではないのですが…
つまり、永禄十二年(1569)5月23日付 信玄→信長家臣津田盛月?・武井夕庵あて書状「神田孝平氏所蔵文書」には…
(↓ココに注目!!)
『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。
十余日たってから信長の先導部隊と称して、家康が出陣しました。
先約のごとく、遠州の人質らを受け取りたいと(家康が)言ってきたので望む通りにしました。』
(↑つまり「十日間もちんたらしやがって何やってんだ」)
「氏政が氏真を救うために、駿河薩田山へ出陣して、信玄と対陣し(たから)、
(家康は)掛川の(周囲)数ヶ所に砦を築き、掛川を落城させることが出来ました。」
(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)
その後、氏真を生害させるか? 三河・尾張の間に(身柄を)送るべきだった。なのに…
(↓ココに注目!!)
『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
掛川に籠城していた(今川の)家臣たちが、何事もなく駿河に帰って来て(私を悩ます)とは、思いも寄りませんでした。
氏真・氏康父子と和睦してはならないと、家康は誓詞で明らかにしているけど、この(協定違反)に関して信長殿はどう思うのか?』
(↑@つまり信玄は「家康こそ協定を破った!!」 A「駿遠分割協定は信長が仲介・斡旋した事」がわかる)
過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」
結論
1.信玄と家康の「駿遠分割協定」(永禄十一年2月16日)は、信長の仲介・斡旋により成立した事がわかる。
この時点で信長は京へ、信玄は駿河へ進攻する密約が成立したという事だね。
2.信玄は、秋山を遠江から撤退させたけど…
家康は、信玄との協定を破って「勝手に氏真・氏康父子と和睦したこと」かつ謙信と誼を通じた
どちらが誓詞を破ったのかな?
0254人間七七四年
2008/04/03(木) 16:44:05ID:daQ6gmVq東より西の方が脅威だったんだろうな。
明けて一月、義昭は堅田に味方を籠もらせたが、柴田・明智・丹羽・蜂屋に追い払われる。
二月、自ら出陣し石山攻め、これを陥とす。
三月、入洛し、翌四月、義昭が立てこもる二条城を包囲。義昭との間に和議が成立。
鯰江城に籠もる佐々木を佐久間・蒲生・丹羽・柴田に命じて攻めさせる。
さらに佐々木を支援する百済寺に放火。
0255人間七七四年
2008/04/03(木) 20:25:26ID:Q/KHyUSd>四面楚歌状態で軍勢が充分に集めれらなかった
【四面楚歌】
周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がいないこと。また、そのさま。孤立無援。
当時の織田家の主な敵
武田家(甲信。補給が課題点。徳川に対する処置をしなければ尾張・美濃に進むのは不可能)
長島一向一揆(伊勢長島。城に篭られたら鉄板で脅威だが遠征能力には疑問あり)
浅井家(北近江の小谷城周辺のごく一部、虫の息で現状維持することが限界)
朝倉家(越前一国。加賀、若狭の一部? 財政悪化&家臣の離反、軍役拒否等で進退窮まった状態。
志賀の陣以降は浅井家の援軍での出兵以外に軍を動かすことは無く、自分から仕掛ける余裕は最早無し)
六角家(織田家の主な敵に加える必要はないのではないかとも思えるほどの弱小勢力。)
松永家(大和。寺社、土豪の多くが敵対する筒井に味方し大和国の主導権争いで劣勢状態。
織田家の敵として殆ど機能していない状態。)
石山本願寺(城に篭れば鬼のような守備力を発揮するが、積極的には動かない。
志賀の陣の好機にも大坂周辺を荒らした程度でそれ以降目立った動き無し)
三好一族(結束力が脆いのがネック。反三好との攻防で膠着状態。)
とまあ確かに織田家の周辺には多数の敵が存在していたが
徳川家、筒井家、細川、荒木等反三好勢と織田家に味方した勢力も多数いて
君の言うような四面楚歌状態ではなかったんだけどね。
反織田勢力の存在はしっかりと数に入れるのに、親織田勢力を無視するとかよそうぜ。
武田上洛スレのテンプレにもあるけど、織田家は少なく見積もっても3万弱を対武田に使えたと計算できるよ。
0256人間七七四年
2008/04/03(木) 20:51:27ID:mKQQxEzm本当に集められるんだったら軍勢を率いて浜松に出向き
織田・徳川連合軍で武田を潰せば良かったんじゃない?
実際には佐久間の手勢を送っただけ、信長は岐阜で事態を静観するだけ
武田撤退後も追撃をせずに徳川に大量の金銀を送っただけ
0257人間七七四年
2008/04/03(木) 21:27:41ID:Q/KHyUSd西の方が魅力的な国土だし敵も疲弊している。
何より畿内の安定が最重要。
東はまだ疲弊していない武田家だし、魅力的な国土ではない。
浜松に佐久間の3千は籠城目的だし妥当な数字。
それ以上援軍を送ると城に兵を収容できなくなる。
浜松城を中心に籠城して守りに徹すれば1年や2年で攻略されることはまずない。
徳川が守りに徹して武田を引き付けてる間に西を安定化させるってのが信長の当面の戦略でしょ。
0258人間七七四年
2008/04/03(木) 21:30:54ID:daQ6gmVq武田相手で慎重になってたのも事実だろうがな。
0259人間七七四年
2008/04/03(木) 21:44:03ID:mKQQxEzmあなたの言ってる事は完璧に正しいんだけどね
春休みの人の言うように「織田は圧倒的な軍事力」で
「畿内の敵対勢力は虫の息」と言うのが本当なら
武田に壊滅的なダメージを与えてやればいいわけよ
わざわざ岐阜まで何しに帰ったの
0260人間七七四年
2008/04/03(木) 22:07:04ID:1eFs5Gk5>(2).12月23日付けの信玄の書状で「遠江に軍を進め、掛川で徳川殿と対面できるのは、この上なくめでたい」と書いてあるから。
これは別に矛盾しないんじゃないの?
今川を滅ぼすための同盟なんだし単純に氏真が掛川に逃げ込んだため
自分も氏真を追うつもりだみたいな書状を出したんじゃ
これと大井川で分割ってのは直接的に関係しているとは言いきれないと思う
>>250
武田内での勝手な配置替えと他国を巻き込んでしまった勝手な軍事行動とは
同列に扱えるとは到底思えない。
>>253
>『…略…遠州もことごとく当方に属し、掛川一ヶ所だけ残りました。〜
10日余りとかは武田の勝手な言い分としか思えないが、
出陣の日にちは取り決めてあったのか、12月11日には徳川は遠江にいたと思われるが
十余日たってから家康が出陣したとはそもそもいつを指すのか?
>(↑つまり「信玄が氏政を引き付けていたからこそ、家康は掛川を入手できたよ。掛川落城は、私の手柄だ!!」と強調)
状況がそうさせたのであって、徳川からすればもし北条の出陣がなければ武田に遠江から
追い出されていたのではと考えてしまうような状況なんじゃ?
>『小田原衆と岡崎衆が戦の途中で、(勝手に)話し合って和睦してしまった。
恐らくこの時点では徳川はもう武田を敵対勢力に近いものとみなしていたのだろう
>過去の事だから許すが、せめて「氏真・氏康父子に敵対しろ」と信長より(家康に)急ぎ催促させる事が(何よりも)肝心です…以下略。」
律儀と言うよりは力関係を考えてか家康は暫くの間は武田とは敵対していないな
ただこの武井夕庵あて書状、1572年の書状にも同様に言えることだろうけど
この手の外交における宣伝文書はあまり当てにならないんじゃ
武田も徳川もお互い相手が悪い、讒言者のいうことを信用しちゃいけない
絶対自分は裏切らないみたいな文書を信長に送ってるんだし
どちらが誓詞を破ったに関しては上にもあったけど、まず最初に破ったのは武田。
その後の武田は一応、家康に対して律儀に盟約を守っていたと言って良いと思うけど
徳川は武田の事を信用できなかったってことだろうな。
最初に武田がとった不信感を植え付ける行動を除外して1570年以降だけで見るならば
誓詞を破った及びう非があるのはは徳川と主張することも可能かもしれないけど、
全体を通してどちらが破ったというのであれば、まず最初に破ったのは武田でいいんじゃないか?
0261人間七七四年
2008/04/03(木) 22:10:43ID:1eFs5Gk53万と2万5千じゃ、それなりにお互い消耗するからじゃ、
まして武田迎撃したところで領土が増えるわけでもないし。
岐阜にいたのは単純に冬だから例年通り岐阜に帰っていただけだと思うが。
0262人間七七四年
2008/04/03(木) 22:23:08ID:daQ6gmVq小谷城を包囲・朝倉の援軍と対峙中の帰還だから恒例の帰還って可能性は低いんじゃないかな。
武田の遠江侵攻開始と信長の岐阜帰還はどっちが早い?
0263人間七七四年
2008/04/03(木) 23:18:40ID:1eFs5Gk51572年年表
7月29日朝倉近江着
虎御前山に砦を築く
9月16日信長横山に帰る
10月3日信玄甲斐発
10月5日信長書状 武田が和睦(上杉との?)に応じそうなので喜ばしいとかいう書状
10月10日信玄遠江着
11月3日秀吉、浅井朝倉を破る
11月13日安宅信康 義昭信長に降伏
11月14日秋山岩村落とす
11月20日信長書状 謙信に武田との断交を告げる
12月3日朝倉帰国
12月22日三方ヶ原
年表だとこんな感じ
岐阜への正確な帰還は不明だと思う
ただ信玄の出陣前に横山まで引いているから、信玄の影響ってのはこの段階ではないと思う
そして武田との敵対は11月後半だから、その時点じゃ武田の影響で岐阜にいるのか
冬だから岐阜にいるのか判断つかない
ただ春になったら武田が三河にいるにも関わらず上洛しているから武田の織田への影響は
あまり高くないんじゃないかと考えるが。
0264人間七七四年
2008/04/03(木) 23:25:40ID:sURl3ijU十月三日 信玄、甲府を出立。
朝倉は小谷城の救援には来てもそれ以上南下の姿勢は見せない。実際に、織田本隊が岐阜に
帰還して留守の木下隊のみになっても何もせず十二月には越前に帰国。
大和は味方の筒井が優勢で松永は逼塞状態。六角も同様。
三好は反三好勢力と攻防で忙しい。後に織田につく荒木が台頭を始める。
緊急を要する戦線はない。だったら翌年に備えて一度岐阜に戻って兵を休めようとか考え
てもまあおかしくはないわな。武田が東から出てくると噂があるのならなおさら。
「川切り」なしの新資料を発見しました。それは…
1.永禄十一年12月12日付 家康→遠州井伊谷(三河国境・現引佐町)の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写「鈴木重信氏所蔵文書」です。
2通それぞれに…
「…略…甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、
『(家康は)君たちの身体を考え、決して見放さない』」とか、
判物には「甲州より…略…
『起請文を差し出した上は、(君たちも)身体をかけて、間違いなく裏切らないで欲しい
…略…(信玄より)先に(家康に)忠誠を示す判形を差し出したからには、相違あるまじきなり。
細かいことは菅沼定盈より…』」という一文がありますよ。
だけどこの次に発行した、
つまり12月20日に発行した、
家康→(見付と二俣の間の)遠州国人匂坂吉政あて判物には「甲州云々」の一文がなくなっているんだよ。
始めは「川切り」の協定はなく、
後日、現場(遠江)が混乱してから改めて決めたんじゃじゃないかなぁ?→これは「次回の秋山の行動」と一緒にして書きますね。
2.>信玄が先に協定を破った
これはあなたの言う通りですね。
3.>10日余り云々について
これは年表を作ってみました。
私見ですが、6日〜18日を計算しての事と思われます。
12月6日 信玄出陣。
12月12日 家康→遠州井伊谷の国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時あて起請文写・判物写。
その中に「甲州より、いかほどの知行分の申し出があっても、起請文を差し出した上は云々」という一文がある。
12月12日 氏真、敗れる。
12月13日 信玄、駿府入城。北条軍蒲原に到着。
12月15日 氏真、掛川に到着。
12月18日 家康、浜松に入る。
以上、楽しいゴールデンウィークを!!恐々謹言。四月廿一日。
0266武田竜芳ってどお?
2008/07/09(水) 13:18:09ID:K8qkUsoa「川切れ」協定に関する書状2つ。(これ以外にはないらしい…)
(1).年欠2月16日付 信玄→家康宛書状写『武徳』より
「いささかも(徳川殿の)疑心に思い当たりはありませんが、
誓詞を取り交わすのを望んでいるそうで、
(徳川側が)前もって準備して(持参して)きたのは誠に都合が良い。
(早速)信玄の誓詞も書写し、使者の目の前で血判してお渡しします。
ますます御入魂になりましょう。恐々謹言
二月十六日 信玄(判)
徳川殿」
(2).年欠2月16日付 穴山信君→酒井忠次宛副状「島原市・本光寺所蔵田島家文書」
「今回、双方の使者が(互いの間を)奔走した結果、
家康から誓詞を頂けたのは、とても有り難い事です。
信玄の誓詞も書写し、血判したものを渡しましょう。
いよいよ相互に御入魂になるよう、
(互いに)取りなすことが何よりも肝要です。恐々謹言
武田左衛門大夫
二月十六日 信君(花押)
酒井左衛門尉(忠次)殿」
※『武徳』では「永禄十一年」としているが、
『戦国遺文 武田氏編第2巻』では「永禄十二年」としている。
結論
あっさりし過ぎて他の資料が発見されない限り、わかりませんねぇ。恐々謹言。
0267人間七七四年
2008/08/08(金) 06:29:22ID:SUYzhSOr(織田厨達の脳内じゃそうらしい)
、徳川家康、豊臣秀吉とばかり実力を比べて、
「織田信長どんな大名より凄い」
を唱える馬鹿。
例:
一つの教室で(戦国板)
一人のいじめられっこがいる(織田厨)
その子は自分より下の子達(徳川厨、豊臣厨、武田厨)をいじめて
自己満足してる。
0268人間七七四年
2008/08/24(日) 12:06:25ID:+6JCxp+f信玄は、自分が死んだ後の事を考えていなかったのだろうか?
ってなくらい何もしないで死んだ気がするなぁ。
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