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武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2

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0001人間七七四年2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP
立てた。
0269人間七七四年2008/08/26(火) 06:40:55ID:SMLM+c49
義信を追いやった時点でダメ
0270人間七七四年2008/08/26(火) 09:59:33ID:JZ3b/h2S
>>250
「面白いので法度を破って高見の見物に来た」とのたまわって勝手に軍を率いて信玄に合流したが、

馬場ちゃんかわいいw 萌え
0271人間七七四年2008/08/26(火) 23:40:10ID:Ba1Jsi/D
>>268
勝頼は正式に家督を継いでるし、財政疲弊もしてないし、百万石を超える戦力はそのまんまなんだけどな。
0272人間七七四年2008/08/29(金) 19:02:15ID:maLdPl+S
信玄は三年死を隠したわけだけど、葬儀はどうしたの?
死んだときは何もしないで、三年後に『お葬式』をやったの?
それとも『三回忌』をしたの?
0273人間七七四年2008/08/29(金) 20:33:34ID:6ebFCys/
>>272
そんな資料のないもん誰が知るか。
0274人間七七四年2008/08/29(金) 21:29:51ID:maLdPl+S
叱られても。
恵林寺とかになんも残ってないわけですか。
滅亡すると史料も散逸して哀しいですね。
0275人間七七四年2008/08/29(金) 21:40:24ID:6ebFCys/
>>274
常識的に考えれば武田信玄が死去したら数日後に葬式はするだろ。
0276人間七七四年2008/08/29(金) 21:50:59ID:Ch1B1tQc
たしかやってるはず。勝頼が3年後に。ソース忘れた
0277人間七七四年2008/09/02(火) 19:55:43ID:Yx56iRJP
長篠から武田滅亡にいたるまでの期間
若手の武将で名をあげた人てどれくらいいたんだい?
滅亡時に30歳前後の武将でさ
0278人間七七四年2008/09/09(火) 21:06:55ID:Nw2xyio3
>>265
>始めは「川切り」の協定はなく、
>後日、現場(遠江)が混乱してから改めて決めたんじゃじゃないかなぁ?→これは「次回の秋山の行動」と一緒にして書きますね。
12月12日付の時点では武田軍が遠江に侵入していたけど、
12月20日の時点では信玄との話し合いもつき、武田と北条は駿河で対峙、秋山らは要請を受けて遠江から撤退
武田の脅威が無くなったから「甲州云々」の一文が消えたという可能性もあるんじゃ?
初めから「川切り」の協定はあったけど、内心では切り取り次第と思っていたが北条の介入で
武田が切り取りする余裕が無くなったため、改めて「川切り」の協定を持ち出したとか。

徳川から武田へ「川切り」に関しての抗議がいっていれば確実なんだけど、それがない以上
これもただの推測に過ぎないが。

ところでこの間読んだ武田の本(平山氏?)に野田城で人質交換時に信玄が駿河攻めた時捕らえた
酒井忠次息女もいたと書いてあったが本当かな?
0279東義久ってどお?2008/09/17(水) 17:29:06ID:78Aw6xBg
>>278&270さんへ。レスありがとう。必ず返レスするからね。
>>272&276さんへ。うろ覚えだが…確か『軍艦』のはずです。(載ってなかったらゴメン)
0280東義久ってどお?2008/09/24(水) 10:23:16ID:yeNXgC2J
>>270「馬場萌え」さんへ、追記しますね。
馬場は武田四名臣の中で唯一、信玄より(7つ)年上ということもあってか、もう1つ信玄の意志に逆らった話があるよ。

1568年、駿府今川館を武田軍が放火した時、
信玄はあらかじめ今川家の財宝を運び出すように命じていたが…
馬場は「そんな事をしたらお屋形様は、貪欲な大将として後世の笑い者になる」と考え…
運びだした金銀財宝を逆に火中に投じてしまった。
後からそれを聞いた信玄は「馬場のいう事はもっとも」と納得し、
お咎め無しだったとさ!!

他にもいろんな話があるから、時間があるなら『甲陽軍艦』の現代語訳をお奨めするよ!!

>>272さんへ。ソースの追記。
天正4年(1576)4月16日〜26日に行われた葬儀について。
原版は見ていませんが…
『武家事紀』と『甲斐国志』の2ソースにあり、
『甲斐国志』の中にある「天正玄公仏事法語」(※玄公…信玄公)という恵林寺の記録に詳しく書いてあるそうです。
「天正玄公仏事法語」によると…
16日が、本葬儀で、
26日まで七回忌をやったらしい。
(なぜ、三回忌ではないのか?は不明)
0281東義久ってどお?2008/09/24(水) 10:26:53ID:yeNXgC2J
>>278さんへ。返レス誠に有難う御座居ます。
1.「酒井忠次息女」情報2つ。
(1).『家忠日記増補追加』より。
「(永禄十一年(1568)十二月)二十八日、…略…、
先日駿河の城が落城して氏真他国(遠江)に走った時、三州(三河)の人質松平源三郎(家康の異父弟、勝俊(康俊))および酒井忠次の娘を駿府に捨て置く。
是を預かる三浦与市郎は、今川氏真に叛いて武田信玄に属す。
是によって三浦その人質を叩いて(脅して?)、甲州に行き、是を信玄に遣わす。
信玄大いに喜んで、遠三両国を攻略するには良き人質なりと言って、警護の士を置いて固く是を守らせる。」
とあります。

(2).永禄十二年(1569)二月二十三日付 山県昌景→忠次宛書状(東京都 酒井家文書もしくは致道博物館所蔵文書)より。
この手紙の最後の辺に…
「甲州にいる御息女の事、(三河へ)帰れるように(信玄様)に必ず申し上げますから、御安心下さい」とあります。

手持ちの資料によると以上です。何か役に立てなくてごめんなさい。

2.秋山の行動について
まとめようと努力しましたが…
遠江の国人達の行動について、あまりも矛盾した記述が多いので中断しました。年表(というか日程表)だけは作成したので、公開しても迷惑でないならレス下さい。

但し北遠の国人天野氏については…
天文二十三年(1554)8月 信玄が信州下伊那郡攻略して、下伊那衆の盟主である下条信氏が信玄に降伏した。
以降は、下条信氏が東美濃の遠山氏や遠州天野氏の調略を任されていたが、永禄五年(1562)から飯田城代に任命された秋山に代わったらしい。
以上が『戦国遺文武田氏編』第1巻の複数の書状から推測できます。
(つまり、信玄の方が家康よりも古くから遠江に影響を及ぼす。)

3.川切りについて
結論を先に言われてしまいました。同意しますね。
前回から改めて「川切り」が載っている江戸時代の編纂物を可能な限り読んでみた所、面白い事が分かりました。
『武徳』だけは永禄十一年(1568)2月16日なのですが…
『軍艦』『三河記』『浜松御在城記』など記事の掲載順序から推測するに、
家康が掛川に進出した(同年12月27日)頃に「川切り」の盟約がなされたと解釈できます。
『軍艦』なんかには入山瀬(掛川市…掛川と高天神の中間地点)と場所まで書かれていて、そこで人質交換をしたそうです。
武田側は不明ですが、家康側は前述した松平源三郎らしい。
(つまり、松平源三郎は駿府で信玄に捕まった説。と「川切り」盟約時交換説の2つある事になります。)
これで、「川切り」は出尽しました。恐々謹言。
0282人間七七四年2008/09/25(木) 08:22:04ID:3AU0AhWQ
>>277
土屋弟、曽根内匠、エトセトラ
0283人間七七四年2008/11/13(木) 04:33:43ID:firU6ZsA
上洛軍って一般的に言われてるけど
駿府城奪取後も守りきれないと判断してすぐ引き払うくらいの信玄が
本当に京都まで行くと思ってたとは考えられん
せいぜい尾張と美濃に入って引き返すくらいに考えてた様な希ガス
0284人間七七四年2008/11/13(木) 22:57:54ID:JJnmVpC2
>>283
一回駿河から引いたのは
本格的に駿河を手にする為に北条や上杉などに手を打つ必要が
あったからで、最終的にちゃんと駿河は獲得している。
0285人間七七四年2008/11/14(金) 00:22:47ID:y7zFNMSe
うん、だからそういう判断する信玄が京都までいくとは思えん
0286人間七七四年2008/11/14(金) 00:52:47ID:uCAGuqae
つうか、上洛軍が「史実」なんて言ってる人いるん?
0287人間七七四年2008/11/14(金) 01:29:22ID:GanF1Pa5
とりあえずルイス・フロイスは信玄が上洛してくるだろう事を
非常に恐れて報告書に書いてるな。
書状でも義昭が信玄に天下静謐を求め、信玄もこれにこたえてる。
信玄の胸中はともかく、当時の周囲には「信玄上洛してくるんじゃね?」的な
意識は結構あったみたいだ。
0288人間七七四年2008/11/14(金) 01:31:43ID:uCAGuqae
>>287
それは、ゆくゆくはってことであって、あの行軍において、という限定にはならんのでは?
0289人間七七四年2008/11/21(金) 01:19:56ID:3aH+ejI+
・「川きり」協定に関して話を戻すが
三河物語(だったと思う)に信玄が天竜川以西だけでなく大井川以西まで取りやがってと
憤慨するシーンがあったから本来は天竜川で分ける予定だったが、
武田の苦戦により大井川に変えて遠江を徳川にと変えたと言うのはどうだろう?

武田は事前に天野の調略をしていたし、そう考えると秋山の行動も自然になる
そしてこの考え方だと先に破ったのは家康ということに。

>>281
人質の件は確実ですか、情報ありがとうございます。
しかしこれだと武田に対して徳川が警戒心を抱くのも当然かと思う。

川切は1568年12月27日か、川切の盟約の内容は判りますか?
0290武田竜芳ってどお?2008/11/21(金) 15:46:31ID:G0SrTKHO
>>289さんへ。態々読んでいただきまことに有難う。
>「川きり」協定に関して
私もそう思います。これで一致しましたね。
で、さらに秋山の行動について追加すると…

遠江の見付(現在の「磐田市阿多古山」・中世は「愛宕山」)を徳川よりも先に占領しましたよね? その地は非常に重要なんですよ。
というのは、同地は遠江の国府がある場所であり、同国内で一番、賑やかだったそうです。
(つまり、国府を先に落としたのが、秋山隊になるわけね!!)
そこを徳川軍の先鋒である奥平貞勝(信昌の祖父)・長篠菅沼正貞・田峰菅沼定直?が、秋山隊を攻撃したらしい。
↑これらが発生した月日が、12月12日から17日の間なのです。

そして、家康自身が浜松に入城したのが18日だから、見事に天竜川を挟んで分割していますね。

>川切は1568年12月27日か、川切の盟約の内容は判りますか?
これも次回にカキコします。恐々謹言。
0291人間七七四年2008/11/21(金) 16:42:02ID:6vFUqtWf
織田は畿内制圧と天下を狙ったし、北条だってまだしも関東制覇ってビジョンがあった。
でも武田は無秩序に領土拡大しかしなかったから回りじゅう敵だらけだし、義信が死んじゃうし。
地政学的には武田家は遅かれ早かれ
上杉と戦って日本海に出る、北条と衝突しても関東を制圧、あるいは東海道と上洛狙って織田徳川同盟とぶつかる
の3つしかないんだから、どれか一つだけでも徹底して本腰入れていけば血路は開けたかもしれないのに。

つまりさ、周辺の弱小勢力を潰して武田騎馬隊最強伝説wをつくったのはいいけど
自分より大きい勢力に中途半端に喧嘩売ってただけなんだから、最終的に潰されたのは当然の結果
信玄が戦略家だと思っちゃってると浜松にまで侵入してきた武田は脅威だけど、
織田の視点から武田は大局的な戦略のない局地戦だけ強い集団としてみると
武田の軍事行動の限界も自ずとわかるし、
そんなのがのそのそ出てきたところで台風みたいなもので一時的に被害を受けても脅威にはなれなかったと思うんだ。
0292武田竜芳ってどお?2008/11/21(金) 17:35:07ID:G0SrTKHO
>>291さんへ。つまり信長=曹操。信玄=呂布説!?ってところ?
確かに信玄は、目の前の敵しか見えてないようだね。
諏訪→村上→小笠原→村上→謙信(川中島)→(西上野)→(飛騨)→駿河。以降省略。
とかね。義信死もここに含まれます。

最終的に信玄は、信長・家康攻略のみに絞ってしまい、「遺言」で勝頼に強制し、苦労する羽目になってしまった。
氏康死→氏政、越相→第二次甲相みたいに「柔軟な外交」ができなかったのが、敗因じゃないだろうか?
0293人間七七四年2008/11/21(金) 20:06:24ID:6vFUqtWf
291ですが三国志は昔演義の小説読んだくらいで詳しくないのでよくわかりません。
ただ北条は柔軟な外交という手段を駆使しながら関東制覇という目的はずっと一本通してたでしょ。
でも信玄は目的が無いというか、戦争で勝つという手段の為には目的を選ばずというか。
強引な言い方だけど、戦争で勝ったり勢力を拡大するってのは関東制覇なり畿内の掌握なりの目的の為の手段でしかないと思うわけですよ
あんな中途半端に確かな勝算もなしに織田に喧嘩ふっかけても仕方ない、せっかく昔は友好関係だったのに。
友好関係結ぶくらいだったら最後まで利用して他の目的に注力しろと。
あんな状態で家督譲られても勝頼も困るでしょ。
じりじり徳川領を侵食していっても肝心の織田は大きくなる一方。討つ好機は次元の彼方にさちゃった。

信玄最後の徳川領侵攻なんて要は上杉の関東派兵が北条にとって脅威にならなかったのと同じ。
あんなもん時々来る気まぐれなナマハゲみたいなもんで城の中でやり過ごせばいい。勝手に自滅するし。
せっかく武田は戦闘には強かったのに。やっぱりそれだけじゃ勝てないんですよ。
0294人間七七四年2008/11/21(金) 23:44:16ID:3+RmeAPy
>>291
なんというかお笑いにもならない意見なんだが。
信玄死亡時ではまわりに同盟国がいくつもいるんだが。
周りが敵だらけってどんな冗談。
第一そんな事いったら信長・北条・上杉、全部周囲が敵だらけだが。
しかも対北条戦や上杉戦は信玄の戦略が光ったものなのに何をいってるのか。
最後の武田滅亡は勝頼の失策、長篠と御館が大きいんだが。
>>292
柔軟な外交というか北条と武田では状況が違いすぎるんだが。
>>293
その割には周囲を敵に回されたりくるしんでたかな。
信玄死去の前には包囲網勢と連携して反撃する手筈を構築していたんだがな。
徳川にとって脅威にならなかった?その徳川自身が武田に挑まざるを得ず
大敗を喫してるんだけどな。
0295人間七七四年2008/11/22(土) 19:30:46ID:VX84+8ML
上杉の運の良さに比べると腹が立つほど運が悪いな
0296人間七七四年2008/11/25(火) 01:27:23ID:pHmRp2M1
レス忘れていました。
>>281
>遠江の国人達の行動について、あまりも矛盾した記述が多いので中断しました。
すごいよくわかります、この地域や東美濃奥三河もそうですが、どれを信用すればいいのかと思うことが度々。
>年表(というか日程表)だけは作成したので、公開しても迷惑でないならレス下さい。
是非お願いします。

>>290
逆に見附は徳川方の奥平菅沼らが占拠していたが、
秋山が12月15日にそれを破って占拠したというのも見たことある。

>「川きり」協定に関して
他にも小笠原が武田に合流しようとしたが、徳川へと変えたとかもあり、
もっともこれはこの直前まで見附を保持していたのが秋山だから無理ないか。

また12月23日付信玄の家康あて書状で掛川を囲むように(その時点では既に囲んでいたような)
家康に要請する書状があるが、これも本来は武田が攻める積りだったが、
それが難しくなったので徳川の切り取りを認めたようにも見える。
0297人間七七四年2008/11/28(金) 21:56:49ID:J0jP+ksO
>>294
できるやつが、仕事増やして、こなすなら何も問題はない
出来ないやつが仕事増やして、効率落とすなら問題だ
あいつもしてるからどうとか、そんなの関係なかろう
現状に見合った戦略を策定できないのは無能だ
無能とは言わないか、少なくとも有能ではない
北条やら上杉やらとの戦争で、信玄の光った戦略って具体的に何さ
0298人間七七四年2008/11/28(金) 23:33:53ID:pBU/5Cyx
関東遠征は見事だと思うぜ。
第一次・第二次駿河遠征は北条が競り勝ったけど、
それの打開策としてきっちり機能した訳だしな。
0299人間七七四年2008/11/28(金) 23:55:19ID:7bYhA0+Y
>>297
信玄が効率落としたというなら
その他の大名もしっかり効率落としてる事になる。
第一信玄は実際にその中で見事な戦略をつくり領土を拡大させて百万石以上作ってる。
これで有能でないとか言ったら日本の戦国時代に名将なんかいない。

北条・上杉との戦いで光った信玄の戦略について知らないって
よほど東国の戦国史に詳しくないのか知りたくないのか。
対上杉戦
川中島は有名なので省略。
西上野攻略戦
第4次川中島の後、信玄は北条と連携して謙信が関東遠征で攻略した上野と武蔵北部の獲得を目指す。
信玄は堅城箕輪に依る名門長野一門を中心とした西上野を攻略すべく戦略をめぐらす。
信玄は和田城を調略して箕輪と謙信の直接的な連絡路を切断。
和田に大量の鉄砲を配備する一方で自身も主力を率いて謙信と対峙しその動きをブロック。
さらに北陸一揆・芦名・北条とも連携して謙信の動きを絡め取り、信玄本隊とは別に真田に
別動軍を率いさせて吾妻郡を攻略させる。
そして箕輪周辺の上杉方の城を次々と攻略・調略し1565年には倉加野城を攻略し
箕輪を完全に孤立させる包囲網形成。1566年には満を持して大軍で総攻撃し堅城箕輪攻略。
西上野は武田の手に帰する。
北条戦では>>298の人もいうように関東遠征・北条包囲網・甲越和与などによる
大規模な戦略で北条の動きを絡め取り駿河を攻略。

十分過ぎるほど有能な戦略家といえるだろう。
0300人間七七四年2008/11/29(土) 00:20:39ID:9z7tsKLE
>>297
さすがに信玄が有能じゃないっていうのはないよ。
信玄が対等以上の北条と戦って駿河を得て再同盟するのは2年余り。
他の周囲を敵にした大名と比べても十分成果をあげてるほうだよ。
逆になんで周囲を敵にした他の大名が「できる奴」で
信玄が「できない奴」なのかがわからない。
0301人間七七四年2008/11/29(土) 07:38:31ID:uSLyIPOX
>>298
いきあたりばったり感があったが、まあ結果は出たよな

>>299
他がどうとか関係ないんじゃね?と言っている訳だが
信玄の行動はある程度把握しているが、お前が何を持って「光った」としているのかなぞ、わかるわけなかろう?
支城郡を陥落させ、目標を孤立させ、追い込むって普通の戦略だよな
北条も、織田も、徳川も、毛利、尼子、大内、結構見られるよな
よく見られる戦略が「光った」戦略で、それをすれば名将なのか?
それとも他に解釈の仕方があるのか?
俺の解釈で会ってるなら、まるで日本全国名将の大バーゲンセールだな
北条包囲網は地域的に大規模ってのは理解できるが、関東遠征は違うよな
越後との和睦は政治情勢というか、関係上大規模ってことか?
大規模だから、「光った」戦略なのか?
おまえの「光った」の基準がいまいち分からんのだよ
だから具体的に、何が光った戦略で、どういうものが[光る」要素なのか知りたかったんだが
答えてもらえるかな

>>300
特定の誰かをさして「できるやつ」とは言ってないだろう?
現状を鑑みて、手に余る仕事をしているのは少なくとも有能ではないといっている
結果的に仕事をこなせたとして、仕事に終われたことに変わりはない
0302人間七七四年2008/12/01(月) 22:43:42ID:BE+ndpL4
>>301
優れてるかどうかって他者との相対性って大事だと思うが。
同格以上の上杉相手に分断戦略やって見事に領土拡大したのは見事だと思うが。
他の連中で同格以上にこれやってる例教えてちょ。
ていうかさ、お前はマイナス面は他者との比較は関係ないといって
プラス面は他者の比較をだすわけか?めちゃくちゃすぎだろ。
後、俺は北条・織田・毛利なんかの連中と武田が隔絶してるなんて思ってないがな。
関東遠征もその移動距離や行動・影響からいって十分大規模だな。
越相同盟はその影響や将軍使って大がかりに外交してる所だな。
「光った」ってのはようするにその戦略で優れた効果を生み結果を出したということだ。
実際その結果みれば十分だろ。

>>300に対して云ってる理屈だと日本の戦国時代に有能いないぞ。
2年もしないで大敵から結果をだした信玄でもダメなら。
ここにもこたえてくれや。
0303人間七七四年2008/12/02(火) 17:52:46ID:UZybS+L+
>>301
一つ一つはありふれた手なのに、
その一つ一つ確実に成果を上げて、状況をひっくり返していることが
光った戦略というものだろうに。

というか戦略ってのは一つじゃなくて、すべてが繋がりあっているもの。
どれか一つの要素を取り出して、それが普通とか良い始めるのは戦略というものを理解していない。
0304武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 10:57:15ID:9KZlEmST
1.>>289さんへ。遅くなりました。
(1).『甲陽軍艦』品第三十四「信玄公駿州仕置の事」より
「家康は入山瀬という所に到着して信玄公へ使いを進めて申すには…

『今川氏真が掛川にいます。氏真の事は家康に任せて下さい。
(だから)一緒に攻めて欲しい。信玄公が駿州を支配したいのなら、
その軍事力をもって大井川まで進出し、
遠州一国は家康が手柄次第に切り従わせる。』

と申して来ました。
駿河に差し出していた家康の人質を、
氏真は見捨てて掛川に退却してしまったので、
(信玄は)家康の弟松平源三郎の身柄を確保していたのである。

(それだから)信玄は『(川切りの件は)承知した』と言い、
家康とは問題が起こらなかった。これにより家康は掛川に赴いた。」
-------------------------------------------------------------------
(2).「三河記」中より。こっちは「大日本史料」十之一に掲載してあるので信憑性増し。
(秋山と奥平・菅沼の戦いのあと)家康は浜松を出て、(秋山と)戦う。…中略…
(信玄は)氏真が掛川にいるから、家康と共に(氏真を)攻め討つべく、
大井川を境とし、駿河は信玄、遠江には家康が支配しようと約束した。
(その後)秋山は、…中略…(遠州を撤退し)駿河に入る。

とこんなところです。
0305武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 11:03:41ID:9KZlEmST
>>296さんへ。
1.レス有難う、かつあなたも苦労されたのですね?
情報が混乱しているのは2つ考えられます。
(1).秋山隊の進路と、三方ヶ原戦役で信玄が通ったルートが重なっているので、
  きっと混同しているのでしょうね。
(2).「徳川に忠実であった」と子孫が示したかったのでしょうか?

2.日程表。あくまでも「私見」
永禄十一年(1568)
・2月16日 信玄・家康、共同出兵を約束。互いに誓詞を交わす。
・8月 家康→家臣小笠原貞信ら宛書状(唐津小笠原文書)。
「(信玄に内通している)犬居城主天野藤秀が領内に配っている回文を入手しなさい」

12月12日 信玄、駿河侵入。家康は西から秋山隊2000〜3000は北から遠州侵入。
     家康→遠州井伊谷国人菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時宛起請文写・判物写。
     (「甲州云々」あり。詳細は>>265)
?日 天野藤秀、一方で天方城・遠州飯田城を味方に付け、
(↑これらは犬居⇔掛川へ至る街道上にある城)
他方では秋葉山・光明山・只来城を味方に引き入れて人質を取って秋山隊に渡す。
(↑これらは天竜川沿いにある山、城)
秋山は天竜川に沿って南下し、二俣城に入る。

?日 秋山、徳川方の久能城(袋井市)主久能宗能を攻撃するも失敗。
?日 秋山、見付を占領し、阿多古山(愛宕山)に陣する。
(磐田市見付…ここには遠江の国府があり、商工業の盛んな町だった。)
?日 徳川先陣の奥平・長篠菅沼・田峰菅沼が、秋山隊を攻撃するも敗退。
18日 家康(つまり徳川本軍)、浜松入城。

20日 家康→匂坂(さきさか、現磐田市、豊田町)城主匂坂吉政宛判物。
   所領790貫文安堵。
   (これ以降の家康書状から「甲州云々」がなくなる。詳細は>>265)
21日 家康→久野宗能宛判物。所領2500貫文安堵。
23日 信玄→家康宛書状。「掛川城攻撃を要請」詳細は>>205
?日 大井川を境に駿河を信玄、遠江を家康が支配することを取り決める?
   『軍艦』『三河記』

?日 家康、天竜川を渡る。秋山、遠江の占領地と人質を家康に渡して信州または駿河に後退か?内容は>>253
26日 家康→鵜殿氏長ら宛起請文写&判物写2通
   「鵜殿らに二俣城の守備を任せる&本領安堵する」
27日 徳川軍、掛川城包囲す。
28日 家康→久野千菊丸(宗能の子。家康の人質になっていた)宛判物。本領加増。
29日 氏真→天野藤秀宛感状。朝比奈泰朝→天野藤秀宛副状(天野文書)。
   (天野、秋山と縁を切り今川に属す?)

永禄十二年(1569)
1月2日 家康→天野藤秀宛判物写『遠江国風土記伝巻八』。
    内容は所領500貫文安堵。(天野、家康に付く?)
8日 信玄→家康宛書状写。
「信玄の思う所を使者の口上にて…秋山撤退するから掛川を早々落城させてほしい」
9日 信玄→信長宛書状。
「信長と家康が(信玄に)疑心を抱いているから、(信玄は掛川城攻撃に参加せずに)遠慮して、未だ駿府に滞在中」
16日 家康、掛川城の北の天王山に布陣する。
とこんな所です。
0306武田竜芳ってどお?2008/12/15(月) 11:08:36ID:9KZlEmST
>>294さんへ。
>柔軟な外交というか北条と武田では状況が違いすぎるんだが。
簡潔な説明、宜敷お願いします。

とりあえず浅はかな知識から「柔軟な外交」を考えてみたよ!
(1).条件としては…2つ
@松姫と信忠を結婚させる。
A勝長を返還する。もしくは新しい盟約のため人質生活継続。

(2).時期としては…2つ
>>251>>255-257>>261-264さんが詳しく状況説明しているので…
私の説明はカットね。

@三方ヶ原の勝利(1572年12月22日)ののち信玄・信長は和睦する。
すると勝頼は、信長・氏政と盟約がある状態で家督を嗣ぐ事が可能?

A信玄死後、信長と和睦。(1573年4月12日)
勝頼は、本願寺と縁がないから手切れも可能じゃない?
仲介役は京在住の信虎さん。
0307人間七七四年2009/01/22(木) 23:41:41ID:pYtbfwKj
最近ちょっと調べたら
1572年以降も北条は駿河に定書などの行政文書残していた
再同盟後も駿河の一部は北条領だったのか?
0308人間七七四年2009/01/23(金) 00:24:36ID:T5FbHfDS
そう。

再同盟に臨んで領土調整が行われてる。
簡単に言えば、駿河(黄瀬川・狩野川以西)は武田のもの、武蔵は北条のもの。
両家とも、当該地域にあった城を相手に明け渡してる。

逆に言えば、黄瀬川・狩野川以東の駿河は北条領として残った。
沼津の大平山のあたりなんかが北条領として残った駿河。
0309人間七七四年2009/01/23(金) 00:30:59ID:RnnB3OUU
おお素早いレスthx
0310人間七七四年2009/01/25(日) 06:00:56ID:O+4kYq6E
岩村攻略が最大のやらかしだったな。
あれさえなきゃ信玄の死後和睦できたと思う。
0311人間七七四年2009/01/25(日) 11:52:39ID:3ajEAuGb
>>310
長篠後にも、一度織田から打診がなかったっけ?アレはただの俗説?
0312人間七七四年2009/01/25(日) 11:53:35ID:3ajEAuGb
とりあえず、岩村を攻略していないと、木曽がもっと早々に寝返った可能性もある気がする。
0313人間七七四年2009/01/25(日) 20:33:51ID:L+CM4vsg
どうなんだろ、自分は一次史料ではまだ確認できていない。
0314人間七七四年2009/01/29(木) 23:05:11ID:Xu4nWvL8
遠江小山城について簡単に調べると1570年以前に武田が領有し、それを徳川が攻防の末1570年に取り戻したように書かれているが、
これは合っているのでしょうか?
0315人間七七四年2009/01/29(木) 23:21:01ID:JYXbsnEv
1578年武田築城、1582年徳川奪還→廃城では?
0316人間七七四年2009/01/29(木) 23:24:44ID:JYXbsnEv
失礼、その以前か、1570年は。
1570年以前が武田、1570年に徳川、翌年に再び武田、その後改築、1582年炎上、徳川へかな?
0317人間七七四年2009/01/29(木) 23:34:17ID:Xu4nWvL8
やはりそんな感じか。
この辺が原因で武田と徳川は結局戦うことになったのかな。
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