武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2008/02/11(月) 21:26:56ID:XqRbQ7KP0002人間七七四年
2008/02/11(月) 21:33:45ID:nYfTnegi武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153644378/
0003人間七七四年
2008/02/11(月) 21:34:12ID:ZEMIL4xO, -イ。弋ソ__ 二ミヽ/\ 人
_//> ´ ̄  ̄  ̄ ̄¨ヽ、 `Y´
/\// \ ',
/| fV/ ノ\. | _!_
/ |_∨ / / / / ヽ. ! | | | !
| / | /,.⊥L / r十|ト!、| ! | :
|{ !ィ爪 ∨\ ! _」_// / 人リ ;
!ヘ ヽ ヽ| V,ィ≠ト ヽ ! {f イ|∨/ \ +
| \| \__∨|{__,イ}. 弋rリ イ ヽ :
/ ! \弋_rり  ̄::: { } | ;
/ , { \::::: ` 人. //|.| _!_
|/| | ハ ヽ r _ア , イ // リ i >>1スレ立てお疲れ様でした
|! | ト、 ト、 > 、 _ ィi | /!/
\! メ::::\!\ }ー-rく{ } | |-- 、__
 ̄ >ー-へ |_::| |:: :||:::!\从::::::::::::ヽ
人 /::::::::::::::::::∨:::r----r‐rr‐<_::::ヽ::::::::\ 人
`Y´ /:::::::::::::::::::::::::::::::rニニ /.// / ハ:::!::::\:::::∧ `Y´
|:::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽこ/ノ _____ ! | :::::::::::::::::::::!
|:::::::::::::::::::::!:::::::::::::::/::|‐彳―、}./\:::::::::::::::::::|
_!_ .|:::!:::::::::::::::::!:::::::::/::::::::| !: : :ノ//∧__:::::::::::::!
! |::::|::::::::::::::::!:::::/::::::::/|ヽ  ̄_人/ ∨\::::::\
|::::!\:::::::::!/:::::::::/ | | ヘ ∨ |::}::::::::!
|:::::!::::::::::::/::::::::::::/\. | | ! } ∨:/:\:}
|:::::!::::::::::/::::::::::::/ ∨ | 人. | ∨:::::::::\
0004人間七七四年
2008/02/11(月) 22:49:14ID:U1wmpqoM0005人間七七四年
2008/02/12(火) 04:23:46ID:VUdrewOBつか武田家いくらなんでも弱すぎ=簡単に滅びすぎ
信忠が有能だったからなんだろうけどな
0006人間七七四年
2008/02/12(火) 04:55:56ID:Gwu62lrb30 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/07/23(日) 23:34:28 ID:Sr9fEDKH
>>28
実はそれは信玄の遺言らしいよ。
信玄が上杉と同盟しろと息子の勝頼に言ったそうだ。
0007人間七七四年
2008/02/12(火) 07:32:21ID:nrix+xtlあの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。
どう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
0008人間七七四年
2008/02/12(火) 12:48:26ID:GTLHdq5n>信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
後半は同意するとしても前半は無理ないか?信玄はかなり前から病を患っていた
といわれてる。それをなんとか押して上洛に出たんだろ。
信玄が死んだ後、強大になった織田が武田家を放っておいてくれるとは思えんし
健康が悪い事を承知で勝負に出たんだろ。健康管理だけの問題ではないと思うぞ。
>今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
家康にとらてしまっている三河を分割する案さえ跳ね除けられてるのに。
それと三国同盟が結ばれたのは信玄がまだ信濃もとってない頃だと思うが。
予言者じゃないんだから10数年先の義元敗死から今川との関係悪化までの
流れを全部読みきって事前に手を打っておくのは無理と思うが。
特に義元敗死はどの大名にとっても意外な事態だったろうし。
後、当時の武田にとって今川との同盟関係をさらに強固にしておく事は重要で
その意味で義信の妻が今川から来たのは無理が無い事だと思うが。
>義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
勝頼陣代説だが、これは一次資料の裏づけがないそうだぞ。
>四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
代が変われば若い家臣が側近となるのは結構よくある事だぞ。
>本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
信玄の時代に本拠を諏訪に移すべきだったというがいつごろ移すべきだったと思うんだ?
武田家は甲府に根付いた名門だし、甲府は要地だ。そんな簡単には移れまい。
それに北条や今川との戦いではむしろ甲斐が本拠でよかった面もあるだろう。
それから道についてだが、戦国時代道を整備するのはリスクを伴う事だし、
信玄は信濃を通るに当たって棒道を良く使ったとも言われる。
道のことを考えなかったわけじゃあるまい。それから新府城は壬午軍乱のとき
徳川家康が本陣としているし、戦略上無駄な地ではなかったようだぞ。
>四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました
小山田や穴山はもともと一つの勢力としてやってきた歴史がある。
信玄以前の武田家の拡張においてその傘下に入った。(建前は同盟関係。実際は違うが)
彼らにとって武田家の傘下に入ったのが生き残りの選択だったように
織田に寝返ったのもそうだったんだろう。それは戦国の数多の豪族の行動原理でもある。
全体的に後付の論理が多くないかな?滅亡原因うんぬんでいったら信長や秀吉も
そうなってしまう。ただ勝頼はよくやったほうだと思う。それでも長篠等の
いくつかの失点はある。全てを信玄のせいにするのもどうかな、と思うよ。
0009人間七七四年
2008/02/12(火) 12:50:02ID:GTLHdq5n信忠って武田攻めでは高遠以外でろくに戦ってないじゃん。
織田・北条・徳川に圧倒的な大軍で攻められて戦う前から武田家は自壊してたし。
0010人間七七四年
2008/02/12(火) 17:30:32ID:VUdrewOBそこは信忠が優秀だったから仕方なかった、と思いたいんだよね、武田スキーとしては
つか三者から攻められて逃げ場なかったのも信玄の負の遺産だし
謙信は、信玄が死んだら早速のように信長に「一緒に武田を滅ぼしましょう」なんて持ちかけてるし…
今川北条との同盟を残した信虎とはえらい違いだね
信玄と勝頼を比較した場合、軍事では勝頼に軍配が上がっても、総合力では信玄が上なんだろうが
それでも上二人より信虎の方が遥かに優秀だったんではないか、と思うよ
0011人間七七四年
2008/02/12(火) 18:33:13ID:t3KcpVEu織田にとって武田は徳川や北条と勝手に戦ってくれれば別に問題ないし、
当時の武田もワザワザ織田に攻撃を仕掛ける程の余裕は無かった。
それなら武田が崩壊するの待った方が得策。
実際木曽謀反の知らせを受けて武田征伐が決まったし。
0012人間七七四年
2008/02/12(火) 19:47:16ID:OQZCsEiL最後の段階で北条が敵に回っていたのは、さすがに勝頼の責任でしょう。
信玄は少なくとも北条との関係改善はやってから死んでいるのだから。
0013人間七七四年
2008/02/12(火) 21:44:15ID:GTLHdq5n>>12の人も言ってるけど信玄は北条との関係はちゃんと改善して同盟を残してる。
武田は北条の対上杉に協力し、北条は三方ヶ原において武田に援軍も出してくれてる関係。
時々信玄死亡時に北条と敵対してたかのように言う人がいるのがなぜなのか非常に不思議だ。
勝頼が北条の方にも戦いを広げた結果1582年の時点で武田は疲弊しきってた状態だし。
これで織田・徳川・北条に攻められたのでは自壊もやむないよ。
あと信虎は最後まで北条とは同盟してないよ。
信虎が残したのは今川と同盟して北条を牽制する路線。
北条との同盟が結ばれ今川・北条・武田の三国同盟が結ばれるのは信玄の代において
河東一乱において今川と北条の戦いを信玄が仲介する事をきっかけとする。
0015人間七七四年
2008/02/12(火) 21:55:41ID:GTLHdq5n確か武田の西上野の重要拠点である箕輪城は2月の段階で北条に攻略されてたはずでは。
勝頼滅亡は3月11日。
0016人間七七四年
2008/02/12(火) 21:59:46ID:ldrStON7攻城戦はなかったのでは?
0017人間七七四年
2008/02/12(火) 22:03:14ID:GTLHdq5n>>14のいうように陣を張ったまま動いてないという事はないのでは。
0018人間七七四年
2008/02/12(火) 23:48:17ID:aXHMNhhq0019人間七七四年
2008/02/13(水) 09:14:51ID:zZgZWKeV時日も1582年2月で織田・徳川の侵攻と同時期。
勝頼が滅ぶのは3月11日。
0020人間七七四年
2008/02/13(水) 17:29:03ID:wMMMhloD逆に駿河方面は結構城を落としている。
>>14の言うようなのは俗説にすぎない、信長だって駿河方面の働きに関しては認めている。
上野方面は、滝川の関東入部の為にあえて何も言わなかった可能性があるとおもう。
0021人間七七四年
2008/02/14(木) 03:31:53ID:cOeulvQFこんな方法いくらでもあると思うけど
0022人間七七四年
2008/02/14(木) 12:41:48ID:ZuMqmjoE・彼我によほど大きな差がある、乃至は事前に戦で大勝してかなわないと認識させている。
・時間をいくらかけてもいい。
・他国からの介入はほぼ考えなくてよい。
のなら、方法はいくらでもあるだろうけどな。
0023人間七七四年
2008/02/14(木) 17:07:07ID:sKvpu2lw0024人間七七四年
2008/02/14(木) 17:39:37ID:+yaj6Hdy義信の子(産まれたら)を今川の当主にすれば乗っ取りは可能だけど、
北条が氏真を担いだら史実とあんまり変わらないだろう。
0025人間七七四年
2008/02/14(木) 22:11:11ID:POKPCVYr徐々に取り込んでいって
0026人間七七四年
2008/02/14(木) 22:28:34ID:QfgnhrV8どうやって?
他家である武田家に実験を握ろうとされて今川がはいそうですかとはいわんでしょ。
この場合でもまず一合戦して実力差を見せ付けるなり相手の抵抗力をそぐなりしないと。
>>25
信玄が三河攻め持ちかけた時の今川の返答によると
織田と同盟してる武田なんか今川にしてみると半分敵だそうです。
家臣を自由にする権利なんかくれそうにない。
0027人間七七四年
2008/02/14(木) 23:01:32ID:qkrHDVGP実際は家臣団が武田の調略にあってまともに抵抗できなかったんだろう氏真。
他家とはいえ義信の嫁が義元の娘。
もちろん義信が死んでいなく親父の戦略に賛成したら乗っ取りも可能だけど、
義信を殺して嫁を駿河に返した時点で絶縁したのだからその手は使えない。
0028人間七七四年
2008/02/14(木) 23:25:46ID:2Rt9Rbq4バブルの崩壊は長篠だと思っている。
滅亡は運が悪かっただけ。
今の日本の借金だらけは田中角栄のせいだーに似てる気もする。
解説は↓
0029人間七七四年
2008/02/14(木) 23:40:00ID:2Rt9Rbq4信玄の西上作戦は朝倉義景の撤退により事実上の破綻をきたしていた。
おかげで2万の兵を信長が動員する事が可能になって徳川軍との
挟撃が可能になった。でも家康が(その当時はトンパチで有名)が
先制攻撃を仕掛けたせいで、各個撃破するチャンスを信玄に与えて
しまったと思う。三方ヶ原の勝利という会心の一撃で
武田バブルの始まり。でもそれが武田強しを武田家内外にしめした
ことで常に戦い勝つ事を勝頼に要求されたのかもね。
ぶっちゃけ信長包囲網がない場合に織田全勢力vs武田全勢力で
戦っても武田は勝てなかったと思うし。三方ヶ原の時こそ絶好の
タイミングだと思う。(でも志賀の陣の時の方が信長は追い込まれていたが)
長篠の時は越前と琵琶湖を掌握してるから更に信長は強くなってるし。
0030人間七七四年
2008/02/14(木) 23:52:49ID:2Rt9Rbq4明智城攻め、高天神城攻め、そして長篠城攻めと。
万を越える軍事活動をしたのも。武田家内での
自分の支持を高める為、また勝ちつづける事でしか生きていけない
武田家の方針。(また敗北は自身の支持を落すことになりかねない。)
それによって内政が疲弊したとしても。(信玄時代から重税で
西上作戦の頃には破綻寸前というか破綻したという説も)
でバブルが弾けた長篠にしても設楽ヶ原に誘い込むかのように
弱い事を信長は風潮してまわって。長篠は織田・徳川の
鶴翼の陣で柵を構えたように言われてるけど。
実際は、徳川軍主体で、織田の援軍数千が設楽ヶ原にいて
織田の主力のほとんどは後方で待機。(長篠自体が8時間の長丁場なので)
織田の本体が前線の部隊に”補給”もしくは”後詰め”する
ような形で圧倒した。で勝頼はまけるべくしてまけた。
0031人間七七四年
2008/02/14(木) 23:57:52ID:qkrHDVGP0032人間七七四年
2008/02/14(木) 23:59:18ID:2Rt9Rbq4改革として新府城と新しい城下町を建設した。
幸い、信長自身は武田領にさほど関心が無かったので
(美濃・遠江の緒城以外は)攻めてくる心配はなかった。
滅亡の原因は不運な謙信の死と木曽氏の反乱。
0033人間七七四年
2008/02/15(金) 00:00:31ID:2Rt9Rbq4あと長篠の戦い=ミッドウェー海戦にもよく似てる。
ウィキでミッドウェー海戦について調べたら経緯とかもよく似てるし。
0034人間七七四年
2008/02/15(金) 00:02:49ID:3y7OEbtb↓
クーデターを起こさせ氏真を暗殺させる
↓
武田が犯人を正規の合戦で倒す
↓
今川家は武田の物
0035人間七七四年
2008/02/15(金) 00:14:41ID:aCw5qiNw北条の存在がある以上そんな簡単にクーデターで氏真を倒せるだろうか。
武田家とのつながりで重臣がクーデターを起こしたのだとしたらうまくいっても
やっぱり北条の動きが問題になりそうな気がする。
0037人間七七四年
2008/02/15(金) 10:10:52ID:wUwaQZpQ軍資金の捻出にかなり苦労してたはず
0038人間七七四年
2008/02/16(土) 04:29:42ID:SK3vBEXcバブル=経済が好景気
という意味ではないこの場合。
少なくとも三方ヶ原の勝利の時点で武田の(強さの)株がうなぎ上りに
なって、長篠前夜までに(信長の陽動で、”武田強いよー恐いよー”
的な事を触れ回ってたせいもあるけど)強さのバブルに
関しては現在に誇張されるくらいまで高かった。
経済が貧困だったのは言うまでもないが。
(なにせ、北条領から出ていって戻ってくる奴はいるけど、
武田領から出ていって戻ってきた奴を見た事無いといわれる
くらい重税かつ過酷といわれてたが)
長篠前夜までの武田家は
勝ちつづける
↓
戦い続ける
↓
多くの金がいる
という悪循環で経済が疲弊してたし、長篠でバブルが弾けて
結局、勝頼は内政重視に方向転換せざるをえなかった。
この悪しき悪循環を作った張本人は信玄であり。
信玄の頃は領土と広げる事で金を得ていたが、
勝頼の頃はある程度大きな大名が周辺諸国を平定してて
(大きないくさをして勝たない限り)大きく領土を広げれない
状況だったのも事実。
0039人間七七四年
2008/02/16(土) 17:31:34ID:RcM1PeQ3↓
金を得るために戦争
↓
戦争のために金が必要
0040人間七七四年
2008/02/17(日) 04:24:05ID:A8MdP0rD0041人間七七四年
2008/02/17(日) 04:27:39ID:A8MdP0rD今川の時と同じく奪えば良かったのに。
0042人間七七四年
2008/02/17(日) 17:35:20ID:a4466s/u信玄と手を組んで強大な織田軍団に歯向かったところで勝てる訳がない
事実、家康は信長に逆らわぬまま生き残り、信玄は単独で家康を潰すことも出来ずに寿命が来て死亡
0043人間七七四年
2008/02/17(日) 23:28:00ID:JHe/Lfzc武田と同盟して今川を挟み撃ちにして潰したのが1568年
この1568年までに徳川は同盟しているはずの武田から攻撃を受けたりもしていて
武田が信用に値しない事が今川滅亡までに分かっていたはず。
武田との同盟は、武田側から反故にされている状態なのでありえない。
一方、織田はその前年に斉藤家を滅ぼして拠点を岐阜に移したが、
織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している。
今川が滅亡した年には足利義昭を奉じて上洛しているが
この時点で「織田は強大で勝てるわけがない」と思うわけがないw
0044人間七七四年
2008/02/17(日) 23:44:01ID:3yJKopT3もちろん家康が織田と運命を共にする必要はないが、
「武田と織田どちらを選んでも苦労します、しかしどちらかと手を組まねばなりません。さあどっち」
と言われれば織田を選ぶだろ、手前勝手な協約違反を犯されている家康にしてみれば。
遠江の協約違反は、信玄にとっても勝頼にとっても高くついたかと。
0045人間七七四年
2008/02/18(月) 00:43:01ID:p5snrVmlそんでその後に家康は上杉と対武田で手を結ぶ。
そんで武田は1571年に駿河の戦況が一段落したら徳川領土に進撃して各地を
攻略する。1572年が西上。
家康にしても西が織田家である以上、いづれは武田の敵と結んで武田を攻めたような
気がしなくもない。家康にしてみれば領土拡大を目指そうとすれば西が織田である以上
東の武田を攻めるしか領土拡大の道がないわけで。
0046人間七七四年
2008/02/18(月) 10:42:59ID:UFtsMm6L実力だけで見るなら武田と結んで織田領侵攻の可能性もあったんだろう。
上洛前の織田は武田と比べてまだ新興勢力だし、石高もそれほど違わない。
それでも武田と敵対してしまったのは武田家の行動に対して不信感を抱いてるからだろう。
0047人間七七四年
2008/02/18(月) 17:43:23ID:h8baApBq織田は美濃攻めで10年も足踏みしてたからね。
この時期徳川は織田とも武田とも組んでいたわけだけど
今川が消滅した時点で織田が美濃を平定していなくて上洛もしていなかったら
例え不信感があったとしても、織田を捨てて武田と組まざるをえないかも知れない。
織田がいいタイミングで勢力を伸ばしてくれたので武田を捨てる事が出来て
結果として徳川にとっても良い選択になったね。
0048人間七七四年
2008/02/18(月) 18:03:53ID:UFtsMm6L織田、徳川を後詰め北条を倒して関東を手に入れたら例え織田が大きくなっても関東+甲信駿なら十分対抗できるし、
謙信が死んだあと織田と挟み撃ちすれば越後越中まで手に入る。
欲を出して上洛したのが間違いだったな。
0049人間七七四年
2008/02/18(月) 20:00:16ID:u919jZC1>織田が美濃を切り取るまでは石高や領土は徳川が一時的に織田を追い越している
いったい、いつのことですか?
清洲同盟締結時は信長は尾張ほぼ一国。家康はいうまでもない。
その後家康が三河を統一したのは66年(ただし水野氏など織田領もあるので完全とは?)
その頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。
もう一度お聞きしましょう。いったいいつ、徳川の領土が織田を上回ったんですか?
>>47
>美濃攻めで10年も足踏みしてたからね
誤解というか、知らないで言っているのか。
信長が本格的に美濃攻略を始めたのは1561年から。そして67年には美濃全土征服完了。
どのような特殊な数え方をすれば10年になるんですか?
もう一つ指摘すると、美濃に関して信長はずっと苦戦していて最後に稲葉山を攻略
して征服したと思われているが事実は違う。61年の開始以降、東でも西でも少しずつ
侵略を進めて、67年にはもう斉藤氏は美濃中央部をなんとか保っているというくらい
押し込まれていた。途中からは北伊勢と同時侵攻を始める始末。67年の稲葉山開城は、
最後のトドメというくらいのもの。
0050人間七七四年
2008/02/18(月) 23:58:17ID:ykieHPLsその頃の信長は尾張はもちろん東美濃の諸豪族を降して支配。さらに67年には美濃全土
そして北伊勢まで納める。家康は三河一国のまま。家康がようやく他国に手を伸ばす
のは68年。
このウソ凄い
0051人間七七四年
2008/02/18(月) 23:58:26ID:p5snrVml信玄が駿河侵攻を開始したのは1568年12月。
信長が上洛開始したのは1568年9月。
というか既に武田領内への塩止めを行い上杉とも結んでいる今川を放置しておくわけにも
いかない。
この時期の武田は織田領国への侵攻というのは考えられる状況じゃない。
>>48
その徳川が上杉と結んで武田に敵対しているからこそ武田も北条戦の間隙をぬって
徳川領土に侵攻したわけで。
そして徳川と戦うという事は織田との戦いも意味するわけで。
0052人間七七四年
2008/02/19(火) 03:55:53ID:s2dD6kQD嘘?水野氏は村木救援などでわかるように、桶狭間以前から織田方。家康
との仲介を務めたあとも明らかに織田に従っている。
尾張については、推定で64年9月頃に犬山を攻略して完全支配。
美濃では64年に鵜沼城、猿啄城を落とし、65年には加治田城が調略で降服。
さらに堂洞城を落とす。
自分は何も提示せず根拠もあげずに人の発言を嘘よばわり。最低の態度ですね。
0053人間七七四年
2008/02/19(火) 06:49:28ID:VXhfmrikだから織田徳川と敵対せずに東に行けばいい話じゃないの?
あわよくばと思って徳川に手を出して、さらにその後ろの織田にも手を出したのが致命的。
領土拡大以外に明確な戦略がなく、海を手に入れても無節操に外征しまくったのが一番の失敗。
0054人間七七四年
2008/02/19(火) 11:03:24ID:hAaU+bw7だからあわよくばじゃないんだってば。
北条との戦いに集中するには後ろの徳川を一発ぶちかましておかないと
背後をつかれる。徳川攻めにもちゃんとした理由があった。
第一畿内の反織田勢はそろそろ危なくなってきたから信玄が東を攻めている間に
信長に畿内の覇権を確立されちゃどうしようもない。
実際信玄病死後に反織田勢がつぎつぎとつぶされていったのを見れば明らかだろう。
だから北条とはほどほどのところで和睦して西へ向かった。
0055人間七七四年
2008/02/19(火) 11:40:24ID:g5xc3ABiぶちかますも何も、徳川とは同盟してた。
駿河は武田、遠江は徳川という取り決めもあったが、
武田が先に破った。
時間軸を見直せ。
0056人間七七四年
2008/02/19(火) 20:00:26ID:hAaU+bw7だから、その時に信玄は家康に注意されたらさっさと兵を引いてるんだよ。
そっちこそ時間軸を見直せ。そんで信長にも家康に遠慮して遠江以降には入らないと
言っている。
その後で家康が上杉と対武田で同盟を結んだから信玄は北条攻めの間隙をぬって
徳川領土侵攻をせざるをえなかったんだよ。
0057人間七七四年
2008/02/19(火) 20:10:27ID:chl55akr家康にとっては約束破って進入してきた武田に対する策として上杉と盟約を結ぶのは当然の行動だろ。
そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない。
一度約束を破ってるのだから両者間に緊張の糸が張り詰めるのは当然の事で、
約束を破られた相手が対抗処置を取るのもまた当然。
時が経てば緊張が和らぐ可能性もあるのに再び武田側から約束をぶち破るとか・・・
徳川が対武田の策を練ってきたから以前に最初武田が約束違反をしたのが最大の問題だろ。
0058人間七七四年
2008/02/19(火) 21:41:53ID:hAaU+bw7>>そして上杉と盟約を結んだからといって徳川側から武田領への侵攻は一切ない
上杉と徳川の同盟は1570年10月8日。秋山の遠江侵入が正月。
この間に詫びも入れたけど徳川は上杉と対武田の同盟を結び敵となる道を選んだ。
そして1571年に駿河攻略がひと段落した後の徳川攻めが1571年2月から。
北条との戦いに忙しい信玄としてはそんな悠長に待っているわけにはいかん。
駿河がひと段落した間隙をぬって徳川に一発ぶちかましていくつもの城を攻略し徳川軍にも打撃を与え
山家三方衆なども服属させてその力を削いだ。これによって徳川の動きを封じることが出来た。
絶縁し上杉と対武田の同盟を結んだ時点で家康は武田に対する敵対意思を表明したようなもの。
これを放置して北条との戦いに集中してる間に背後をつかれる危険性は放置するには大きすぎる。
0059人間七七四年
2008/02/19(火) 22:50:37ID:VXhfmrikだから同盟結んでるのに侵入した時点で下心見え見えだろう。
信玄も徳川と同盟を結んだものの、本心は徳川が今川で手こずってる間に駿河と遠江の大部分を
頂くつもりだからわざわざ氏真を遠江へ追い出したが、まさか徳川があんなに早く遠江を平定する
とは思ってなかったから、ちょっかいを出して邪魔してみたんだろう。
家康も馬鹿じゃないから、信玄の狙いはわかったらすぐ手を打って背後の上杉と結んだんだろう。
先に侵入しといて「徳川の脅威」とか吹聴するなんてどっかの覇権国かよ。
0060人間七七四年
2008/02/19(火) 23:17:11ID:hAaU+bw7だから、結局その後で謝って兵を引いたし弁明もした。
すぐというが時間軸は秋山遠江進入が1568年12月18日。
信玄が徳川に謝るのはこの1568年12月23日。
徳川と上杉の同盟は1570年10月8日だぞ。
この間に信玄は北条と対峙して戦い、一回甲斐に戻って小田原を攻め、さらには駿河を
攻撃したりして目まぐるしく戦っている。秋山進入からすぐに徳川と上杉の同盟が結ばれたと思っているなら
それは間違いだ。さらにこの間の1569年4月24日に信玄が一端駿河から撤退すると
5月17日には今川氏真に対して
(武田領国である)駿河に戻してあげるから掛川城明け渡して、という交渉を行って開城させている。
信玄が北条との対戦にかかりきりになっている情勢を自分の勢力拡大に都合よく利用しようという意思は
家康からも十分見て取れる。
1570年10月における徳川上杉同盟は武田が情勢を挽回して駿河を再び手中にしつつある状況を鑑みて
1569年5月17日における自身の行動も鑑みての行動と考えたほうがわかりやすいだろう。
0061人間七七四年
2008/02/19(火) 23:45:29ID:VXhfmrik人のレスを読め。
侵入したことによって不信感を抱かせてしまったんだろう。
配下の雑兵が迷い込んだならともかく、武田家の重臣が一軍を率いて堂々と侵入した。
いくら謝ろうがこんな行動ができるのは信玄の指示なしにはできない、と思われるのは当たり前。
んなソ連軍や中国人民解放軍並みの言い訳を100%信用するほど戦国の世は甘くないよ。
だから家康も上杉と結ぶ決断をしたんだろう。
とにかく人のレスをしっかり読んでくれ。
0062人間七七四年
2008/02/19(火) 23:52:14ID:wbl0iydE信玄の場合は義信が駿河侵略の障害になったという”大義名分”があるけど。
家康の場合は、単にむかついたから信康を殺したという説が
近年有力なんだが。(信長が命令というのが通説だったけど、
この事実を隠す為に誤魔化した可能性があるんだが)
0063人間七七四年
2008/02/19(火) 23:52:27ID:hAaU+bw7だからそっちも人のレスをしっかり読んでくれ。
家康は上杉と結ぶ前に、武田が駿河から一端撤退したのを見て
今川氏真に武田の取り分であるはずの駿河にもどしてあげるから
掛川城を渡せ、という交渉を行って開城させているんだよ。
これも立派な背信行為でなくてなんだという。
それで武田が情勢を挽回して駿河をほぼ手中にしそうだから自身の背信行為も踏まえ、
さらなる勢力拡大の為に上杉と手を結んだと>>60には書いてある。
>>60には時間軸もあるからちゃんと見てくれ。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています