トップページsengoku
1001コメント404KB

【毘】上杉家を語る 九【義】

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001上杉家家臣団2007/09/25(火) 13:02:12ID:lfB128VT
越後の龍、軍神、稀代の戦上手。
義に篤く、戦国の雄として全国にその名を轟かせた上杉謙信。
謙信の跡を継ぎ、初代米沢藩主として、十三代茂憲に至るまでの
礎を築きあげた寡黙の名将、上杉景勝。
その右腕として後世に名高い、名宰相・直江兼続など……
上杉家について、様々な家臣や一族について語りましょう。

・楽しく使ってね
・仲良く使ってね
・変なレスは華麗に無視&必要なら削除依頼。
・過去スレ・関連スレは>>2-8
0008上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:47:34ID:xWEiFe1U
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]
0009上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:48:10ID:xWEiFe1U
             (
         ,,        )      )
         ゙ミ;;;;;,_           (
          ミ;;;;;;;;、;:..,,.,,,,,
          i;i;i;i; '',',;^′..ヽ
          ゙ゞy、、;:..、)  }
           .¨.、,_,,、_,,r_,ノ′
         /;:;":;.:;";i; '',',;;;_~;;;′.ヽ
        ゙{y、、;:...:,:.:.、;:..:,:.:. ._  、}
        ".¨ー=v ''‐ .:v、,,、_,r_,ノ′
       /;i;i; '',',;;;_~⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′..ヽ 
       ゙{y、、;:...:,:.:.、;、;:.:,:.:. ._  .、)  、}
       ".¨ー=v ''‐ .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′
      /i;i; '',',;;;_~υ⌒¨;;;;;;;;ヾ.ミ゙´゙^′.ソ.ヽ
      ゙{y、、;:..ゞ.:,:.:.、;:.ミ.:,:.:. ._υ゚o,,'.、)  、}
      ヾ,,..;::;;;::,;,::;):;:;:; .:v、冫_._ .、,_,,、_,,r_,ノ′
        , '     / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
       , '     / zェ:、、,_   _,,、」,
      /      /.          |
.    / ./    /  ヾニo=  .i =e/
   /  /     /         l   |
  /  ./     ./      ィ   ,l  .!
/   /     /,..     r'`ニニヽ,  .l'、
.   , '      / l;;;ヽ  ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
.  ,.'      /. ヾ;;;;`‐、';:;:;:;`;;;;';;;';";;/  l ヽ、_
、. f.-、     /ヽ  `':、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン  |  | ト、
. ヽ,i'" `'i:、  .∧ ヽ    `''''ーァ'7"   l   l |  \
     | ` '  ヽ ヽ     , ' ,:'    /   | |
0010上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:48:48ID:xWEiFe1U
上杉謙信は関東地方に略奪が目的でやって来る。義で行動しているわけではない。

藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、

上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、
晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。

明らかに戦いには季節性がある。

冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に
とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。

農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を
超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても
何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
0011上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:49:19ID:xWEiFe1U
【大河対決】
武田信玄
初回視聴率42.5(歴代1位)
最高視聴率49.2(歴代2位)
平均39.2(歴代2位)

天と地と
初回視聴率23.5
最高視聴率32.4
平均25.0(大河史上初めて裏番組に惨敗)
0012上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:50:34ID:xWEiFe1U
上杉信者の特徴

●とにかく気が小さい。
●いきなり発狂をしてコピペを張りまくる
●ストレスを溜め込んでは、キレて関係ない人間を巻き添えにしようとしてシカトされる
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にする
●他人の忠告を受け入れない、反省できない、学習能力がない(自分の筋を無理にでも通そうと自演するため)
●「常識、常識」と口うるさいが、実は上杉厨の常識はピントがズレまくっている(上杉厨の常識は世界の非常識)
●アラ探しのつもりができない。的外れ。ゲームでしか信玄の事を知らない
●ネガティブ思考のため、根が暗く執着心が強くうっとうしい
●一人では何もできない。ので自演。
●自分が多数派であるように自演。少数派をと決め付け馬鹿にしようとするも相手にされない
●武田様が他人からどう見られているか、武田様をいつも気にしている
●武田信者を増やそうと、いつも周りに熱弁をふるっている。
●友達がいない
●仕事もない
●夜中に起き朝に寝る。
●自分の感情をコントロールできない。コミュニケーション能力がない
●頑固で馬鹿。
●上杉信者以外を信じられず、疑い深い
●執念深くしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人にひたすら厳しい。そして気付いていない
●要するにキチガイ
0013上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:54:40ID:xWEiFe1U
【この板で荒らし行為を続けるキモヲタ上杉厨の正体】


     川川川川川 プーソ
     川-◎ ◎|
  __川∴) 3(∴)_   <http://images.uncyc.org/ja/6/69/Chr10.jpg
 /  ∴  ゝ ── '∴ ヽ  http://www.psy-plus.net/cgi-diary/data/thumbnail/1204-1.jpg
/ ∴ ,ィ -っ、 ∴ ∴   ヽケケ、ケ、謙信タン萌え萌えなんだな〜
|  / 、__ う 人  ・ ,.y  i 謙信タンはボクの嫁なんだな〜
|    /        ̄ |  | 
ヽ、__ノ  謙信命    ノ  ノ  プーン
  |      x    9  /  プーン
   |   ヽ、_  _,ノ 彡イ
   |   ( || )  | 
        ()
0014上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:55:10ID:xWEiFe1U
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
0015上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:55:42ID:xWEiFe1U
ゴミ大名上杉の輝かしい戦歴
・戦で信玄に大勝しながらも信濃を失うという前代未聞な成果を残す(実質領土を取られた謙信の負けw
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせずw憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・結局北条に関東のほとんどを奪われる。関東管領の権威を地の底にまで下げ、面目丸つぶれにさせる
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくて惨めにトボトボ逃げ帰る。憂さ晴らしに強姦略奪を繰り返す
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その北条にも同盟破棄されるみじめっぷり
・醜い跡取り争いの御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったとお得意の捏造)
・己の愚かさから関ケ原の戦いを引き起こしてしまい、おまけに負け組へ。戦後領土を大きく減らされる
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
0016上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:56:13ID:xWEiFe1U
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
 http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg
・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外

【戦国板荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
0017上杉家家臣団2007/09/25(火) 18:56:43ID:xWEiFe1U
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。

なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。

完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています