北条高広
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0001人間七七四年
2007/09/13(木) 19:25:52ID:0lLKBmx90002人間七七四年
2007/09/13(木) 19:32:07ID:0lLKBmx9http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
始めは後北条家の一族と思ってました。
同名の息子がいたり、かなり紛らわしい。
0003人間七七四年
2007/09/13(木) 19:35:43ID:3bMixeeZ謙信が死んだ時には入道してたりする。
0004人間七七四年
2007/09/13(木) 19:59:58ID:x1I+EIv1きたじょうだお
0005奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/14(金) 00:06:22ID:HFlojYUs0006人間七七四年
2007/09/14(金) 10:08:34ID:wVv8aCO70007人間七七四年
2007/09/14(金) 10:37:44ID:PtguZ9jR河内国で若き楠木正成を教育してたと言う伝説あるね。
その後に南北朝の争乱で河内を捨てて安芸国にいき毛利氏になったみたいな。
武田一族も安芸守護になったり上総の武田信長が有名だったり若狭にもいたりするね。
大内や山名、大友とかみたいに集中せずに領土がエラい飛び地っぷりだよな。
もっとも山名を追討した後の大内氏も最盛期には和泉・紀伊にも領土があって堺に要塞を築き拠点にし幕府軍を引きつけておいて、軍船で尼崎に迂回上陸して京を目指して義満と決戦しようとしたがな。
0008奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/15(土) 00:46:41ID:/rZNVvQa0009人間七七四年
2007/09/15(土) 21:36:47ID:nPIu6dOW0010人間七七四年
2007/09/16(日) 08:07:41ID:StMlEpz40011人間七七四年
2007/09/21(金) 21:04:28ID:tMhKN3ks0012人間七七四年
2007/09/26(水) 20:42:46ID:TzqV0ahw0013奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
2007/09/26(水) 23:15:28ID:K2tf9PUC0014人間七七四年
2007/09/30(日) 14:04:09ID:G6ovF6FR近くを走る信越線から見ると結構北条城って急峻だよ。
築城技術とか詳しくないからよくわからないけど、
要害と言って差し支えないんじゃないかと思う。
ちなみに近くの斎藤朝信の赤田城はゆるやかな山地にある。
宇佐美爺の枇杷島城はいわずもがな。
0015人間七七四年
2007/09/30(日) 21:55:58ID:CMrEB1+jさらに天正11年には北条に厩橋城を包囲され、援軍も来ずについに開城…
ちょっと晩年がかわいそうな北条どののその後をご存知な方はいらっしゃいますか?
0016北条景広ってどう?
2007/10/05(金) 16:07:39ID:t7yZekRjよかったら、詳しいリポート頼みます!!
(レスが埋まるでしょ?)
<<15
確か、息子の大胡城に移ったはずだよ!! 北条に憚って「毛利」と改姓したとか…
天正十五年に厩橋八幡宮に納めた永代守護不入の書状を最期に消息は途絶えている。
001714
2007/10/06(土) 08:38:04ID:FvOyBRTU下から見るとなかなか急斜面に見えますが、実際はそれほどでもw夏は虫や蛇が多いんでご注意。
枇杷島城跡は現在農業高校になっていて入ったことないです。
赤田城跡までの道はなだらかで、近所の老人たちのよいトレッキングコースになっていて、
私もガキの頃よく祖父とともに歩いた記憶があります。
そのあたりは謙信公の時代に造られた道が今でも使われていて、
斎藤朝信の奉行としての手腕を垣間見ることができますよ。
あと、北条毛利とお隣の安田毛利は仲が悪かったことで知られてますが、
今でも北条地区と安田地区のあいだにははっきりと境界線がひかれてる感じがしますw
仲が悪いと言うのは聞いたことありませんが。
・・・ちなみに、あくまで私の知るうちでの北条出身の人は
「体育に優れ頭も悪くないけど、少しこずるいところがある」ってイメージですw
高広のDNAは脈々と受け継がれているのかもしれませんw
安田は最近他所から来た人が多く、なんともいえないです。
柏崎市には他に上条氏の本拠なんかもありますが、こっちの方はちょっとよく知らないです。
というかこんな狭いエリアでよく群雄割拠してたもんだなとwww
なんかあんまり高広に関係ない長文ですいません。
0018北条景広ってどお?
2007/10/25(木) 16:53:43ID:fVSf5oBBふつといてレス遅くなってゴメン
赤田城は本で見るととても規模が大きいんですね!! さすがは謙信・景勝の重臣だけはあります。
北条城は中規模、安田城は小規模っていったところかな?
柏崎市は、御舘の乱の舞台の1つになったから見所の廃城がいっぱいあってうらやましいw
0019人間七七四年
2007/11/01(木) 23:59:40ID:TRIoT7oM独自性が強い越後北部の「揚北衆」(色部・新発田・水原・黒川)や「本庄家」のネタもここでしない?
0020北条景広ってどお?
2007/11/04(日) 10:55:24ID:C1Quhhcp私はあまり知らないので…まず、自分から語ってください。
0021人間七七四年
2007/11/04(日) 11:37:26ID:gnRPU3QQつか3年くらい前に新発田城を見に行ってきたが城の半分が自衛隊に取られてた…しかし珍しいシャチハタ3つの天守閣が見れて満足。
さらに村上城に行こうとしたら大雨で電車がこれ以上北上できませんって不通になったから仕方なく会津若松へ行きました。新津から会津への電車の車窓からの眺めは美しいの一言!だがあまりの難路と距離の長さに驚きました。
会津芦名と上杉が大規模な抗争をしない理由がわかった気がします。
長岡藩が会津に撤退した退却路ってどんな道を通ったんだろ…
0022北条景広ってどお?
2007/11/04(日) 16:30:00ID:C1Quhhcpマナーに反すること以外とか面白ければいいんじゃないかな?
じゃあ、本庄氏の財源。
↓結局【謙信最強】を認めざるをえないpart2 に書き込んだレスの縮小版から
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193474540/240#tag240
3.金山
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
後に秀吉は景勝を会津へ転封させたが、その理由の一つにはこれら越後金山の利権獲得のためとも言われる。
甲斐に浅野長政が入ったように…
0023人間七七四年
2007/11/04(日) 20:52:05ID:WkBYT9yG揚北衆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E5%8C%97%E8%A1%86
中条藤資は天文の乱では稙宗寄りだったのかな?
0024人間七七四年
2007/11/04(日) 23:12:01ID:yLneJk+0ただ芦名の重鎮金上盛備が津川城(新潟県側)の城主だったから、芦名も上杉にちょっかい出すときは金上を向かわせてるよね。
地理的に金上しか動かせないってのが大きかったか。
0025人間七七四年
2007/11/04(日) 23:25:35ID:yLneJk+0稙宗寄りとして、朝日山脈に隔てられた越後から何をやってたのか気になるw
0026人間七七四年
2007/11/05(月) 01:48:45ID:L9Xmwziuhttp://curry.2ch.net/warhis/kako/1012/10128/1012826251.html
0027人間七七四年
2007/11/05(月) 02:44:09ID:So3n89gJ伊達領の越境攪乱や、蘆名を牽制とかでは。
0028北条幻庵ってどお?
2007/11/13(火) 15:50:36ID:LxIdph34プラス赤谷城主の小田切さんも葦名の一族として金上と行動を共にしたらしい
>>23
どうもありがとう。
名前は知っているんだが、二次元的にだれがどこにいたのか? 地図で把握できなかったw
0029人間七七四年
2007/11/13(火) 19:34:57ID:Zc4JB4r+赤谷っていうと昔鉱山があった所。そんなとこにも芦名一族がいたとは。
芦名の勢力圏は朝日山脈沿いに及んでいたのかな。
というか新発田城と結構距離近い・・・
阿賀北衆の本拠は大体どこもJR羽越線沿いと思ってればよいかと。
0030北条景広ってどお?
2007/11/20(火) 17:25:29ID:njHasSBNレスありがとう!!
金上・小田切ペアは、新発田重家の乱とか、本庄繁長の乱なんかにちょっかい出してるよね。
0031人間七七四年
2007/12/06(木) 13:50:41ID:k2WZqGT40032人間七七四年
2007/12/11(火) 02:10:08ID:RSjL6H4Q0034人間七七四年
2008/01/15(火) 17:06:32ID:pO0cY4FS0035人間七七四年
2008/01/16(水) 21:29:08ID:2uF8aKQ30036人間七七四年
2008/01/23(水) 16:25:18ID:d/QAOI0N0037人間七七四年
2008/01/25(金) 14:44:01ID:jeH+jl4M0038関連スレ
2008/01/26(土) 21:12:43ID:gqN2C7dshttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1201348770/
0039人間七七四年
2008/01/29(火) 16:58:08ID:Zc8TIMOF0040人間七七四年
2008/01/29(火) 21:51:33ID:pYNe/BTJ日本中で日常的に起こっていた事で何も越後だけが多いわけじゃないんだよ。
全国的な統計で見れば越後はむしろ忠臣揃いといえるほど裏切り頻度は少ない。
一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
0041奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/.
2008/01/29(火) 22:33:17ID:veUeS50rそれはさておき両属とか複数に本領安堵されるとか普通なのにな。
一主一従(んな語句ないけど)なんてほうが珍しいよな。
0042人間七七四年
2008/01/29(火) 22:41:23ID:MqUzN7cM0044人間七七四年
2008/02/01(金) 18:04:08ID:suPpzYW5その、越後の武将は忠臣が多いってのを
上杉家は裏切りが多いって言ってる人達相手に使いたいんだけど、
一般武将がどういう武将かはっきりしてないとなあ…
0045人間七七四年
2008/02/03(日) 22:07:43ID:/qex3ojv晩ご飯の米が足りなくなったら借りにいけるくらい。
0046人間七七四年
2008/02/18(月) 16:52:58ID:QQoFmhHK平治物語や平家物語にはあるらしいが。
0047人間七七四年
2008/02/19(火) 18:19:12ID:4jSrI5wLttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%BF%94%E3%82%8A%E5%BF%A0&dtype=0&dname=0ss&stype=0&pagenume=1
北条は上杉の家臣じゃないから、裏切りや謀反って感じがあまりしない。
0048人間七七四年
2008/02/20(水) 20:18:45ID:mnP8FXgl>一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
>越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
ネタじゃないならソースが欲しいな。
ネタとしてはすばらしくおもしろい。
0049人間七七四年
2008/02/20(水) 22:44:18ID:iSvIkYff0050人間七七四年
2008/02/21(木) 00:23:05ID:aPauSJwQだいたいあってるようだ。これから他の国も調べてみる。
0051人間七七四年
2008/02/21(木) 00:46:35ID:XtZ+GKWl0052人間七七四年
2008/02/21(木) 15:03:32ID:zQEZzTIS越後ではのべ1.2人、重複を除くと0.7人である。
尚、独立した場合は0として算出していることをお断りしておく。
0053人間七七四年
2008/02/21(木) 21:31:52ID:XtZ+GKWl織田の場合は誰が裏切ったとカウントしてんの?
0054人間七七四年
2008/02/21(木) 22:51:14ID:ynVqvfZoつられんなww
0055人間七七四年
2008/03/07(金) 14:25:49ID:Miu05pdc0056人間七七四年
2008/03/09(日) 19:07:16ID:ywOKQjoS家臣じゃないから、独自行動もあるでよ。
0057人間七七四年
2008/03/16(日) 17:11:01ID:JTdrurWp0058人間七七四年
2008/03/22(土) 13:46:14ID:7GGqYE/m喜多条
0059人間七七四年
2008/03/22(土) 15:19:16ID:NOWxRqtU0060人間七七四年
2008/03/27(木) 01:08:58ID:afBvL1c+0061人間七七四年
2008/03/30(日) 20:52:33ID:unSXTwNb0062人間七七四年
2008/04/11(金) 16:20:42ID:9JoSNciM0063人間七七四年
2008/04/13(日) 12:06:14ID:ZkohYG6Z天文二十四年の善根での騒乱は北条高広が武田に通じて起こったのではありません。
根拠とされる越佐史料の武田晴信書状が、新潟県史編纂時の原本調査で"信玄"と
署名されていることが判明したからです。御存知の通り武田晴信が信玄と名乗るのは永禄期であるので、
安田氏宛の文書で確認される騒乱と、北条高広が信玄と内通していたことを示す書状とは結びつかないのです。
へぇ。そうだったんですか?
貴公の私見でもいいので…
詳しく教えてくださいね。
0065人間七七四年
2008/04/15(火) 15:04:06ID:3EgX0dMJこれはやばいと考えて拠点に逃げ帰り、篭城して武田などの周辺勢力に、
手当たり次第に助けを求めただけでしょ。
殺害理由は川中島に関する論争かも。
0067人間七七四年
2008/04/15(火) 17:42:56ID:3EgX0dMJ0069人間七七四年
2008/04/15(火) 21:10:10ID:jfMPzNEc【毘】上杉家を、普通に語りましょう。【毘】
http://curry.2ch.net/warhis/kako/1013/10136/1013659467.html
> 522 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:54
> あと、北条高広が何度も謀反したという定説についてですが、最初の
> 天文23年(1554)12月の謀反というのはどうも怪しいんです。ちょっと
> 煩雑ですが詳しく述べますと……。
>
> この謀反は「越佐史料」が最初に書いたようで、花ヶ前先生が何度も
> 書かれて(笑)定着しましたが、根拠となる史料は、一つは天文24年
> 2月3日に本庄宗緩(実乃)ら3人が安田景元に対して出した起請文
> です。これは「今度、善根(ぜごん)の一件で(殿が)出陣されたが、あ
> なた(安田景元)は、(敵が自分の)骨肉であるにもかかわらず、殿に
> 異心なく働くと誓われた。われわれも決して景元父子を見放すような
> ことはしないことを神に誓う」というもの。
> この史料からは、善根という場所で何かあったこと、そこで景虎に攻
> められたのは安田景元の一族だったことはわかりますが、北条高広
> かどうかはわかりません。
>
> もう一つの史料は、書状なので年が書かれていませんが、某年12月
> 5日付けの武田晴信書状(北条丹後守あて)で、これに「先日聞いた
> 話が事実なら大慶です」とか書いてあるので、越佐史料編者はこれを
> 上の起請文と結びつけて、天文23年12月の北条高広謀反説を立てた
> ようです。しかし「先日の話」が何かは書いてないので、そもそも根拠
> が薄い議論ではあります。
0070人間七七四年
2008/04/15(火) 21:10:52ID:jfMPzNEc> (つづき)
> ところが、この12月5日の晴信書状は、まったく同文のものが茨城県
> 江口氏所蔵北条文書という史料の中にあって、「柏崎市史資料集」
> に収録されていますが(306号)、それは差出人が「信玄」なのです。
> 天文23年にはまだ晴信は信玄と名のっていませんから、この書状を
> 天文23年に当てるのは間違い。
>
> では、はじめの史料(善根うんぬんの史料)だけで北条高広の謀反
> が言えるかというと、これは疑わしい。善根(ぜごん)というのは柏崎
> 市の南の方にある八石山(はちこくさん)という山の麓にある地名で、
> ここに善根城という城がありました。
> しかしこの城主は北条高広ではなく、地元の伝説では毛利大万助
> (だいまんのすけ)という城主で、北条丹後守の謀略で滅ぼされたと
> されています。
> この伝説は全部真実ではないかもしれませんが、景虎が出陣した善
> 根の一件と関係があるなら、北条丹後守ではなく一族の毛利某が
> 討たれたとみるべきでしょう。
>
> なお「柏崎市史」では、この理由からだと思いますが、天文23年の高
> 広謀反説は無視しています。
0071人間七七四年
2008/04/15(火) 21:19:11ID:jfMPzNEc> なお、それなら武田信玄書状はいつ頃のものかというのははっきり
> しませんが、信玄時代なら、北条高広が厩橋城代になってからのこ
> とではないでしょうか。謀反であるかどうかも書状だけからは断定で
> きませんが、厩橋城代になったあとで一時高広が謙信に背いたのは
> 事実なので、そのときのものかもしれません。
―ここまでコピペ―
>>68
偽書じゃなくて今まで写しでしか伝わっていなかった書状の原本が見つかっただけ。
で、写しには差出人の花押しか記されていなかったのが、原本では花押に加えて「信玄」という
署名がされていたので年次比定が間違っていることが分かったと。
あと上記の柏崎市史資料集306号信玄書状は新潟県史研究No.20の資料編補遺が初出だと思われる。
その信玄書状ってこれのこと?
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。
今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。
(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」と書いていますし…
0073人間七七四年
2008/04/21(月) 15:39:36ID:gc8cG2mxそれで合ってると思います。
ちなみに善根の武将ですが、延徳年間の上杉家臣に毛利左近将監定広という人がいるので、
安田らに鎮圧された同族はこの人の子孫である可能性が高いかと…
0074人間七七四年
2008/04/21(月) 16:00:41ID:gc8cG2mx延徳年間に毛利定広が善根を拠点にしていることが分かる、という意味です。
誤解を招きそうだったので一応…。
大いに、感服させられましたよ。ありがとう。
4: 武田家滅亡の原因は100%信玄が作ってる件その2 スレッドでも言いましたが
「定説・通説だけど…云々ですね」
0076人間七七四年
2008/05/08(木) 17:21:06ID:hS7Dp1Tk0077人間七七四年
2008/05/22(木) 16:02:46ID:+coJM8/y0078人間七七四年
2008/05/27(火) 21:45:05ID:OeWbcPMJ毎度帰順を許してる謙信公も相当懐が広いというか・・・。
0079(´ω`)
2008/05/28(水) 11:37:11ID:/5R7Ij1u「安田」清広─広春─景元─顕元
‖
「北条」輔広=広春=高定┬高広┬景広
‖ | ├高広(毛利弥五郎。高明?)
「石曾根」……………高定| └高繁(常陸介、大胡を継ぐ)
└高政(長門守)
・広春は元々安田の庶子で北条を継いだが、安田のほうが何かの事情で
継ぐ人がいなくなってしまったので、同時に安田も継いだ?
・ところがその広春も子供ひとりしかいなかったので、それには安田を継がせ、
北条の方には石曾根の高定を連れて来て養子にした?(高定は『前橋八幡宮文書』の
寄進状によると北条下総守を名乗っていたらしいから、多分北条は高定から継いでいたと思われる)
・北条一族には安芸入道芳林よりやや年下と思われる「長門守」という人物がいて、
これは芳林の弟の高政か?
・芳林と同名の毛利弥五郎高広はひょっとしたら高明とも名乗っていたのかもしれん。
・大胡常陸守(常陸介)高繁は芳林の実子か養子か判らんが、とにかく大胡を継いだ。
この人物はことによると上泉家ともつながりがある、というのは考えすぎか。
0080人間七七四年
2008/05/28(水) 11:44:39ID:raNCxgOR0081人間七七四年
2008/05/28(水) 13:41:49ID:+c/Yl1qxありがとう
北条毛利と安田毛利の関係はややこしいから
前からちゃんとした家系図を見たいと思ってた
しかし天文23年に(北条高広ではないと判明した)反乱を起こした
善根城の毛利大万助って家系図に入ってこないのかな?
0082人間七七四年@全板トナメ開催中
2008/06/01(日) 16:44:55ID:kXO0d6TJ0083人間七七四年
2008/06/16(月) 15:50:23ID:uQWzF3dG0084人間七七四年
2008/06/17(火) 18:48:37ID:n+2pPeWW0085人間七七四年
2008/06/18(水) 02:21:54ID:CeN6lpHi北条長門守って年齢推定可能な史料あったんだ?
御館の乱関係の書状に出てくるのは知ってるが、
年齢は全然わかんなかった。
確か景勝方だったよね、長門守って。
0086人間七七四年
2008/07/01(火) 15:37:19ID:rFmHc+Uuそのようだね
0087関連スレ
2008/07/08(火) 18:01:26ID:KYDHlyUShttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1212960019/
0088人間七七四年
2008/07/21(月) 01:55:08ID:M7s7e505謙信は人がいいのか、2度の謀反後も信頼して、上野の豪族・膳氏の嫡男を高広の猶子にさせたり、能登畠山の娘を北条家に嫁がせたりしているww
0089人間七七四年
2008/07/21(月) 08:27:30ID:aSQLRV1Zでも厩橋の変節は通常万死に値する離反だよなあ。
なんでこの人の権力基盤を固めてあげたんだろうかw
0090人間七七四年
2008/09/22(月) 02:23:55ID:MrbdWPug0091人間七七四年
2008/09/22(月) 20:58:42ID:eqgTdBmZ0092人間七七四年
2008/09/23(火) 08:34:39ID:S+6vd7k7上条政繁はジョウジョウ・マサシゲです。
ややこしいので気をつけてね。
0093人間七七四年
2008/10/31(金) 02:39:18ID:M6kU6haT0094人間七七四年
2008/10/31(金) 16:01:20ID:oJ+eKhH70095人間七七四年
2008/11/04(火) 17:54:14ID:+QYdGzY30096人間七七四年
2008/11/05(水) 15:16:38ID:EKyM3Sxd0097人間七七四年
2008/11/05(水) 15:23:57ID:U2FBkY26バカ花なんとかの二回も謀反したとする誤解釈が原因です。
0098人間七七四年
2008/11/05(水) 18:43:52ID:YdiYHQ7S0099人間七七四年
2008/11/05(水) 20:10:56ID:EKyM3Sxd>>98
近衛の小説でも、その説がばっちり採用されてたなw
彼のブレーンの一人が、バカヶ前だからw
0101人間七七四年
2008/11/06(木) 17:11:27ID:ZM6rgdeiそれ以来北条家では旗指物をなるべく小さくすることが通例になった。
現存する最小のものでは縦10センチ、横3センチのものがある。
0102人間七七四年
2008/11/07(金) 00:36:42ID:FX8C+lOB近衛はゴミ作家だな。
上杉小説=駄作の方式を一人で作り続けているし、
ブレーンが鈴木と花ヶ前。
おまけに藤木の馬鹿な略奪説も宣伝してくれるw
景虎バンザイ、柿崎は暗殺、景勝は不義。
本当はこいつアンチ上杉なんじゃないのか。
0103人間七七四年
2008/11/07(金) 02:48:01ID:Mrq955uY0105人間七七四年
2008/11/12(水) 14:09:00ID:BY3kUQVqそこまで小さいとわざわざ旗にする必要がないな。鎧に縫い込んどけばいい。
もっとも何のための旗印がわからなくなるがw
0106人間七七四年
2008/12/20(土) 06:07:15ID:RDeJ9R0C0107人間七七四年
2008/12/20(土) 19:36:13ID:5rIRrehf0109人間七七四年
2008/12/21(日) 18:49:58ID:U630CgxYそれって息子の方だよな?
本人は景勝に降伏してなかったか?逃走、行方知れずだっけ?
0111人間七七四年
2009/01/05(月) 13:49:49ID:0JMxWMQb普通に謙信と越後から山を越えようとしてたんだが。
0114人間七七四年
2009/01/06(火) 10:17:45ID:bq5iE+tI晴家が出てきてるし。
0115人間七七四年
2009/01/06(火) 11:59:59ID:HpHqfNAU強引に解釈しようぜ。
つまり「輝虎に出兵を願いに直々に春日山に出向いていた」んだよ。
実際彼の妻子は越後に住んでいるわけだから不具合はない。
でも関東じゃなくて信濃に出兵していたのは内緒。
0116人間七七四年
2009/01/07(水) 03:29:11ID:6E2KQ0Hx0117人間七七四年
2009/01/11(日) 20:21:46ID:e8OLAmg2越後に米が実りやすいって…
新潟が米どころになったのは
江戸後期か近代以降だろ
0118人間七七四年
2009/01/11(日) 21:23:35ID:KznFccTs0119人間七七四年
2009/01/11(日) 21:53:45ID:yZTOqLPZ北条高広に言われたくねーよwと思った。
0120人間七七四年
2009/01/11(日) 22:41:57ID:tpMFOEfdなってなかったか良いんじゃねw
0121焼肉ぷらす
2009/01/12(月) 00:10:23ID:xDj11ck8大河の根は国粋を突き詰めると気が保たない。
0122人間七七四年
2009/01/12(月) 10:35:14ID:SfYeKiOvすっかり親北条になってた部下達に怒鳴られる高広w
0123人間七七四年
2009/01/12(月) 18:36:53ID:mtiKVRQg大河の謙信は参勤交代を先取りしていたと。
0125人間七七四年
2009/01/13(火) 12:22:28ID:sIVlkQMh高広の場合、代官としてじゃなくて領主として配置されているからねえw
0126人間七七四年
2009/01/13(火) 13:30:20ID:h1YHRuep0127人間七七四年
2009/01/13(火) 16:49:55ID:QnBe+mu3ただ真冬に春日山は・・・。 まあ正月の挨拶に強行軍で来たついでの絵と補完するか
謙信は質素を好み正月の飾りつけなど無用という方針で・・・
どうでもいいか
0128人間七七四年
2009/01/14(水) 11:22:56ID:NqeT6Bq6春日山へ行って状況を確認してたんじゃね
ついでに下野常陸への次の軍事侵攻の打ち合わせ会議やってさ
0129人間七七四年
2009/01/18(日) 23:39:25ID:p3u1XQJU天正元年の台詞
「武田の謀略にはこれまで何度煮え湯を飲まされたことか!」
おまえがいうな!ww
そして景勝に苦手な舞を求めて辱める高広様。兼続がフォローすると楽しんでるから悪意はないんでしょーけどw
0130人間七七四年
2009/01/20(火) 21:27:09ID:KkamAb6S0131人間七七四年
2009/02/23(月) 00:11:06ID:Llfqiti60132人間七七四年
2009/03/02(月) 00:18:34ID:7nMMPmKm脚本家先生は北条高広をどうしたいんだ
0133人間七七四年
2009/03/14(土) 16:20:49ID:wXc1E6jvまた高広は永禄12年の時点で、後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
0134人間七七四年
2009/03/14(土) 17:44:22ID:FCZxWl5/0135人間七七四年
2009/03/14(土) 21:18:12ID:MNV0EDsg0136人間七七四年
2009/03/14(土) 22:01:42ID:krhi297p→天地人
0137人間七七四年
2009/03/16(月) 01:24:04ID:56a8xbpNあのドラマの酷さ見てると、あえてそうした訳でもなく、
ただ高広と景広の名前を間違っちゃったんだと思う。
0138人間七七四年
2009/03/16(月) 06:25:48ID:lBaXjWHC0139人間七七四年
2009/03/18(水) 17:35:03ID:xvw/cipy0140人間七七四年
2009/03/27(金) 16:36:57ID:10j5sGY4高広じゃなくても良さそうだし。
景広でも上杉景信でも本庄秀綱でも良さそう。
0141人間七七四年
2009/03/29(日) 20:26:10ID:cGXHCm+S上杉家臣団の構成ってもっと複雑だったらしいし、
わかりやすく描こうと思うと薄っぺらくなるし。
御館の乱の戦後処理とかどう描く?
でも、もう見る気無いけどねw
0142人間七七四年
2009/04/06(月) 04:31:30ID:9jQZf/wZ0143人間七七四年
2009/04/06(月) 09:47:56ID:1HY6wbEt景家じゃなくて柿崎晴家の方を謙信時代から出してるんだから
北条も景広って名前にしておきゃ良かったのにな。
0144人間七七四年
2009/04/18(土) 13:25:53ID:wjpyccR60145人間七七四年
2009/04/18(土) 13:31:08ID:m7nqNKSr雪に埋もれてるだけで、助けられて武田に仕えるんだよ
0146人間七七四年
2009/04/28(火) 10:57:32ID:xldE4vME> http://j.orz.hm/?up2.viploader.net/pic3/src/vl2_126082.jpg>
> 先日所要で柏崎方面を通りかかった時に発見。思わず撮ってしまった
> 大河ではあんな扱いだったけど旗までつくってもらえてよかったねキタジョウさん
0147人間七七四年
2009/08/02(日) 01:25:32ID:I5Hb0fij0148人間七七四年
2009/08/05(水) 00:20:56ID:DqHWIW+6北条弥五郎景広と輩行・諱が被ってる。
しかも北条は謙信から畠山の未亡人を押し付けられるし。
何か関係が…?
高広は御館の乱後も生存したと言われるが、
同名の息子の事だという説もあるらしいな。
0149人間七七四年
2009/08/08(土) 12:19:27ID:S64ivuT40150人間七七四年
2009/08/19(水) 19:54:37ID:XbPehCDQ0151人間七七四年
2009/12/07(月) 18:31:59ID:06GQaX7a0152人間七七四年
2010/02/09(火) 17:12:47ID:UkjmigEO0154人間七七四年
2010/12/03(金) 11:50:29ID:ylZ22B4W生死不詳が一番悲しい。
0155人間七七四年
2011/04/07(木) 21:18:35.43ID:dwsIqdhk0156人間七七四年
2011/04/08(金) 17:46:31.34ID:gyxviYdZ後北条に寝返った時は喜多条に改名させられたらしいけど
0157人間七七四年
2011/07/26(火) 02:37:08.83ID:lD8x2lvT0158人間七七四年
2011/07/26(火) 06:08:13.85ID:6IVfYKnS■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています