秀吉は無能な武将
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0001人間七七四年
2007/09/09(日) 10:25:10ID:Lq1A531Y織田の家臣時代華々しい武功を挙げて異常な出世ができたのも、竹中や黒田などの智謀を備えた参謀の存在や秀長の補佐のお陰。
豊臣政権初期から、軍事や政務を秀長や利休にまる投げし、その後は三成ら吏僚グループに遠隔操作され、彼らの政策を後負い追認するだけ。
秀吉が小田原征伐に出張ったのも、秀長が病の床に伏していたからにすぎない。
天下を取ってからは贅沢と女色に溺れ、堕落した生活に埋没。
一人も参謀や軍師を必要とせず、清貧な日常を送った天才信長と比べれば、その能力と品格の差は月とスッポンだ。
0042人間七七四年
2007/10/03(水) 13:40:22ID:fQYLNZA2信長は神をも凌ぐ世界史上最高の天才
世界を見渡しても対抗できるのは、せいぜい曹操、カエサル、ナポレオンがいるぐらい。
本能寺で倒れさえしなければ、中国、東南アジア、インドまで征服し、
モンゴル帝国以来の巨大な信長帝国が出現していた可能性が高い。
それだけの基盤を受け継ぎながら、朝鮮ごときでしくじった秀吉は、
無能と言うほかない。
0043人間七七四年
2007/10/03(水) 14:30:37ID:2nM/KvSZ>>42天下人の3人でいえば、抜群に織田が優れてるが、軍人としては上杉謙信の足元にも及ばんだろ。
実際ボロ負けしてるしねww
0044人間七七四年
2007/10/03(水) 14:53:47ID:mbWFGTd4読解力皆無?
0045人間七七四年
2007/10/03(水) 15:21:33ID:k/Oa6n8Y秀吉は無能だった
秀吉に敗れた明智、柴田、長宗我部、島津、北条も無能だった
秀吉に屈した徳川、伊達、上杉、毛利も無能だった
秀吉に出世で追い抜かれた前田も無能だった
秀吉を重用した信長も無能だった
信長に敗れた斉藤、浅井、朝倉、本願寺、三好、武田も無能だった
彼ら武家の顔色を伺いながら生きた商人、公家、宣教師、坊主も無能だった
彼らの馬鹿げた戦いに狩り出された農民達は救いようがないほど無能だった
そして、その子孫である我々もたぶん無能者なのだろう
0048人間七七四年
2007/10/04(木) 05:10:52ID:dEa8sicu言いたいことは分かったが
お前の言う孤高の天才織田信長はなんで無能な秀吉を重宝したんだよ
0049人間七七四年
2007/10/04(木) 05:36:34ID:OO6Q/mYG大信長帝国として発展するはずだったのに、
無能な秀吉が跡を継いだばかりに、全部潰されてしまった。
信長は日本を世界初の近代国家へ脱皮させるはずだったのに、
秀吉はその先進的な国家構想を全く理解できていなかった。
0050人間七七四年
2007/10/04(木) 10:49:07ID:+lgPTnPT暴君信長帝国として歴史におぞましい記録を残す可能性があった。
良心の発露による明智の勇気ある行動によって、その危機が免れ、
秀吉が天下を統一し、織田家支配を封印した。
その後を継いだ徳川の鎖国政策によって、
西洋列強の日本支配という魔の手を逃れ、日本独自の文化が隆盛した。
兵器を交えず、戦争のない平和な時代が250年以上続いた。
これは世界的に見ても驚異的なことである。
これをパックス徳川(徳川の平和)と言う。
0051人間七七四年
2007/10/04(木) 11:05:53ID:jHVkgeaJ0052人間七七四年
2007/10/04(木) 11:45:36ID:ZNZJxHjB本能寺で倒れなくたってあんなに謀反がある政権なんて信長の死後ボロボロだろ
0054人間774年
2007/10/04(木) 18:33:22ID:7MNzLNBO無能。無能。って言うが、少なくとも歴史上に有名な武将は有能だと信じるよ
0055人間七七四年
2007/10/04(木) 19:16:59ID:NbOTDVLB身体が資本だから健康管理を気をつけるのは戦国大名の基本、別に信長じゃなくてもしてる。
まぁ農民出の秀吉は権力握ってからは贅沢三昧やりたい放題だが。
0056人間七七四年
2007/10/04(木) 22:17:46ID:dJ0JqKbE結構贅沢もしているし、意外に女漁りも盛んだったり。
だいたい20人以上子がいるんだし。
信長はイメージでかなり得をしている。
0057人間七七四年
2007/10/05(金) 02:07:50ID:FZlRW+XI>少なくとも歴史上に有名な武将は有能だと信じるよ
歴史上有名だが、明らかに無能な武将
⇒朝倉義景、小早川秀秋、福島正則等々
0058人間七七四年
2007/10/05(金) 13:02:04ID:CXrmHSJ/(サン・フェリーペ号乗員の話)
「国王は征服しようと思う国にまず宣教師を送り込む。
そして住民の一部を改宗させるや否や次に軍隊を送り込み、改宗者と合同して易々と征服」
一向宗より遥かにタチが悪い。
秀吉はバテレン神父追放令を出し、
使節団を通じてポルトガル国王へ日本が神道と仏教の国であることを説明して、
宣教師のキリスト布教活動を批判している。
当時の国際状況を鑑みると、秀吉は結構有能だろ?
0059人間七七四年
2007/10/05(金) 15:54:14ID:xuJlmqKf信長や家康よりはましだっただろうが。
0060人間七七四年
2007/10/06(土) 02:54:24ID:NcXSYXiF0061人間七七四年
2007/10/06(土) 02:56:59ID:ILQkywDi0062人間七七四年
2007/10/06(土) 03:00:08ID:NcXSYXiF配役はやっぱり香川照之がベスト・・・
0063人間七七四年
2007/10/06(土) 16:34:55ID:IypfPvjJ0065人間七七四年
2007/10/10(水) 10:08:12ID:vksT/LEp>孤高の天才織田信長はなんで無能な秀吉を重宝したんだよ
秀吉は信長の最高意思決定に沿って、軍略を巡らし外敵を平らげる手駒として有能だっただけ。
信長死後の織田家内の内ゲバも、それまでの軍略政略の延長で乗り切ったにすぎない。
秀吉という武将は、ここまでの器。
その後は、織田の圧倒的軍事力を背景に、信長のトラウマに脅える非織田勢力に対し、恫喝と懐柔による位攻めで日本全土を制圧。
その手法に国家理念のカケラも無い。
国家ビジョンの薄っぺらさは、武田信玄や上杉謙信と似たり寄ったりの地方大名のレベル。
だから、誇大妄想に取り付かれて、国内統一戦と同じ感覚で、安易な外征による軍事侵攻拡張路線を強行して大失敗し、自ら政権の短命化を助長させてしまう間抜けぶり。
加えて、数少ない身内を悪戯に政争に巻き込む愚を犯し、政権組織を致命的に貧弱化させる思慮の浅さ。
つまり秀吉は、天下政権を円滑かつ機能的安定的に運営させるスキルが全く無かったってことだろ。
結論を言えば、武将としての総合力は、実弟秀長のほうが上なんじゃないの。
秀長が生存していた時の豊臣家は右肩上がりの隆盛を極めたが、彼の死後一転して斜陽の階段を下り始めた史実が、それを如実に物語っている。
もし天下統一直後の天正十九年に世を去ったのが秀吉で、秀長が生き残ったとしたら、豊臣家の末路はああも無様に終わらなかっただろうに。
0066人間七七四年
2007/10/10(水) 10:21:11ID:3Vwfm4GEその通り。
日本は天才信長に導かれて、全アジアを征服、
モンゴル帝国以来の巨大な信長帝国として発展するはずだったのに、
無能な秀吉が跡を継いだばかりに、全部潰されてしまった。
信長は、日本を世界初の近代国家へ脱皮させるつもりでいたのに、
秀吉はその驚くべき先進的な国家構想を全く理解できていなかった。
0067人間七七四年
2007/10/10(水) 11:12:42ID:fH3ZhPEO信長一匹ガキ大将だったっけ。
0068人間七七四年
2007/10/10(水) 18:03:03ID:2mjg0hzc0069人間七七四年
2007/10/10(水) 18:06:59ID:9u9ml2D30070人間七七四年
2007/10/10(水) 19:14:53ID:K+w2fjC0信長厨って誇大妄想がすげーなW
【日本史上の】 信長革命 【大転換点】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191811194/
信長帝国の統治体制に関する考察スレ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191511445/
0072人間七七四年
2007/10/11(木) 06:49:27ID:WzxQZDsN反論したいなら、個別具体的に間違っている箇所を指摘しろ
それさえできないのなら、だまってろ
0073人間七七四年
2007/10/11(木) 07:33:42ID:bZ1gDPyY0075人間七七四年
2007/10/11(木) 17:35:30ID:pNTR8XL7全部自分でやった、というのなら勝ちきらない戦の連続、秀吉や家康にフォローしてもらってなお
遠回り、結果寝首をかられる、という信長の一生はまさに自分の戦国武将としての限界を
表してることになるな。
ま、おおぼら一代とはなんか似ててユニークだな。
0076人間七七四年
2007/10/11(木) 22:21:31ID:RJn3oRS2八戸のぶながに匹敵するぐらい。
0077人間七七四年
2007/10/11(木) 23:22:28ID:fJexYmjO信長の持ってた国家理念って具体的に何だ?
天下統一半ばで家臣に殺されたということで幾分同情すべき点はあるが、
それまでに為された信長の諸政策を見るととても明確な国家ビジョンとやらを持ってたようには見えないが?
教科書などで特筆される楽市楽座は実際は大商人に対する妥協的な産物で徹底できてないし、
関所廃止も当時の物流の中心であった肝心の京の関所を撤廃してない以上有名無実のもの
海外貿易も殆どしてない、領内では貫高制と石高制の統一すらできてない
つうか流通してる貨幣すら禄に把握できず、何度も効き目の薄い撰銭令を出しては無視されてる
兵農分離も中途半端、検地や刀狩は大和や越前のような一部で限定的に為されただけで特筆には価しない
(越前の刀狩は一次史料自体が殆どなく、明智軍記みたいな後世の軍記物語や柴田勝家名君伝説が中心で実態不明)
信長が出来なかった上記のような政策を成し遂げ、
日本を近世封建制へ移行させたのが秀吉(とその後継者である家康)なんだが
戦上手だったということは認めるが、国家ビジョンという点では秀吉・家康の足元にも及ばないと思うぞ>信長
0078人間七七四年
2007/10/12(金) 00:22:23ID:0CxRf+CI0079人間七七四年
2007/10/14(日) 22:50:24ID:gqALSxvWもっと本質的な部分でこいつらに負けてるよね
家康や清正の人間としての器量とか存在感に明らかに負けている
明智や北条には完全勝利できても上記の連中には永遠に勝てない
0080人間七七四年
2007/10/14(日) 23:09:25ID:YAUrr5Jk0081人間七七四年
2007/10/15(月) 19:21:17ID:a4KWTsrG0082人間七七四年
2007/10/17(水) 13:59:46ID:PW8rOkmt>それまでに為された信長の諸政策を見るととても明確な国家ビジョンとやらを持ってたようには見えない
足利将軍家の否定、比叡山や本願寺などの有力宗教勢力との妥協なき抗戦、朝廷の官位体系からの離脱・・・
これらの施策が、明確な国家ビジョン無しで遂行可能なのか?
>国家ビジョンという点では秀吉・家康の足元にも及ばないと思うぞ
では秀吉、家康の国家ビジョンとは何なのか、根拠となる施策の具体例を明示した上で伺いたいものだ。
秀吉の政策は、その殆どが信長が端緒を開いた施策の延長もしくは応用なんだがな。
>楽市楽座は実際は大商人に対する妥協的な産物で徹底できてない
一切の例外を認めず一斉強行すれば、実体経済が齟齬を来たし、改革自体が頓挫すると思ったからではないのか。
短絡的な理想主義に走らず、現実を正確に見据えた柔軟な策が執れるからこそ、信長は天才なのでは。
家中環境を無視して外様衆を抜擢し、反感を抱いた譜代重臣によって追放させた武田信虎とはエライ違いだとは思わんか。
>関所廃止も当時の物流の中心であった肝心の京の関所を撤廃してない以上有名無実のもの
当時の物流の中心地は京ではない。
大津と草津だ。
局地的な京の七口の関所の存続が、何故他の地域での関所廃止の機能不全を意味するのか、説明願いたい。
>海外貿易も殆どしてない
大津や草津と同様、当時の国際貿易港の堺に代官を置き、支配下に治めている。
信長ほど南蛮貿易の恩恵を受けていた大名はいない。
0083人間七七四年
2007/10/17(水) 14:00:19ID:PW8rOkmt>領内では貫高制と石高制の統一すらできてない
数国単位では統一されている。
統一事業継続中であったため、その地方の慣習を是認した暫定措置なのでは。
秀吉による石高制の確立は、全国的統一政権樹立後。
>流通してる貨幣すら禄に把握できず
当時流通していた貨幣は、信長が関与していない大陸からの輸入銭だ。
しかも、それを模倣した私鋳銭も次々に鋳造され大量に出回り混在していたので、正確な把握など不可能。
>何度も効き目の薄い撰銭令を出しては無視されてる
既存貨幣の流通により実体経済が機能している以上止むを得ない。
天下統一事業の途上であったので、統一通貨の発行は時期尚早だ。
>兵農分離も中途半端
秀吉が行った刀狩による非武士階級の武装解除をもって完璧というならナンセンス。
当時は、農業に従事しない兵の常備軍化にこそ意味がある。
>検地や刀狩は大和や越前のような一部で限定的に為されただけで特筆には価しない
天下統一事業継続中を考慮すれば当然。
秀吉の刀狩令発布は、九州征伐を終え関東以西を制圧した翌年の天正十六年だ。
信長在世時とは環境が違う。
秀吉は、天正十年から検地を行ってはいるが、全国的な一律の手法が実施されたのは、政権が安定してからだ。
>信長が出来なかった上記のような政策を成し遂げ、
日本を近世封建制へ移行させたのが秀吉(とその後継者である家康)
天下統一に目処が付き政権が安定すれば、必然的に可能であったにすぎない。
秀吉は信長の施策が社会にある程度浸透し、機が熟した時に為政者となったからそう見えるだけ。
家康は言うに及ばず。
>戦上手だったということは認める
信長はどちらかというと戦下手。
戦術家・軍略家というより戦略家。
0084人間七七四年
2007/10/17(水) 19:57:00ID:cgQ1VCnoこれ以上何すりゃいいんだよ
0086人間七七四年
2007/10/17(水) 20:33:19ID:8ujpidYCだから無能というのは話が突飛しすぎではないか
0087人間七七四年
2007/10/18(木) 01:35:12ID:5+EfGvar83さんの意見に同意なんだけど、個々の対策なんかが信長の時点では機能してないことや
前例があること、後により発展してることを別の視点で見ると信長はすべてにおいて中途半端、
国家ビジョンみたいなものが見えてこない、そういう解釈につながってるのだろね。
これは個人で切ってしまってるからで、餅のたとえ話みたいに3人を通じて見るとよくその
長所短所が見えてくるように思う。
特に信長は軍事的な統一の真っ只中でそれが最優先だから、その視点をはずして単独で
経済政策とか考えると誤解をうむだろうな。
同じように秀吉家康もその時点での問題点にかなりうまく対処して信長以来のシステムの発展
完成に成功してるから決して信長より下とか、楽して餅食っただけ、みたいな評価も良くない
だろな。
0088人間七七四年
2007/10/18(木) 03:07:48ID:yQaL+LsY世界で初めて日本を近代国家にしようとしていた。
0089人間七七四年
2007/10/18(木) 04:35:26ID:tqLugZa7朝廷の官位体系からの離脱というのは信長が天正6年に右大臣を辞任してから無官状態を貫いたことを指してるんだと思うが、
右大臣みたいな高官を辞した後に無官になるのは当時としては別に珍しくもないごく普通のこと
事実後の話になるが徳川家康も慶長8年に右大臣、翌年に征夷大将軍を辞して散位している
そもそも有名な事実だが、朝廷から高官に就くよう打診された信長はその申し出を断る代わりに、
嫡子信忠(当時既に信長から家督を譲られ名目上は織田家当主)の昇進を希望している
極端な論者は「信長は朝廷の権威を否定し織田王朝を作ろうとしていた」とまで言うが、
もし官位を拒否することによって朝廷の権威を否定するなら後継者信忠の昇進を希望する理由がない
比叡山や本願寺との抗争は端的に言えば信長に反抗的な態度を採るから仕方なく締め上げただけに過ぎない
信長最大の暴挙に数えられる比叡山焼き討ちなんか特に顕著だろう
これなんか浅井・朝倉に露骨に肩入れしている延暦寺にせめて中立を守るよう懇願したが無視され、
それがため強硬手段を採らざるをえなかったというだけでしょ
結果的に彼ら有力宗教勢力の力を殺ぐことにより近世への転換に大きな役割を果たした事実は無視できないが、
当時の信長に今風に言う政教分離みたいな大層な政治上の志向が在ったかどうかは疑問
これは楽市楽座なんかとも関係するが、信長は大和支配に際し既存の座を認めるだけでなく、
新たに旧仏教勢力に座を作る権利を認めてすらいる
信長の宗教政策は極々穏当で妥当といっていいもの、別にその点を非難するわけじゃないが
(自分はむしろ評価してる)それを「妥協なき宗教改革」みたいな文脈で語るのは誤りだろう
0090人間七七四年
2007/10/18(木) 04:36:24ID:tqLugZa7家屋数万を抱える日本最大の都市であった京が物流の中心でなかったらどこが中心なのか?
草津や大津が当時交通の要衝だったのは事実だが、そもそも何故それらが交通の要衝たりえたかといえば
背後に一大消費地である京を抱えていたからだろう
それゆえ京の七口の関所存続は信長の関所廃止政策の
根本的意義(関所廃止による物流の促進)を損なうものだと指摘したんだが、理解していただけただろうか?
>既存貨幣の流通により実体経済が機能している以上止むを得ない
秀吉は天下統一事業の最中である天正16年に後藤光次に命じて天正大判を鋳造させてる
勿論天正大判自体は超高額で製造枚数も少なく、一般の市場に流通するような代物では到底なかったが、
定量表記の通貨を中央政権が鋳造したという事実は日本の貨幣史上特筆に価する出来事だ
この天正大判の鋳造を受けて後の江戸幕府は慶長金銀の鋳造を行い近世貨幣体制を確立、
早くも慶長8年には永楽銭の流通を禁止するまで至っている
要するに既存貨幣の流通で経済が成り立っている以上現状是認はある意味当然の策で妥当な政策だと思うが、
根本的な解決策である統一貨幣の鋳造という政策にまで至ってないのは信長の手抜かりといっていいだろう
別にいきなり大量の統一貨幣を鋳造して旧銭を廃止しなくても、段階的に入れ替えていけばいいわけだからね
秀吉や家康みたいな後の天下人は既存の貨幣流通を容認する一方で着々と貨幣制度の整備を開始し、
(個人ではなく二人の業績だが)わずか二十年足らずでそれを完遂している
必然的に信長が貨幣統制に関してこれら二人より劣った評価になるのは仕方ないと思うが?
0091人間七七四年
2007/10/18(木) 04:39:09ID:tqLugZa7規模で言うなら朱印船貿易を行った豊臣秀吉や徳川家康はおろか、
同時代の大友や有馬なんかと比べても微妙だと思うが
まあ切支丹に改宗までして奴隷貿易に精を出した九州の大名よりは信長の方を評価したいが
>秀吉が行った刀狩による非武士階級の武装解除をもって完璧というならナンセンス
太閤検地による家父長的奴隷制の否定、刀狩による近世的身分の確立こそが近世兵農分離の根幹だというのは定説でしょ
信長の常備軍云々の話こそナンセンス
つうか個人的には信長が常備軍を作ったという話は胡散臭いと思うんだが
武田や上杉あたりの兵制とどう違うのか具体的に指摘して頂きたい
0092人間七七四年
2007/10/18(木) 04:39:46ID:tqLugZa7>天下統一事業の途上であったので
>天下統一事業継続中を考慮すれば当然
やけに信長が天下統一事業の最中であったことを強調してるが、そんなことはこちらも十分に承知している
大事なのはその統一事業の最中に一体どのような改革事業がなされたか、ということだろう
秀吉の太閤検地や刀狩などに代表される豊臣平和令の布告、天正大判の鋳造や石高制への移行統一、
京の関所廃止や楽市楽座の徹底(脇田修のように秀吉の楽市楽座をそれまでの暫定的処置と区別して
特に「破座」と呼ぶ近世封建制の研究者も居る)など、豊臣政権の根幹といっていい基本政策は
全て秀吉の天下統一事業と並行して為されたものなわけだが
例えば天正10年の秀吉による山城国検地(さらっと流されてしまったが)、
これなんか秀吉が当初から明確な意図を持って改革に取り掛かっていたことの証明だろう
信長が永禄11年に上洛して天正10年に本能寺の変で倒れるまでの十余年
(義昭を追放して京を一元支配してから数えても十年弱)の間手付かずでいた山城の土地把握を
まだ織田家の一有力家臣でしかなかった秀吉は行ってるわけだ
それまでにほとんど手付かずでいた改革が天下統一を境として急に完遂されるなんて有り得ない話、
志半ばで倒れた信長に同情するのは結構だが、信長なら先送りにされてた改革を成し遂げれたはず、
なんてのは所詮はifの話、正直真面目に議論する気も起きないね
0093人間七七四年
2007/10/18(木) 10:04:46ID:ZWT91tQr秀吉ごときカスと比べるなど失礼極まりない。
0094人間七七四年
2007/10/18(木) 10:59:08ID:qzssU1gFその時の結論めいたものは、京の関所の廃止は既得権益組に対する影響が大きくすぐに
実行するのは問題があった、すぐに廃止しなかったことを信長の政策の意義を減じるものとする
のは時期尚早ではないか、安土に首都機能が移り京の政治的経済的意義が薄れるにつれて
京の関所も廃止したであろう、そんな感じだったような。
そこから信長は朝廷をどうするつもりだったか、京はどうなっていたか、国家ビジョンはあったか
そういう方向に論がまた広がってしまった感じだったな。
国家ビジョンという点においても、如何にして国内を治めるか、というよりどのような国家を
目指していたか、巷間言われる天皇家簒奪を超えた絶対王政を目指すようになっていたの
のではないか、そんな方まで広がってしまったような。
もちろん仮定だから結論は出ないのだけど、中途半端に見える各改革事業を見てると
国家ビジョンを持ってなかったのではなく部分的改革よりも根本的な解決に視点が
移りかけていた、そういう風にも解釈されてたかな。
フロイスに初めて会った時に質問攻めにしたり新しいものに対する関心は人十倍あったろうから
信長が何を目座していたか、永遠の謎ですますには惜しい話なんだけどね。
0095人間七七四年
2007/10/18(木) 11:16:07ID:qzssU1gF様々な統一改革に手をつけてるよね。
まるで変が起きて自分が次のトップに成りうることを予期していたようだ。
そしてそれを成就、成功してるというのもすごいことで、一体いつからそのような視点、発想を
持っていたのだろう。
キリスト教に対しても最初は信長の頃のままだったろうに、その危険性を察知するといきなり
豹変追放令を出してる。
あくまで機を見るに敏としたら素晴らしい炯眼で驚くばかりだし、すべてこの調子で変後に
統一を目指すものとして自覚行動してたとしたら大変な統一能力者だったことになる。
なので、変前からかなりそういう自覚があったのではないか、そういう風にも考えたいのだけどね。
山城国検地なんかは確かに重要な意味合いがあるものね。
0096人間七七四年
2007/10/18(木) 11:52:14ID:8e3nyEsf0097人間七七四年
2007/10/19(金) 04:06:40ID:BlX4h7Yn0098人間七七四年
2007/10/19(金) 06:01:25ID:roAkxHld0099人間七七四年
2007/10/19(金) 07:26:03ID:FiXUUgry0100人間七七四年
2007/10/19(金) 13:44:31ID:pB2G5gs/0101人間七七四年
2007/10/19(金) 19:04:11ID:sJdhr66p戦国で比べられる者なんていない
0102人間七七四年
2007/10/19(金) 22:08:30ID:B/JkEa9X秀吉、家康 > 超えられない壁 > 信長
の流れだったがw
0103人間七七四年
2007/10/20(土) 23:32:53ID:tPDkUIvJ0104人間七七四年
2007/10/21(日) 00:09:04ID:cMvRYNg1>右大臣みたいな高官を辞した後に無官になるのは当時としては別に珍しくもないごく普通のこと
>徳川家康も慶長8年に右大臣、翌年に征夷大将軍を辞して散位している
家康を引き合いに出すのは、全くの筋違い。
家康の征夷大将軍就任は、
関ヶ原での勝利により天下の実権を掌握した後、
豊臣家との主従関係を合法的に逆転させ、自己の政権の正当性を保証するためであり、
僅か二年で同職を退いたのは、
将軍職が徳川家の世襲であると豊臣家や諸大名に知らしめるためだ。
信長のように、天下統一途上で、しかも最高の官職でも何でもない右大臣の辞任とは、全く意味が異なる。
>官位を拒否することによって朝廷の権威を否定するなら後継者信忠の昇進を希望する理由がない
要点は信長個人が朝廷権威を乗り越えることであり、信忠を始めとする織田諸将はこの限りではない。
信長と信忠を同列に論じる事自体ナンセンス。
>比叡山や本願寺との抗争は端的に言えば信長に反抗的な態度を採るから仕方なく締め上げただけに過ぎない
>当時の信長に今風に言う政教分離みたいな大層な政治上の志向が在ったかどうかは疑問
比叡山や本願寺が信長に敵対したのは、世俗での既得権を信長に侵されたからだ。
比叡山衆徒との対立の根幹は、信長による寺領の押領だ。
確固たる理念理想無しに、強大な勢力を有していた有力宗教勢力と敵対する危険など冒しはしない。
>信長最大の暴挙に数えられる比叡山焼き討ちなんか特に顕著だろう
当時の比叡山の腐敗堕落ぶりは世間に周知のところであり、
よって焼き討ち掃討戦を実行しても、信長は民の指示を失わず。
>楽市楽座なんかとも関係するが、信長は大和支配に際し既存の座を認めるだけでなく、
新たに旧仏教勢力に座を作る権利を認めてすらいる
世俗に介入せず織田に敵対しない勢力を懐柔し、敵対宗教勢力の牽制に利用していただけ。
>「妥協なき宗教改革」みたいな文脈で語るのは誤りだろう
宗教勢力の世俗への介入の否定・非武装化を完璧に具現化したではないか。
0105人間七七四年
2007/10/21(日) 00:10:09ID:cMvRYNg1>家屋数万を抱える日本最大の都市であった京が物流の中心でなかったらどこが中心なのか?
その答えは、貴殿が既に述べている。
>一大消費地である京
巨大消費地の京を物流の拠点と混同するとは・・・
>京の七口の関所存続は信長の関所廃止政策の根本的意義(関所廃止による物流の促進)を損なう
この関所を廃止したのは秀吉だが、その時期は天正十年の清洲会議の後だ。
当時の秀吉はまだ織田家さえ掌握しておらず、柴田勝家とは冷戦中で、その基盤は極めて不安定だった。
支配領域は畿内とその周辺に限定され、信長の最大版図と比べるとあまりにも小さい。
そんな秀吉でさえ簡単に廃止できる関所など、その効果の程も高が知れている。
>秀吉は天下統一事業の最中である天正16年に後藤光次に命じて天正大判を鋳造させてる
勿論天正大判自体は超高額で製造枚数も少なく、一般の市場に流通するような代物では到底なかった
>定量表記の通貨を中央政権が鋳造したという事実は日本の貨幣史上特筆に価する出来事だ
実体経済で日常的な決済手段となり得なかった贈答品や論功行賞としての鋳造など、何の自慢にもならん。
>根本的な解決策である統一貨幣の鋳造という政策にまで至ってないのは信長の手抜かりといっていいだろう
秀吉は信長が持たなかった金銀鉱山を掌中に収め、日本全土を支配していたのに、通貨の改革には無力だった。
無能の謗りは免れまい。
その象徴が貫高制を廃した石高制への一本化だ。
>信長が貨幣統制に関してこれら二人より劣った評価になるのは仕方ないと思うが?
信長が世を去る直前の天正十年の社会は、あくまで暫定的な過程の一コマにすぎず、
当時の世の実態が、信長が目指した理想の最終形態だと考える事自体ナンセンス。
この時点の信長と、天下を制した秀吉、家康を比べるのもナンセンス。
しかも、天下を制してさえ実効的な貨幣の整備を行えなかった秀吉、家康こそ、
信長に劣る評価をされても致し方あるまい。
0106人間七七四年
2007/10/21(日) 00:12:01ID:cMvRYNg1>規模で言うなら朱印船貿易を行った豊臣秀吉や徳川家康
比較の対象は、同時代の非織田勢力であるべき。
それに天下を制した彼らの朱印船貿易とやらも、そう大したモンではない。
秀吉は自らの無謀な大陸侵攻により、東シナ海の交易ル−トを失っている。
これこそ秀吉の無能、政策の矛盾の最たるものではないか。
しかも家康に至っては、早々に交易の規模を縮小させている始末だ。
その後、朱印船貿易自体消滅。
この二人のどこに卓越した国家ビジョンとやらを見出せるのか、是非お聞きしたいものだな。
>同時代の大友や有馬なんかと比べても微妙だと思うが
大友や有馬と織田は、その経済力・軍事力において比較の対象にもならん。
>太閤検地による家父長的奴隷制の否定
???
誰かの受け売りか?
意味分かってる?
>刀狩による近世的身分の確立こそが近世兵農分離の根幹
秀吉が刀狩令を発布した天正十六年は、
既に関白に任官し、九州征伐も終わり、関東以東を除く国土を支配下に入れてからだ。
天正十年の信長と比較するのは筋違いだし、
信長の専業武士団の創設によって初めて可能だったことをお忘れなく。
>個人的には信長が常備軍を作ったという話は胡散臭いと思うんだが
武田や上杉あたりの兵制とどう違うのか
武田や上杉の兵は農業兼業。よって軍事行動は農閑期に限定。
織田は常備軍化した専業武士。いつでもいつまでも軍事行動可能。
0107人間七七四年
2007/10/21(日) 00:13:28ID:cMvRYNg1>統一事業の最中に一体どのような改革事業がなされたか、ということだろう
秀吉の太閤検地や刀狩などに代表される豊臣平和令の布告、天正大判の鋳造や石高制への移行統一、
京の関所廃止や楽市楽座の徹底など、豊臣政権の根幹といっていい基本政策は
全て秀吉の天下統一事業と並行して為された
>それまでにほとんど手付かずでいた改革が天下統一を境として急に完遂されるなんて有り得ない話
天下統一への軍事的・政治的道程は、既に信長によって敷かれていた。
しかも上記諸政策の殆どは、秀吉が関白に任官し、上杉や毛利も政権の傘下に入り、
全国に向けて惣無事令を発布できるまでになってからだ。
天下統一途上とはいえ、残された地域は九州と関東以東にすぎず、
既に中央政権としての体裁も基盤も整い、信長往時とは事情も環境も異なる。
>天正10年の秀吉による山城国検地(さらっと流されてしまったが)、
これなんか秀吉が当初から明確な意図を持って改革に取り掛かっていたことの証明だろう
信長が永禄11年に上洛して天正10年に本能寺の変で倒れるまでの十余年
(義昭を追放して京を一元支配してから数えても十年弱)の間手付かずでいた山城の土地把握を
まだ織田家の一有力家臣でしかなかった秀吉は行ってるわけだ
織田家の経済力は、商業資本からの莫大な運上金により他の戦国大名を圧倒的に凌駕しており、
よって土地の正確な把握など急務ではなかったにすぎない。
天正十年の秀吉の検地は、これから始まる織田家内での内紛(対柴田戦)を見据えての下準備だ。
だから早急に調べる必要があっただけ。
0108人間七七四年
2007/10/21(日) 09:39:11ID:DTmmeBd+秀吉や家康のようなカスと比べるのは失礼だろう
0109人間七七四年
2007/10/22(月) 12:11:46ID:nfEc8Ofn信長は国家ビジョンを持っていたか、という視点を忘れることなくもっと盛り上がってほしい。
堺や大津が物流の拠点であるのは確かだけど京は単に消費地である、というとこ
なんかいいですね。
個々の論点は同じことを違う解釈しているだけのようにも読めるので、結論部分ははっきり
してもらえるとさらに主張が明確になってより有効ですな。
落ち着いたら聞いてみたいこともありますしね。
0110人間七七四年
2007/10/22(月) 18:07:13ID:lNc4ZBsL0111人間七七四年
2007/10/23(火) 05:44:27ID:WUaBXLC7信長にとって秀吉や家康を含めた家臣団は、使える「駒」にすぎず、織田の諸将の誰も信長の天下構想を理解できてはいなかった。
信長からすれば、自分の卓越した考えを家臣達に披露しても正確に理解してもらえないと思っていただろうし、家臣などは自分の命令通りに行動し成果を挙げてくれればいいだけの存在だったのだろう。
0112人間七七四年
2007/10/23(火) 08:07:02ID:IGWdK+Dc0113人間七七四年
2007/10/23(火) 08:18:53ID:IGWdK+Dc0114人間七七四年
2007/10/23(火) 11:50:03ID:FdAcpmLyそれはそうだろうね。
部分的に怪しげなことを言ったりはしてるし。
国家ビジョンと言った場合に国内統治の方法とか子孫繁栄の手段とかを指すのが普通だろうけど
信長の場合はそれを超えたところに最終目的があったのではないだろうか、というのが議論が
かみ合わない理由のひとつにみえる。
例えば経済政策は具体的に成功してないけどまだ国内統一もしてない乱世の時点でそれを
国家ビジョンがないとか無能というのは違うだろうし。
なので自らは朝廷の権威外に出た信長がどうして子供や武将のためには位等を欲したか
これは重要な論点なんだろうけど、単純にその時点で自らの権力の突出性をしめす、
武将たちにはその位等を与えるのはまだ国内統一の段階で必要と判断していた、という
ことでいいのではないかな。
妄想で悪いが統一に成功してたら自らが与える権威を制定してたかもしれないね。
とすると旧権威を与えていた団体さんをどうしてたか・・
0115人間七七四年
2007/10/27(土) 00:21:18ID:vDPTi70m信長が暗殺される46歳まで、というより柴田勝家を滅ぼした47歳まで一度も考えた事さえ無かったのに、
唐突にそんな大それた事、頭に思い浮かぶはずも無い。
秀吉はただ天下を統一して日本を一時支配しただけ。
ひたすら拡大路線を追及するだけの単純志向は、流石は下賤の出だ。
0116人間七七四年
2007/10/27(土) 01:20:12ID:fHO/arwzなぜ秀吉は嫌われるのか
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1173961178/l50
「秀吉は残忍」としっかり学校で教えろ!
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1183155742/l50
悪代官秀吉
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1174632673/l50
秀吉と家康はどちらが悪者か? その2
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1171970930/l50
信長と秀吉はどちらが悪者か
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1177584817/l50
豊臣秀吉=金正日(笑)
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179490823/l50
糞猿秀吉を三傑からはずすべきだ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179571458/l50
秀吉は無能な武将
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1189301110/l50
豊臣秀吉は日本史最悪の暴君
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182325269/l50
0117人間七七四年
2007/10/27(土) 01:21:40ID:fHO/arwz扶桑社以外の教科書では豊臣秀吉は天下を統一した英雄ではなく、韓国を侵略した大悪
人として描かれています。伊藤博文もわが国の近代化を進めた初代総理大臣というより
も、韓国侵略の張本人で暗殺されても当たり前という雰囲気です。さらに聖徳太子を「厩戸
皇子うまやどのおうじ(聖徳太子)」とわざわざ表記する教科書が現れました。また、吉田
松陰は「安政の大獄で処刑された人」とあるだけで、明治維新への功績が説明されること
などはありません。
誰も知らない教科書の中の英雄たち
沙也可、シャクシャイン、ラクシュミー=パーイー、李舜臣、安重根、柳寛順。これらは7社
の教科書に出てくる英雄ですが、ほとんどが知らない人ばかりで、読み方さえ分からない
というのが正直なところです。7社の教科書では、善玉と悪玉がはっきり色分けされていま
す。すなわち、中国・韓国が善玉、日本が悪玉、一揆・反乱・打ちこわしなどの指導者が善
玉で、支配者(朝廷・幕府・政府・国家など)が悪玉と描かれています。歴史はこんな単純な
善悪二元論で説明できるのでしょうか。
http://www.tsukurukai.com/02_about_us/02_maso_01.html
0118人間七七四年
2007/10/27(土) 08:27:43ID:rF4ydu8G↓これらのスレと、立ててる人が同じだったりしてねw
【世界史】第六天魔王・織田信長【最高の英雄】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1179062226/
織田信長 vs 曹操 vs カエサル
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1181506549/
織田信長公が現代の日本政府を築いた
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1182171203/
中国英雄は、誰一人として信長に及ばない
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1179742923/
おまえらは信長に対して失礼すぎる
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192939486/
信長帝国の統治体制に関する考察スレ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191511445/
【日本史上の】 信長革命 【大転換点】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191811194/
板名を信長板に変えろ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1193239817/
0119人間七七四年
2007/10/30(火) 10:36:44ID:LH7BScU7せっかくだから自分の考えを改めて述べさせていただく
こちらも長文レスで返すが、おそらく部外者にはつまんないだろうから
ID:cMvRYNg1以外は読まなくて良いよ
0120人間七七四年
2007/10/30(火) 10:38:02ID:LH7BScU7>要点は信長個人が朝廷権威を乗り越えることであり、信忠を始めとする織田諸将はこの限りではない
家康の場合も最高の官職でも何でもない右大臣の辞職だったんだけど?
家康の例だけで不満なら同時代では他に三条西公条(天文12年に右大臣辞職)、三条公頼(天文15年に左大臣辞職)、
今出川公彦(天文16年に左大臣辞職)、花山院家輔(天正2年右大臣辞職)、西園寺公朝(天正4年に左大臣辞職)、
豊臣秀頼(慶長12年に右大臣辞職)なんかが散位してる
官職を辞することが朝廷権威を乗り越えることなんて、戦国時代の公家社会に対して無知な、
全く根拠のない話だと上の連中を見たらわかるんじゃないの
あと信忠は織田家の家督を継いで自他共に認める織田家の後継者だったわけですが、
当時としては老人といっても差し支えない信長が、
自身の権力を委譲するべき信忠のことをまったく考えずに
「自分だけ朝廷権威を乗り越えればそれでいいや」なんて思ってたらアホでしょ
>確固たる理念理想無しに、強大な勢力を有していた有力宗教勢力と敵対する危険など冒しはしない
それは単に君の思い込みじゃん
確固たる理念理想を持って有力宗教勢力と敵対してた割に比叡山門徒に対して当初は及び腰の交渉をしてますね
で交渉が上手くいかないと逆切れで大量虐殺ですか
>宗教勢力の世俗への介入の否定・非武装化を完璧に具現化した
「完璧に」という単語はお情けで見過ごしてあげるが(江戸時代も宗教勢力は政治に一定の影響力を保有)、
信長の宗教弾圧が結果的に近世社会の成立に大きく貢献したことはちゃんと認めている
ここで自分が問題にしているのは信長の宗教弾圧が当初から確固たる理念があってのものかどうか
「信長は民の指示を失わず」もそうだが、君の書き込みは論点がずれてる
0121人間七七四年
2007/10/30(火) 10:41:09ID:LH7BScU7そもそも巨大消費地≠物流の拠点だと思い込んでいるのは何故?
普通にこの二つの特性は両立しうるものでしょ
現在でも札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡みたいな
中核都市はその地方における物流の中心じゃん
戦国時代の京は巨大な人口を抱え、西陣織(戦国時代の絹織物の過半を占めた)
みたいな工業が発達し多数の商人を抱えた日本最大の都市、
更に言えば君の好きな草津や大津から京に入る物資の殆どは七口の一つである「大津口」(粟田口とも)を漏れなく経由するわけだ
京の七口の関を経由して京に搬入される&京から搬出される資材&工業製品と
草津や大津みたいな中継地点を通過して京に入る物資、どちらが多いかちょっと考えたらわかるでしょ
>実体経済で日常的な決済手段となり得なかった贈答品や論功行賞としての鋳造など、何の自慢にもならん
秀吉の天正大判鋳造が近世貨幣制度整備の嚆矢となった、
つうのが日本貨幣史の定説なのに、一人でそんなこと言って空しくないか?
>秀吉は信長が持たなかった金銀鉱山を掌中に収め、日本全土を支配していたのに、通貨の改革には無力だった。
信長も天正6年には生野銀山に奉行を置いて直轄領化してるわけだけどね
ちなみに生野銀山は豊臣政権の金山銀山収入の八割を占めた一大鉱床、
残りの二割分秀吉には及ばないだろうが、天下人秀吉と決定的な差があったわけではない
秀吉が通貨の改革には無力だったってそれは信長のことでしょw
秀吉の政策に無理やりケチつけようとするんじゃなくて積極的に信長の良いところ挙げようよ
0122人間七七四年
2007/10/30(火) 10:43:08ID:LH7BScU7意味不明
石高制への統一と貫高制への統一、それぞれ長所と短所は有るが少なくとも
石高制と貫高制のちゃんぽんに比べて劣っているなんてことはないでしょ
>天下を制してさえ実効的な貨幣の整備を行えなかった秀吉、家康
秀吉と家康が確立した近世貨幣制度はその後
二百年以上その時代に合った手直しを受けながらも存続したわけなんだが・・・
信長ならきっと天下統一した暁には凄い通貨制度を整えたんだろうね
現実は無意味な撰銭令乱発するだけで何一つ実効的な手立てを打ててないけどw
>天下を制した彼らの朱印船貿易とやらも、そう大したモンではない
秀吉や家康がやっていた朱印船貿易は信長のちまちました南蛮貿易とは
その規模・収益において桁違いです
秀吉の唐入りのせいで東シナ海の交易ルートを失ったなんてのは見当違いの批判、
そもそも大内家が滅ぼされて以降、倭寇などの中央政権の統制の及ばない
海賊による密貿易が中心だった当事の日本(つうか秀吉ね)に失うべき東シナ海の交易ルート自体が存在しない
つうか唐入りの目標自体日明貿易復活を断られたため独自に東アジアの交易権を得ようとしたのが目的だという説(田中義成、辻善之助)もあるくらいなんだが
結局朝鮮すら手中に収めることが出来なかったことは秀吉のマイナス評価だろうが、
秀吉の政策自体が矛盾していたわけではない
家康が早々に交易の規模を縮小したってそれこそ何の話やら
大方慶長14年の大船建造禁止令のことを言ってるのだろうが、
この法令の対象となったのは江戸幕府の潜在的敵国である西国諸大名で、
彼らが朱印船貿易で財力を蓄えるのを阻止するのが目的、
江戸幕府自体は対外貿易を寡占することによって以前に勝る収益を挙げてますが?
朱印船貿易が消滅したのは寛永12年のことで秀吉・家康の両人とは関係のないこと
>大友や有馬と織田は、その経済力・軍事力において比較の対象にもならん
南蛮貿易の貿易量の話をしてたのに何故急に経済力や軍事力の比較になるのかわからん
信長の南蛮貿易が九州の切支丹大名に及ばないことをわかってるからこういうことを言うのかね
0123人間七七四年
2007/10/30(火) 10:44:47ID:LH7BScU7家父長的奴隷制について少し解説しておくと、
太閤検地の画期的な点の一つに直接耕作者を検地帳の名請人にすることによって
国人(在地の有力地主)による中間搾取を排除するという一地一作人制への志向が挙げられるわけ
以上のような一地一作人制の施行により今まで身分的に半農半兵だった
国人層を明確に「城下にすむ武士」「農村に住む農民」という風に分けることが出来たわけ
(実態はそれほど明確なものではなく、依然として有力地主の
存在は黙認されたが、彼らが武力権を行使するのは固く禁じられた)
こういう過程を踏むことによって初めて近世身分制度が確立されたわけで、
信長の専業武士団(これもきちんと説明して欲しい単語だが)云々の話は兵農分離の大筋とは全く関係ない
配下の有力国衆に城下の屋敷を与えて住ませることを持って専業武士団の創設といってるのかもしれないが、
それくらいなら他の大名でもやってる
>武田や上杉の兵は農業兼業。よって軍事行動は農閑期に限定。
実際に武田や上杉は農繁期でも必要に応じて軍事行動を起こしています
もちろん農閑期と比べて動員兵力が少なくなったのは事実だが、それは信長も一緒
「半農半兵の武田・上杉と違い、常備軍を整備したのが信長の天下統一の秘訣」つうのは
わかりやすいが実態に即したものだとは到底言えない
谷口克弘みたいに信長の兵農分離神話に異議を唱える研究者は多い
つうかまともな研究者で未だに信長の常備軍云々言ってる人居ないんじゃないの
0124人間七七四年
2007/10/30(火) 10:47:46ID:LH7BScU7京の七口は古来から朝廷の支配下として公家衆の重要な収入源になっていた、
それが故に信長ですら手出しが出来なかったつうのが有力な説(脇田修ほか)だが
事実これを廃止した秀吉は公家衆から猛烈な反発を受けている
後年の薄家との対立(秀吉の命令を無視して諸国の牛から
役銭を取ろうとした薄諸光の謹慎・切腹処分)なんかその最たるものだと言っていい
七口の関の重要性については既に上でで述べた
物流の量でいうなら大津や草津みたいな京までの一中継地点とは比べ物にならない
これは上の朝廷政策とも関係してくるが、七口の関を廃止できなかった信長が
「朝廷権威を乗り越える」なんて戯言もいいとこだね
>土地の正確な把握など急務ではなかった
七口の関廃止にしてもそうだが秀吉に出来て信長に出来なかったことを大したことないというのはやめませんか?
戦国時代の土地調査(検地)は名請人の確定、田畑の生産高の把握、年貢や賦役・軍役の設定など戦国大名にとって重要な施策、
それを急務でないというなら信長は他に余程重要な法令を施行してたんですね?
中途半端な楽市楽座令や無意味な撰銭令がもしかしてそうですか?
君の書き込みを見てると、秀吉の勢力がまだ小さかった頃になされた政策を
「全盛期の信長以下の所領だった秀吉が出来たんだから大したことない政策」、
秀吉が関東以西を制圧した頃になされた政策は
「全盛期の信長以上の所領を持ってるんだから出来て当たり前、
信長も本能寺の変が無ければそれくらいやった」
なんて根拠なく決め付ける傾向があるね
別に君が信長にどんな妄想を抱こうが勝手だが、歴史考証で大事なのは
「上で挙げたような秀吉の改革を、何一つとして現実の信長は実行できなかった」という事実です
0125人間七七四年
2007/10/30(火) 21:58:14ID:ZZCsNMZq有能無能の定義自体がナンセンス。
もしも、合戦で槍働きが出来ねば無能というのなら、秀吉以外でも無能な武将はいくらでもいた。
「人誑し」と言われる対人折衝の能力こそ彼の持ち味だ。
それに、無能というのなら幕末の西郷隆盛だってある意味では事務手続きしかできない無能人だぜ。
それぞれの得意不得意が違うのだ、自分だけの下らん定義を振り回したって虚しいだけだよ。
0126人間七七四年
2007/10/30(火) 22:49:59ID:ygvHw8BYだから信長は天才であらねばならないのよ
0127人間七七四年
2007/11/01(木) 15:50:22ID:bd7RnSIz同意なんだけど、信長が秀吉の行った改革を実行出来なかった、というのはあくまでそういう事実に
留めておいた方がいいですよね。
つまり信長の頃は改革を実行するより、統一に向けての武力行使の方が重要でその真っ只中でもあったわけだから。
それと「朝廷権威を乗り越える」というのはそういう関所廃止みたいな政策から判断するのじゃなくて
信長に帝位廃止の意図があったかどうかでしょう。
武力統一の後に信長がそこまで踏み込んだかどうかはまた別の視点から判断するべきではないかな。
重要な改革や政策を打ち出していない、と統一後の信長が朝廷をどうしようとしていたか、は別問題であって
後者に限って言うとあくまで推論であり結果は永遠の謎だけど、その推論的結論は決して生前の
中途半端な政策や施策からのみ判断されるべきではない、と思いますね。
0128人間七七四年
2007/11/02(金) 00:10:15ID:pPhxWkt1それはあくまで、実弟の秀長や黒田孝高など有能な腹心の存在あったればこそ。
秀吉の武功に占める秀長の貢献度はかなり大きく、
副将たる秀長の武勲は全て秀吉のものとされていたから、
秀吉の武将としての能力は、かなり底上げされた過大評価だと見るのが妥当だろう。
秀吉がいかに底の浅い天下人だったかは、
秀長亡き後の失政(唐御陣の大失敗&関白秀次粛清)で証明されている。
天下統一後、成長から安定への政策転換ができず、
外征による歯止めの無い領土拡張膨張政策を続行させ、
政権の後継者問題という戦国の世の基本的な御家騒動の種を自ら悪化させて、
政権の求心力を急速に喪失せしめた無能ぶりは呆れ果てるばかりだ。
自身の死後の豊臣家譜代の家臣同士の敵対は、全て秀吉の失政に起因するものであり、
上記の失政がなければ、家康に付け込まれることもなく、豊臣家は安泰だった。
もし秀長が秀吉少壮の頃から加勢してなければ、
とてもじゃないが秀吉は織田家内で異例の出世などできなかったし、
ましてや天下人など到底不可能だったろう。
0129人間七七四年
2007/11/02(金) 04:19:42ID:1BeJ+Vy7秀吉のようなゴミなど比較にならない
0130人間七七四年
2007/11/02(金) 20:43:21ID:8bFAEY74黒田官兵衛や小一郎秀長が居なければ他に誰か適当な人材を探すだろう。
人を扱い、その才覚を引き出すのも人の上に立つ者の重要な要素だぜ。
信長との比較で言えば、信長が秀吉の立場、つまり下層階級からのし上がれたかどうか。
まさか、そんな程度の事すら考えたこと無いの?
信長でなければいやしい身分の秀吉をあそこまで取り立てて使いこなす事もなかっただろうが。
別に、信長より秀吉が劣っていたとは言わないよ。
信長には信長の、秀吉には秀吉の、家康、信玄、毛利元就とそれぞれの持ち味がある。
まさかアナタは、信長が拳王様みたいに、なにもかも自分一人の力でやってたとでも思うのかいw
0131人間七七四年
2007/11/03(土) 02:58:17ID:kl2lTM4Q>家康の場合も最高の官職でも何でもない右大臣の辞職だったんだけど?
家康が天下人たらんとして欲した官位は征夷大将軍であり、
右大臣など付随的な官職にすぎん。
家康は右大臣の辞職と同時に、将軍職も退いたのか?
答えはNOだ。
>家康の例だけで不満なら同時代では他に三条西公条(天文12年に右大臣辞職)、三条公頼(天文15年に左大臣辞職)、
今出川公彦(天文16年に左大臣辞職)、花山院家輔(天正2年右大臣辞職)、西園寺公朝(天正4年に左大臣辞職)、
豊臣秀頼(慶長12年に右大臣辞職)なんかが散位してる
論点分かってる?
有史以来、朝廷官位体系から離脱した者など腐るほどいる。
論旨は天下人たる信長や家康が、自己の政権構想に朝廷官位をどう関連づけたかだ。
公家や斜陽の没落大名の事例など、どうでもいい。
>官職を辞することが朝廷権威を乗り越えることなんて、戦国時代の公家社会に対して無知な、
全く根拠のない話だと上の連中を見たらわかるんじゃないの
信長は公家ではない。
信長のように、天下統一途中で朝廷官位体系から離脱して以後顕職に就かなかった例はない。
朝廷官位体系内に留まって、朝廷権威を乗り越える事などできないのは、子供でも分かる。
>当時としては老人といっても差し支えない信長
天正十年当時で四十九歳だった信長は、心身頑強で全く老いの兆候さえ見せてはいなかった。
>自身の権力を委譲するべき信忠のことをまったく考えずに
信長が官位体系から離脱した事と、織田家の家督問題は全く関係ない。
信忠は織田家内で、信長の後継者として磐石の立場を確立していた。
>「自分だけ朝廷権威を乗り越えればそれでいいや」なんて思ってたらアホでしょ
自分の息子達や家臣団を、自分と同等の超越的絶対権力者としての高みにまで引き上げようなんて思ってたらアホでしょ。
0132人間七七四年
2007/11/03(土) 02:59:05ID:kl2lTM4Q>>確固たる理念理想無しに、強大な勢力を有していた有力宗教勢力と敵対する危険など冒しはしない
それは単に君の思い込みじゃん
貴殿の言葉をそっくりそのままお返しする。
それは単に君の思い込みじゃん。
単に君が無知なだけ。初歩的な知識さえ頭に入ってないのだから話にならん。
信長は、俗権と癒着する宗教勢力を宗教の腐敗とみなし、忌み嫌っていた。
よって武力蜂起して敵対する延暦寺を焼き討ちし、
一向一揆を皆殺しにするなど、徹底的に弾圧した。
>確固たる理念理想を持って有力宗教勢力と敵対してた割に比叡山門徒に対して当初は及び腰の交渉をしてますね
で交渉が上手くいかないと逆切れで大量虐殺ですか
確固たる理念理想をもって宗教勢力の既得権を剥奪したからこそ、
比叡山は信長に敵対し浅井朝倉軍に加勢したわけだ。
それに中立を守らないと報復すると事前通告している。逆切れではない。
当時織田軍は苦境下にあり、逆境を脱するために譲歩を提示しただけ。
それが何か問題でも?
>>宗教勢力の世俗への介入の否定・非武装化を完璧に具現化した
「完璧に」という単語はお情けで見過ごしてあげるが
ではお尋ねするが、
信長死後、秀吉は一度でも宗教勢力と武力衝突したのか?
答えはNOだ。
>江戸時代も宗教勢力は政治に一定の影響力を保有
定見の無い為政者に近づいて、虚言を吹き込んだ如何わしい坊主連中の虚業だど、どうでもいい事だ。
彼らは幕府内で確たる役職に就いて幕政に参画していたのか?
答えはNOだ。
貴殿の言葉をそっくりそのままお返しする。
君の書き込みは論点がずれてる
>ここで自分が問題にしているのは信長の宗教弾圧が当初から確固たる理念があってのものかどうか
貴殿の言葉をそっくりそのままお返しする。
それは単に君の思い込みじゃん。
では信長が当初から確固たる理念がなかったとして、
いつ、どういうきっかけで宗教弾圧を始めたのか、お教え願いたい。
>「信長は民の指示を失わず」もそうだが、君の書き込みは論点がずれてる
信長がいかに民衆から反感を買う行為を嫌っていたかも知らんのか。
織田軍の軍律の厳格さは、その最たるものだ。
信長は比叡山を攻撃しても、民意を失わないと判断したからこそ焼き討ち掃討作戦を通告通り実行したのだ。
0133人間七七四年
2007/11/03(土) 02:59:48ID:kl2lTM4Q>そもそも巨大消費地≠物流の拠点だと思い込んでいるのは何故?
普通にこの二つの特性は両立しうるものでしょ
現在でも札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡みたいな
中核都市はその地方における物流の中心じゃん
そもそも巨大消費地=物流の拠点だと思い込んでいるのは何故?
上記七都市は、一大消費地だぞ。各都市内の卸売市場と混同してないか。
大津は琵琶湖の南部に位置する湖港だ。
当時の海運は日本海ルートが主流で、畿内に入る物流ルートは敦賀で陸揚げされ琵琶湖を利用した南下輸送だ。
草津は東海道と中山道の分岐点にある陸上物流の拠点だ。
信長は堺を含めた三大拠点を直轄領にして巨額の運上金を吸い上げたわけだ。
よって京は物流の拠点でも何でもない。
>戦国時代の京は巨大な人口を抱え、西陣織(戦国時代の絹織物の過半を占めた)
みたいな工業が発達し多数の商人を抱えた日本最大の都市
当時の日本最大の商業都市は堺なんだけど・・・
堺の経済力は京とは比較にならんでしょ。
>京の七口の関を経由して京に搬入される&京から搬出される資材&工業製品と
草津や大津みたいな中継地点を通過して京に入る物資、どちらが多いかちょっと考えたらわかるでしょ
そりゃ草津や大津でしょ。
マジで京だと思ってるわけ?
>秀吉の天正大判鋳造が近世貨幣制度整備の嚆矢となった、
つうのが日本貨幣史の定説なのに、一人でそんなこと言って空しくないか?
>秀吉が通貨の改革には無力だったってそれは信長のことでしょw
秀吉は全国の金銀鉱山を没収、あるいは鉱山収益の一部を運上金として上納させ、
大量の金銀を手中に収めたのに、実際やった事は贈答用の貨幣の鋳造ってんだから、笑わせる。
貨幣の品質や供給量不足は改善されず、通貨改革には全くの無力、無能。
秀吉の金銀貨幣の鋳造が貨幣史に残っているのは、
堺や博多の豪商が交易の決済手段として勝手に流用していたからにすぎん。
秀吉とは何ら関係がない。
0134人間七七四年
2007/11/03(土) 03:01:34ID:kl2lTM4Q>>その象徴が貫高制を廃した石高制への一本化だ
意味不明
前回述べた趣旨は、秀吉は通貨の改正に無能無力だったからこそ、
銭で納税する貫高制を廃し石高制に統一したという事だ。
当時は米の方が通貨より価値が安定していて換金性もあったからだ。
それが『意味不明』とはいったい・・・
>石高制と貫高制のちゃんぽんに比べて劣っているなんてことはないでしょ
貫高制か石高制かのどちらかに一本化しなければならないという意見こそナンセンス。
(>>77の>領内では貫高制と石高制の統一すらできてない、を参照)
銭と米の相場が安定している地域では貫高制を採用し、
そうでない地域では石高制を採用しても何の不都合もない。
>秀吉と家康が確立した近世貨幣制度はその後
二百年以上その時代に合った手直しを受けながらも存続したわけなんだが・・・
信長ならきっと天下統一した暁には凄い通貨制度を整えたんだろうね
現実は無意味な撰銭令乱発するだけで何一つ実効的な手立てを打ててないけどw
中央政権が統一通貨を発行したのは、家光治世時の寛永通宝って知ってる?
秀吉や家康は近世貨幣制度とやらに全く関与してないんだけど・・・
秀吉に至っては、信長より遥かに条件の良い立場と環境下にいたのに、
信長が局所的に行っていた貫高制さえできない無能ぶり。
>信長のちまちました南蛮貿易
当時、南蛮貿易の拠点だった堺の隆盛ぶりも知らんのか・・・
>その規模・収益において桁違いです
では、秀吉や家康は信長と比べてどれほど桁違いに凄いのか、具体的にお示し願おうか。
0135人間七七四年
2007/11/03(土) 03:02:48ID:kl2lTM4Q>秀吉の唐入りのせいで東シナ海の交易ルートを失ったなんてのは見当違いの批判、
当事の日本(つうか秀吉ね)に失うべき東シナ海の交易ルート自体が存在しない
東シナ海の位置を把握してるか?
当時、博多の商人の主な収入源は、朝鮮や明との交易だった事も知らんのだな。
秀吉の大陸侵攻により、朝鮮は勿論朝貢関係にあった明とも交易は停止だ。
その明との交易ルートこそ東シナ海だぞ。
だから貿易商は、航路を東南アジアに向けざるを得なかったわけだ。
>つうか唐入りの目標自体日明貿易復活を断られたため独自に東アジアの交易権を得ようとしたのが目的だという説(田中義成、辻善之助)もあるくらいなんだが
結局朝鮮すら手中に収めることが出来なかったことは秀吉のマイナス評価だろうが、
秀吉の政策自体が矛盾していたわけではない
秀吉は朝鮮との折衝役だった小西行長からの報告も待たずに、一方的に大陸に軍事侵攻してるんだが・・・
貴重な交易相手を失い、一方で南西に交易相手を求める。
これを政策の矛盾と言わずして何と言うのか、他に適切な言葉が思い浮かばん。
是非貴殿にお教え願いたいな。
>家康が早々に交易の規模を縮小したってそれこそ何の話やら
大方慶長14年の大船建造禁止令のことを言ってるのだろうが、
この法令の対象となったのは江戸幕府の潜在的敵国である西国諸大名で、
彼らが朱印船貿易で財力を蓄えるのを阻止するのが目的
だったら何で、江戸幕府の潜在的敵国である西国諸大名に、当初は交易を許可したんだろうな。
家康は底抜けのバカなのか?
>江戸幕府自体は対外貿易を寡占することによって以前に勝る収益を挙げてますが?
そもそも大船保有を禁止する事自体、交易の縮小化に他ならない。
しかも交易できるのは、一部の幕府の御用商人のみと規模も縮小。
こんなしみったれた政策、重商主義の範疇にも入らん。
国家ビジョンの片鱗さえ無い。
>>大友や有馬と織田は、その経済力・軍事力において比較の対象にもならん
南蛮貿易の貿易量の話をしてたのに何故急に経済力や軍事力の比較になるのかわからん
信長の南蛮貿易が九州の切支丹大名に及ばないことをわかってるからこういうことを言うのかね
貴殿は貿易の恩恵は経済力や軍事力に直結しているという初歩的な事さえ理解できんらしいな。
堺は日本最大の商業都市であり、南蛮貿易の拠点だ。
その経済力は、当時の日本の港や都市の中でも群を抜いていた。
信長はそこに代官を置き、急速に台頭してきた新興商人の今井宗久らと密接な関係を築き、
巨万の富と軍需品を入手していた事も知らんのか・・・
九州の切支丹大名が信長の南蛮貿易に及ばないことをわかっていないからこういうことを言うのかね。
0136人間七七四年
2007/11/03(土) 03:04:01ID:kl2lTM4Q>今まで身分的に半農半兵だった国人層を明確に
「城下にすむ武士」「農村に住む農民」という風に分けることが出来たわけ
そんなの当の昔に、信長がやっている。
>(実態はそれほど明確なものではなく、依然として有力地主の
存在は黙認されたが、彼らが武力権を行使するのは固く禁じられた)
こういう過程を踏むことによって初めて近世身分制度が確立された
調べるの大変だったでしょう。
>信長の専業武士団(これもきちんと説明して欲しい単語だが)云々の話は兵農分離の大筋とは全く関係ない
配下の有力国衆に城下の屋敷を与えて住ませることを持って専業武士団の創設といってるのかもしれないが、
それくらいなら他の大名でもやってる
地主階級の武士は農事などしないから、そんなの当たり前。
兵農未分離の戦国大名では、一般の兵まで城下町に移住させてしまえば、
農業従事者が消滅する事になる。
よってそんな事はできない。
だが織田は違う。
農業から切り離された完全な専業兵士だ。
だから信長は居城の劇的な移転も可能。
信玄のように常に甲斐の躑躅ヶ崎館から出陣し、
遠征していても、またそこに戻って来るという効率の悪い軍事行動をしている守旧派など、
一生かかっても天下取りは無理。
0137人間七七四年
2007/11/03(土) 03:04:40ID:kl2lTM4Q>実際に武田や上杉は農繁期でも必要に応じて軍事行動を起こしています
もちろん農閑期と比べて動員兵力が少なくなったのは事実だが、それは信長も一緒
半農半兵の武田では、農繁期に軍事作戦をすれば、その間誰が農作業するんだ?
大先生にご教授願いたいな。
農業生産高が途絶えれば国は滅ぶ。
因みに川中島の戦い全五回は全て農閑期だ。知ってたか?
しかも激戦となったのは、四回目の永禄四年の戦だけだ。
他は、対陣か小規模抗戦のみ。
織田軍が石山本願寺を五年も攻囲していたのを知ってるか?
兵農分離してなければ、そんなの到底不可能だろ。
そこの司令官だった佐久間信盛がだらだらと無為に日々を過ごし、
怠慢無能を理由に織田家を追われたのは有名な話だ。
>「半農半兵の武田・上杉と違い、常備軍を整備したのが信長の天下統一の秘訣」つうのは
わかりやすいが実態に即したものだとは到底言えない
では織田軍の実態とやらを「わかりやすく」大先生にご説明願おうか。
>谷口克弘みたいに信長の兵農分離神話に異議を唱える研究者は多い
つうかまともな研究者で未だに信長の常備軍云々言ってる人居ないんじゃないの
つうかまともな研究者で未だに信長の兵農分離は神話だと云々言ってる人居ないんじゃないの。
やたら谷口克弘とやらにご執心のようだが、他の専門家や研究者の著述でも読んで比較でもしてみたらどうなんだ。
一個人の偏った意見だけを鵜呑みにしてるようでは・・・
0138人間七七四年
2007/11/03(土) 03:06:15ID:kl2lTM4Q>京の七口は古来から朝廷の支配下として公家衆の重要な収入源になっていた、
それが故に信長ですら手出しが出来なかったつうのが有力な説(脇田修ほか)だが
事実これを廃止した秀吉は公家衆から猛烈な反発を受けている
京に7か所あった関所の関銭は皇室に入らず、山科言継の懐に入っていた。
この人物は、信長の父信秀の代から織田家との所縁深く、
足利義昭の将軍宣下の儀にも参画している。
つまり信長の貴重な朝廷人脈の一人だったわけだ。
だが、秀吉にとっては、旧主の人脈などどうだっていいから、彼の特権を奪ったわけ。
ところで、この関所廃止に反発したっていう公家衆って、いったい何人で誰なんだ?
>後年の薄家との対立(秀吉の命令を無視して諸国の牛から
役銭を取ろうとした薄諸光の謹慎・切腹処分)なんかその最たるものだと言っていい
これって天正十三年の話だろ。
天正十年の関所廃止とは全然関係ない。
どういう意図でこの文を引用したのか、
ここは一つ大先生のご意見を伺いたい。
>七口の関の重要性については既に上でで述べた
別に重要でも何でもない。
織田家さえ掌握していない時の秀吉でさえ簡単に廃止にできるんだから。
>物流の量でいうなら大津や草津みたいな京までの一中継地点とは比べ物にならない
物流の量でいうなら大津や草津は、京みたいな一都市とは比べ物にならない
0139人間七七四年
2007/11/03(土) 03:06:46ID:kl2lTM4Q>七口の関を廃止できなかった信長が「朝廷権威を乗り越える」なんて戯言もいいとこだね
七口の関を廃止した秀吉は、朝廷権威を乗り越えられず、
というか始めから朝廷権威に依存しっ放しで、
その権威を借りなければ全国統一さえできなかったんだが・・・
大先生はこれに関して、どうお思いで?
>七口の関廃止にしてもそうだが秀吉に出来て信長に出来なかった
信長はできなかったのではなく、そうしなかっただけ。
その理由は上記参照。
>戦国時代の土地調査(検地)は名請人の確定、田畑の生産高の把握、年貢や賦役・軍役の設定など戦国大名にとって重要な施策、
それを急務でないというなら信長は他に余程重要な法令を施行してたんですね?
商業資本からの利益還流と刺出検地からの収入だけで、当時の織田家の経済力は他を寄せ付けないほど圧倒的。
秀吉のように農民を酷使し収穫物を収奪する必要もなかった。
信長ほど民に善政を敷いた為政者はいない。
>中途半端な楽市楽座令や無意味な撰銭令がもしかしてそうですか?
その時その時の状況に応じて、臨機応変に改革を広げていっただけ。
でも猪突猛進の強行策こそ素晴らしいとの含みのある大先生のご意見はご立派の一言です。
撰銭令に関しては以前述べたので、参照の事。
>秀吉の勢力がまだ小さかった頃になされた政策を
「全盛期の信長以下の所領だった秀吉が出来たんだから大したことない政策」
その通り。
>秀吉が関東以西を制圧した頃になされた政策は
全盛期の信長以上の所領を持ってるんだから出来て当たり前
マトモだったのは、秀長の生存時まで。
その後は、失政の連続で、自ら豊臣家滅亡の種を撒き散らす無能ぶり。
>信長も本能寺の変が無ければそれくらいやった
なんて根拠なく決め付ける傾向があるね
では本能寺の変が無ければ、信長の天下は秀吉の治世に劣るという、
大先生のご見解を拝聴させていただきましょうか。
>別に君が信長にどんな妄想を抱こうが勝手だが、歴史考証で大事なのは
「上で挙げたような秀吉の改革を、何一つとして現実の信長は実行できなかった」という事実です
以前述べたように、天正十年六月一日時点での世が、
信長が目指した理想の社会でも何でもなく、
単なる一通過点にすぎないという意見、再読願う。
当時は信長の天下統一の総仕上げの真っ最中だ。
世は更に劇的に変わる気運だった。
0140家老典葦 ◆cjzqPVpeh6
2007/11/03(土) 03:43:04ID:uh8ZG+r7陰湿、変態、根暗の三拍子揃った、愉快犯的な犯罪者タイプ
一生小者で終わる、恥ずかしい人生が見えてるなw
0141人間七七四年
2007/11/03(土) 09:58:50ID:kl2lTM4Q陰湿、変態、根暗の三拍子揃った、愉快犯的な犯罪者タイプ
一生小者で終わる、恥ずかしい人生が見えてるなw
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