秀吉は無能な武将
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0001人間七七四年
2007/09/09(日) 10:25:10ID:Lq1A531Y織田の家臣時代華々しい武功を挙げて異常な出世ができたのも、竹中や黒田などの智謀を備えた参謀の存在や秀長の補佐のお陰。
豊臣政権初期から、軍事や政務を秀長や利休にまる投げし、その後は三成ら吏僚グループに遠隔操作され、彼らの政策を後負い追認するだけ。
秀吉が小田原征伐に出張ったのも、秀長が病の床に伏していたからにすぎない。
天下を取ってからは贅沢と女色に溺れ、堕落した生活に埋没。
一人も参謀や軍師を必要とせず、清貧な日常を送った天才信長と比べれば、その能力と品格の差は月とスッポンだ。
0002人間七七四年
2007/09/09(日) 10:30:13ID:vnVFvvdlただ、最下層の出身ゆえに、大多数の人間の気持ちをよく理解でき、それを
最大に利用したというのが勝利の要因だろう。
天才ほど人に媚びたりはできんもんだからな。
0003人間七七四年
2007/09/09(日) 16:34:27ID:J8pfazQm0005人間七七四年
2007/09/09(日) 17:05:08ID:RYyLXrP8やって当たり前のことはそつなくこなすって感じ。
0006人間七七四年
2007/09/09(日) 17:21:39ID:2HNOC4B50007人間七七四年
2007/09/09(日) 19:28:24ID:kpboLqri無謀な朝鮮は三成達に、全部他人任せ。
というレスを大分前にどっかで見たな。
0008人間七七四年
2007/09/11(火) 21:30:57ID:xCFFpJmx0010人間七七四年
2007/09/12(水) 01:04:52ID:mVCeuYL0ロンブーの淳のお気に入り武将
0011人間七七四年
2007/09/12(水) 11:22:58ID:aE8wHHOy秀頼も国松も種親は秀吉でない確率は高いと思うな
0012人間七七四年
2007/09/12(水) 11:28:20ID:P6xIRWOiそれを補完していたのは秀長。
秀長亡き後、秀吉ができうる唯一の豊臣家の維持発展の手法は、バカの一つ覚えの外征のよる領土拡張のみ。
だが、補佐役が誰もいなくなり、初の秀吉単独での戦の遂行で、秀吉本来の能力の底の浅さが露呈。
豊臣家は権力闘争による粛清により、薄っぺらで脆弱な組織と化し、渡海した譜代の家臣達は精神的経済的に消耗して仲たがいし、
対して、危険な外様大名連中はぬくぬく温存。
これじゃあ、豊臣の天下も短命に終わるのは当然だ。
0013人間七七四年
2007/09/12(水) 11:57:44ID:Y091IWzC0014人間七七四年
2007/09/12(水) 12:01:19ID:K+zXuwRiこんな奴にごぼう抜きにされて涙目の諸大名
0015人間七七四年
2007/09/12(水) 12:27:56ID:ourD+Nho0017人間七七四年
2007/09/12(水) 17:16:10ID:e/CMfWx50018人間七七四年
2007/09/12(水) 17:34:10ID:XElo/gdYだな。そんな秀吉が天下を取ってしまったんだから
逆説的に秀吉の有能さを語ってしまっている
自身の至らぬ能力を補う
有能な部下を如何に使いこなすかも主君としての才能
0019人間七七四年
2007/09/12(水) 23:04:32ID:mVCeuYL00020人間七七四年
2007/09/16(日) 21:53:30ID:Y03i9UOq0021人間七七四年
2007/09/19(水) 22:55:58ID:x88re3vz天下取りの能力は(幸運が味方したとはいえ)確かにあったが、天下を治める統治能力に問題があった。
天下取りの手法からして、単に所領安堵の吸収合併では統治構造自体が弱体化しがちだ。
天下取りの後、それを補正することもなく、新たな領土を求めて海外に侵攻し、見事に失敗。
そもそも秀吉には天下統一後の国家感などなかったんだから、致し方ないか。
0022武庫川女子大学総長 ◆gqBBZUnUPk
2007/09/20(木) 00:59:52ID:S8kjnLdcだから彼は北条氏を滅ぼすまでが華で、この翌年に秀長が死去してからは暴走気味になり、晩節を汚すこととなっちまったわけだ。
0023人間七七四年
2007/09/20(木) 01:14:20ID:TREVdXf6まで読んだ
0024人間七七四年
2007/09/20(木) 04:18:27ID:kVF7ChkLワロタww
0025人間七七四年
2007/09/20(木) 10:30:48ID:fFv5q1bCそれに気付き、実行に移す力を持っていたから成しえたこと。
さらに生前、重要家臣の誰一人として秀吉を裏切らなかった。
それは彼に人徳があったからであり、さらに権力・金の力を誰よりも知っていたからだ。
家臣が有能ならリーダーは馬鹿だという理論がどうして成り立つのか。
馬鹿には誰も付いてこない。
0026人間七七四年
2007/09/20(木) 14:36:28ID:6bYzKrjU0027人間七七四年
2007/09/20(木) 15:33:15ID:TREVdXf6あぁ回りに有能なやついないのか
0028人間七七四年
2007/09/20(木) 15:33:58ID:6bYzKrjU0029人間七七四年
2007/09/22(土) 11:44:09ID:BerMQ7Ss信長の実質的な正室は秀吉室の老女にして
信長の息子を切腹させて、その母を磔にして、
嫡流を利用した後、罰してお情けで御伽衆に加えて
信長の娘と姪と孫を多勢の側室の一人に加えて、寵を競わせて
こき使った信長をコケにしたんだから気分よか。
信長も果たせなかった天下人
待てば海路(かいろ)の日和(ひより)あり。を実証した。
0030人間七七四年
2007/09/23(日) 14:21:20ID:GPpqTSU20031人間七七四年
2007/09/25(火) 16:54:50ID:dICpGgR9実物に接するとなにかあるんだろ。
0032人間七七四年
2007/10/01(月) 22:33:34ID:00Kw0Igmこんな人他にいるか?
0033人間七七四年
2007/10/02(火) 06:27:36ID:lr8/B5U0劉邦、ナポレオンも同じ匂いがするね
0034人間七七四年
2007/10/02(火) 17:19:48ID:1eTT9bST0035人間七七四年
2007/10/02(火) 22:26:09ID:ikxOIxb00036人間七七四年
2007/10/03(水) 01:13:26ID:tZUgPA4e0037人間七七四年
2007/10/03(水) 07:59:40ID:4qBmxuFL>彼に人徳があったからであり、さらに権力・金の力を誰よりも知っていたからだ
>馬鹿には誰も付いてこない
単に恩賞目当てじゃねーの
過分な恩賞や領土を与えたからこその豊臣の脆弱な天下
0038人間七七四年
2007/10/03(水) 10:03:24ID:7UT0oTdz秀吉も劉邦も無能
0039人間七七四年
2007/10/03(水) 12:05:41ID:qvZsLzRa独裁者信長は危険視されるタイプ
0040人間七七四年
2007/10/03(水) 12:33:53ID:dbTVARwL1554? 織田信長につかえる。
↓ 台所奉行、薪炭奉行、普請奉行をこなす。
1565 信長の朱印状の副状に、木下藤吉廊秀吉と署名。
1569 京都奉行の任じられる。
1570 金ヶ崎の退陣で殿軍を命じられる。近江横山城の守備を命じられる。
1573 浅井氏の旧領江北三郡をもらう。
1577 中国平定の軍団長に任じられる。
織田家の中での地位の変遷を年表にしてみた。
0041人間七七四年
2007/10/03(水) 12:50:17ID:mbWFGTd4秀吉の実務家としての顔が抜け落ちた。
優秀な部下のおかげで天下が取れたのもあるだろうが、それ以前に本人が有能でな
ければそもそも多くの部下を持つ身分にはなれなかった(特に秀吉には譜代の臣とい
う者がいない)ことを忘れてないかい?
0042人間七七四年
2007/10/03(水) 13:40:22ID:fQYLNZA2信長は神をも凌ぐ世界史上最高の天才
世界を見渡しても対抗できるのは、せいぜい曹操、カエサル、ナポレオンがいるぐらい。
本能寺で倒れさえしなければ、中国、東南アジア、インドまで征服し、
モンゴル帝国以来の巨大な信長帝国が出現していた可能性が高い。
それだけの基盤を受け継ぎながら、朝鮮ごときでしくじった秀吉は、
無能と言うほかない。
0043人間七七四年
2007/10/03(水) 14:30:37ID:2nM/KvSZ>>42天下人の3人でいえば、抜群に織田が優れてるが、軍人としては上杉謙信の足元にも及ばんだろ。
実際ボロ負けしてるしねww
0044人間七七四年
2007/10/03(水) 14:53:47ID:mbWFGTd4読解力皆無?
0045人間七七四年
2007/10/03(水) 15:21:33ID:k/Oa6n8Y秀吉は無能だった
秀吉に敗れた明智、柴田、長宗我部、島津、北条も無能だった
秀吉に屈した徳川、伊達、上杉、毛利も無能だった
秀吉に出世で追い抜かれた前田も無能だった
秀吉を重用した信長も無能だった
信長に敗れた斉藤、浅井、朝倉、本願寺、三好、武田も無能だった
彼ら武家の顔色を伺いながら生きた商人、公家、宣教師、坊主も無能だった
彼らの馬鹿げた戦いに狩り出された農民達は救いようがないほど無能だった
そして、その子孫である我々もたぶん無能者なのだろう
0048人間七七四年
2007/10/04(木) 05:10:52ID:dEa8sicu言いたいことは分かったが
お前の言う孤高の天才織田信長はなんで無能な秀吉を重宝したんだよ
0049人間七七四年
2007/10/04(木) 05:36:34ID:OO6Q/mYG大信長帝国として発展するはずだったのに、
無能な秀吉が跡を継いだばかりに、全部潰されてしまった。
信長は日本を世界初の近代国家へ脱皮させるはずだったのに、
秀吉はその先進的な国家構想を全く理解できていなかった。
0050人間七七四年
2007/10/04(木) 10:49:07ID:+lgPTnPT暴君信長帝国として歴史におぞましい記録を残す可能性があった。
良心の発露による明智の勇気ある行動によって、その危機が免れ、
秀吉が天下を統一し、織田家支配を封印した。
その後を継いだ徳川の鎖国政策によって、
西洋列強の日本支配という魔の手を逃れ、日本独自の文化が隆盛した。
兵器を交えず、戦争のない平和な時代が250年以上続いた。
これは世界的に見ても驚異的なことである。
これをパックス徳川(徳川の平和)と言う。
0051人間七七四年
2007/10/04(木) 11:05:53ID:jHVkgeaJ0052人間七七四年
2007/10/04(木) 11:45:36ID:ZNZJxHjB本能寺で倒れなくたってあんなに謀反がある政権なんて信長の死後ボロボロだろ
0054人間774年
2007/10/04(木) 18:33:22ID:7MNzLNBO無能。無能。って言うが、少なくとも歴史上に有名な武将は有能だと信じるよ
0055人間七七四年
2007/10/04(木) 19:16:59ID:NbOTDVLB身体が資本だから健康管理を気をつけるのは戦国大名の基本、別に信長じゃなくてもしてる。
まぁ農民出の秀吉は権力握ってからは贅沢三昧やりたい放題だが。
0056人間七七四年
2007/10/04(木) 22:17:46ID:dJ0JqKbE結構贅沢もしているし、意外に女漁りも盛んだったり。
だいたい20人以上子がいるんだし。
信長はイメージでかなり得をしている。
0057人間七七四年
2007/10/05(金) 02:07:50ID:FZlRW+XI>少なくとも歴史上に有名な武将は有能だと信じるよ
歴史上有名だが、明らかに無能な武将
⇒朝倉義景、小早川秀秋、福島正則等々
0058人間七七四年
2007/10/05(金) 13:02:04ID:CXrmHSJ/(サン・フェリーペ号乗員の話)
「国王は征服しようと思う国にまず宣教師を送り込む。
そして住民の一部を改宗させるや否や次に軍隊を送り込み、改宗者と合同して易々と征服」
一向宗より遥かにタチが悪い。
秀吉はバテレン神父追放令を出し、
使節団を通じてポルトガル国王へ日本が神道と仏教の国であることを説明して、
宣教師のキリスト布教活動を批判している。
当時の国際状況を鑑みると、秀吉は結構有能だろ?
0059人間七七四年
2007/10/05(金) 15:54:14ID:xuJlmqKf信長や家康よりはましだっただろうが。
0060人間七七四年
2007/10/06(土) 02:54:24ID:NcXSYXiF0061人間七七四年
2007/10/06(土) 02:56:59ID:ILQkywDi0062人間七七四年
2007/10/06(土) 03:00:08ID:NcXSYXiF配役はやっぱり香川照之がベスト・・・
0063人間七七四年
2007/10/06(土) 16:34:55ID:IypfPvjJ0065人間七七四年
2007/10/10(水) 10:08:12ID:vksT/LEp>孤高の天才織田信長はなんで無能な秀吉を重宝したんだよ
秀吉は信長の最高意思決定に沿って、軍略を巡らし外敵を平らげる手駒として有能だっただけ。
信長死後の織田家内の内ゲバも、それまでの軍略政略の延長で乗り切ったにすぎない。
秀吉という武将は、ここまでの器。
その後は、織田の圧倒的軍事力を背景に、信長のトラウマに脅える非織田勢力に対し、恫喝と懐柔による位攻めで日本全土を制圧。
その手法に国家理念のカケラも無い。
国家ビジョンの薄っぺらさは、武田信玄や上杉謙信と似たり寄ったりの地方大名のレベル。
だから、誇大妄想に取り付かれて、国内統一戦と同じ感覚で、安易な外征による軍事侵攻拡張路線を強行して大失敗し、自ら政権の短命化を助長させてしまう間抜けぶり。
加えて、数少ない身内を悪戯に政争に巻き込む愚を犯し、政権組織を致命的に貧弱化させる思慮の浅さ。
つまり秀吉は、天下政権を円滑かつ機能的安定的に運営させるスキルが全く無かったってことだろ。
結論を言えば、武将としての総合力は、実弟秀長のほうが上なんじゃないの。
秀長が生存していた時の豊臣家は右肩上がりの隆盛を極めたが、彼の死後一転して斜陽の階段を下り始めた史実が、それを如実に物語っている。
もし天下統一直後の天正十九年に世を去ったのが秀吉で、秀長が生き残ったとしたら、豊臣家の末路はああも無様に終わらなかっただろうに。
0066人間七七四年
2007/10/10(水) 10:21:11ID:3Vwfm4GEその通り。
日本は天才信長に導かれて、全アジアを征服、
モンゴル帝国以来の巨大な信長帝国として発展するはずだったのに、
無能な秀吉が跡を継いだばかりに、全部潰されてしまった。
信長は、日本を世界初の近代国家へ脱皮させるつもりでいたのに、
秀吉はその驚くべき先進的な国家構想を全く理解できていなかった。
0067人間七七四年
2007/10/10(水) 11:12:42ID:fH3ZhPEO信長一匹ガキ大将だったっけ。
0068人間七七四年
2007/10/10(水) 18:03:03ID:2mjg0hzc0069人間七七四年
2007/10/10(水) 18:06:59ID:9u9ml2D30070人間七七四年
2007/10/10(水) 19:14:53ID:K+w2fjC0信長厨って誇大妄想がすげーなW
【日本史上の】 信長革命 【大転換点】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191811194/
信長帝国の統治体制に関する考察スレ
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1191511445/
0072人間七七四年
2007/10/11(木) 06:49:27ID:WzxQZDsN反論したいなら、個別具体的に間違っている箇所を指摘しろ
それさえできないのなら、だまってろ
0073人間七七四年
2007/10/11(木) 07:33:42ID:bZ1gDPyY0075人間七七四年
2007/10/11(木) 17:35:30ID:pNTR8XL7全部自分でやった、というのなら勝ちきらない戦の連続、秀吉や家康にフォローしてもらってなお
遠回り、結果寝首をかられる、という信長の一生はまさに自分の戦国武将としての限界を
表してることになるな。
ま、おおぼら一代とはなんか似ててユニークだな。
0076人間七七四年
2007/10/11(木) 22:21:31ID:RJn3oRS2八戸のぶながに匹敵するぐらい。
0077人間七七四年
2007/10/11(木) 23:22:28ID:fJexYmjO信長の持ってた国家理念って具体的に何だ?
天下統一半ばで家臣に殺されたということで幾分同情すべき点はあるが、
それまでに為された信長の諸政策を見るととても明確な国家ビジョンとやらを持ってたようには見えないが?
教科書などで特筆される楽市楽座は実際は大商人に対する妥協的な産物で徹底できてないし、
関所廃止も当時の物流の中心であった肝心の京の関所を撤廃してない以上有名無実のもの
海外貿易も殆どしてない、領内では貫高制と石高制の統一すらできてない
つうか流通してる貨幣すら禄に把握できず、何度も効き目の薄い撰銭令を出しては無視されてる
兵農分離も中途半端、検地や刀狩は大和や越前のような一部で限定的に為されただけで特筆には価しない
(越前の刀狩は一次史料自体が殆どなく、明智軍記みたいな後世の軍記物語や柴田勝家名君伝説が中心で実態不明)
信長が出来なかった上記のような政策を成し遂げ、
日本を近世封建制へ移行させたのが秀吉(とその後継者である家康)なんだが
戦上手だったということは認めるが、国家ビジョンという点では秀吉・家康の足元にも及ばないと思うぞ>信長
0078人間七七四年
2007/10/12(金) 00:22:23ID:0CxRf+CI0079人間七七四年
2007/10/14(日) 22:50:24ID:gqALSxvWもっと本質的な部分でこいつらに負けてるよね
家康や清正の人間としての器量とか存在感に明らかに負けている
明智や北条には完全勝利できても上記の連中には永遠に勝てない
0080人間七七四年
2007/10/14(日) 23:09:25ID:YAUrr5Jk0081人間七七四年
2007/10/15(月) 19:21:17ID:a4KWTsrG0082人間七七四年
2007/10/17(水) 13:59:46ID:PW8rOkmt>それまでに為された信長の諸政策を見るととても明確な国家ビジョンとやらを持ってたようには見えない
足利将軍家の否定、比叡山や本願寺などの有力宗教勢力との妥協なき抗戦、朝廷の官位体系からの離脱・・・
これらの施策が、明確な国家ビジョン無しで遂行可能なのか?
>国家ビジョンという点では秀吉・家康の足元にも及ばないと思うぞ
では秀吉、家康の国家ビジョンとは何なのか、根拠となる施策の具体例を明示した上で伺いたいものだ。
秀吉の政策は、その殆どが信長が端緒を開いた施策の延長もしくは応用なんだがな。
>楽市楽座は実際は大商人に対する妥協的な産物で徹底できてない
一切の例外を認めず一斉強行すれば、実体経済が齟齬を来たし、改革自体が頓挫すると思ったからではないのか。
短絡的な理想主義に走らず、現実を正確に見据えた柔軟な策が執れるからこそ、信長は天才なのでは。
家中環境を無視して外様衆を抜擢し、反感を抱いた譜代重臣によって追放させた武田信虎とはエライ違いだとは思わんか。
>関所廃止も当時の物流の中心であった肝心の京の関所を撤廃してない以上有名無実のもの
当時の物流の中心地は京ではない。
大津と草津だ。
局地的な京の七口の関所の存続が、何故他の地域での関所廃止の機能不全を意味するのか、説明願いたい。
>海外貿易も殆どしてない
大津や草津と同様、当時の国際貿易港の堺に代官を置き、支配下に治めている。
信長ほど南蛮貿易の恩恵を受けていた大名はいない。
0083人間七七四年
2007/10/17(水) 14:00:19ID:PW8rOkmt>領内では貫高制と石高制の統一すらできてない
数国単位では統一されている。
統一事業継続中であったため、その地方の慣習を是認した暫定措置なのでは。
秀吉による石高制の確立は、全国的統一政権樹立後。
>流通してる貨幣すら禄に把握できず
当時流通していた貨幣は、信長が関与していない大陸からの輸入銭だ。
しかも、それを模倣した私鋳銭も次々に鋳造され大量に出回り混在していたので、正確な把握など不可能。
>何度も効き目の薄い撰銭令を出しては無視されてる
既存貨幣の流通により実体経済が機能している以上止むを得ない。
天下統一事業の途上であったので、統一通貨の発行は時期尚早だ。
>兵農分離も中途半端
秀吉が行った刀狩による非武士階級の武装解除をもって完璧というならナンセンス。
当時は、農業に従事しない兵の常備軍化にこそ意味がある。
>検地や刀狩は大和や越前のような一部で限定的に為されただけで特筆には価しない
天下統一事業継続中を考慮すれば当然。
秀吉の刀狩令発布は、九州征伐を終え関東以西を制圧した翌年の天正十六年だ。
信長在世時とは環境が違う。
秀吉は、天正十年から検地を行ってはいるが、全国的な一律の手法が実施されたのは、政権が安定してからだ。
>信長が出来なかった上記のような政策を成し遂げ、
日本を近世封建制へ移行させたのが秀吉(とその後継者である家康)
天下統一に目処が付き政権が安定すれば、必然的に可能であったにすぎない。
秀吉は信長の施策が社会にある程度浸透し、機が熟した時に為政者となったからそう見えるだけ。
家康は言うに及ばず。
>戦上手だったということは認める
信長はどちらかというと戦下手。
戦術家・軍略家というより戦略家。
0084人間七七四年
2007/10/17(水) 19:57:00ID:cgQ1VCnoこれ以上何すりゃいいんだよ
0086人間七七四年
2007/10/17(水) 20:33:19ID:8ujpidYCだから無能というのは話が突飛しすぎではないか
0087人間七七四年
2007/10/18(木) 01:35:12ID:5+EfGvar83さんの意見に同意なんだけど、個々の対策なんかが信長の時点では機能してないことや
前例があること、後により発展してることを別の視点で見ると信長はすべてにおいて中途半端、
国家ビジョンみたいなものが見えてこない、そういう解釈につながってるのだろね。
これは個人で切ってしまってるからで、餅のたとえ話みたいに3人を通じて見るとよくその
長所短所が見えてくるように思う。
特に信長は軍事的な統一の真っ只中でそれが最優先だから、その視点をはずして単独で
経済政策とか考えると誤解をうむだろうな。
同じように秀吉家康もその時点での問題点にかなりうまく対処して信長以来のシステムの発展
完成に成功してるから決して信長より下とか、楽して餅食っただけ、みたいな評価も良くない
だろな。
0088人間七七四年
2007/10/18(木) 03:07:48ID:yQaL+LsY世界で初めて日本を近代国家にしようとしていた。
0089人間七七四年
2007/10/18(木) 04:35:26ID:tqLugZa7朝廷の官位体系からの離脱というのは信長が天正6年に右大臣を辞任してから無官状態を貫いたことを指してるんだと思うが、
右大臣みたいな高官を辞した後に無官になるのは当時としては別に珍しくもないごく普通のこと
事実後の話になるが徳川家康も慶長8年に右大臣、翌年に征夷大将軍を辞して散位している
そもそも有名な事実だが、朝廷から高官に就くよう打診された信長はその申し出を断る代わりに、
嫡子信忠(当時既に信長から家督を譲られ名目上は織田家当主)の昇進を希望している
極端な論者は「信長は朝廷の権威を否定し織田王朝を作ろうとしていた」とまで言うが、
もし官位を拒否することによって朝廷の権威を否定するなら後継者信忠の昇進を希望する理由がない
比叡山や本願寺との抗争は端的に言えば信長に反抗的な態度を採るから仕方なく締め上げただけに過ぎない
信長最大の暴挙に数えられる比叡山焼き討ちなんか特に顕著だろう
これなんか浅井・朝倉に露骨に肩入れしている延暦寺にせめて中立を守るよう懇願したが無視され、
それがため強硬手段を採らざるをえなかったというだけでしょ
結果的に彼ら有力宗教勢力の力を殺ぐことにより近世への転換に大きな役割を果たした事実は無視できないが、
当時の信長に今風に言う政教分離みたいな大層な政治上の志向が在ったかどうかは疑問
これは楽市楽座なんかとも関係するが、信長は大和支配に際し既存の座を認めるだけでなく、
新たに旧仏教勢力に座を作る権利を認めてすらいる
信長の宗教政策は極々穏当で妥当といっていいもの、別にその点を非難するわけじゃないが
(自分はむしろ評価してる)それを「妥協なき宗教改革」みたいな文脈で語るのは誤りだろう
0090人間七七四年
2007/10/18(木) 04:36:24ID:tqLugZa7家屋数万を抱える日本最大の都市であった京が物流の中心でなかったらどこが中心なのか?
草津や大津が当時交通の要衝だったのは事実だが、そもそも何故それらが交通の要衝たりえたかといえば
背後に一大消費地である京を抱えていたからだろう
それゆえ京の七口の関所存続は信長の関所廃止政策の
根本的意義(関所廃止による物流の促進)を損なうものだと指摘したんだが、理解していただけただろうか?
>既存貨幣の流通により実体経済が機能している以上止むを得ない
秀吉は天下統一事業の最中である天正16年に後藤光次に命じて天正大判を鋳造させてる
勿論天正大判自体は超高額で製造枚数も少なく、一般の市場に流通するような代物では到底なかったが、
定量表記の通貨を中央政権が鋳造したという事実は日本の貨幣史上特筆に価する出来事だ
この天正大判の鋳造を受けて後の江戸幕府は慶長金銀の鋳造を行い近世貨幣体制を確立、
早くも慶長8年には永楽銭の流通を禁止するまで至っている
要するに既存貨幣の流通で経済が成り立っている以上現状是認はある意味当然の策で妥当な政策だと思うが、
根本的な解決策である統一貨幣の鋳造という政策にまで至ってないのは信長の手抜かりといっていいだろう
別にいきなり大量の統一貨幣を鋳造して旧銭を廃止しなくても、段階的に入れ替えていけばいいわけだからね
秀吉や家康みたいな後の天下人は既存の貨幣流通を容認する一方で着々と貨幣制度の整備を開始し、
(個人ではなく二人の業績だが)わずか二十年足らずでそれを完遂している
必然的に信長が貨幣統制に関してこれら二人より劣った評価になるのは仕方ないと思うが?
0091人間七七四年
2007/10/18(木) 04:39:09ID:tqLugZa7規模で言うなら朱印船貿易を行った豊臣秀吉や徳川家康はおろか、
同時代の大友や有馬なんかと比べても微妙だと思うが
まあ切支丹に改宗までして奴隷貿易に精を出した九州の大名よりは信長の方を評価したいが
>秀吉が行った刀狩による非武士階級の武装解除をもって完璧というならナンセンス
太閤検地による家父長的奴隷制の否定、刀狩による近世的身分の確立こそが近世兵農分離の根幹だというのは定説でしょ
信長の常備軍云々の話こそナンセンス
つうか個人的には信長が常備軍を作ったという話は胡散臭いと思うんだが
武田や上杉あたりの兵制とどう違うのか具体的に指摘して頂きたい
0092人間七七四年
2007/10/18(木) 04:39:46ID:tqLugZa7>天下統一事業の途上であったので
>天下統一事業継続中を考慮すれば当然
やけに信長が天下統一事業の最中であったことを強調してるが、そんなことはこちらも十分に承知している
大事なのはその統一事業の最中に一体どのような改革事業がなされたか、ということだろう
秀吉の太閤検地や刀狩などに代表される豊臣平和令の布告、天正大判の鋳造や石高制への移行統一、
京の関所廃止や楽市楽座の徹底(脇田修のように秀吉の楽市楽座をそれまでの暫定的処置と区別して
特に「破座」と呼ぶ近世封建制の研究者も居る)など、豊臣政権の根幹といっていい基本政策は
全て秀吉の天下統一事業と並行して為されたものなわけだが
例えば天正10年の秀吉による山城国検地(さらっと流されてしまったが)、
これなんか秀吉が当初から明確な意図を持って改革に取り掛かっていたことの証明だろう
信長が永禄11年に上洛して天正10年に本能寺の変で倒れるまでの十余年
(義昭を追放して京を一元支配してから数えても十年弱)の間手付かずでいた山城の土地把握を
まだ織田家の一有力家臣でしかなかった秀吉は行ってるわけだ
それまでにほとんど手付かずでいた改革が天下統一を境として急に完遂されるなんて有り得ない話、
志半ばで倒れた信長に同情するのは結構だが、信長なら先送りにされてた改革を成し遂げれたはず、
なんてのは所詮はifの話、正直真面目に議論する気も起きないね
0093人間七七四年
2007/10/18(木) 10:04:46ID:ZWT91tQr秀吉ごときカスと比べるなど失礼極まりない。
0094人間七七四年
2007/10/18(木) 10:59:08ID:qzssU1gFその時の結論めいたものは、京の関所の廃止は既得権益組に対する影響が大きくすぐに
実行するのは問題があった、すぐに廃止しなかったことを信長の政策の意義を減じるものとする
のは時期尚早ではないか、安土に首都機能が移り京の政治的経済的意義が薄れるにつれて
京の関所も廃止したであろう、そんな感じだったような。
そこから信長は朝廷をどうするつもりだったか、京はどうなっていたか、国家ビジョンはあったか
そういう方向に論がまた広がってしまった感じだったな。
国家ビジョンという点においても、如何にして国内を治めるか、というよりどのような国家を
目指していたか、巷間言われる天皇家簒奪を超えた絶対王政を目指すようになっていたの
のではないか、そんな方まで広がってしまったような。
もちろん仮定だから結論は出ないのだけど、中途半端に見える各改革事業を見てると
国家ビジョンを持ってなかったのではなく部分的改革よりも根本的な解決に視点が
移りかけていた、そういう風にも解釈されてたかな。
フロイスに初めて会った時に質問攻めにしたり新しいものに対する関心は人十倍あったろうから
信長が何を目座していたか、永遠の謎ですますには惜しい話なんだけどね。
0095人間七七四年
2007/10/18(木) 11:16:07ID:qzssU1gF様々な統一改革に手をつけてるよね。
まるで変が起きて自分が次のトップに成りうることを予期していたようだ。
そしてそれを成就、成功してるというのもすごいことで、一体いつからそのような視点、発想を
持っていたのだろう。
キリスト教に対しても最初は信長の頃のままだったろうに、その危険性を察知するといきなり
豹変追放令を出してる。
あくまで機を見るに敏としたら素晴らしい炯眼で驚くばかりだし、すべてこの調子で変後に
統一を目指すものとして自覚行動してたとしたら大変な統一能力者だったことになる。
なので、変前からかなりそういう自覚があったのではないか、そういう風にも考えたいのだけどね。
山城国検地なんかは確かに重要な意味合いがあるものね。
0096人間七七四年
2007/10/18(木) 11:52:14ID:8e3nyEsf0097人間七七四年
2007/10/19(金) 04:06:40ID:BlX4h7Yn0098人間七七四年
2007/10/19(金) 06:01:25ID:roAkxHld0099人間七七四年
2007/10/19(金) 07:26:03ID:FiXUUgry0100人間七七四年
2007/10/19(金) 13:44:31ID:pB2G5gs/0101人間七七四年
2007/10/19(金) 19:04:11ID:sJdhr66p戦国で比べられる者なんていない
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