【政宗】みんな伊達を恐れていた【成実茂庭片倉】
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0087人間七七四年
2008/09/01(月) 01:12:24ID:ridcVTZ3ならば現在の法令と違って、総無事令が当時の大名間で
どの程度の信用性を持っていたのかを論じるべきだ
1587年末の「関東奥両国惣無事令」以降でも大名間の私闘はあったし、
それに対する豊臣政権の対応は様々だろう
郡山合戦(豊臣は芦名に肩入れ。お咎めなし)、摺上原の戦い(政宗から旧芦名領没収するも、芦名の復興はなし)
十五里ヶ原の戦い(本庄・上杉にお咎めなし)
相馬が惣無事令を受け入れるのは滅亡寸前の1590年になってからだが、相馬は本領安堵
安東の湊合戦は惣無事令違反を問われたが、一部を太閤蔵入地とされるのみ
大浦の津軽平定は惣無事令違反を問われたが、一部を太閤蔵入地とされるのみ
一方で南部の訴えは退けられてしまった
こんな感じでいいかい? >>84-85
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