>>301
プッw
政宗が小田原へ出発したあとで、安心した相馬が我らも小田原参陣!と
武装を解いていた隙を狙って、コソドロしようとしただけだろ。
急な伊達の大軍の進撃で、相馬側はロクな準備もできずに、盛胤の隠居城の中村城も籠城準備すらなし。
仕方がないので、籠城準備も兼ねて時を稼ぐため、わずかな兵で城外で迎撃し、一撃して出鼻を挫いて士気を高めてから籠城することになる。
この相馬の攻勢で伊達側の総大将の亘理重宗は見事に大敗し、武将31名という大量の討ち死を出した究極のお笑い戦をした伊達w
相馬側の黒木城代の門馬貞経が運悪く鉄砲に当り落馬したのを潮時に、万が一、大軍の伊達に背後に回り込まれる危惧回避のため、
寡兵の相馬が陣を後退させた際に、味方の後退に遮られ、隆胤が兵を避けた際に水田に落ちて落馬したところで運悪く討ち死に。
しかしうまく撤退した中村城の盛胤騎下は伊達の将を数多討ち取り士気が高く、相馬本拠の小高城の当主義胤の元へ援軍要請をしてるうちに
大被害を受けて崩壊した伊達が勝手に撤退していなくなった。

>>「いまさら政宗の旗下になって名字を残しても甲斐なし。下知に従って家名を汚すよりも、潔く討死せん」と反対。盛胤も遂にこれに同意。
中村城へ戻る。義胤は翌早朝、妙見社に赴き熊野牛王の起請文を焼いて灰とし、御神水でこれを飲み滅亡を覚悟するもの以外は立ち去るも良し。
恨みに思わじと誓約。諸士百姓町人らも加えて三千五百余がこれを飲むと伝わる←バァーカw伝説だってお前自身認めてるじゃんwww
>>関白・羽柴秀吉が私戦厳禁の触れが改めて発布され、伊達家は継戦を断念←はい伊達得意の言い訳捏造ですねwwww

>>302
年表から削ったつもりなんてないよw
政宗の5/9小田原参陣へ出発したトコまで年表化しただけだし。
伊達好きの俺としては、相馬戦での伊達武将31人死亡に唖然として退散した伊達のブザマさを、語るつもりはなかったし。