【政宗】みんな伊達を恐れていた【成実茂庭片倉】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0178人間七七四年
2008/09/04(木) 04:34:55ID:XaRPC9zJ質問1−2
あのね、歴史には流れがあるのよ。惣無事令により佐竹が支援を弱めたのが葦名滅亡の致命傷になったわけ。
惣無事令が無ければ、葦名の重臣対立は表面化することもないわけ。
例えば伊達派だった猪苗代盛国は義広の葦名後継で完全に失権してしまい、佐竹派の盛胤が実権を得てる。
要するに伊達派なんてものは壊滅して無力化してたわけ。義広の葦名就任以降で伊達派なんて持ち出すのは幻想。
>>125の人もそれを指摘してるね→伊達派なんて言えるのは義広との後継争いの政戦略に敗れて伊達の権威が地の底に失墜するまで。
直接引き金を引いたのは惣無事令による佐竹の消極姿勢。
質問2−2
天正16年8月22日に秀吉・家康の圧力に屈して北条氏規が上洛し秀吉に従うとして北条はおとなしくなる
秀吉は天正17年4/19には義重に
「義広と政宗を和睦させろ。天下静謐なのになにやってんだ。
お前の返事次第では富士山を見に行った時にどうなるかわかってんだろうな!」
という威圧の手紙が出されて家中の大反対で義重は動けなくなってる。
それで葦名家中では佐竹の支援がもらえないなら義広を叩き出してしまえと言われる。
質問5−2
奥州に影響力を及ぼしたい政治的野心をもって伊達に恩を売った家康・利家・浅野の取り成しがあったから。
んで、そろそろ箱根に幽閉された政宗が家康・利家・浅野らに
どんな卓越した手法で彼らの歓心を買ったのか教えてくれないかな?
北条征伐はうまくいっており秀吉は上機嫌だったし家康・利家・浅野の斡旋取り成しがあったけど、結局激しい待遇の落差はあったね。
佐竹も岩城が所属することになり、元々葦名は佐竹のモノではないのにも関わらず
葦名の代償として12万石から常陸ほぼ一国の領有を認められ与力込み80万石とも言われ大勝利
伊達は土下座したもののすべての努力が無駄になり天正18年から天正12年時点まで完全リセットで、
休むヒマもない戦の連続で無理してきた家臣団もタダ働きになり労多くして益ナシになり面目を天下に失った。
まぁ葦名・大崎・葛西らを改易して、さらに伊達まで改易したら、
大崎から正室をもらっている同じ斯波一門の最上の動きも予想できなくなるし
奥羽は大乱になるかもしれないから秩序樹立の上での政治的配慮もあっただろうからラッキーだったね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています