葦名まで臣従させた秀吉は天正17年4/19には義重に
「義広と政宗を和睦させろ。天下静謐なのになにやってんだ。
お前の返事次第では富士山を見に行った時にどうなるかわかってんだろうな!」
という威圧の手紙が出されて家中の大反対で義重は動けなくなってる。
それで葦名家中では佐竹の支援がもらえないなら義広を叩き出してしまえと言われる。
これを見ればわかるが佐竹派と伊達派なんて小さい問題ではなく
惣無事令の威令による佐竹の支援弱体化と
葦名内部での秀吉の後援を得た金上の専制に対する反発が葦名を滅亡へ追い込んだ。
そういう意味では猪苗代や大内は大崎・葛西らとなんら変わらない
大局が見えずに金上に勝つと言う小事にこだわり政争をしてたと言える。
(彼らは葦名執政の金上が上杉のと戦いに全力を投入し、大内や猪苗代ら方面の戦線に興味がなかったことを恨んでいた)

つまり惣無事令は年を追って徹底強制力が上がっている。
天正17年に入るともはや脅迫に近いところまで来ている。
また佐竹に接するエリア(北条までビビるのだから石川・岩城・二階堂・白河らも当然に惣無事令にビビる)
伊達以北では北条とつるんでる気になっている伊達が暴れているので
惣無事令が北条や佐竹周囲ほど深刻に受け止められていない。