◆◆ 但馬の戦国時代について ◆◆
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0001人間七七四年
2007/09/03(月) 22:13:52ID:A5luq1hn0185人間七七四年
2009/10/26(月) 23:31:26ID:l7bmSB3qこないだ生野銀山行ってきて、「山名が採掘してた」と聞いたんだけど、やっぱり実態はそんな感じだったか。
まあ山名の領国の雰囲気が感じられて、収穫はあったよw
0187人間七七四年
2009/10/27(火) 02:04:31ID:xsqSv0zn小佐郷の伊達氏(義綱)は山田方の地頭職をめぐって
立石氏(五郎法阿)と相続争いをしてたな。
津付方の道西が義綱と義父子関係を結んで本格的に
立石法阿と争うことになる。
0188人間七七四年
2009/10/29(木) 08:35:31ID:hKhIY3RE八鹿中の裏山が伊達道西の居城だよ。中学の近くに居館があったのでは?
九鹿城の立石氏と対峙してたようだよ。
0189人間七七四年
2009/11/02(月) 11:49:45ID:i3BkNkrG他の攻略軍が手こずってた城を僅かな期間で落として
彼は但馬の実質的な守護(役職としての守護任命は
なかったが)になったんだよね。
0190人間七七四年
2009/11/02(月) 12:57:40ID:3aORfepR伊達・立石両氏ともに城まで築いた争いでしたが、結局、法阿は地頭職を手にできなかったのですよね。
山田方地頭職となった伊達義綱もその後、山名時氏の許へ走り、その職は伊達道西の手中に。
道西の長年の謀事が成ったと見るべきなのですよね。
ただ、それ以降、小佐郷に伊達氏の名が見えなくなってるのは何故でしょうか?
>>188
道西の居館は中学校から100mほど南の辺りではなかったかと思われます。
0191人間七七四年
2009/11/02(月) 18:14:14ID:i3BkNkrG但馬伊達氏(津付、山田)って、ある意味関東の上総武田氏
(庁南、真里谷)の興亡と(もちろん時期は違うが)ダブるんですよね。
0192人間七七四年
2009/11/06(金) 12:47:46ID:9IhLbmFt北朝軍の尖兵として南朝方攻略に当たりますな。
0193人間七七四年
2009/11/06(金) 18:19:04ID:5HqKH6vnややこしいよね。伊達朝綱時代は、南朝方なんだよな。まあ、親分の山名時氏が
南朝に鞍替えしたからなんだけどさ。俺は他国(遠江)人だから、そこのところが
うまくわからないんだよ。
0194人間七七四年
2009/11/07(土) 00:40:52ID:+SqzPCQx0195人間七七四年
2009/11/07(土) 01:46:06ID:2pjEGpf6山田方の朝綱(義綱)は山名時氏に振り回された格好で
北朝から南朝に換わらざるを得なかったけど、
津付方の道西(貞綱)は冷静に事態を見てたね。
小佐郷伊達氏もこれが双方の明暗を分けることになる。
0196人間七七四年
2009/11/10(火) 01:39:01ID:5aeqGWqqどういう事情があったとお考えでしょうか?
0197人間七七四年
2009/11/12(木) 00:50:01ID:ziv9Fa9f朝綱(義綱)・真信親子、つまり山田方は山名時氏について但馬を去ったけど、
津付方、つまり道西の家に何かあったんだろうね。あくまで個人的見解というか推論だが、
跡目争いがあって衰退したか、子の直綱が世継ぎに恵まれなかったか、このあたりではないかな?
素人考えだね。ゴメン。
0198人間七七四年
2009/11/12(木) 03:17:25ID:5btlIN4lご回答ありがとうございます。
実は私もそのように考えています。
何かと同族争いのあった伊達氏ですからね。
他に推察できる史料もないようですし。
0199人間七七四年
2009/11/12(木) 08:55:31ID:ziv9Fa9f文書が引き継がれて遺ったから明らかになったんじゃないすかね?
南禅寺の政所が小佐郷に置かれたでしょうから。てか、但馬の地元住人は
伊達や朝倉の存在は有名なんすか?
私みたいな余所(遠州)者は資料のみの俄か知識でしかないんだけど。
0200人間七七四年
2009/11/12(木) 15:13:03ID:5btlIN4l最終的に足利義満が小佐郷地頭職を南禅寺に寄進した際に
伊達氏の文書も南禅寺に渡ったからですね。
小佐郷地頭職としての伊達氏の初見は承久年間の下知状でしたね。
ちなみに私も但馬人ではないのですが
同地には時おり訪れます。
伊達氏にしても朝倉氏にしても同地を離れて久しく
それほど「有名」ではないようですよ。
0201人間七七四年
2009/11/24(火) 16:10:01ID:SkeiEWnP0202人間七七四年
2009/11/30(月) 12:48:24ID:ps2fqJyV今川駿河守頼貞、桃井盛義、吉良貞家、仁木讃岐守頼勝、長駿河守道全あたりは
どうでしょう?
0203人間七七四年
2009/12/11(金) 09:20:06ID:Kt4G5/DE説もあるんですが、その辺どうなんすかね?
0204人間七七四年
2009/12/13(日) 17:57:41ID:AwhX90RF電話帳には伊達も朝倉もあるけどね〜^。
0205人間七七四年
2009/12/15(火) 00:29:33ID:iLdHLoSp垣屋は山名四天王の筆頭ですね。
>>204
朝倉は但馬が本願地(本貫地)ですからね。
伊達は小佐郷の一族の後裔なんでしょうか?
0206人間七七四年
2010/01/03(日) 14:47:33ID:sfdfLA410207人間七七四年
2010/02/14(日) 10:49:56ID:fDOudjlp0208人間七七四年
2010/03/20(土) 21:00:38ID:El+ozp2I0209人間七七四年
2010/04/18(日) 07:26:11ID:SD22qkXJ0210人間七七四年
2010/05/04(火) 20:45:23ID:eTZOylI2ちがうよ!
0211人間七七四年
2010/05/04(火) 21:10:35ID:iwwnPk8h渡邊大門著『中世後期山名氏の研究』
第一章 戦国期山名氏権力と守護代(19〜57頁)
第二章 戦国期山名氏の発給文書について(59〜89頁)
第三章 戦国期山名氏の内書と副状(91〜121頁)
第四章 戦国期山名氏の官途授与と将軍(123〜138頁)
第五章 南北朝期における但馬守護
― 長氏の動向を中心に ―(139〜157頁)
第六章 『山名家譜』所収の但馬国「円通寺文書」について(159〜171頁)
第七章 文明十五年における山名氏の播磨国侵攻について
― 十五世紀における守護権力の一考察 ―(173〜197頁)
論一 山名是豊関係文書について
― 花押形状の分析を中心に ―(199〜207頁)
付論二 早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵
山名氏関係史料について(209〜215頁)
付論三 宿南保『城跡と史料で語る 但馬の中世史』(217〜221頁)
結(223〜238頁)
0212人間七七四年
2010/05/04(火) 21:13:33ID:eM1yII270213人間七七四年
2010/05/20(木) 21:15:52ID:moNeCLjw坂田真=マコリーノ=マルタ共和国の観光通w
検索してみろ、コイツが「( ゚Д゚)<でいし皿蕎麦はウマい!」って
何年にも渡って毎日どういう動機で書き込みしてたのか想像してみろw
人間とはなんなのか、分からなくなるwwwww
坂田真は大阪府と京都府の府県境に住み、通勤はおそらくJR島本駅?
会社は大阪市内、年齢は40代の独身w
収入は人並みにあるみたいだが、その年で結婚もせず食べ歩きが趣味とか
ホモ?若しくは著しく魅力に乏しい変人だろうねえw
まあ、はっきり言えばマルタはすばらしいとか、高尚なこと言ってても
ただの50ガラミの独身のド変態だw
40超えて人並み以上の収入があるのに結婚できん奴ってやっぱり
なんか裏にはげしいド変態なサイコな面があるんだなあって妙に納得w
坂田マコリーノよ、こんなことしとらんでハヨ結婚せえよwwwww無理だろけどw
0214人間七七四年
2010/07/19(月) 21:08:39ID:E7EZpg/b0215人間七七四年
2010/09/18(土) 15:41:02ID:8ADiITyW0216人間七七四年
2010/12/07(火) 23:25:46ID:iQ1Fae6Bでも杉原っていうのはいなかった。
0217人間七七四年
2011/01/03(月) 18:26:44ID:To+njutw0218人間七七四年
2011/10/07(金) 10:49:37.82ID:LgeKScnE0219人間七七四年
2012/04/01(日) 15:56:32.34ID:2aQi2qiA0220人間七七四年
2012/04/08(日) 16:37:49.62ID:006DBO4H0221人間七七四年
2013/05/26(日) 15:37:13.46ID:Kev0upH3羽柴秀吉軍との間で激しい戦いが行われた防己尾城1581年(天正9年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際は毛利氏に与し、居城・防己尾城に拠って羽柴軍を迎え撃っている。秀吉軍の防己尾城攻撃は合計3回行われたが、
定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法で、
いずれの時も秀吉軍を撃退している。特に2度目の攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。
しかしその後は秀吉軍の長囲による兵糧攻めにあって落城する。城を出た吉岡氏一族は帰農した。
また、この一族から池田氏の藩政時に登用された者もいたが、明治維新以後は大阪などへ移住したため、鳥取県には吉岡温泉郷などの地名は現存するが、吉岡姓は少ない。
0222人間七七四年
2013/06/01(土) 08:47:29.14ID:crOfVRdj但馬山名氏家臣。
官途は美濃守。但馬朝来郡物部城に拠る。
1575年、織田氏に対抗するため山名氏と毛利氏との間の和約締結に
尽力した。
0223人間七七四年
2013/09/01(日) 11:00:56.38ID:dv8bhmd+渡邊大門著『中世後期山名氏の研究』
第一章 戦国期山名氏権力と守護代(19〜57頁)
第二章 戦国期山名氏の発給文書について(59〜89頁)
第三章 戦国期山名氏の内書と副状(91〜121頁)
第四章 戦国期山名氏の官途授与と将軍(123〜138頁)
第五章 南北朝期における但馬守護
― 長氏の動向を中心に ―(139〜157頁)
第六章 『山名家譜』所収の但馬国「円通寺文書」について(159〜171頁)
第七章 文明十五年における山名氏の播磨国侵攻について
― 十五世紀における守護権力の一考察 ―(173〜197頁)
論一 山名是豊関係文書について
― 花押形状の分析を中心に ―(199〜207頁)
付論二 早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵
山名氏関係史料について(209〜215頁)
付論三 宿南保『城跡と史料で語る 但馬の中世史』(217〜221頁)
結(223〜238頁)
0224人間七七四年
2013/09/22(日) 16:26:07.84ID:AnC5gjXE備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0225人間七七四年
2013/11/03(日) 12:16:51.66ID:7V71N04R0226人間七七四年
2013/11/04(月) 09:44:07.03ID:qkWdgj+B0227人間七七四年
2013/11/22(金) 14:43:42.31ID:A6clBTET出石(いずし)そばうまかった
0228人間七七四年
2013/11/24(日) 18:09:55.77ID:JdA0rXbs戦国期山陰の海賊。前歴不明であるが、但馬城崎郡の出身。
永禄12年(1596)6月、尼子再興をはかった尼子勝久・山中幸盛に
応じて隠岐に渡島し、さらに出雲忠山に上陸した。
元亀元年(1570)10月、尼子の船手大将として満願寺城を攻める。
天正元年(1573)、西方から山陰に進出した吉川元春に降伏。
同9年、山陰進出の豊臣秀吉が吉川経家の鳥取城を陥落させた際、
海賊行為のゆえに近隣の丸山城で自刃を命ぜられ、
10月24日、佐々木三郎右衛門らと自刃.
0229人間七七四年
2013/11/25(月) 13:44:33.19ID:jja7QeOi0230人間七七四年
2014/01/26(日) 18:23:44.33ID:7elr5IWY夜は餃子の王将で和田山ラーメンとビール飲んだな。
日が落ちてきたので竹田城を降りる時に小学校の裏側に出る道を選んだら以外と道のりが長くエラい勢いで山林が暗くなり急いで降りましたw
0231人間七七四年
2014/01/28(火) 18:36:34.55ID:/N1sF45F0232人間七七四年
2014/02/07(金) 23:29:47.70ID:BvMT0myEじっぷら、新スレ立ちました
【玉子】出石そばをたべよう 792枚目【とろろ】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1391095723/
( ゚Д゚)<でいし皿蕎麦はウマい!
0233人間七七四年
2014/10/19(日) 16:54:26.81ID:Bsw3rRdA0234人間七七四年
2015/07/12(日) 00:52:13.91ID:AY5GSKdr0235人間七七四年
2015/11/14(土) 09:08:03.72ID:d/fMgx43■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています