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毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5

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0001人間七七四年2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR
過去スレ

毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/

毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0643人間七七四年2007/09/27(木) 00:02:06ID:puHuVypP
>>642
小県や筑摩については一時的に攻め込まれてはいても、武田の領土で良いと思いますよ。
しかしそこまで攻め込まれるような状況で、北信濃は武田の領土でしたと言うのは、
さすがにおかしいでしょうと。
確かに更科埴科位が限度で、それより北については長尾と抗争中ってところでしょう。
そして最終的には飯田等信越国境沿いの一部の城以外は武田の領有になったと。

あと、4kmしか北上していないというのはさすがにどうかと?
二次の時点での長尾側の城であった葛山城から、最終的に上杉側に残った飯田城まででも、
20km以上はあるし、一次以前で武田が占拠した村上の旧本拠地葛尾城からなら、
ざっと50kmくらいはあったと思うけど。
0644人間七七四年2007/09/27(木) 00:07:34ID:1rfZ6I03
>>643
犀川以北は微妙
確実に武田領と言えそうなのは犀川以南でしょ
1568年の飯山攻めでもいくつかの城を落としたものの取り返されるか放棄している

最も犀川以北が上杉領かと問われればこれもまた微妙だが
飯山以北は確実に上杉領としても
0645人間七七四年2007/09/27(木) 00:11:31ID:+J7glJQ6
毛利元就がもうちょっと遅く生まれて
伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
上杉謙信がもうちょっと長生きして
足利義輝が三好衆に殺されなくて
斎藤道三が、息子と仲良くて

なんてのが史実だったら・・・

戦国時代に、信長とか家康っていなかっただろうな。

たぶん
0646人間七七四年2007/09/27(木) 00:14:28ID:ODyRPSiG
また変なのが来たよ、いや同じ奴か
0647人間七七四年2007/09/27(木) 00:53:19ID:djoTB1fD
>>毛利元就がもうちょっと遅く生まれて
有田合戦に間に合わず、一国人で終了もしくは武田に滅ぼされる。
>>伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
父親がしてくれた陸奥統一からやり直し
>>上杉謙信がもうちょっと長生きして
柴田にアッサリ滅ぼされて大恥
>>足利義輝が三好衆に殺されなくて
勢力均衡で京都の混乱はむしろ拡大
>>斎藤道三が、息子と仲良くて
名将義龍が急死したおかげで信長は美濃を攻略できた、微妙なところ
0648人間七七四年2007/09/27(木) 01:12:12ID:XhJCbZho
元就があの時代に生まれなきゃ有田合戦で毛利滅亡してたのはガチ。元就なら浪人から尼子大内に士官しても大名になれそうだが。
政宗は先代の功績のお陰で50万石相当から飛躍出来た訳だから苦労するだけ。
謙信長生きは微妙。織田ないしは豊臣勢力に負けて従属するだろうが、後継者問題に対応出来れば後の上杉家の権勢は強まるはず。
義輝生きてりゃどうなるかな。信長の畿内制圧までの手間暇が増える大筋は変わらんかと。
道三が息子と仲良し=親子共に信長と仲良しと仮定すりゃ信長の上洛は早まる。どうせ義龍が急死するんなら龍興の代に力は削がれるだろう。

こんな感じの予想。
0649人間七七四年2007/09/27(木) 07:46:35ID:puHuVypP
>>644
尼巌城とか、犀川以南でも第3次までは武田領ではなかった城も一部あるしね。
もちろん、川中島以北も確かに上杉領だったともいえないでしょう。
上杉に近いといっても独立した国人領主が存在していたわけだから。

それらの国人領主に侵略の手を伸ばす信玄、
その国人領主からの救援要請を受けて兵を出す謙信、という図式を取りながら、
実質的にその地域の支配権を賭けて両者が争ったのが川中島の戦いといってよいでしょう。
そして、最終的にはその地域の大部分は武田家の領土となったと。

ただし、膨大な時間をと人的犠牲を伴ったものであり、
元就のような劇的な領土拡大に比べると、いささか見劣りするのは否めないと。
0650人間七七四年2007/09/27(木) 11:32:19ID:NdB4UPRJ
だから川中島の入り口から犀川付近まで
距離にして4キロから5キロほど北上したということになるのか。

ただ善光寺は信玄が本尊を甲斐に強奪したことでその権益手に入れているけど。
0651人間七七四年2007/09/27(木) 13:55:12ID:GWTkT5wL
駿河から善光寺経由で越後ないし上野へ抜ける、当時の通商ルートの肝だったって背景もあるだろうね>川中島の泥仕合
0652人間七七四年2007/09/27(木) 14:14:52ID:/zcKgwrK
毛利氏の生き残りと武田氏の滅亡は
織田氏本拠岐阜安土から
武田氏甲府へ、毛利氏安芸吉田への距離の違い
織田徳川と武田の衝突は勢力圏の境目で日常茶飯事
織田と毛利の衝突は本願寺がらみで一向宗を支援
しなければ毛利内部が持たないというやむなき事情から。
本願寺が対織田戦で撤退した後は毛利は自分たちを如何に
織田に高く売るかを考えて織田と戦い続ければいいだけ。
0653人間七七四年2007/09/27(木) 19:36:21ID:puHuVypP
>>650
いやさすがに、川中島の戦い終了後には武田の勢力圏は犀川以北どころか、
越後国境近くにまで及んでいるでしょう。
例えば、1568年の侵攻の際には、飯田城は落とせなかったが、
水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが、
島津文書等で確認できる。

つまり、村上を追った段階からすれば、
ざっと4・50qほど勢力圏を北上させたということになる。
まあ、足掛け15年からの時間を必要としたわけだが…。
0654人間七七四年2007/09/27(木) 19:45:39ID:VkMH3bMi
まぁ実際川中島での武田の被害がどんなもんだったかによるな(戦略的勝利)
本当に3000も4000も死んでるなら戦略的にも大敗だ
重臣何人も死んでる時点で戦略的にもせいぜい引き分けが限度だが、国力が疲弊するほどの大敗を喫したのなら…
0655人間七七四年2007/09/27(木) 20:27:40ID:puHuVypP
>>654
最大の激戦といわれる第四次川中島の戦いのわずか2ヵ月後に、
信玄謙信ともに上野に兵を出し再び対峙し、武田は上野の豪族を降伏させたりしている。
つまり実際には、川中島の戦い直後ですら軍を動かせないほどの消耗はしていなかったということ。

それに熟練の重臣が死ぬのは確かに痛手だが、どこの家にも跡取りは通常いるのだから、
恒久的な国力低下には結びつかない。多少なりとも領土が増えて知行宛行が出来るなら、
それは国力増強になり、長期的には以前よりも勢力を増すことが出来る。
つまり、戦略的に勝ったといえる。

実際、武田が川中島や上野での多年に及ぶ戦の末得た土地は、
少なくとも20〜30万石くらいにはなるはず。
上杉との抗争以前の武田領が、せいぜい50万石くらいだったことを思えば、
武田家にとってはかなり意味があったといえるでしょう
まあ、毛利や織田のような拡大に比べると見劣りするのは致し方ないが。
0656人間七七四年2007/09/27(木) 20:40:30ID:2LOSfZpC
>>653
>水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが
それは支配範囲をはかるという点においてはあまりあてにならない、
敵地を恩賞として与える、支配していない者が後にその地を支配することを保証するなど
その時点では空手形と言えるものも多々含まれてる

で1568年の水内への所領安堵や宛行等は武田が兵を引くと似たようなことを謙信もやっているしね

更に言うならお互い飛騨や越中にも同様に
でもそれを持って支配しているとはやや言いがたいし
0657人間七七四年2007/09/27(木) 20:46:34ID:puHuVypP
>>656
しかし、実際その頃前後の武田郡の侵攻は、
飯田城や野尻城といった信濃最北端、国境付近の上杉方の城に対して行われていて、
それ以南で上杉方に属して武田と戦った城なんてなくなっているわけだし。
0658人間七七四年2007/09/27(木) 21:24:58ID:puHuVypP
申し訳ない。ずっと間違えていたけど。
飯田城ではなくて飯山城ですね。
飯田じゃあ南信になってしまう…。
失礼しました。
0659人間七七四年2007/09/27(木) 22:50:24ID:G7I1TBgI
>>655
戦国時代の領土ってば面より点と線だから、そういう意味では川中島や上野と
いう場所は単純に石高では出せない超重要地点だと思う。

ただ甲斐の武田が握るには荷が重過ぎるし、メリットも少ない。これが上杉や
北条なら物流の流れを支配できるから大きかったと思う。労を考えれば東海か
関東に出た方が良かったと思うね。結局甲斐と信濃がワンセット(血縁や先代
から受け継いだ領地、因縁等)だったのが信玄の不運だな。
0660人間七七四年2007/09/28(金) 00:42:02ID:Jg2W4Yxh
>>659
関東に進出したら北条が黙っていないだろうし、東海に出ようにも全盛期の今川を相手にするのか?
0661人間七七四年2007/09/28(金) 21:45:58ID:gdELkkU8
全盛期の今川なんて相手にしたら信玄は瞬殺されるぞ
大体そもそも義元の子分だからな信玄は…
0662人間七七四年2007/09/28(金) 21:55:56ID:8pnxf4aH
信長の信は武田信玄の信だろ
それだけ信長が信玄を恐れ敬っていたのがわかる
どう考えても毛利より武田が格上
0663人間七七四年2007/09/28(金) 22:11:07ID:WK/dEm2C
釣りだよな?
0664人間七七四年2007/09/28(金) 22:16:43ID:oX4pSCf3
しかも晴信ではなく信玄の信というところが程度の低さ表してるな。
信秀は予知でもできたんですかね
0665人間七七四年2007/09/29(土) 00:10:35ID:NsFhp5/a
馬鹿が釣り知恵遅れがかかる
0666人間七七四年2007/09/29(土) 00:38:28ID:16M5FImB
基地外は自分の無知を釣りと言い張る
0667人間七七四年2007/09/29(土) 12:47:36ID:nUNbvY2f
武田信玄・勝頼は三方が原などで織田徳川連合軍の名のある武将を多少は討ち取っている
毛利は織田・秀吉方の武将を誰一人として討ち取れていない

どう考えても武田>>>>>毛利だろ
0668人間七七四年2007/09/29(土) 13:40:38ID:8NQlR95I
だったら、
朝倉>>>>>>>>>>武田>>>>>毛利
になるな、その理屈だと
0669人間七七四年2007/09/29(土) 20:36:57ID:nRCuf/He
名のある武将の基準って具体的に何を指すんだ?
0670人間七七四年2007/09/29(土) 20:37:32ID:NsFhp5/a
そんなもんだろ。
朝倉は実際凄かった。
0671人間七七四年2007/09/29(土) 21:13:09ID:16M5FImB
朝倉義景>>>>>>>>>>武田信玄>>>>>毛利輝元

なだけで、終生互いに警戒しあい敬意も表しあっていた毛利元就と織田信長の両雄を比べるのは不可能
0672人間七七四年2007/09/29(土) 21:14:18ID:16M5FImB
ごめん。よく考えたら毛利輝元>武田信玄だわ。
信玄なんかより下にしてごめんよ輝元。
0673人間七七四年2007/09/30(日) 01:23:26ID:RC3SY4b3
輝元は戦(ってより決断力?)は最悪だけど内政はそこそこ優秀だよ
0674人間七七四年2007/09/30(日) 01:47:37ID:FP2r4aL+
毛利なんて真田と同じようなもんだろ
武田が大内で
義隆がボンクラだから乗っ取ることができなかっただけの差

0675人間七七四年2007/09/30(日) 02:03:14ID:w1uGEeFg
朝倉ってあの惨めな滅び方をした朝倉?
武田や輝元と比べるなんておこがましいよw
0676人間七七四年2007/09/30(日) 02:30:26ID:AqIUZ5d1
>>674
意味不明だから誰か解説頼む

>>675
おいおい武田の滅亡の仕方なんて朝倉と同じようなもんだろw
もしかして武田ってのは甲斐武田家じゃなくて安芸武田家の事か?
0677人間七七四年2007/09/30(日) 07:14:26ID:Ywtz0i7+
大名毛利と田舎武将武田じゃ比べるのに無理がありすぎ
信玄は早死にしたし、息子も自殺してお家断絶
笠原新三郎清繁の祟りだなw
0678人間七七四年2007/09/30(日) 07:40:47ID:ilbB004t
安芸の山猿
0679人間七七四年2007/09/30(日) 09:30:17ID:+6Qb7AMw
山となるとそれこそ甲斐の方が(ry
0680人間七七四年2007/09/30(日) 11:52:51ID:9nlzflM8
どうみても中国地方自体、東北四国と並ぶ土田舎ベスト3です
東北と中国が本州最果てですからね^^
0681人間七七四年2007/09/30(日) 12:13:00ID:zgVnU2LB
土田舎ベスト3なら明らかに甲信のほうになるじゃないか
中国地方は日本に古代政権が誕生した以前から活発な経済活動が行われていた地域
平家の勢力があった時代より大陸貿易の中心地
瀬戸内海の水運海運貿易も盛んで、文化度も高かった
現在でも日本有数の工業地帯の一つ・瀬戸内工業地帯を抱えている
0682人間七七四年2007/09/30(日) 13:11:02ID:RC3SY4b3
甲信とかくそ田舎だよ。
中国地方はは京都に近いからかなり発達している。
戦国時代の関東の城って瓦とか近代的な設備が全くでないんだろ?
それくらい遅れてる
0683人間七七四年2007/09/30(日) 13:31:13ID:l1Z8Yrc8
安芸武田は都会
甲州武田は田舎
若狭武田は都心
0684人間七七四年2007/09/30(日) 14:39:49ID:WgoKZPPZ
俺も毛利贔屓だけど、今の議論は明らかに可笑しい。
そりゃ甲斐や信濃は山岳部が多くて全国的に見れば圧倒的に田舎だが、信玄の
本拠地は甲府盆地の中で文化的にも経済的にも圧倒的に都会ですよ。
当時の中国地方であそこまでの文化都市は数都市有るか無いかだろ?
ましてや元就にとっては全く関係ない。

元就の時代一族で信玄並みの都会暮らししたのは隆元だけじゃん><
0685人間七七四年2007/09/30(日) 19:17:16ID:mqMNGcao
どう考えても山口の方が数段も上です。本当に(ry

まぁ要するにド田舎の中じゃ一番発展してる(半分以上金山のお陰)有利な本拠地から出発して
豪族が支配するド田舎の甲斐信濃をへいこら平定したのが武田
中国地方の中じゃ田舎の部類に入る安芸から出発して
大大名の支配する都会の中国地方をなんとか平定したのが毛利

海路を活かして交易が盛んだった中国地方と
移動が困難で行商すらロクに訪れない山の中の甲斐信濃じゃ文化レベルに差があるのは当たり前。
むしろ信玄は、その生涯の終盤において、ようやくまともに大名の今川氏真に勝って
駿河という海に面した都会を初めて手に入れられたんだから
もっとその事を誇るべき。これは上杉北条との十年以上もの消耗戦なんか目じゃないくらい凄い事。
0686人間七七四年2007/10/02(火) 07:58:30ID:tCpT1lfb
毛利の寡兵の戦も捏造じゃねー
こんなもの捏造だ
0687人間七七四年2007/10/02(火) 15:25:00ID:c/RXBfoq
ふぁびょーん
0688人間七七四年2007/10/02(火) 16:37:07ID:f7982CjJ
中国地方っていつからの呼称なんだ?
0689人間七七四年2007/10/02(火) 22:54:53ID:AjzCLUER
近国、中国、遠国から来ているという説
だと延喜式以来ということになります
0690人間七七四年2007/10/03(水) 00:44:06ID:aFnRQf4O
指輪物語の中つ国ってのはミッドランドの邦訳かね?
0691人間七七四年2007/10/03(水) 01:37:37ID:cVoAdMGY
春日山、小田原、鎌倉、平井、この辺りは当時全国有数の大都市ですが。
0692人間七七四年2007/10/03(水) 01:39:30ID:h1WJSOai
>>690
クウェンヤがEndor、シンダール語がEnnor、西方語の英訳がMiddle-earth、西方語の和訳が中つ国。
由来はミッドガルドらしい。

>>689
しかし延喜式だと山陰山陽のうち因幡・伯耆・出雲・備中・備後しか中国でないという不思議。
0693人間七七四年2007/10/03(水) 01:40:28ID:aFnRQf4O
京にしくはなし
0694人間七七四年2007/10/03(水) 02:17:15ID:VDfvc0dJ
7万石の雑賀孫一や烏合の衆のたった700人の伊勢長島一向一揆の切り込み。
彼らが織田に与えた損害のほうがはるかにでかいってのが情けないよね。
毛利も武田も。
0695人間七七四年2007/10/03(水) 02:41:46ID:64JL4ZSq
毛利と武田はどっちが由緒ある家柄だったの?
0696人間七七四年2007/10/03(水) 04:48:22ID:QLfNLfcQ
毛利は鎌倉までさかのぼれるくらい、実は歴史古いらしいが、そこまで
さかのぼると、ほとんど地侍レベルの地頭に毛が生えた程度の家柄らしい。

武田は・・・比較にならんね。源氏の名家だ。
詳しい話は誰か任せたw
0697人間七七四年2007/10/03(水) 18:52:14ID:1OlhVLVO
このサイトで家系図さかのぼれる

ttp://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/o-e_sugawara/oe-sugawara_4.html

毛利の場合大江広元になるかな源流をさらにさかのぼると菅原道真の菅家にまで行きつく
元就の嫁さんの実家吉川家をさかのぼると藤原道長・藤原不比等・藤原鎌足の
大化の改新までいけるね。

0698人間七七四年2007/10/03(水) 20:10:32ID:4f0SPzwm
毛利つうか大江氏の場合神話まで遡っちゃう
日本書紀の野見宿禰という相撲の神様が始祖という話
そこから土師氏→大枝→大江となったらしい
一族の大江匡房は源義家に兵法を教えたとされるから源氏とのつながりはかなり古い

武田の方は言うまでもなく清和源氏。清和源氏ってのは初代の経基と
二代目の満仲の親子関係はかなりの眉唾物だったりする
0699人間七七四年2007/10/03(水) 20:54:27ID:FOVGmwSF
知識ある人多いね、ここ
スレタイに武田って入ってるスレにしては珍しい
0700人間七七四年2007/10/03(水) 22:33:22ID:zZ5Ps0Xz
まぁwiki見ながら書いてる文だが
0701人間七七四年2007/10/13(土) 12:29:42ID://51KH7D
なんでこんな糞スレがその5までいってんだよwwww
どう考えても元就の方が上だろwwwwwwwwww
0702人間七七四年2007/10/15(月) 01:57:52ID:80iERg2+
まーどう考えても元就の方が上だから安心して議論できるというのがスレ伸びた理由かと
0703人間七七四年2007/10/15(月) 02:22:03ID:/vrugPDx
>702
ちょっと待て。メガ豚君の貢献を忘れるな
0704人間七七四年2007/10/15(月) 02:25:36ID:XqLKnPnw
前スレまでは結構濃いスレだったな
史実やら最近の研究やらと
0705人間七七四年2007/10/15(月) 02:38:05ID:mIYVh0xb
武田厨が毛利を叩く口実
・陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ
・所詮雑魚相手に領土を広げただけ
・中国は田舎
・大友程度に負けた
・上洛できないへたれ
・武将に華がない地味な奴等ばかり
関係ないのに出る話題・武田は信長相手に長篠以降も七年もったのに毛利は(笑)


毛利厨が武田を叩く口実
・三国同盟合ったのに拡大した領土は…?
・豪族連合にふるぼっこされてる
・結局滅ぼした大名は弱体化した今川くらいじゃないか
・手当たり次第に裏切り
・負の遺産を残しまくり


って感じかな
0706人間七七四年2007/10/15(月) 03:34:26ID:XqLKnPnw
>>705
面白いのは前者は事実とは大きく異なるのに対し
後者は事実に近い意見ということか
0707人間七七四年2007/10/15(月) 18:00:32ID:Gz3ZSsim
>705
>毛利厨が武田を叩く口実
金山、棒道など実際はよくわからないものも信玄の功績にして全力でマンセーってのもあるね。
まあ一応武田厨の「陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ」って話を弁護すると、

最近の研究の厳島合戦
・陶の厳島布陣は予定の行動。桂元澄の偽装の寝返り、江良粛清の話は根拠なし。

・小早川隆景は村上水軍を率いて陶の水軍を倒してない。ていうか毛利側に援軍で来たのは来島のみ。
 能島は陶側に味方。

・陶軍が20000は多すぎ。実際は陶と大内、あと宗像とか九州の国人がちらほら。
 毛利軍も3000は確実にいた。


最近の研究の尼子晴久
・吉田郡山合戦は晴久がごり押しで始めたものではなく、計画されたもの。
 毛利は活躍したが、大内の後詰も果たした役割は大きい。

・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。


あと和智郷合戦では経久軍を毛利を中心とした国人連合はフルボッコにしてたりもする.
0708人間七七四年2007/10/15(月) 20:33:20ID:DlwrMKhd
>>707
>・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。
その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?

>最近の研究の尼子晴久
計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?

最近の研究も糞も最初からその説じゃねえか。
面白い新発見だな
0709人間七七四年2007/10/15(月) 22:56:06ID:cdLxP0Hg
>709
>その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?
最近じゃ新宮党粛清に元就が関与した可能性には否定的。
元就の謀略って話も陰徳太平記の話だし。

>計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
>大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?
あのさぁ・・・誰が以上の部分が覆ったとか書いたのよ。
自分が書いたのは今まで良く言われてきた晴久が経久の反対を押し切って初めたんではなく、毛利攻めは当初から
計画されていたこと、大内(陶)の話が過少だって書いてるんだけど?
0710人間七七四年2007/10/16(火) 02:01:58ID:IQfcF0Ix
国久は別に無能じゃないけどね。
浦上やらとやりあって上手くいってるし。
次代が駄目すぎたけど
0711人間七七四年2007/10/16(火) 12:33:57ID:5+ae/c0D
まぁ経久を持ち上げようとして晴久に責任を押し付けてきた感じは否めないな。
信玄と勝頼を見ても分かる通り、滅亡した勢力の先代は過剰評価されちゃうもんだ。
0712人間七七四年2007/10/16(火) 12:41:32ID:5+ae/c0D
あ、>>711に付け足すと
正確には尼子滅びたの晴久の代じゃなく息子の義久の代なんだけど
どっちにしろ元就との対立以降の尼子は
良いとこは全部経久の手柄にして(実際に経久は英雄だったけどさー)
悪いとこは全部晴久の罪にしちゃう(義久は年齢的に冤罪は被らない)
って感じに思えるから。

なんか無視しちゃって御免よ義久。
山中の反乱時にも、でしゃばらずに毛利傘下で尼子の家名守ったのは
不義理と非難されようと立派な事だと思ってるよ、俺は。
0713人間七七四年2007/10/16(火) 18:43:08ID:dgvHzpk4
尼子の周りが敵だらけなのも毛利が尼子から去ったのも元はといえば経久のせいだもんな
晴久の責任といえばいきなり死んじゃったことだ。そのせいで雲芸和議という大失策
やらかすはめになったんだし
0714人間七七四年2007/10/17(水) 11:46:02ID:1zBRabu+
ここで尼子の話をするのも変だが、武田ファンは全く尼子なんて知らないだろう
から言えば、尼子は実質晴久(詮久)の代から戦国大名として有名に成った。
今川で言えば義元、武田なら信玄、上杉なら謙信、北条なら氏康、織田なら信長
と当たり前のように言われるのに、尼子は何故か経久。
晴久が受け継いだのは上記の武将陣とほぼ同じくらいの相続です。11国の太守と
後年経久が言われるのは、江戸時代になって元就の10国の太守に1つ足して11国
と経久の肖像に書き加えたのが始まり、実際は晴久の8ヶ国守護(経久は出雲守護
ですらない)が正式な役職。晴久は経久から受け継いだ領地を増やしはしたが減ら
しては居ない、対毛利に措いて決定的な一敗地を期したが後年はそれを十分挽回し
ている。
0715人間七七四年2007/10/17(水) 12:14:29ID:NIhGr4sb
>>今川で言えば義元、武田なら信玄、上杉なら謙信、北条なら氏康、織田なら信長
>>晴久が受け継いだのは上記の武将陣とほぼ同じくらいの相続です

その武将陣に開きがありすぎてどれと同じくらいなのかわかりにくい。
氏康なんか伊豆・相模・武蔵(完全ではないけど)・駿河の一部で70万石くらいは
引き継いでいたはずでは。
0716人間七七四年2007/10/17(水) 14:36:58ID:Vco0l566
話をややこしくするのは晴久の治世を何処からと数えるかだな
経久は晩年どの程度政権運営に携わっていたのか
0717人間七七四年2007/10/17(水) 15:08:09ID:1zBRabu+
俺も石高で言えば北条は違うとは思う。

だが戦国時代で重要なのは、面じゃなく点と線、そして権威や親族と言ったただ
石高だけでは計れないものの方が大きい。そう言った意味では氏康は上記の連中
と同じくらいのレベルだと思う。

晴久について言えば父親が死んだのは未だ4歳くらいの年だが、正式に家督を継い
で当主となった天文6年(1537年)で良いと思う。当時晴久は24歳、経久に至って
は80歳でその4年後には亡くなっている。元就(67歳)と輝元(11歳)の関係とは
少しニアンスが変ってくる。軍事権の移譲が家督相続の転機だと思うな。実際、晴
久は相続してから直ぐに自ら軍を動かし、経久が叔父と共に止めても独自に行動し
ている。
0718人間七七四年2007/11/07(水) 20:18:19ID:gYcYUlrQ
糸冬
0719人間七七四年2007/11/07(水) 21:12:40ID:SqvLUwHs
女台
0720人間七七四年2007/11/17(土) 01:45:20ID:TTazeYcy
  
0721人間七七四年2007/11/17(土) 03:37:31ID:0Z1vQjib
もう議論の余地なんかねぇよ!唐揚げすんな!
0722人間七七四年2007/11/17(土) 10:10:36ID:kykwPoLD
輝元になら信玄は圧勝できるだろ
0723人間七七四年2007/11/17(土) 18:32:45ID:hh2HBfpO
外交や統治形態、合戦の陣立てなんかを比較検証するスレかと思ったら車板の厨スレと一緒じゃねえか。
試験じゃないんだからどっちが上っていうのは意味無いよ。
0724人間七七四年2007/11/18(日) 05:34:57ID:yNpYME87
>>722
勝頼には吉川元春や小早川隆景のような頼りになるおじさんいなかったなあ
これも不幸なところか
0725人間七七四年2007/11/27(火) 22:42:14ID:2cPXTGkK
武田は優秀な家臣の数がすごすぎるよな。
信玄の人材登用は神レベルなんだろうな
武田に比べると毛利の家臣は無名でしょぼすぎる
0726人間七七四年2007/11/27(火) 23:12:50ID:TPoKDwUb
ほうw、武田の優秀な家臣とその功績を列挙してくれるとありがたいな
0727人間七七四年2007/11/27(火) 23:33:13ID:c/CHUIHf
信玄が強くないと家康が困るもんな
ボコられた上に自軍も武田風にしたから
0728人間七七四年2007/12/04(火) 22:07:05ID:hSn5+Pgz
2007年最も検索された戦国武将名ランキング
http://news.ameba.jp/gooranking/2007/12/9106.html
0729人間七七四年2007/12/17(月) 07:14:13ID:jHMfWRYv
毛利って武田と比べる程の家じゃねえだろ?雑魚すぎ
0730人間七七四年2007/12/17(月) 08:15:05ID:O8QP9e4T
>729
メガ豚君には遠く及ばないな
0731人間七七四年2007/12/17(月) 08:27:58ID:MejHiDfk
>>729
へ?(*´艸`*)
0732人間七七四年2007/12/24(月) 19:39:01ID:f1dApGGU
低脳ゆとりの証明である、アンチ武田信玄の思考(毛利オタ 北条オタ 信長オタなど)


大名として成熟した時期の元就54歳(厳島)と、大名としてまだ未熟な時期の信玄28歳(上田原)
を比較して、元就>>>信玄と背伸びしたがる始末wwww

駿河攻略の途上で行われた信玄の小田原攻めを、「信玄は相模を取れなかった」
としか解釈できない始末www
背後を見せた信玄を討ち取れずに散々に敗北し、おまけに駿河を信玄に取られた
事実には目をそむける始末www

周囲の大勢力全てに打ち勝ってきた信玄が最強なのは歴史的事実であるが、ゆとり
世代からすれば、「大勢力を滅ぼせなかった」としか解釈できない始末ww
謙信も氏康も信長も、生涯信玄を恐れて生きていきました。

0733人間七七四年2007/12/24(月) 19:59:34ID:vYM3Uw0p

久しぶりにメガトン先生が降臨されたようです
0734人間七七四年2007/12/24(月) 22:48:53ID:ARZ3M2wE
>>732
( ;∀;)イイハナシダナー
0735人間七七四年2007/12/26(水) 11:21:59ID:HJgHQHry
メガ豚先生にしてはおとなしすぎるような気がする
0736人間七七四年2007/12/26(水) 17:49:28ID:gKyqe9iS
>732
無駄なんだよな、結局。
知識が足りない毛利厨がなにをわめこうが。
おとなしくしてればいいのにさ。
つっこみどころ満載のレスしかしないんだもん、アホ丸出し
0737人間七七四年2007/12/27(木) 23:26:00ID:MC4HA6ck
天才と謳われる毛利元就の代表合戦
有田中井手の戦い  ○毛利軍1千5百 対 ●武田軍7千
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)

佐東銀山城死守戦  ○毛利尼子連合軍 対 ●大内軍
有田中井出の戦いで敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城を死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。

吉田郡山城の戦い  ○毛利軍3千 対 ●尼子軍3万 
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。

折敷畑の戦い  ○毛利軍3千 対  ●陶軍7千
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。

宮尾城攻防戦  ○毛利軍5百 対 ●陶軍1万6千
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。

厳島の戦い  ○毛利軍5千 対 ●陶軍2万5千
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。 この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。

領地300石から家督を譲られ一代で中国200万石西国の覇者に、この毛利元就
を無能とは言い過ぎではないだろうか?
0738人間七七四年2007/12/28(金) 01:53:56ID:dIiGOunp
>>736
(´・ω・`)エッ!?
0739人間七七四年2007/12/28(金) 02:27:21ID:DU24vBKU
ヒント:縦読み
0740人間七七四年2007/12/28(金) 08:17:28ID:PldGxLHE
。が最後の行としてくっついてる段階で、看過しやすい罠だと元就公なら仰ったでしょう。
0741人間七七四年2008/03/08(土) 12:52:37ID:5lswyGBV
一番
0742人間七七四年2008/03/08(土) 18:20:31ID:vl7fQmNB
まースレタイに元就の名前が先に出ている時点で、馬鹿な毛利オタが信玄と比較
することによって、強引に評価をあげようとしている醜い姿がみえみえ。
あらゆる世間の評価では元就ごときが信玄より高評価になることはありえないから
安心して(笑
海で隔離されていた中国地方のおかげでお山の大将でいられたという評価が変わる
ことは永遠にないよ残念だけど、信玄 謙信 氏康 家康クラスの勢力を伸ばせる
大名が元就の世代の中国地方にはいないのが残念だったね。
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