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毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5

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0001人間七七四年2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR
過去スレ

毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/

毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0611人間七七四年2007/09/24(月) 15:47:52ID:Qnk/PCtg
>>610
自演ならIDかえるぐらいの手間かけろ
自分のレスであながちってなんだw
0612人間七七四年2007/09/24(月) 15:51:39ID:yS4sZWRb
何度も越後に侵入しながらそのたびに上杉に追い出される
という前代未聞のへたれっぷりを発揮した信玄とか
程度に間違いではないな
0613人間七七四年2007/09/24(月) 16:57:54ID:XncoRbc8
あまりに露骨すぎて釣りにしか見えない
起爆剤にもなってねーぞ
0614人間七七四年2007/09/24(月) 17:47:12ID:IYdCud6x
大友のことを持ち出すと毛利厨は沈黙しちゃうなwww
大河ドラマでもなかったことにされてたしww
0615人間七七四年2007/09/24(月) 18:14:36ID:Y7edfXnk
ここまであからさまな自演失敗をやらかしてもIDを変えない。
その潔さにだけは感銘を受けた。
0616人間七七四年2007/09/24(月) 18:24:03ID:XncoRbc8
>>614
それをいったら武田だって上杉のことを持ち出すと目も当てられない
何が戦術では上杉が勝ったが戦略では武田が勝っただよww 北信濃防衛は武田にとっては最低ライン
武田の目的は越後奪取だろ 戦略では引き分け、戦術では戦国史に残る記録的大敗 これが正しい
0617人間七七四年2007/09/24(月) 18:35:00ID:sOofZ1Ub
ID:IYdCud6xはメガ豚に憧れていてあいつの後を継ごうと考えてるんだろう
だけどメガ豚ですらしなかった自演失敗なんて馬鹿な事やらかした ID:IYdCud6xに跡目相続は無理だ、廃嫡いたすwww
0618人間七七四年2007/09/24(月) 19:52:11ID:hIS0id6g
いやメガ豚はしっかり自演失敗もやらかしてるが。

北九州攻防戦に関しては痛み分けでFAだが
勝ったと言えるのはどちらかと言えば毛利。
大友は連敗状態で盛大に領土を侵食されて、尼子残党内乱という好機を以ってしても門司は奪回出来なかった。
結果、秋月を代表とする自立勢力の台頭を許し北九州は混乱。大友の没落の兆しが見え始める。
一方、毛利は侵略戦争の収穫が少なかっただけなのだから、目立ったマイナスは無し。
0619人間七七四年2007/09/24(月) 19:59:54ID:IYdCud6x
侵略戦争で収穫が少ないというのは大きなマイナスだろww
家臣にどうやって恩賞を出すの?

そんなんだから秀吉が攻めてきたときに内部からどんどん切り崩されちゃうんだよww
0620人間七七四年2007/09/24(月) 21:28:04ID:EjDt+igo
もう少し一人芝居を生暖かく見守ってやれよー
そしたら一人でもっと盛り上がった挙げ句、一人三役とかしてくれ…なかったかな?
0621奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/24(月) 23:07:01ID:ramTMTAS
だから検証せえというに。
0622人間七七四年2007/09/24(月) 23:29:05ID:+EbK0RxL
>>619
>侵略戦争で収穫が少ないというのは大きなマイナスだろww
>家臣にどうやって恩賞を出すの?

川中島のことか?
あ、川中島はその家臣が大量に死んじゃってるから
恩賞もそっちの家臣のをまわせばokかw さすが信玄。
0623人間七七四年2007/09/25(火) 00:26:53ID:D40sv3Ak
いやだから、

信玄=元就




「大 爆 笑」
は無知
0624人間七七四年2007/09/25(火) 02:03:14ID:oVx4GoVj
大爆笑が確たる名言と成りつつあるスレはここですか?
0625人間七七四年2007/09/25(火) 18:12:27ID:YsbHH1P3
政治 毛利=武田 外交面での失策はどちらも同じ、内政面は正直どっちも…
戦争 毛利>>>>>>武田
知略 毛利>>>>武田
野望 武田>>>>>>>>>>毛利
男色 武田>越えられない壁>毛利

これでいいじゃん
0626奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/25(火) 23:16:05ID:AxPD2ogH
>>625
家としての勝負ならそれでいいな。
0627人間七七四年2007/09/25(火) 23:54:28ID:EOj3l7b2
>>626
男色は洒落だからともかく、野望が意味不明じゃね?
0628奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/25(火) 23:57:29ID:AxPD2ogH
>>627
天下を望むな、という家訓があったような・・・
0629人間七七四年2007/09/26(水) 00:00:21ID:1f9Q7y6V
野望も重要な要素っしょ

信長みたく野望が大きかったから躍進できた男もいるし
元就みたく野望が控えめだったから生き残った男もいるし
信玄みたく野望が大きすぎたから家を滅ぼした男もいる
0630人間七七四年2007/09/26(水) 18:49:44ID:CQRumAS6
信長が躍進できたのは能力が高いからだろ、野望は関係ない。
そして信玄が家を滅ぼしたのは能力が低かったからだろ、相対的に、奴の野望が
大きかろうが小さかろうが関係ない。
0631人間七七四年2007/09/26(水) 20:03:53ID:k+NiK+W0
>>622
川中島の戦いは領土は取れたわけだから、一応武田の勝ちで良いと思うが、
武田は越後にも手を伸ばして、こちらについては確実に撃退されている。
これについては失敗した侵攻作戦と言い切るしかないでしょう。

つまり、信玄も元就も成功して領土を拡大できた侵攻作戦もあれば、
領土拡大につながらず、失敗した侵攻もあったということ。まあ当たり前の話だけど。
であるならば、成功の度合い、つまりより領土を拡大した方が、
その方面についてはより優れていたと判断すべきでしょう。
つまり、結局は毛利元就の方が優れていたといえると思う。
0632人間七七四年2007/09/26(水) 20:09:39ID:1f9Q7y6V
微妙だよなー
川中島って、まず前提として武田側の方が人的被害が圧倒的に大きいというのがある
越後侵攻戦と考えれば問答無用で武田の負けだし
北信濃防衛戦と考えても、あれだけ被害を出しても領土さえ無事なら勝ちと言えるのか?
という疑問はある。犠牲の上での防衛戦勝利、か?
0633人間七七四年2007/09/26(水) 20:20:50ID:Kfz8Yudg
第一次川中島の開戦前と、終戦後の領土にほとんど差がないんだから 家臣殺されまくった武田の負けだろ。 北九州攻防戦なんて、毛利が明らかに領土拡張してるのに引き分け扱いされてんだぞ。
0634人間七七四年2007/09/26(水) 20:32:58ID:k+NiK+W0
>>632
いや、そもそも少なくとも四次川中島くらいまでは、
北信濃は武田の領土とはいえない状態だったのよ。
二次では武田家は川中島の北部に築いた城の破却に同意しなければならなかったし、
三次の時には北信濃どころか小県にまで攻め込まれている。

つまり、川中島の戦いとはそもそも北信濃の領有を賭けて、武田上杉が戦った戦であり、
最終的に北信濃は武田家の所有になったのだから、結論は武田家の勝利ということで良い。
ただしその過程で多大な犠牲と時間をかけたのも事実だから、
武田家の辛勝といったところが妥当でしょう。

>>633
一次の前なんてのは、ただ単に軍を進めたというだけで、到底領土としたとは言えない。
一次だけの結果を見れば村上の放逐には成功したが、領土化には失敗した作戦といって良い。
その後も北信濃を巡って何度も争っているわけだからね。
四次・五次まで経て初めて領土化に成功した。つまり、ついに勝利したと言うのが妥当かと。
0635人間七七四年2007/09/26(水) 22:02:34ID:1f9Q7y6V
それはおかしな話
「村上の所領である北信濃が武田に奪われたから奪還する」が上杉軍の名目であり
事実、武田は北信濃を武力占領していた
二次や三次で上杉に侵食された領土は武田が保持していた領土

「北信濃は武田の領土とはいえない状態」というのは詭弁
村上を追い出し、武田が新たな支配者となっていた
侵略戦争で手に入れた土地なんだから、恭順に時間が掛かるのは当たり前だし
贔屓目に言っても「まだ武田の領土になったばかりで地盤が磐石ではなかった」くらい
その地盤も、12年近くも消耗戦やってる内になんとか固まったという所だが
それをもって「武田は川中島合戦により北信濃を獲得した」とは言いがたい
北信濃は村上から奪った土地
0636人間七七四年2007/09/26(水) 22:21:45ID:HNCRxaPk
川中島関係は詳しくないから知らんが、その奪った奪ってないという問答の地域の安堵状なり宛行状なり提示すれば話おわるんじゃね
0637人間七七四年2007/09/26(水) 22:42:48ID:87t/iDpd
信玄が戦下手なのはわかった
0638人間七七四年2007/09/26(水) 23:15:27ID:/juL1dLX
>>629
元就が「野望が控えめ」………………………………………………?
どちらの元就さんのお話ですか?
0639人間七七四年2007/09/26(水) 23:16:34ID:k+NiK+W0
>>635
確かに村上領の一部は占領したとしたとは言えるだろうが、
そもそも村上よりさらに北に高梨や島津といった国人領主がいたのだし、
現に二次・三次川中島発端となったのも武田軍が千見城・尼巌城といった、
川中島以南の城に攻勢をかけたり、川中島周辺の葛山城に調略を仕掛けたからな分けだが。

というか、逆に一次川中島の前に武田軍が北信濃を領有していたとするなら、
武田軍は瞬く間に瞬く間にそれを実現したということになり、その方が過大評価と言えると思う。
明らかに武田家に従わない国人領主が存在するのに、そこを領有していたことにするのは、
あまりにも無理があると思いますよ。
0640人間七七四年2007/09/26(水) 23:28:38ID:k+NiK+W0
村上逃亡から一次川中島の戦いへの流れについても、
村上義清は1553年4月に本拠地を捨てて越後に逃亡しているが、
長尾影虎の援護を受け、その同じ4月の内に間髪入れずに反撃し、
一度は小県まで取り戻している。
また、その後影虎自身も信濃に侵攻して、筑摩郡や小県郡に攻勢をかけている。

結局どうにか村上義清こそ再度追い払うことに成功したが、
その状況で、一時的にでも北信濃まで領有したというのは、
むしろ過剰な武田贔屓による偏った見方と言うべきだと思う。
0641人間七七四年2007/09/26(水) 23:34:50ID:DcQmZIh1
北信濃って言っても範囲広いぞ
もう少し正確に言わないと話しがずれるだけだ

北信濃が主に水内高井をさすなら謙信と戦う前は信玄は支配していたとは言い難いし
水内高井北部も村上の支配範囲とは言えない
ただ北信濃でも更科埴科は謙信介入前には武田がほぼ支配していたと言って良いと思うが
あと川中島取ったと言っても、ぶっちゃけ謙信介入前から信玄死去までの間に
支配範囲が四キロほど北上したに過ぎないからなー(注 川中島方面限定)
0642人間七七四年2007/09/26(水) 23:39:26ID:DcQmZIh1
>>640
武田はその時点で更科埴科付近に領地安堵宛がいまでしてると思ったけど
また村上も1553年4月に一度城を取り返してまで追い出されて以降は
謙信がいる時に一時的に攻勢をかけるだけで土地は奪い返せていないと思うが

一時的に攻められてる状態を指して領有していないと言うことが出来るなら
例えば北条なんかは相模とかまで領有していないということになるんじゃ
0643人間七七四年2007/09/27(木) 00:02:06ID:puHuVypP
>>642
小県や筑摩については一時的に攻め込まれてはいても、武田の領土で良いと思いますよ。
しかしそこまで攻め込まれるような状況で、北信濃は武田の領土でしたと言うのは、
さすがにおかしいでしょうと。
確かに更科埴科位が限度で、それより北については長尾と抗争中ってところでしょう。
そして最終的には飯田等信越国境沿いの一部の城以外は武田の領有になったと。

あと、4kmしか北上していないというのはさすがにどうかと?
二次の時点での長尾側の城であった葛山城から、最終的に上杉側に残った飯田城まででも、
20km以上はあるし、一次以前で武田が占拠した村上の旧本拠地葛尾城からなら、
ざっと50kmくらいはあったと思うけど。
0644人間七七四年2007/09/27(木) 00:07:34ID:1rfZ6I03
>>643
犀川以北は微妙
確実に武田領と言えそうなのは犀川以南でしょ
1568年の飯山攻めでもいくつかの城を落としたものの取り返されるか放棄している

最も犀川以北が上杉領かと問われればこれもまた微妙だが
飯山以北は確実に上杉領としても
0645人間七七四年2007/09/27(木) 00:11:31ID:+J7glJQ6
毛利元就がもうちょっと遅く生まれて
伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
上杉謙信がもうちょっと長生きして
足利義輝が三好衆に殺されなくて
斎藤道三が、息子と仲良くて

なんてのが史実だったら・・・

戦国時代に、信長とか家康っていなかっただろうな。

たぶん
0646人間七七四年2007/09/27(木) 00:14:28ID:ODyRPSiG
また変なのが来たよ、いや同じ奴か
0647人間七七四年2007/09/27(木) 00:53:19ID:djoTB1fD
>>毛利元就がもうちょっと遅く生まれて
有田合戦に間に合わず、一国人で終了もしくは武田に滅ぼされる。
>>伊達政宗がもうちょっと早く生まれて
父親がしてくれた陸奥統一からやり直し
>>上杉謙信がもうちょっと長生きして
柴田にアッサリ滅ぼされて大恥
>>足利義輝が三好衆に殺されなくて
勢力均衡で京都の混乱はむしろ拡大
>>斎藤道三が、息子と仲良くて
名将義龍が急死したおかげで信長は美濃を攻略できた、微妙なところ
0648人間七七四年2007/09/27(木) 01:12:12ID:XhJCbZho
元就があの時代に生まれなきゃ有田合戦で毛利滅亡してたのはガチ。元就なら浪人から尼子大内に士官しても大名になれそうだが。
政宗は先代の功績のお陰で50万石相当から飛躍出来た訳だから苦労するだけ。
謙信長生きは微妙。織田ないしは豊臣勢力に負けて従属するだろうが、後継者問題に対応出来れば後の上杉家の権勢は強まるはず。
義輝生きてりゃどうなるかな。信長の畿内制圧までの手間暇が増える大筋は変わらんかと。
道三が息子と仲良し=親子共に信長と仲良しと仮定すりゃ信長の上洛は早まる。どうせ義龍が急死するんなら龍興の代に力は削がれるだろう。

こんな感じの予想。
0649人間七七四年2007/09/27(木) 07:46:35ID:puHuVypP
>>644
尼巌城とか、犀川以南でも第3次までは武田領ではなかった城も一部あるしね。
もちろん、川中島以北も確かに上杉領だったともいえないでしょう。
上杉に近いといっても独立した国人領主が存在していたわけだから。

それらの国人領主に侵略の手を伸ばす信玄、
その国人領主からの救援要請を受けて兵を出す謙信、という図式を取りながら、
実質的にその地域の支配権を賭けて両者が争ったのが川中島の戦いといってよいでしょう。
そして、最終的にはその地域の大部分は武田家の領土となったと。

ただし、膨大な時間をと人的犠牲を伴ったものであり、
元就のような劇的な領土拡大に比べると、いささか見劣りするのは否めないと。
0650人間七七四年2007/09/27(木) 11:32:19ID:NdB4UPRJ
だから川中島の入り口から犀川付近まで
距離にして4キロから5キロほど北上したということになるのか。

ただ善光寺は信玄が本尊を甲斐に強奪したことでその権益手に入れているけど。
0651人間七七四年2007/09/27(木) 13:55:12ID:GWTkT5wL
駿河から善光寺経由で越後ないし上野へ抜ける、当時の通商ルートの肝だったって背景もあるだろうね>川中島の泥仕合
0652人間七七四年2007/09/27(木) 14:14:52ID:/zcKgwrK
毛利氏の生き残りと武田氏の滅亡は
織田氏本拠岐阜安土から
武田氏甲府へ、毛利氏安芸吉田への距離の違い
織田徳川と武田の衝突は勢力圏の境目で日常茶飯事
織田と毛利の衝突は本願寺がらみで一向宗を支援
しなければ毛利内部が持たないというやむなき事情から。
本願寺が対織田戦で撤退した後は毛利は自分たちを如何に
織田に高く売るかを考えて織田と戦い続ければいいだけ。
0653人間七七四年2007/09/27(木) 19:36:21ID:puHuVypP
>>650
いやさすがに、川中島の戦い終了後には武田の勢力圏は犀川以北どころか、
越後国境近くにまで及んでいるでしょう。
例えば、1568年の侵攻の際には、飯田城は落とせなかったが、
水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが、
島津文書等で確認できる。

つまり、村上を追った段階からすれば、
ざっと4・50qほど勢力圏を北上させたということになる。
まあ、足掛け15年からの時間を必要としたわけだが…。
0654人間七七四年2007/09/27(木) 19:45:39ID:VkMH3bMi
まぁ実際川中島での武田の被害がどんなもんだったかによるな(戦略的勝利)
本当に3000も4000も死んでるなら戦略的にも大敗だ
重臣何人も死んでる時点で戦略的にもせいぜい引き分けが限度だが、国力が疲弊するほどの大敗を喫したのなら…
0655人間七七四年2007/09/27(木) 20:27:40ID:puHuVypP
>>654
最大の激戦といわれる第四次川中島の戦いのわずか2ヵ月後に、
信玄謙信ともに上野に兵を出し再び対峙し、武田は上野の豪族を降伏させたりしている。
つまり実際には、川中島の戦い直後ですら軍を動かせないほどの消耗はしていなかったということ。

それに熟練の重臣が死ぬのは確かに痛手だが、どこの家にも跡取りは通常いるのだから、
恒久的な国力低下には結びつかない。多少なりとも領土が増えて知行宛行が出来るなら、
それは国力増強になり、長期的には以前よりも勢力を増すことが出来る。
つまり、戦略的に勝ったといえる。

実際、武田が川中島や上野での多年に及ぶ戦の末得た土地は、
少なくとも20〜30万石くらいにはなるはず。
上杉との抗争以前の武田領が、せいぜい50万石くらいだったことを思えば、
武田家にとってはかなり意味があったといえるでしょう
まあ、毛利や織田のような拡大に比べると見劣りするのは致し方ないが。
0656人間七七四年2007/09/27(木) 20:40:30ID:2LOSfZpC
>>653
>水内郡の豪族に対してすら所領安堵や替地宛行等を行っていることが
それは支配範囲をはかるという点においてはあまりあてにならない、
敵地を恩賞として与える、支配していない者が後にその地を支配することを保証するなど
その時点では空手形と言えるものも多々含まれてる

で1568年の水内への所領安堵や宛行等は武田が兵を引くと似たようなことを謙信もやっているしね

更に言うならお互い飛騨や越中にも同様に
でもそれを持って支配しているとはやや言いがたいし
0657人間七七四年2007/09/27(木) 20:46:34ID:puHuVypP
>>656
しかし、実際その頃前後の武田郡の侵攻は、
飯田城や野尻城といった信濃最北端、国境付近の上杉方の城に対して行われていて、
それ以南で上杉方に属して武田と戦った城なんてなくなっているわけだし。
0658人間七七四年2007/09/27(木) 21:24:58ID:puHuVypP
申し訳ない。ずっと間違えていたけど。
飯田城ではなくて飯山城ですね。
飯田じゃあ南信になってしまう…。
失礼しました。
0659人間七七四年2007/09/27(木) 22:50:24ID:G7I1TBgI
>>655
戦国時代の領土ってば面より点と線だから、そういう意味では川中島や上野と
いう場所は単純に石高では出せない超重要地点だと思う。

ただ甲斐の武田が握るには荷が重過ぎるし、メリットも少ない。これが上杉や
北条なら物流の流れを支配できるから大きかったと思う。労を考えれば東海か
関東に出た方が良かったと思うね。結局甲斐と信濃がワンセット(血縁や先代
から受け継いだ領地、因縁等)だったのが信玄の不運だな。
0660人間七七四年2007/09/28(金) 00:42:02ID:Jg2W4Yxh
>>659
関東に進出したら北条が黙っていないだろうし、東海に出ようにも全盛期の今川を相手にするのか?
0661人間七七四年2007/09/28(金) 21:45:58ID:gdELkkU8
全盛期の今川なんて相手にしたら信玄は瞬殺されるぞ
大体そもそも義元の子分だからな信玄は…
0662人間七七四年2007/09/28(金) 21:55:56ID:8pnxf4aH
信長の信は武田信玄の信だろ
それだけ信長が信玄を恐れ敬っていたのがわかる
どう考えても毛利より武田が格上
0663人間七七四年2007/09/28(金) 22:11:07ID:WK/dEm2C
釣りだよな?
0664人間七七四年2007/09/28(金) 22:16:43ID:oX4pSCf3
しかも晴信ではなく信玄の信というところが程度の低さ表してるな。
信秀は予知でもできたんですかね
0665人間七七四年2007/09/29(土) 00:10:35ID:NsFhp5/a
馬鹿が釣り知恵遅れがかかる
0666人間七七四年2007/09/29(土) 00:38:28ID:16M5FImB
基地外は自分の無知を釣りと言い張る
0667人間七七四年2007/09/29(土) 12:47:36ID:nUNbvY2f
武田信玄・勝頼は三方が原などで織田徳川連合軍の名のある武将を多少は討ち取っている
毛利は織田・秀吉方の武将を誰一人として討ち取れていない

どう考えても武田>>>>>毛利だろ
0668人間七七四年2007/09/29(土) 13:40:38ID:8NQlR95I
だったら、
朝倉>>>>>>>>>>武田>>>>>毛利
になるな、その理屈だと
0669人間七七四年2007/09/29(土) 20:36:57ID:nRCuf/He
名のある武将の基準って具体的に何を指すんだ?
0670人間七七四年2007/09/29(土) 20:37:32ID:NsFhp5/a
そんなもんだろ。
朝倉は実際凄かった。
0671人間七七四年2007/09/29(土) 21:13:09ID:16M5FImB
朝倉義景>>>>>>>>>>武田信玄>>>>>毛利輝元

なだけで、終生互いに警戒しあい敬意も表しあっていた毛利元就と織田信長の両雄を比べるのは不可能
0672人間七七四年2007/09/29(土) 21:14:18ID:16M5FImB
ごめん。よく考えたら毛利輝元>武田信玄だわ。
信玄なんかより下にしてごめんよ輝元。
0673人間七七四年2007/09/30(日) 01:23:26ID:RC3SY4b3
輝元は戦(ってより決断力?)は最悪だけど内政はそこそこ優秀だよ
0674人間七七四年2007/09/30(日) 01:47:37ID:FP2r4aL+
毛利なんて真田と同じようなもんだろ
武田が大内で
義隆がボンクラだから乗っ取ることができなかっただけの差

0675人間七七四年2007/09/30(日) 02:03:14ID:w1uGEeFg
朝倉ってあの惨めな滅び方をした朝倉?
武田や輝元と比べるなんておこがましいよw
0676人間七七四年2007/09/30(日) 02:30:26ID:AqIUZ5d1
>>674
意味不明だから誰か解説頼む

>>675
おいおい武田の滅亡の仕方なんて朝倉と同じようなもんだろw
もしかして武田ってのは甲斐武田家じゃなくて安芸武田家の事か?
0677人間七七四年2007/09/30(日) 07:14:26ID:Ywtz0i7+
大名毛利と田舎武将武田じゃ比べるのに無理がありすぎ
信玄は早死にしたし、息子も自殺してお家断絶
笠原新三郎清繁の祟りだなw
0678人間七七四年2007/09/30(日) 07:40:47ID:ilbB004t
安芸の山猿
0679人間七七四年2007/09/30(日) 09:30:17ID:+6Qb7AMw
山となるとそれこそ甲斐の方が(ry
0680人間七七四年2007/09/30(日) 11:52:51ID:9nlzflM8
どうみても中国地方自体、東北四国と並ぶ土田舎ベスト3です
東北と中国が本州最果てですからね^^
0681人間七七四年2007/09/30(日) 12:13:00ID:zgVnU2LB
土田舎ベスト3なら明らかに甲信のほうになるじゃないか
中国地方は日本に古代政権が誕生した以前から活発な経済活動が行われていた地域
平家の勢力があった時代より大陸貿易の中心地
瀬戸内海の水運海運貿易も盛んで、文化度も高かった
現在でも日本有数の工業地帯の一つ・瀬戸内工業地帯を抱えている
0682人間七七四年2007/09/30(日) 13:11:02ID:RC3SY4b3
甲信とかくそ田舎だよ。
中国地方はは京都に近いからかなり発達している。
戦国時代の関東の城って瓦とか近代的な設備が全くでないんだろ?
それくらい遅れてる
0683人間七七四年2007/09/30(日) 13:31:13ID:l1Z8Yrc8
安芸武田は都会
甲州武田は田舎
若狭武田は都心
0684人間七七四年2007/09/30(日) 14:39:49ID:WgoKZPPZ
俺も毛利贔屓だけど、今の議論は明らかに可笑しい。
そりゃ甲斐や信濃は山岳部が多くて全国的に見れば圧倒的に田舎だが、信玄の
本拠地は甲府盆地の中で文化的にも経済的にも圧倒的に都会ですよ。
当時の中国地方であそこまでの文化都市は数都市有るか無いかだろ?
ましてや元就にとっては全く関係ない。

元就の時代一族で信玄並みの都会暮らししたのは隆元だけじゃん><
0685人間七七四年2007/09/30(日) 19:17:16ID:mqMNGcao
どう考えても山口の方が数段も上です。本当に(ry

まぁ要するにド田舎の中じゃ一番発展してる(半分以上金山のお陰)有利な本拠地から出発して
豪族が支配するド田舎の甲斐信濃をへいこら平定したのが武田
中国地方の中じゃ田舎の部類に入る安芸から出発して
大大名の支配する都会の中国地方をなんとか平定したのが毛利

海路を活かして交易が盛んだった中国地方と
移動が困難で行商すらロクに訪れない山の中の甲斐信濃じゃ文化レベルに差があるのは当たり前。
むしろ信玄は、その生涯の終盤において、ようやくまともに大名の今川氏真に勝って
駿河という海に面した都会を初めて手に入れられたんだから
もっとその事を誇るべき。これは上杉北条との十年以上もの消耗戦なんか目じゃないくらい凄い事。
0686人間七七四年2007/10/02(火) 07:58:30ID:tCpT1lfb
毛利の寡兵の戦も捏造じゃねー
こんなもの捏造だ
0687人間七七四年2007/10/02(火) 15:25:00ID:c/RXBfoq
ふぁびょーん
0688人間七七四年2007/10/02(火) 16:37:07ID:f7982CjJ
中国地方っていつからの呼称なんだ?
0689人間七七四年2007/10/02(火) 22:54:53ID:AjzCLUER
近国、中国、遠国から来ているという説
だと延喜式以来ということになります
0690人間七七四年2007/10/03(水) 00:44:06ID:aFnRQf4O
指輪物語の中つ国ってのはミッドランドの邦訳かね?
0691人間七七四年2007/10/03(水) 01:37:37ID:cVoAdMGY
春日山、小田原、鎌倉、平井、この辺りは当時全国有数の大都市ですが。
0692人間七七四年2007/10/03(水) 01:39:30ID:h1WJSOai
>>690
クウェンヤがEndor、シンダール語がEnnor、西方語の英訳がMiddle-earth、西方語の和訳が中つ国。
由来はミッドガルドらしい。

>>689
しかし延喜式だと山陰山陽のうち因幡・伯耆・出雲・備中・備後しか中国でないという不思議。
0693人間七七四年2007/10/03(水) 01:40:28ID:aFnRQf4O
京にしくはなし
0694人間七七四年2007/10/03(水) 02:17:15ID:VDfvc0dJ
7万石の雑賀孫一や烏合の衆のたった700人の伊勢長島一向一揆の切り込み。
彼らが織田に与えた損害のほうがはるかにでかいってのが情けないよね。
毛利も武田も。
0695人間七七四年2007/10/03(水) 02:41:46ID:64JL4ZSq
毛利と武田はどっちが由緒ある家柄だったの?
0696人間七七四年2007/10/03(水) 04:48:22ID:QLfNLfcQ
毛利は鎌倉までさかのぼれるくらい、実は歴史古いらしいが、そこまで
さかのぼると、ほとんど地侍レベルの地頭に毛が生えた程度の家柄らしい。

武田は・・・比較にならんね。源氏の名家だ。
詳しい話は誰か任せたw
0697人間七七四年2007/10/03(水) 18:52:14ID:1OlhVLVO
このサイトで家系図さかのぼれる

ttp://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/o-e_sugawara/oe-sugawara_4.html

毛利の場合大江広元になるかな源流をさらにさかのぼると菅原道真の菅家にまで行きつく
元就の嫁さんの実家吉川家をさかのぼると藤原道長・藤原不比等・藤原鎌足の
大化の改新までいけるね。

0698人間七七四年2007/10/03(水) 20:10:32ID:4f0SPzwm
毛利つうか大江氏の場合神話まで遡っちゃう
日本書紀の野見宿禰という相撲の神様が始祖という話
そこから土師氏→大枝→大江となったらしい
一族の大江匡房は源義家に兵法を教えたとされるから源氏とのつながりはかなり古い

武田の方は言うまでもなく清和源氏。清和源氏ってのは初代の経基と
二代目の満仲の親子関係はかなりの眉唾物だったりする
0699人間七七四年2007/10/03(水) 20:54:27ID:FOVGmwSF
知識ある人多いね、ここ
スレタイに武田って入ってるスレにしては珍しい
0700人間七七四年2007/10/03(水) 22:33:22ID:zZ5Ps0Xz
まぁwiki見ながら書いてる文だが
0701人間七七四年2007/10/13(土) 12:29:42ID://51KH7D
なんでこんな糞スレがその5までいってんだよwwww
どう考えても元就の方が上だろwwwwwwwwww
0702人間七七四年2007/10/15(月) 01:57:52ID:80iERg2+
まーどう考えても元就の方が上だから安心して議論できるというのがスレ伸びた理由かと
0703人間七七四年2007/10/15(月) 02:22:03ID:/vrugPDx
>702
ちょっと待て。メガ豚君の貢献を忘れるな
0704人間七七四年2007/10/15(月) 02:25:36ID:XqLKnPnw
前スレまでは結構濃いスレだったな
史実やら最近の研究やらと
0705人間七七四年2007/10/15(月) 02:38:05ID:mIYVh0xb
武田厨が毛利を叩く口実
・陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ
・所詮雑魚相手に領土を広げただけ
・中国は田舎
・大友程度に負けた
・上洛できないへたれ
・武将に華がない地味な奴等ばかり
関係ないのに出る話題・武田は信長相手に長篠以降も七年もったのに毛利は(笑)


毛利厨が武田を叩く口実
・三国同盟合ったのに拡大した領土は…?
・豪族連合にふるぼっこされてる
・結局滅ぼした大名は弱体化した今川くらいじゃないか
・手当たり次第に裏切り
・負の遺産を残しまくり


って感じかな
0706人間七七四年2007/10/15(月) 03:34:26ID:XqLKnPnw
>>705
面白いのは前者は事実とは大きく異なるのに対し
後者は事実に近い意見ということか
0707人間七七四年2007/10/15(月) 18:00:32ID:Gz3ZSsim
>705
>毛利厨が武田を叩く口実
金山、棒道など実際はよくわからないものも信玄の功績にして全力でマンセーってのもあるね。
まあ一応武田厨の「陶や尼子程度に勝った程度デッテイウ」って話を弁護すると、

最近の研究の厳島合戦
・陶の厳島布陣は予定の行動。桂元澄の偽装の寝返り、江良粛清の話は根拠なし。

・小早川隆景は村上水軍を率いて陶の水軍を倒してない。ていうか毛利側に援軍で来たのは来島のみ。
 能島は陶側に味方。

・陶軍が20000は多すぎ。実際は陶と大内、あと宗像とか九州の国人がちらほら。
 毛利軍も3000は確実にいた。


最近の研究の尼子晴久
・吉田郡山合戦は晴久がごり押しで始めたものではなく、計画されたもの。
 毛利は活躍したが、大内の後詰も果たした役割は大きい。

・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。


あと和智郷合戦では経久軍を毛利を中心とした国人連合はフルボッコにしてたりもする.
0708人間七七四年2007/10/15(月) 20:33:20ID:DlwrMKhd
>>707
>・新宮党粛清は元就の謀略ではなく国久、誠久の継承争いが絡んでいる。
その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?

>最近の研究の尼子晴久
計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?

最近の研究も糞も最初からその説じゃねえか。
面白い新発見だな
0709人間七七四年2007/10/15(月) 22:56:06ID:cdLxP0Hg
>709
>その内紛や私怨のフラグを利用するのが謀略や調略というじゃないのか・・・?
最近じゃ新宮党粛清に元就が関与した可能性には否定的。
元就の謀略って話も陰徳太平記の話だし。

>計画されたが、用間とかで筒抜けだったり石見路や備後路、宍戸氏への駆け引きが裏であったんだろ?
>大内の後詰めを期待した上での少輔太郎を人質やら、陶氏との連絡もあったんだろ?
あのさぁ・・・誰が以上の部分が覆ったとか書いたのよ。
自分が書いたのは今まで良く言われてきた晴久が経久の反対を押し切って初めたんではなく、毛利攻めは当初から
計画されていたこと、大内(陶)の話が過少だって書いてるんだけど?
0710人間七七四年2007/10/16(火) 02:01:58ID:IQfcF0Ix
国久は別に無能じゃないけどね。
浦上やらとやりあって上手くいってるし。
次代が駄目すぎたけど
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