毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0318名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 12:44:28ID:Z740FGnjちゃんと読めよ
良識水準>毛利厨>>>>>武田厨
がもともとの俺の認識枠組みだ!
上の奴が湧け分からん失当なことを堂々とほざきよったから、
良識水準>>>>>毛利厨>武田厨
となったことを説明した。
武田厨も毛利厨も、
ほんとどうしようもなく惨めな奴らばかりなんだろうなって
社会のごみためのような奴らなんだってな
0319名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 12:48:50ID:mLeDbDAl毛利が勝とうが大友が勝とうが、李舜臣水軍に攻められれば滅びる運命が決まっていたのに、
それをしない李舜臣将軍に感謝せずに、毛利大友どっちが上とかわめいてるんだからなwww
九州を攻め取られなくて感謝すべきなのに、
恩知らずにも羽柴秀吉が攻めたときは、のこのこ海を渡る恩知らずが毛利大友www
0320名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 17:34:38ID:KWWY108R■■■■死■■■■■死■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■死死■■■■■死■■■■■■■ねねねねねねねねねねねね■■
■■死死■■■■■死死死死死死■■■■■■■■■■■■■ねね■■
■死死■■死■■■死■■■■死■■■■■■■■■■■■ねね■■■
■■死■死死■■死死死■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■
■■■死死■■死死■死死死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■
■■死死■■■■■■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■■
■■死■■■死■■■死死死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死死死死死■■死死■■死死■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■■■死■■■死死■■■■死死■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■死死■■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■■死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死■死■死■■■■■■■■■■■■■■ねね■ね■■■■■■■
■死■■死■■■■死死死■■■■■■■■■■ねねね■■■■■■■
■■■■死■■■■■■死死死■■■■■■■■■ねね■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
0323人間七七四年
2007/07/31(火) 03:46:06ID:1XSgA2wu■■■■死■■■■■死■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■死死■■■■■死■■■■■■■ねねねねねねねねねねねね■■
■■死死■■■■■死死死死死死■■■■■■■■■■■■■ねね■■
■死死■■死■■■死■■■■死■■■■■■■■■■■■ねね■■■
■■死■死死■■死死死■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■
■■■死死■■死死■死死死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■
■■死死■■■■■■■死死■■■■■■■■■■■ねね■■■■■■
■■死■■■死■■■死死死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死死死死死■■死死■■死死■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■■■死■■■死死■■■■死死■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■死死■■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■■死■死■死■■■■■死死■■■■■■■■■■ね■■■■■■■
■死死■死■死■■■■■■■■■■■■■■ねね■ね■■■■■■■
■死■■死■■■■死死死■■■■■■■■■■ねねね■■■■■■■
■■■■死■■■■■■死死死■■■■■■■■■ねね■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
0324人間七七四年
2007/08/02(木) 09:20:51ID:sj2BTn8o0325あぼーん
NGNG0326人間七七四年
2007/08/05(日) 22:17:26ID:aTVRh6O9尼子大軍を撃退、月山城撤退戦に対陶の厳島合戦。晩年の北部九州戦線に
旧大内蜂起鎮圧に尼子残党掃討戦。)内政評価で辛いのはちょっと酷かな。
実際は瀬戸内の補給線確保と山陰鉱産物利権(当時の鉄産出量1/3以上
と銀山)押さえているから充分な気もする。大内の玄界灘〜瀬戸内輸送網と
尼子の鉱産物と日本海ルート手に入れて一大流通を完成させてるし。江戸期の
北前ルートの原型。毛利以前は日本海ルートと瀬戸内ルートが繋がっていない。
0327人間七七四年
2007/08/05(日) 23:30:48ID:Vw7DpjSbそしてその信長を震撼させた信玄はさらに凄いという結論になってしまう
0328人間七七四年
2007/08/05(日) 23:56:42ID:e4F08M1Rしたっけ?
徳川がボコられてたぐらいしか記憶に無い…
0330人間七七四年
2007/08/06(月) 03:21:17ID:pRwLNy3e久々にワロタ
しかも徳川重臣殆んど無事なんだよな
0331Y ◆nzdGjBH722
2007/08/06(月) 04:32:02ID:hobOH8q5犠牲に関して言えば、世間一般が大敗と取っている三方ヶ原よりも、
川中島の武田の方がよっぽど酷い犠牲なんだよな。
んで、バカな武田厨は上杉も酷い犠牲とか、領土抑えられたとかで
なんとか引き分けに持っていこうとするwww
0332人間七七四年
2007/08/06(月) 09:48:21ID:XGM0880h戦争目的を果たした側を大負けともいえまい。
0333人間七七四年
2007/08/06(月) 13:50:59ID:8CnET40v0334人間七七四年
2007/08/06(月) 18:55:28ID:65dTh5S+いや、それはさすがにどうか?
もともと領土を取るのが武田の目的だったのだから、
目的を達成したという意味では確かに武田の勝利でしょう。
犠牲は多大ではあったが、
単純に大きな犠牲を伴った勝利ってことになると思うが。
0335人間七七四年
2007/08/06(月) 20:29:40ID:tIWwUx7f武田の目的は北信濃防衛じゃないだろう
あくまで海を取ること
・北信濃防衛(最低ライン)○
・越後奪取×
戦略的には一応最低ラインは確保した
戦術的には戦国史に残る記録的大敗
0336人間七七四年
2007/08/06(月) 22:38:42ID:Q+ahdxpx武田は北信濃国境近くまで兵を進めていたのを
川中島まで押し戻されているから領土的にも負けのような
第1次から1568年までの一連の流れで武田が最終的に川中島支配して
領土増やした武田の勝ちというのであれば
三方ヶ原の戦いも1569年から1582年までの一連の流れでの一局地戦に過ぎず
最終的に領土増やした徳川の勝ちということになる
0337人間七七四年
2007/08/08(水) 07:09:43ID:mUyAlKUj北信濃防衛って、そもそも当時はまだ北信濃を領土化出来ていないから。
越後奪取なんてとてもとても狙えるところまで行っていない。
逆に当時の武田の勢力を過大評価しているからそうなってしまうだけ。
当時の情勢は普通に北信濃の領有をめぐって武田と上杉が争っており、
結局武田がその地域を領有したのだから、当然戦争は武田の勝ちということになるよ。
それから、徳川といか織田・徳川が最終的に武田に勝ったという点に関しては、
疑問の余地なく全くその通りでしょう。
0338人間七七四年
2007/08/09(木) 16:29:52ID:HJB6f6Opつか毛利が大友と戦い始めたのは、元就が齢70の頃からなんだがwww
疲労と老化ボケと戦いながらの元就と、大友フル活動を一緒にするなwww
0340人間七七四年
2007/08/10(金) 00:53:12ID:d0GIc4ku0342人間七七四年
2007/08/14(火) 00:45:45ID:vtNnPIW90343人間七七四年
2007/08/14(火) 03:27:32ID:0rfM8Uvh知人の70を見てると、正常な判断でくたばるまで動き回って方がすごすぎる。
十分評価出来ると思うよ
0344人間七七四年
2007/08/15(水) 05:15:38ID:oqYxTLB70345人間七七四年
2007/08/15(水) 18:39:13ID:0wCxkjh0両川が敵に回ってたら国人のまま生涯を閉じていただろう。
0347人間七七四年
2007/08/15(水) 19:14:32ID:/LHbtEmR多分その内釣れた釣れたとか言い出すと思うけどね。
0348人間七七四年
2007/08/15(水) 19:17:15ID:GjVYdbKo0349人間七七四年
2007/08/21(火) 07:52:34ID:6YofpmJl0350人間七七四年
2007/08/21(火) 21:46:18ID:RHRvu2p+嘘だっ!!お持ち帰りぃ
0351人問七七四年
2007/08/21(火) 22:18:16ID:jGsE1UGcと思う今日この頃
0352人間七七四年
2007/08/24(金) 01:44:48ID:9bWQ/fAT詮久の吉田郡山城攻めの際も、経久や重臣がこぞって元就侮るべからずと反対した程。
有田合戦に始まり、高橋氏討伐、郡山篭城戦、備後での尼子との攻防戦、
折敷畑山、厳島合戦と常に格上か互角の相手に勝利し続けた希代の将。
毛利を苦しめた大友も元就出陣の報を聞いた時は大慌てで逃げ帰ってる。
0353人間七七四年
2007/09/01(土) 18:49:23ID:2b2niqlT0354人間七七四年
2007/09/01(土) 20:46:41ID:HGknuvhF毛利がいなかったおかげで存続できた、東国諸大名。
って言い方も可能だと思うけどね。
0355人間七七四年
2007/09/02(日) 04:34:13ID:SfTqIn4a中国地方の丘陵風情が中部山岳地帯を縦横無尽にいけるとは到底思えんのだが wwwww
0356人間七七四年
2007/09/02(日) 04:50:47ID:SfTqIn4a武田: 信濃は群立割拠、守護・小笠原の目の行き届かぬところ多し、武田は基盤から構築しないといけなかった
0357人間七七四年
2007/09/02(日) 08:06:53ID:pq2kO/oO何が悲しくて山の中を縦横無尽に翔なきゃならんのか
0358人間七七四年
2007/09/02(日) 08:47:01ID:dxNodC7+その群雄割拠している中の一人で、支配領域も信濃の半分以下、
甲斐に及ばない程度の村上に何度も苦杯を飲ませされている信玄では、
信濃に統一的な勢力があったら、逆に征服されるだけだと思うよ。
0359人間七七四年
2007/09/02(日) 08:51:40ID:dxNodC7+あと、大内攻め厳島の後は陸路で侵攻したし、尼子攻めも陸路ですが。
中部地域の状況だって>>357のいうとおりだし、
そもそもそんな理屈を言うなら、海路で勢力拡大したことのない武田は、
瀬戸内沿岸では使い物にならないって事になってしまうが。
0360人間七七四年
2007/09/02(日) 19:30:06ID:SfTqIn4a大内攻めも尼子攻めも敵方が衰退した後に力攻めせずに調略戦だろが。
真正面でぶつかりって武者入り乱れる川中島みたいな戦いがないから毛利は劣るんだよ。
0361人間七七四年
2007/09/02(日) 19:42:55ID:0lzGPGBR0362人間七七四年
2007/09/02(日) 22:03:28ID:dxNodC7+そんな戦力をすり減らすような愚かな戦いは、出来るここならしないで済ました方が良いんだよ。
現に信玄だって成功した戦略はことごとく調略を用いているし。
もちろん、調略を用いず正面から戦って勝つなら、戦術的に強いとは言えるわけだが、
そういう場合信玄は、上田原で敗北、砥石城で敗北、
川中島でも弟すら討ち死にするほどで戦術的には敗北、
上野の長野業正を攻めてことごとく敗退、とまるでよいところがない。
0363人間七七四年
2007/09/03(月) 10:21:52ID:43tozHMJ弱いだろw
武田は三方ヶ原やらで家康に勝ったり三河や遠近江のかなりの部分侵食したり
岩村奪ったり対織田戦線みりゃ武田>>>>>毛利は馬鹿でもわかる
織田の侵攻スピードが東と西で大違いだしな
0364人間七七四年
2007/09/03(月) 12:04:33ID:+uYfMvhz0365人間七七四年
2007/09/03(月) 18:10:03ID:plLQPTNNいや、島津も大友も九州で数カ国を領する大大名だし、
信濃半国も持たない村上に負けたのと同じには出来ないと思うが。
毛利は四国相手になんて別に負けてもいないし。
それに織田の侵攻が西と東で大違いって、
毛利は残ったが武田はあっけなく滅ぼされたことを言っているの?
0366人間七七四年
2007/09/03(月) 21:40:47ID:KHq5loRH0367人間七七四年
2007/09/04(火) 10:11:57ID:CzQcBLlu武田と織田は割と早くから交戦状態に至ってるのに長篠以降七年も存続したのに
毛利は交戦わずか二年で播磨や但馬の方まであった毛利方勢力を物凄いスピードで
切り取られていって滅亡寸前まで追い込まれた。織田が対武田戦に手を抜いていたなんて
記録は全くないしはっきり言って毛利弱すぎる
0368人間七七四年
2007/09/04(火) 10:34:14ID:v++XlxbE奪取に力をいれただけじゃね?
0369人間七七四年
2007/09/04(火) 11:51:05ID:fe5OnljJそれは単に調略だろ
播磨あたりの大名はいうなれば足利にしたがう大名のように形だけしたがってたんだろ
毛利の支配は織田方のように中央集権性の強いものではないから
織田方が強いと説得されるやそっちがとくだと裏切っただけ
まあ、信長の支配性にしても制度化されたものではない
つまり、信長は中央集権体制を確立しようとしていたわけじゃない
だから死後簡単に家来衆の専横を許してしまったね、しかも信長子飼いの
光秀に殺され、秀吉に遺産を奪われたという皮肉w
信忠も生きてたらあらたに子飼い家来をつくって譜代家臣に対立させ、家中をうまくまとめいった
だろうが、いかんせん信長のようなカリスマがあったか疑問だな
0370人間七七四年
2007/09/04(火) 12:59:43ID:CzQcBLluだからそんな記録は一切ないって。東日本だって信濃や越後、関東なんて肥沃な土地
多いし取るメリットは大きい。現に甲相同盟締結後攻勢に出る事ができてからは
本格的に攻め入り奪い上野に滝川派遣して東日本統治に力入れてる
>>369
形だけであろうがなんだろうが毛利対織田において毛利方の城を次々に落とされ
裏切られあっという間に侵略許したのが弱いっての。大体あの時代ここからここは
形だけの支配でここからここは本当の支配地なんて悠長な事言ってたら次々に味方
が減るし大体どこの大名も国人集連合に変わりないから毛利を擁護する余地なんてない。
そもそも武田と比べて調略に簡単に応じる奴ばかりって時点で弱いし。
0371人間七七四年
2007/09/04(火) 13:01:11ID:CzQcBLlu0372人間七七四年
2007/09/04(火) 13:29:00ID:fe5OnljJ越後は肥沃じゃないよ、関東も石高が伸びるのは家康入国以降だし
それと、西日本は貨幣経済が発達してたことはまちがいない
それと、下の方に関して。
毛利は別に強くなるために戦ってたわけじゃないからね
元就の遺言に中国だけで我慢しとけってのがあるし
元就は領土をとったことに相当な罪悪感を感じている節がある。
毛利の優先事項は家名存続であって覇者足らんとすることではないし、
実際、その甲斐あって家が存続している。
これも一種の強さだろ
0373人間七七四年
2007/09/04(火) 13:38:26ID:CzQcBLlu西日本が貨幣経済発達してようが信長が武田戦に手を抜いていたなんて
記録はないから。関東はあの時代から肥沃だ。石高から言っても兵動員数から言っても。
越後も謙信が経済発展させた。強くなるために戦ってないってのも弱い要素だな
あの時代なんてやるかやられるかだろそれが嫌なら戦国大名なんてやめちゃえば
いい。中国だけで我慢どころか中国すらスピード攻略されて滅亡寸前まで追い込まれれば
世話ないわな。遺言遵守なんてしてたら侵略戦争なんてしないだろ。実際輝元時代でも
あちこち軍派遣してんじゃん。関が原時だって中立守れず肩入れしたのに戦わず
大幅減封だし。
0374人間七七四年
2007/09/04(火) 13:40:56ID:t5YHbMuo織田方勢力も毛利と宇喜多が結んでから僅か一年で備中(三村)と備前(浦上)を切り取られて、その後播磨進出まで許してるがな。
この辺りは毛利と織田の緩衝地帯だからかつての尼子大内間勢力の様に優勢な方に一気に傾く。
武田は織田と近くて緩衝地帯が少なかっただけでしょ。
0375人間七七四年
2007/09/04(火) 13:46:20ID:CzQcBLlu岩村あたりは?あのあたりは小豪族がひしめきあってて織田武田の接触点になる
あの時代の支配なんて国人集連合にすぎないんだからそういうのはどこにでもいえる
武田なんてまさにそうだな
0376人間七七四年
2007/09/04(火) 13:50:48ID:pzcprsyb織田は西に対しては美濃衆伊勢衆だけでなく時には越前衆なども動員していたけど
武田に対しては長篠岩村後は放置状態
0377人間七七四年
2007/09/04(火) 14:07:00ID:fe5OnljJ毛利は本領には一歩も入らせてないよ
その前に信長が死んだからね
だからそのまま滅亡してたか、どうかなんて分からない
0378人間七七四年
2007/09/04(火) 14:43:33ID:CzQcBLluそういう事が書かれてる資料かなんかあるなら教えてくれないか
弱いとこから潰してくのが上策だしそっちの方がしっくりくるが
現に甲相同盟が決裂し、武田方に決定的に不利な状態になり勝てる状態になったら
しっかり攻め入ってるし
>>377
あの時代の支配体制なんてここからここが本領でここからここが単なる賛同者
とか悠長な事言ってたら味方が次々に減ってしまう
備中ライン突破後は裏切りの連鎖が始まるだろうな
毛利も武田と同等かそれ以上に地域の国人に依存してるしなり上がりって負い目もある
信長到着すれば毛利征伐も本腰と見られて国境付近の国人はわれ先にと
離反するだろうね
0379人間七七四年
2007/09/04(火) 14:53:33ID:pzcprsyb>そういう事が書かれてる資料かなんかあるなら教えてくれないか
そういう事が武田に関してか西に関してかは分からないが
武田に対してなら岩村攻め後、武田の滅亡時まで織田が武田に対して軍事行動を
起こしたとする史料が無いから
西に対してなら、史料は信長公記に載っている
>弱いとこから潰してくのが上策だしそっちの方がしっくりくるが
弱いとこと言うより畿内の制圧畿内の安全確保を優先していると見るべきかも
武田領は畿内と比べたらどうしても落ちる
0380人間七七四年
2007/09/04(火) 15:03:31ID:CzQcBLlu>岩村攻め後、武田の滅亡時まで織田が武田に対して軍事行動を起こしたとする史料が無いから
だからそれは根拠にならないっての。それは武田が簡単に崩せる相手じゃないからだろ
すぐになびくような毛利勢みたいな奴が少ないって事だ。
崩せる段になったら攻め入ってるし。畿内勢なんか弱いから簡単に潰しにかかった
ともとれる。三好とか六角とか波多野とか一色とか弱小勢力しかいないじゃん。
長篠時には畿内既にほぼ平定してたにもかかわらずその後やはり西に向かっている
やはり西側諸国の方が簡単に崩せる相手が多いからだろう。北陸戦線も上杉相手に苦労してたしな
0381人間七七四年
2007/09/04(火) 15:09:18ID:pzcprsyb本願寺がそんなに弱い相手か?
織田家の大半を充てて対処しているように見えるが
ついでに畿内の諸勢力がすぐに崩せる?
年表読みなおして畿内の勢力にどれだけ時間かかったか調べてから言ってくれ
>だからそれは根拠にならないっての。それは武田が簡単に崩せる相手じゃないからだろ
根拠にならない可能性もあるが、織田家が滅亡時以外に主力で攻めたことも無いので
武田が簡単に崩せる相手ではないと断言することも出来ないと思うが
0382人間七七四年
2007/09/04(火) 15:31:00ID:CzQcBLluそりゃ包囲網とかあったからなあ…
でもみんながみんな強いわけでもないし東国に比べれば弱いというか小さい大名が
ひしめいてる地域だな、まあ要は武田相手にするよりローリスクハイリターンて事でしょ
0383人間七七四年
2007/09/04(火) 15:40:06ID:CzQcBLlu信長と武田は早い時期接触したにもかかわらず十年ついやしたが
毛利は二年程度であっという間に侵略された、これも事実
畿内平定後も東より西の方が早い侵略スピードであるのは明白
0384人間七七四年
2007/09/04(火) 15:45:43ID:2zzAWsoYそういう意味では↓には同意。
>まあ要は武田相手にするよりローリスクハイリターンて事でしょ
もし畿内勢力などより攻める価値があるんだったら、そっちに注力してるよ。
0386人間七七四年
2007/09/04(火) 15:53:46ID:CzQcBLluいや強い弱いは関係あると思う 弱けりゃ潰してさらなる東国侵略への
ステップになるしそもそも天下ふぶって天下は西日本だけじゃないんだから
信濃や駿河、上野はそこそこ旨みあるし
0387人間七七四年
2007/09/04(火) 16:23:50ID:xMvkuWc4東国侵略のステップっていうけど東国にたいした敵もう残ってないんだけど?
一応盟友の北条に無理して戦しかける必要もないし。
武田が長生きできたのは一向宗と一向宗を支えた毛利が近畿に存在したからだろ。
本願寺が降伏して近畿に敵がいなくなって大動員されて武田崩壊なわけだが?
無論これは毛利にも言えることでこれからさき戦力を集中してくる織田に毛利が
善戦できるとも思えないけど。
つまり>>384がいうように
近畿勢力>>>>>武田・毛利であって甲斐や駿河を採りにいくよりはるかに重要。
そもそも
>>信長と武田は早い時期接触したにもかかわらず十年ついやした
信長は積極的に甲斐や駿河に攻め込むより近畿統一に力入れてたわけで5〜7年放置されただけでしょ?
0388人間七七四年
2007/09/04(火) 16:55:48ID:fe5OnljJ西国は相変わらず旧態依然としたかんじがするが・・
でも西国の中でも島津はとびぬけてる気がするなあ
鉄砲戦術と統率力の高さが目立つ
0389人間七七四年
2007/09/04(火) 17:25:16ID:tAxmAVjs武田方の国人が裏切ったのは大分あとの方だし(戦役負担増大うんぬん
織田方が武田に本格的に攻勢に出たのは御館の以降。
それまでは上杉謙信相手に結構苦戦してたぐらいだし
たいした敵がいないからステップにしないなんてのは妄想のすぎないだろう
ぎゃくに小さい敵の方がくみし易いし簡単に攻めれる
>信長は積極的に甲斐や駿河に攻め込むより近畿統一に力入れてたわけで5〜7年放置されただけでしょ?
これも妄想だな
歴史上の事実は事実としてあるわけで武田が強いから攻めれないか甲斐がショボイから
攻めないかは書かれていない。
0390人間七七四年
2007/09/04(火) 17:37:34ID:trbMikw9そりゃお前の中のイメージなんじゃねえ?
信玄はもとより謙信に至っても殆んど9割近くが攻城戦だぜ?
あと毛利の野戦の凄さを知らな過ぎる。
元就の初陣野戦から始まり、尼子郡山城の攻防戦(これは大内が援軍に来るまで
亀になって守っていたんじゃない、10数回の野戦で敵の諸将討ち取った後に野戦
で決着がついた)、厳島も数倍の敵に野戦仕掛けて勝ってるし、よく言われてる
大友との攻防戦でも野戦ではほぼ勝ってる。その後の大内との野戦も吉川の芸術
的な野戦戦法で勝ってるしな、しかも何が凄いって野戦で勝って確りその後に、
基盤を創ってる。
上杉・武田の様に軍記物の中だけの野戦だと、勝った筈なのに何も得る物が無か
ったような結末にしかならない、だって造作なんだものm9(^Д^)プギャー!!
0391人間七七四年
2007/09/04(火) 17:43:31ID:trbMikw9お前が武田や上杉の歴史も知らない馬鹿だと言う事は解った。
0392人間七七四年
2007/09/04(火) 17:45:38ID:fe5OnljJないないwww
裏切るかどうかは血縁や妻子をとられてるかがポイント
武田は跡継ぎ問題で家臣の足並みがそろわなかったんだろ
それと長年の重税もあるだろうし、色んな要素は考えられる
それに武田攻めに積極でなかったのは
進入経路のなさにもよると思うぞ
東海道筋は家康がいるからそれを横断するのは憚られるし
むしろ緩衝地帯としての重要性がなくなれば家康は裏切る可能性もある
信濃は中山道だろ。道が狭くて大軍が入れないから
積極的な策が行えないのはある
西の方が攻めやすい
0393人間七七四年
2007/09/04(火) 17:52:59ID:fe5OnljJ元就の野戦もすごいが戦術的な進歩という側面では室町から
ぬけてないかんじがするわけよ。駆け引きや知略面は戦国一だと思うけどね
毛利は信長の時代になると、たいした戦争おこしてないから印象うすいせいもある。
信玄は築城技術だとかそういうのあまりきかんし
東国は牧がおおかったろ、甲斐にしても武蔵にしても
だから騎馬ってイメージがつよいのもある
実際、畿内の城攻めは経済封鎖的な面もあったが
信玄はどっちかっていうと戦術面での攻城しかなかったかんじ
0394人間七七四年
2007/09/04(火) 18:19:10ID:uRJ3vuYq久々に香ばしいのが沸いてきたなww
強い武田さんは長篠の敗北以降全く領土拡張出来なかったのも事実ですよね?
先ずは武田勝頼率いる武田がどれほど織田にとって本願寺以上の脅威になるのか語ってみろよ。
大した脅威にならないから抑えの徳川残して近畿の勢力とガチで戦えてたんだろ。
0396人間七七四年
2007/09/04(火) 18:32:50ID:xMvkuWc4いやだから甲斐より近畿のほうがはるかに重要だっていってるじゃん?
本願寺がどれだけの勢力かわかっていってるのか?
強い弱いとかどうでもいいけど戦略上本願寺を倒して他の勢力にあたるってのが
当然の判断だと思うんだが違うのか?それとも武田が弱いと思うならなんで本願寺と武田の二方面作戦を
展開しないんだ?っていいたいわけか?
たいした敵がいないからステップにしないも何も奥州の大名とかもう結構織田に媚売ってるから戦もなにも
しないでも降伏してくる大名が大多数だよ。小田原攻めてる秀吉に挨拶してくるのと同じ状況に関東や奥州はなりつつある。
思ったんだがお前は武田の強さを妄想しすぎてないか?
長篠の戦以前ならそれもぎりぎり説得力をもったかもしれんがな。
1581年時に徳川単独で高天神をぼこぼこにされるようじゃなぁ
0397人間七七四年
2007/09/04(火) 18:39:37ID:fe5OnljJそうなのか?
付城、陣城の素速い築城で
相手の城の目の前に強固な城をつくり、城としての機能を無くす戦術ってのは
上方のいくさ職人の戦い方だったと思うけどなあ
武田、北条は自給戦用の城のイメージしかないぞ
0398人間七七四年
2007/09/04(火) 19:23:50ID:FC9y+gyA初陣から、桶狭間なみの、大逆転の大勝してる。
0399人間七七四年
2007/09/04(火) 20:19:50ID:a6bfP+uR桶狭間後美濃を攻めずに三河や北伊勢へ行っただろうし
美濃攻略後、上洛などせずに、飛騨や伊賀に攻めただろうし
上洛後も、三好や朝倉を攻めずに他の勢力相手したかもな
武田が強いから攻めなかったのではなく重要度が低いからと考えるのが妥当だろうな
長篠後は徳川だけで十分抑えられるような相手だし
0400人間七七四年
2007/09/04(火) 20:26:41ID:QsUHhDrJ付け城・陣城くらい誰でもやってる。毛利北条武田作ったものだって当然残っている。
上方の職人なんて江戸時代にできたフィクションにすぎない。
織田の付け城が素早くて堅固で凄かったんだっていうのはただのイメージでしょ。
0401人間七七四年
2007/09/04(火) 21:44:52ID:fe5OnljJあんまスレと関係ないが検索かけたらこんな意見もあるらしいよ
ー
攻撃・守備拠点としての機能を果たす要塞である付城を、本城級城郭の周囲にごく短期間に多数構築
して敵対勢力を孤立させるという戦法は、戦国末期から織豊期にかけて全盛となった。
織豊期の戦争は、一時的な勝敗を問題にするのではなく、占領地域を領国に編入し、さらには敵対
勢力の息の根を止める殺戮戦へと質的に変化した。付城群を有効に活用した戦術は、それに照応するものであった。
信長をはじめとする天下人達には、付城戦を遂行する資本と技術が蓄積されていた。付城戦には、
敵城を包囲する付城群が配置され、それらをつなぐバリケードとして逆茂木や土塁が普請され、
堀が伴うこともあった。したがって水攻めも、その一形態に属する。
ー
兵の強さを競うのではなく経済面と技術で勝ちやすきに勝つのが新しい戦い方だったんではないかとおもうんよ
反対に真田にしろ、家康の小牧長くてにしろ野戦での勝利だが
そういった小が大に勝つようないくさは東国の野戦の流れをうけたものかなと。
まあ、経験値がものをいうわけで野戦がすたれていけば野戦上手な系譜もすたれるわけで
結局一時的な気風にすぎないものだろうけど
0402人間七七四年
2007/09/04(火) 21:49:28ID:a6bfP+uR付け城を突破しようと不用意に兵を機動させたことで別働隊が敗れたんじゃないかと思うが
0403人間七七四年
2007/09/04(火) 21:55:48ID:fe5OnljJ結局、付城戦術と野戦采配と調略いりみだれが戦国末期の様相だろうけど
やっぱ野戦は一番難しいんではないかな
様式化されにくいし、かといって誰でも経験次第で学ぶことができる
0405人間七七四年
2007/09/04(火) 22:32:59ID:5ikIotVq今川・武田・北条と多少法整備や集権化の進んだ地方大国が好きだけど毛利さんの傘連判も気になって来た。
0406人間七七四年
2007/09/04(火) 22:39:22ID:trbMikw9なのに、何故か信玄謙信厨は野戦好きが多いんだよな。
信長は野戦を出来るような用兵のシステムを作って、島津は野戦の戦法を昇華し
毛利は弱小ゆえの野戦をして、信玄謙信厨は軍記物で野戦を演出した(藁
0407人間七七四年
2007/09/04(火) 22:49:40ID:trbMikw9毛利は基本大内の政治を継承した見たいね。隆元は五奉行制などして中央集権に
したかったみたいだが、これは隆元の死で失敗している。まぁ元々失敗したと思
うね。
0408人間七七四年
2007/09/04(火) 22:59:48ID:QsUHhDrJそりゃ築城技術の問題ではなくて物量、そしてそれをどう扱うかの問題じゃないか。
しかもそもそも武田の築城技術をきかないってレスに反論したのにどんどん論点ずれてる。
毛利元就の月山富田城攻めは陣城群によって補給線を維持しようとする尼子方に対して
毛利がさらに包囲するように陣城群を築いて補給線を断ったという、まさに陣城対陣城の戦いだよ。
0409人間七七四年
2007/09/04(火) 23:36:23ID:fe5OnljJいや築城技術だよ、一夜城だとか短期間に城をたてられるのは
物量だけじゃないでしょ
田舎と比べて都市部には技術者が多かったってのもあるし
経済力をそぐための付城戦略が有効な都市が多かったていうのもある
需要もあったし人材もおおかったんでしょ
武田は治水整理はやっているが土木建築=築城技術とはいえない
そういったのは技術者一人が命令すればことたりるが
陣城構築は現場の職人の習熟が不可欠。
毛利にしても同じ月山戸田城は持久戦だが、たしか4年ぐらいかかってるだろ
要するに織田との違いは機動力というか職人芸的陣城構築の速さにある。
ちがいをいうなら、
戦線の膠着から必要性としてでてくる陣城(というか塹壕)が旧来の戦い
陣城をつくってから、守勢の相手方が城攻めしているかのような
攻めづらさを与えるのが新しい戦術。
0410人間七七四年
2007/09/04(火) 23:40:59ID:a6bfP+uR月山富田城とじゃさしたる違いは無いと思うが
0411人間七七四年
2007/09/05(水) 00:01:16ID:YzYO5249本願寺と尼子のゲリラ的抵抗はにてるなあ
紀伊の勢力はまだ残ってるし信長はあの地域を完全にものにしたとは言い難いか
0412人間七七四年
2007/09/05(水) 00:04:34ID:50hvnl8F流石は信玄謙信厨、臆する事無く反論に一夜城を持ってくるとは…
しかも月山富田城を間違えるのは有りとしても、戦国時代に築城の名手とされた
馬場信春の事を全く知らない。本当に武田好きの人から見ても痛すぎる限りである。
0413人間七七四年
2007/09/05(水) 00:22:31ID:YzYO5249別に一夜でつくったとは言ってないがな
一夜城が完全な虚構というには織田方の陣城戦略は
三木城攻めにしても顕著じゃないか
いうなれば織田方の戦略思想が一夜城という形で現れていると思う
それと馬場信春は土木建築に詳しかったとしても
戦場でそれを活かすという考え方がなかったんじゃないかって言ってるの
武田は金山もってるし治水も築城もしてるから
お抱えの土木建築集団はいたろうが、
えっちらおっちら穴掘り、縄張りでしょ
そういうのは職人の業じゃなくて、一人のブレーンがいて
あとは労役のなにも知らない派遣農民がやってたってことでしょ
0414人間七七四年
2007/09/05(水) 01:18:22ID:4jbAeyM9>>388では論点が畿内となっていたものがいつの間にか織田、そして戦国後期に摩り替わっている。
とりあえずは論点を『畿内は攻城戦とか陣城戦』に戻して話させていただくと
陣城群作戦は毛利がやる以前に大内もやっていたし、それに対抗しうる尼子方の支城、陣城もあったので、
(つまり、双方とも築城技術が発達していた)
この点、旧態依然どころか織田に先行していたし、城の技術は山陰山陽では十分に発達していたといえるだろう。
東国についてはまず武田と北条の築城技術というのはその特徴がはっきりしている。城ヲタなら見ればこれは武田流だなとわかる。
武田流築城術やそれに近い言葉でググればいくらでも出てくるよ。
一例を挙げれば丸馬出で、これは真田氏にも引き継がれて大坂城の『真田丸』になっている。
畿内の、織豊系城郭においても武田流築城術は十分に通用したどころかその弱点を見事に補っている。
これを見ても畿内に比べて東国の技術が劣っていたとはいえない。
>>401
繰り返すが最初のコピペはそれは織田と戦国後期の話であって畿内の話ではないね。
>反対に真田にしろ、家康の小牧長くてにしろ野戦での勝利
もう出てるけど小牧長久手は陣城使いまくってるね。
で、真田が野戦で勝利?真田は岩櫃城など堅城を攻略しながら勢力を伸ばしたし、
第一、第二上田城合戦はその名の通り上田城が舞台。当てはまるのは天正壬午の乱くらいだね。
>>409
付け城で包囲するのって相手の拠点を奪わなきゃいけないんだから、単に城を築くスピードでけりがつくわけじゃないんだけど。
毛利元就は最初の拠点を得てから支城網が整備されていた月山富田城の包囲を一年で完成している。
対して織田の付け城作戦の嚆矢である小谷城攻めでは最初の拠点を得てから包囲まで三年かかっている。
最初の拠点を得て小谷城の動きを封じたのが偉いというならそれもそうだが、横山城は別に信長が築いたものではないし、
そのための陣城作りなら武田信玄も西上野でやっている。
築城技術者の黒鋤は半農だ。瓦師に関しては確かに都市部に技術者が多くて、織田が積極的に取り入れたもの。
だが陣城にはあんまり関係がないだろう。石垣の技術者にしても太田金山城のように石垣城は関東のほうがはやい。
これも陣城にはあんまり関係ないけどね。
>>413
武田のお抱えの職人の半分以上は築城職人。
0415人間七七四年
2007/09/05(水) 19:44:02ID:DWK/pd0z>上杉・武田の様に軍記物の中だけの野戦だと、勝った筈なのに何も得る物が無かったような結末にしかならない
これ真理だよねー
創作物で上杉・武田は野戦の天才と美化されてるもんだから
「じゃあ何で、そんなショボイ勢力のままなの? 勝ったのに状況変わらんの? 無意味な戦に勝っただけ?」
って疑問がちらついて、フィクションと割り切って楽しめないとこがあったりする。
毛利は逆に、史実で野戦が最強レベルだったのに
明らかに上杉・武田以上に凄い結果を残してるもんだから
「毛利元就は戦の天才ではなく謀略の天才」
みたいな描き方なんだよね。
謀略>戦術ってのは間違いではないと思うが
どーもフィクションにおいては
上杉・武田=戦闘の天才
毛利=謀略の天才
って感じにキャラ分けされてる希ガス
なんか織田も「戦では上杉武田に勝てないが謀略では上だった」みたいな描かれ方多いしな。
戦は下手な部類だが謀略を駆使して生き残った武田の、政治家としての泥臭い執念や
逆境を跳ね除けて連戦し、どうかこうか広大な領土を獲得した毛利の軍人としての傷だらけの生き様とか
たまには史実に近い物語も目にしてみたいなー、と思う今日この頃。
…いや、毛利のフィクションのイメージは
「三本の矢」繋がりでホームドラマかなw
0416人間七七四年
2007/09/05(水) 19:51:33ID:YzYO5249支城網と付城・陣城は考え方がちがうよ。
前者は、防御から何重にも壁をかこむ、城塞思想
後者はひとつには経済封鎖的拠点として、ふたつには
敵方の城に対するカウンターとしてのもの、
戦術・戦略両面を考えた攻城思想によるもの
しかし、概して地方の付城は戦線の膠着からくるもので
防衛・しかも多めに見ても戦術面にかぎられる。
それは、築城に時間がかかったし、経済封鎖というまで
経済の振興がなかったから。
だから、戦後に意味をなさなくなる臨時的なものが多くなる
>織田の付け城作戦の嚆矢である小谷城攻め
信長は美濃攻めに際して
小牧山城を築城してるが、これも美濃を経済的に圧迫させるためだった
て言われてるよ。陣城も一夜城に代表されるように
相手領地に城をくさびをうってじわじわ経済封鎖かけて
疲弊したところを攻めるってのを織田家はやってますよ。
あと、畿内って話だけど、織田からはじまって織田の家臣の割拠の時代って
意味だからね。織田が絡むまでの畿内は
戦というより将軍を擁したクーデターの連続だし
戦い方は西国といっしょ
0417人間七七四年
2007/09/05(水) 19:54:28ID:YzYO5249たんなる土木作業を生業としているだけの人だよ
彼らが組合をつくって自治性をもったのが〜衆とよばれる。
そういうのって結局在地性が強く、融通がきかないもん
戦場に陣城普請にでばってきたのかどうか不思議だな。
要するに、馬場がそういうお抱えとの折衝をまかされてて
いくらか部下にもらってたってところだろ。
その職人の多さと需要の多さから畿内の築城職人部隊は
武田のはるか上をいっていたってところじゃない。
さいご。小牧長久手と上田城はいづれも守勢の戦いじゃん
しかも勝敗を決したのは野戦でしょ
城を攻めあぐねることと大敗はちがう
野戦の要は用兵
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています