毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0308人間七七四年
2007/07/28(土) 11:15:59ID:tkMaUHL0先ず「降露坂の戦い」だが此れは>>260のスレの>46・47を見れば解るが
大友が九州で対毛利勢力の一掃を計って大規模な軍事行動を起こしたため
石見包囲網中だった隆元と両川の一角隆景の小早川軍を九州に向かわして、
実質元春の吉川軍で包囲という形になり(元就も居るが毛利家の当主は既に
隆元であり毛利家本隊は隆元に帰属してた)、その隙に福屋隆兼が謀反を起
こした為に包囲を解いて撤退したまでの事。ここで語られてる七騎坂の七将
の身代わりの話は大内の出雲遠征の時の話であり、後年歴史を知らない者が
勘違いしたと思われる(第一この時犠牲になった者は毛利の忠臣として幕末
まで祭られ、歴史的にもはっきりしているし、謀反をした元同盟者の福屋氏
は折り返してきた毛利により滅亡し、石見も翌年には温泉氏を滅亡させて本
城氏を取り入りって毛利に帰属させている。)。
当時の毛利家の状況は決して安定した戦国大名ではなく、前年(1560年)に
ようやく安芸守護に任命された新興勢力であり、大友や尼子の方がこの時点
(石見が尼子)ではまだ勢力的に上である。福屋氏も一家臣の謀反ではなく
大内滅亡後の2大同盟者の一角であり、その様な敗戦が許される状況ではな
かった。現に、忍原崩れでは元就自身毛利家はこれで滅亡すると狼狽しきり
だった。府野崩れの方は文献にどちら側(毛利、尼子)に対して言われたか
は甚だ疑問だ。援軍に駆けつけた毛利は確かに尼子に負けはしたが、当時の
尼子は上洛作戦もいとわない程の大勢力であり、毛利は大内の一武将程度の
扱いだ。然るに結果的に援軍作戦は成功し、尼子は上洛を諦め毛利攻めを決
断するきっかけとなり、遂には郡山城にて大敗北をきし天下の夢が潰えた契
機となった。「府野崩れ」とは尼子側に対して言われた言葉だと理解するの
が一般的な常識といえる。
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