毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0305人間七七四年
2007/07/26(木) 22:45:30ID:/W5BGCYuそれでもずっと思っていたことには、武田はいかにももったいないことをしたと。
「桶狭間で今川義元が死んでから、武田が反織田の軍を起こす準備をするまで」
この期間、いったいなにやってたんだということ。
当時の武田領を見ると、
@地理的に、北も東も西も山脈で隔てられていて、次は南に出るしかない。
A大名を見ても、北の上杉、東の北条は強敵、南だけ弱い。(西は物理的に無理)
B経済力でも、武田の生命線である金山が枯渇したが、駿河には安倍金山があった。
Cさらに加えれば、海への出口としてもっとも出やすいのが、駿河である。
これだけの条件下で、生き残るにはいずれは南(駿河)に出るしかない、
という状況が明らかであったにもかかわらず、やたらと上杉との戦いに凝ってしまった。
同じ期間に、織田信長は今川に消されそうだった勢力だったにもかかわらず、
濃尾から近畿を席巻して、事実上天下を手中に収めたといってよいほどの勢力になった。
同じだけの期間において、かくも成長の差が出たというのは、
もちろん、近畿濃尾のほうが一円支配のための、経済的政治的条件が揃っていたためであるが、
ここまで実現したことの差が出てしまったという時点で、武田はこの時点で敗北したといってよいだろう。
上記に挙げた条件下では、「今川義元が死んで、氏真が後を継いだ」という歴史的転機にきちんと反応し、
しばらくは氏真の実力を見極めてからでも良いが、すぐに駿遠併合に向けて準備をすすめるべき。
上杉謙信とは外交革命により同盟を結ぶ(謙信は信頼できるし、上越国境に近い郡まで獲る必要はないのだ)。
北条氏康とは敵対関係になるが、割り切るしかない。西上州や東駿河を割譲してなだめることもできる。
もちろん、徳川家康が、遠州に手を伸ばす時間を与えない(この時期の徳川はまだ三河支配が未完了)。
これだけのことをやって、初めて生き残りのめどが立つというのに、
桶狭間の時に動かずに、人生の終盤に近づいてから織田攻めの軍を起こすなど、中途半端すぎるように思う。
長期遠征が不可能な農民兵で、(戦場での強さ以外の)すべてにおいて武田を凌駕する織田勢力を消すのは、
信玄晩年になってからでは手遅れであって、この時点なら、むしろ織田と同盟を結んで生き残るべきだったのだ。
なぜなら、この時期になると、もはや織田との総合力は時間を経るにしたがって大きくなるばかりであって、
織田と敵対関係にある以上、こちらが決戦を挑まなければならない側になるからだ(この焦りが長篠の伏線になる)。
もちろん、この期間を信玄も無駄に過ごしていたわけではなく、いろいろ実力を涵養していたのであろう。
しかし、この期間に織田はもっと早い勢いで伸びていった。その情勢も信玄には収集できたはずであった。
信玄は、優れた武将であったがゆえに、すべてのことを玄人的領域でこなそうとして、必要以上に極めてしまった。
反面、乱世を制するのにもっとも重要な「天の時」を見方につける機会を失ってしまったのだ。
(おわり)
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