毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その5
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0001人間七七四年
2007/06/30(土) 20:18:43ID:q1CeW9qR毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179091146/
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/l50
0259人間七七四年
2007/07/10(火) 20:15:58ID:KuR65Rsg喩えが下手だね。
近代の国家間同士の戦争と
戦国大名同士の陣取り合戦とじゃ全然意味合いが違う。
毛利は大友に連勝してたのに、後方の内乱が原因で撤退を余儀なくされた形。
その弱みにつけ込んだ大友の外交手腕は見事だが
それでも豊前の一部は毛利に譲らざるをえなかった。
それだけ毛利が大友から勝ち取っていた領土が大きかったという事。
毛利の戦略目標が博多占領と断定するなら、大友の政治上の目的とは何だ?
九州探題としての防衛戦で、要地の門司を奪われたのは負けじゃないと?
毛利の判定勝ちと言われても仕方ない結果
0260人間七七四年
2007/07/10(火) 20:32:23ID:HovTYsuG俺個人の主張もあらかた書き終えた後なんで誘導↓
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/
0261人間七七四年
2007/07/10(火) 20:42:47ID:xCBSm88Q韓玄だとは思ってないですよw
>>257
日本軍の場合は敵の反撃によって押し返されたが毛利の場合は違うでしょ?
それに太平洋戦争は攻撃に出た時点でツーク・ツワンクに掛かったわけで、戦略負けしている。
パターンが違う物を比較に出しても・・・
こっちも例を出そうかな。
毛利の九州攻めでの講和は、攻城戦で門以外の入り込んだ城の一部を返したようなもの。
毛利は九州という城の内部にいつでも攻め込める状態にできたので勝利と言える。
0262人間七七四年
2007/07/10(火) 20:46:20ID:xCBSm88Q毛利と大勢力との戦いと武田の大勢力との戦いを比較することにはじまって、今毛利の戦闘能力を検証しているのだから問題ないのでは?
0263255
2007/07/10(火) 20:51:48ID:HovTYsuG直接253に文句をつけてた訳じゃないよ。誤解させてしまったのなら申し訳ない。
大友毛利比較に関してだけど、>>260で誘導したスレでは
結果で勝ち負けがどうこうだけじゃなく、それぞれの合戦の内容なども語られていて面白い。
未見の人は一読するのをオススメ。
0264人間七七四年
2007/07/10(火) 22:16:57ID:ecrlJS//0265人間七七四年
2007/07/10(火) 22:28:59ID:KuR65Rsg0266人間七七四年
2007/07/10(火) 22:33:56ID:0Istod90日頃から気をつけてない信長でも本能寺の変までしぶとく生き続けてたんだ
普通の大名を暗殺できるわけないだろ 天翔記じゃあるまいし
0267人間七七四年
2007/07/10(火) 22:35:42ID:ecrlJS//0268人間七七四年
2007/07/10(火) 22:59:29ID:xCBSm88Q毛利じゃなくて宇喜多主体にしたらスレ違いだぞ。
0269人間七七四年
2007/07/10(火) 23:17:25ID:9Y1yyzaE大友の政治目的>領土を毛利から取り返すこと。博多を確保すること。
毛利の政治目的>九州の旧大内領とくに博多を手に入れること。
で、どちらがより大きく達成できたでしょう?
特に、博多の一歩手前まで進出していながら、最後に大敗してそれまでの
戦果をふいにしたことを思えば、敗戦とするしかないでしょう。ただ、それ
までの勝ち分が大きかったので、その貯金のおかげで門司は確保できたけど。
認識が違うのでこれ以上続けてもどうにもならないと思いますが、戦争と
いうのは領土のとったりとられたり以上のことが求められます。地方領主
レベルならそれでいいですが、大名ともなれば何故、どうして、なんのために
その土地が必要なのか、という観点から行われるものでしょう。私は元就は
大名としても非常に優れた人物だと思っていますので、ほとんど領地は取り
返され、戦略上の要地ではあってもわずかな領地が増えただけで「勝った!」なんて
思うようなちっちゃい小物とは思いません。
0272人間七七四年
2007/07/10(火) 23:56:13ID:CVj9SfS4密告者がいたため元春と隆景は美作を通って帰った。
0273人間七七四年
2007/07/10(火) 23:59:08ID:gJh/PzzMおれは立てれんので誰か頼む
0274宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 00:07:22ID:YFwHXhzE0275人間七七四年
2007/07/11(水) 00:10:39ID:hnRNah3d0276宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
2007/07/11(水) 00:49:16ID:YFwHXhzEこの事は中村三郎左衛門によって明らかになったため、
この事から直家元春隆景を比較する事はできない。
スレ違いで申し訳ない。
0277人間七七四年
2007/07/11(水) 01:26:39ID:jHnZpDCc大友の政治目的が明らかにおかしい。
戦端が開かれる以前の北九州は大友が支配していたのだから
大友の目的とは「領土を取り返す事」ではなく「領土を守りきる事」。
取り返す必要があるのは、大友が戦場で負けて奪われたからに他ならない。
そして大友は、その政治目的を達成していない。
毛利本領においての内乱という好機を生かし、大半の領土を外交によって取り戻したが
それでもなお門司は毛利が支配した状況のまま。
つまり大友は防衛すべき領土を失ってる。それが講和を結ぶ前に比べれば少なくなっただけ。
逆に毛利の政治目的に関しては、ほぼ正しい。
そして毛利は、その政治目的を達成してる。
連勝で九州の領土を多く獲得し、講和の条件として大半を返還してもなお門司は確保した。
両者の違いは
「毛利の成功は、講和前に比べれば小さな成功」
「大友の失敗は、講和前に比べれば小さな失敗」
という事に過ぎない。
それは>>269自体も認めてる。
「戦略上の要地」である門司を毛利は奪い取り、大友は奪われたと。
確かに博多は北九州における最重要拠点と言っても良いが
アンタが言うような「博多を守れば勝ち、博多を奪えなければ負け」なんて判定は
それこそ>>253の言うようにゲーム的発想だと評せざるを得ない。
んで
>博多の一歩手前まで進出していながら、最後に大敗してそれまでの戦果をふいにした
とは何の事?
毛利の撤退が後方の内乱に対応する為だったのは過去レスでも語られている。
まさか立花家文書にしか記述が見受けられないような
「九州から撤退する両川の部隊を大友が追撃して大戦果を挙げた」って話か?
少なくとも陰徳太平記では無傷で撤退成功(立花道雪や高橋らがそれを見送って悔しがってる
そして両川が撤退した目的である山口の内乱も、そのまま駆けつけて迅速に鎮圧してる。
大友の史料にのみ記された「大打撃を受けて敗走した両川の部隊」を信じてしまったら
その後の内乱鎮圧へと繋がる両川の部隊移動と明らかに矛盾するんだが。
0279人間七七四年
2007/07/11(水) 02:01:52ID:qx3lBvZz上杉の戦略目標は最低限越後の防衛、出来れば村上小笠原を旧領に
武田の戦略目標は信濃の統一、出来れば越後の領有
で15年ほど争って結果はどちらにとっても曖昧な結果に
武田が多少領土を増やしたぐらいで
毛利大友も15年ほど争って多少毛利が領土を増やしたぐらいと
0280人間七七四年
2007/07/11(水) 02:02:16ID:jHnZpDCcむしろ将軍家の調停すらも連勝中の毛利は拒否して
>>269の仰る通り「博多の一歩手前まで進出」した所で尼子残党の蜂起に見舞われてしまい
一度は拒否した講和を渋々受け入れたんだから。
「尼子残党の蜂起は、実は全て大友宗麟の計略だった!」なんていう
「本能寺の黒幕は足利義昭だった!」的な推測論でもぶちまけん限り、厳しい。
無論、その幸運を存分に生かして領土を取り戻せるだけ取り戻した宗麟の外交手腕がネ甲なのは認める。
それでも「大友は戦場で負けたが、外交で何とか引き分けに近い形に持ち込んだ」が精一杯の評価だ。
0281人間七七四年
2007/07/11(水) 02:14:04ID:vU61A4hA毛利の敗戦と主張してるのは博多さんだけみたいだし
毛利の判定勝ちとする人も引き分けなら文句ないみたいだし。
>>279
川中島とは条件大分違うけどね。
侵略した側の毛利が結構な重要ポイントを押さえてるのが厄介の種。
つか北九州攻防戦と比べるとスケールが違いすぎだw
0282人間七七四年
2007/07/11(水) 07:30:57ID:Re2nyhIJ百年戦争ではイギリスは要地カレーをついに確保したまま戦争を終結
させている。これがフランスの手にもどるのは1558年の事。
カレーはイギリスにとっては大陸への進出拠点として地理的要因及び
補給ルートの問題などでも理想的なものだった。
これほどの拠点を確保しながらも百年戦争はイギリスの敗北とされている。
同様に毛利・大友の争いは毛利の判定勝利といえるのだろうか?
詳しい人教えて。
0283人間七七四年
2007/07/11(水) 08:45:57ID:enNqC+x50284人間七七四年
2007/07/11(水) 10:51:04ID:Re2nyhIJ0285長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/11(水) 11:45:33ID:trsI45Il北九州で失っても中国で領土の安定化と進出した訳だからマイナスにはならんでしょ
博多は確かにとれなかったけどこの地域の領主は直ぐに裏切る・鞍替えするからまだ後にチャンスあると考えていたのでは?
立花が入って来たから難しくはなるんだろうけど。
0286人間七七四年
2007/07/11(水) 12:20:49ID:yPpoZeoc百年戦争前はイングランドはフランスのギエンヌ地方を領有していたのに対し
戦争後はカレーのみとなってしまった
毛利大友は1557年以前は毛利は九州に領土は無かったが
元就死亡時の1571年には豊前の一部を領有
戦争前後の状況が完全に異なると思うが・・・
>一時は北九州に大きな力をもったのに
って具体的に何?毛利が博多近辺まで進出したのは1569年の数ヶ月程度だと思うけど
その一時的な状態を指しての話し?
それに豊前筑前の反大友勢力はその大半が勢力温存してそのまま残っているみたいだし
0287人間七七四年
2007/07/12(木) 10:03:01ID:/rYZnhyI一度は死にかけたぐらいでしょ(京から将軍家が派遣した名医のお陰で助かって、その後子供まで作ってるがw)
それが事後処理のために出張ったんじゃ?
0288人間七七四年
2007/07/13(金) 19:13:04ID:56sj9yQD0289人間七七四年
2007/07/13(金) 23:23:01ID:c6Iq4zwQ0290人間七七四年
2007/07/14(土) 11:42:02ID:EGA1ctkRしかし世の中晩年が悪いと低い評価しかされない
実際、個人の素行もかなーり問題があった人だしねぇ
0291人間七七四年
2007/07/14(土) 12:17:58ID:myLKaxo00292人間七七四年
2007/07/14(土) 12:35:13ID:sXbnWFaI成り上がったってのはちと違うな
0293長門 ◆q8GdomS4XA
2007/07/14(土) 12:49:24ID:ePoMZvCpつまるところ薩摩の島津以外は最早大友に敵はいないという九州統一まであと一歩な状況まできてたし、
晩年や性格を差し引いてもこれだけの状況に持ってこれたんだからやはり大友はやり手だとは思う。
大友と武田を比較すると甲乙つけがたい。
0294人間七七四年
2007/07/14(土) 13:35:04ID:RRCGeTW4没落したのもたくさんいるけど、島津とか大友なんて元寇の時から名前が歴史に出てくる伝統持ってる
0295人間七七四年
2007/07/16(月) 22:16:29ID:kAXFirCd0296人間七七四年
2007/07/17(火) 00:19:43ID:n6d7uj/O語ること語ったからじゃないw
0297人間七七四年
2007/07/17(火) 12:18:42ID:WrIlpVMS0299人間七七四年
2007/07/18(水) 09:56:02ID:hqEPNZrOでいいおね?
0302人間七七四年
2007/07/23(月) 17:07:52ID:njUmpy/4イチローと松井を比較するスレのような信者同士の言葉遊びになっている」だろ
0303人間七七四年
2007/07/24(火) 21:38:48ID:IsA7BBF0しかしネタが尽きて見事にとまったな。
0304人間七七四年
2007/07/25(水) 23:03:06ID:27+3l7ISご自由に利用してください。
http://www37.atwiki.jp/sengokuita/pages/17.html
0305人間七七四年
2007/07/26(木) 22:45:30ID:/W5BGCYuそれでもずっと思っていたことには、武田はいかにももったいないことをしたと。
「桶狭間で今川義元が死んでから、武田が反織田の軍を起こす準備をするまで」
この期間、いったいなにやってたんだということ。
当時の武田領を見ると、
@地理的に、北も東も西も山脈で隔てられていて、次は南に出るしかない。
A大名を見ても、北の上杉、東の北条は強敵、南だけ弱い。(西は物理的に無理)
B経済力でも、武田の生命線である金山が枯渇したが、駿河には安倍金山があった。
Cさらに加えれば、海への出口としてもっとも出やすいのが、駿河である。
これだけの条件下で、生き残るにはいずれは南(駿河)に出るしかない、
という状況が明らかであったにもかかわらず、やたらと上杉との戦いに凝ってしまった。
同じ期間に、織田信長は今川に消されそうだった勢力だったにもかかわらず、
濃尾から近畿を席巻して、事実上天下を手中に収めたといってよいほどの勢力になった。
同じだけの期間において、かくも成長の差が出たというのは、
もちろん、近畿濃尾のほうが一円支配のための、経済的政治的条件が揃っていたためであるが、
ここまで実現したことの差が出てしまったという時点で、武田はこの時点で敗北したといってよいだろう。
上記に挙げた条件下では、「今川義元が死んで、氏真が後を継いだ」という歴史的転機にきちんと反応し、
しばらくは氏真の実力を見極めてからでも良いが、すぐに駿遠併合に向けて準備をすすめるべき。
上杉謙信とは外交革命により同盟を結ぶ(謙信は信頼できるし、上越国境に近い郡まで獲る必要はないのだ)。
北条氏康とは敵対関係になるが、割り切るしかない。西上州や東駿河を割譲してなだめることもできる。
もちろん、徳川家康が、遠州に手を伸ばす時間を与えない(この時期の徳川はまだ三河支配が未完了)。
これだけのことをやって、初めて生き残りのめどが立つというのに、
桶狭間の時に動かずに、人生の終盤に近づいてから織田攻めの軍を起こすなど、中途半端すぎるように思う。
長期遠征が不可能な農民兵で、(戦場での強さ以外の)すべてにおいて武田を凌駕する織田勢力を消すのは、
信玄晩年になってからでは手遅れであって、この時点なら、むしろ織田と同盟を結んで生き残るべきだったのだ。
なぜなら、この時期になると、もはや織田との総合力は時間を経るにしたがって大きくなるばかりであって、
織田と敵対関係にある以上、こちらが決戦を挑まなければならない側になるからだ(この焦りが長篠の伏線になる)。
もちろん、この期間を信玄も無駄に過ごしていたわけではなく、いろいろ実力を涵養していたのであろう。
しかし、この期間に織田はもっと早い勢いで伸びていった。その情勢も信玄には収集できたはずであった。
信玄は、優れた武将であったがゆえに、すべてのことを玄人的領域でこなそうとして、必要以上に極めてしまった。
反面、乱世を制するのにもっとも重要な「天の時」を見方につける機会を失ってしまったのだ。
(おわり)
0306人間七七四年
2007/07/27(金) 11:01:49ID:l7h2SILk義元死亡時の武田が北条今川との同盟破棄したら信州は上杉に取られ、
甲斐は北条今川に同時攻めされ、という散々な結果になったと思う。
信玄に都合よく話が動くと思いすぎ。
ついでに謙信は自分の都合で関東の豪族を裏切って北条と同盟したり
織田家と同盟時に、共通の敵扱いだった一向宗と信長に連絡無く和睦
したりと割と好き勝手する人間だぞ。
0307人間七七四年
2007/07/28(土) 00:10:35ID:ID/AXti8@早期の三・遠・駿の確保か、あるいはA織田との同盟非破棄か、2つだけだったのではないかということ。
どっちかにするならわかるけど、信玄坊主は、2つとも中途半端に手をつける結果になった。
早期の駿河進出がそこまで不可能かつ非現実的な案なのであれば、そのオプションは捨てても良い。
仮に晩年に駿河を得たにせよ、さらに織田勢力と戦争状態に入ってしまったのは、この点で中途半端。
信玄坊主がまだ若ければ冒険してもよいのかもしれない。
しかし、すでに平均寿命に近いにもかかわらず、死後の火種を残すようなことをしなけれよかった。
だって、ここが一番引っかかるところなのだが、武田兵が一度の遠征で織田中枢を破壊できるはずがない。
豪族の農兵に依存しているし、補給線も伸びきるので、複数年にわたって、繰り返し遠征が必要になるのでは?
繰り返してしまうが、信玄死後、武田は時間の経過と共に織田に差をつけられる運命を背負い込んでしまった。
そのため、織田と修復不可能な敵対関係にある限りは、常に戦いを仕掛けることを強いられることになるのだ。
国力的にも限界なので、国内の豪族・農民をかなり酷使することになるだろう。よって国力はさらに開く。
これでは、時間がたつだけ悪循環になる。
戦略上のフリーハンドは完全に失われ、滅亡を待つばかりだ。
長篠については、いろいろ言われるが、敗戦の遠因にあるのは、この焦燥感だと思える。
なぜ、名君信玄坊主が、このように戦略上修復できない制約を課すことを選んだのか、まったく理解に苦しむ。
そこまでリスクを冒して天下したければ、もっと早期から徹底的に動けばよかったと思うのは、俺だけでないはず。
信玄がベストの道を歩んだかというと、俺は賛成はできない。
こう考えると、武田、あと上杉もそうだが、地理上の制約が戦略の幅を宿命的なまでに狭めているな。
0308人間七七四年
2007/07/28(土) 11:15:59ID:tkMaUHL0先ず「降露坂の戦い」だが此れは>>260のスレの>46・47を見れば解るが
大友が九州で対毛利勢力の一掃を計って大規模な軍事行動を起こしたため
石見包囲網中だった隆元と両川の一角隆景の小早川軍を九州に向かわして、
実質元春の吉川軍で包囲という形になり(元就も居るが毛利家の当主は既に
隆元であり毛利家本隊は隆元に帰属してた)、その隙に福屋隆兼が謀反を起
こした為に包囲を解いて撤退したまでの事。ここで語られてる七騎坂の七将
の身代わりの話は大内の出雲遠征の時の話であり、後年歴史を知らない者が
勘違いしたと思われる(第一この時犠牲になった者は毛利の忠臣として幕末
まで祭られ、歴史的にもはっきりしているし、謀反をした元同盟者の福屋氏
は折り返してきた毛利により滅亡し、石見も翌年には温泉氏を滅亡させて本
城氏を取り入りって毛利に帰属させている。)。
当時の毛利家の状況は決して安定した戦国大名ではなく、前年(1560年)に
ようやく安芸守護に任命された新興勢力であり、大友や尼子の方がこの時点
(石見が尼子)ではまだ勢力的に上である。福屋氏も一家臣の謀反ではなく
大内滅亡後の2大同盟者の一角であり、その様な敗戦が許される状況ではな
かった。現に、忍原崩れでは元就自身毛利家はこれで滅亡すると狼狽しきり
だった。府野崩れの方は文献にどちら側(毛利、尼子)に対して言われたか
は甚だ疑問だ。援軍に駆けつけた毛利は確かに尼子に負けはしたが、当時の
尼子は上洛作戦もいとわない程の大勢力であり、毛利は大内の一武将程度の
扱いだ。然るに結果的に援軍作戦は成功し、尼子は上洛を諦め毛利攻めを決
断するきっかけとなり、遂には郡山城にて大敗北をきし天下の夢が潰えた契
機となった。「府野崩れ」とは尼子側に対して言われた言葉だと理解するの
が一般的な常識といえる。
0309名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 06:39:54ID:Gk3A+Qrm優劣比較して何になる
武田がどうだ毛利がどうだとかぶつぶつ言うことがお前らの仕事か?
自分自身の生活の質を改善することに注意を注げ
0310名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:03:54ID:heH5n0tlこいつバカ
プゲラ
鍋島ってw
0311名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:04:47ID:xTGHeNtB結局毛利が負けたのに後で勝ったから尼子に対して府野崩れが言われたっていうのはシュールな言い分だな。
0312名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:07:02ID:heH5n0tlヒント: もともと旧大内領土がほとんど大友領土になった
0313名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:26:18ID:heH5n0tl戦端がひらかれるまえにはすでに大友領土になってた
→これはバカの典型的な反応
長期的に北九州のほぼ全面放棄を強いられたことこそ問題にされるべき
開戦時点で放棄すべき領土は北九州になかったとか、
それゆえ百年戦争とこれこれで違っていたとか、言い訳するやつはチンカス
剣道とかじゃないんだから個々の一時的な戦闘の優劣を論じるのではなく、
総合的長期的戦略的な結果としてどうだったかを論じろボケ
北九州攻防戦は明らかに 大友 > 毛利 はガチ
わかったさっさと日常生活で行うべきことに戻って取り掛かれ
0314名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:32:04ID:S/T0X+ODバカはほっとけよw
お前の頭のなかが崩れてるってーのw
毛利厨 ・・・ さすがに信玄厨よりはましだとおもったが、ここまで惨めだとはなw
所詮チンコしごきしかできないような奴が下手にゲームとかやりだすから
せっかく梅雨もあけるっちゅーに、こういった奴らが湧くのは正直見苦しいな
0315名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:40:07ID:S/T0X+ODおまえなー まじウザイんだが・・・
どこそこの誰のほうがだれそれより勢力が上だったとか下だったとか
府野崩れがどっちに対して用いられたかとか用いられていないとか、
ぶつぶつわけわからんことを書き連ねるのがお前のストレス解消かwww
素直にインベーダーゲームでもやってりゃいいのに、
ほんとこうはなりたくない奴の見本みたいなやつやな
皆が見てるスレで自己顕示されてもまじウザイし、消えてくれへんか?
いっぺん会って殴りたいわ ほんまに
0316名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 11:51:33ID:uzXtz6xk博多も北部九州も余裕で占領して今日には九州は日本領ではなくなっていますがwww
0317名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 12:30:31ID:3JbQBD4k信玄厨ってこういう低脳しかいないのか?
0318名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 12:44:28ID:Z740FGnjちゃんと読めよ
良識水準>毛利厨>>>>>武田厨
がもともとの俺の認識枠組みだ!
上の奴が湧け分からん失当なことを堂々とほざきよったから、
良識水準>>>>>毛利厨>武田厨
となったことを説明した。
武田厨も毛利厨も、
ほんとどうしようもなく惨めな奴らばかりなんだろうなって
社会のごみためのような奴らなんだってな
0319名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 12:48:50ID:mLeDbDAl毛利が勝とうが大友が勝とうが、李舜臣水軍に攻められれば滅びる運命が決まっていたのに、
それをしない李舜臣将軍に感謝せずに、毛利大友どっちが上とかわめいてるんだからなwww
九州を攻め取られなくて感謝すべきなのに、
恩知らずにも羽柴秀吉が攻めたときは、のこのこ海を渡る恩知らずが毛利大友www
0320名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 17:34:38ID:KWWY108R■■■■死■■■■■死■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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0323人間七七四年
2007/07/31(火) 03:46:06ID:1XSgA2wu■■■■死■■■■■死■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
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0324人間七七四年
2007/08/02(木) 09:20:51ID:sj2BTn8o0325あぼーん
NGNG0326人間七七四年
2007/08/05(日) 22:17:26ID:aTVRh6O9尼子大軍を撃退、月山城撤退戦に対陶の厳島合戦。晩年の北部九州戦線に
旧大内蜂起鎮圧に尼子残党掃討戦。)内政評価で辛いのはちょっと酷かな。
実際は瀬戸内の補給線確保と山陰鉱産物利権(当時の鉄産出量1/3以上
と銀山)押さえているから充分な気もする。大内の玄界灘〜瀬戸内輸送網と
尼子の鉱産物と日本海ルート手に入れて一大流通を完成させてるし。江戸期の
北前ルートの原型。毛利以前は日本海ルートと瀬戸内ルートが繋がっていない。
0327人間七七四年
2007/08/05(日) 23:30:48ID:Vw7DpjSbそしてその信長を震撼させた信玄はさらに凄いという結論になってしまう
0328人間七七四年
2007/08/05(日) 23:56:42ID:e4F08M1Rしたっけ?
徳川がボコられてたぐらいしか記憶に無い…
0330人間七七四年
2007/08/06(月) 03:21:17ID:pRwLNy3e久々にワロタ
しかも徳川重臣殆んど無事なんだよな
0331Y ◆nzdGjBH722
2007/08/06(月) 04:32:02ID:hobOH8q5犠牲に関して言えば、世間一般が大敗と取っている三方ヶ原よりも、
川中島の武田の方がよっぽど酷い犠牲なんだよな。
んで、バカな武田厨は上杉も酷い犠牲とか、領土抑えられたとかで
なんとか引き分けに持っていこうとするwww
0332人間七七四年
2007/08/06(月) 09:48:21ID:XGM0880h戦争目的を果たした側を大負けともいえまい。
0333人間七七四年
2007/08/06(月) 13:50:59ID:8CnET40v0334人間七七四年
2007/08/06(月) 18:55:28ID:65dTh5S+いや、それはさすがにどうか?
もともと領土を取るのが武田の目的だったのだから、
目的を達成したという意味では確かに武田の勝利でしょう。
犠牲は多大ではあったが、
単純に大きな犠牲を伴った勝利ってことになると思うが。
0335人間七七四年
2007/08/06(月) 20:29:40ID:tIWwUx7f武田の目的は北信濃防衛じゃないだろう
あくまで海を取ること
・北信濃防衛(最低ライン)○
・越後奪取×
戦略的には一応最低ラインは確保した
戦術的には戦国史に残る記録的大敗
0336人間七七四年
2007/08/06(月) 22:38:42ID:Q+ahdxpx武田は北信濃国境近くまで兵を進めていたのを
川中島まで押し戻されているから領土的にも負けのような
第1次から1568年までの一連の流れで武田が最終的に川中島支配して
領土増やした武田の勝ちというのであれば
三方ヶ原の戦いも1569年から1582年までの一連の流れでの一局地戦に過ぎず
最終的に領土増やした徳川の勝ちということになる
0337人間七七四年
2007/08/08(水) 07:09:43ID:mUyAlKUj北信濃防衛って、そもそも当時はまだ北信濃を領土化出来ていないから。
越後奪取なんてとてもとても狙えるところまで行っていない。
逆に当時の武田の勢力を過大評価しているからそうなってしまうだけ。
当時の情勢は普通に北信濃の領有をめぐって武田と上杉が争っており、
結局武田がその地域を領有したのだから、当然戦争は武田の勝ちということになるよ。
それから、徳川といか織田・徳川が最終的に武田に勝ったという点に関しては、
疑問の余地なく全くその通りでしょう。
0338人間七七四年
2007/08/09(木) 16:29:52ID:HJB6f6Opつか毛利が大友と戦い始めたのは、元就が齢70の頃からなんだがwww
疲労と老化ボケと戦いながらの元就と、大友フル活動を一緒にするなwww
0340人間七七四年
2007/08/10(金) 00:53:12ID:d0GIc4ku0342人間七七四年
2007/08/14(火) 00:45:45ID:vtNnPIW90343人間七七四年
2007/08/14(火) 03:27:32ID:0rfM8Uvh知人の70を見てると、正常な判断でくたばるまで動き回って方がすごすぎる。
十分評価出来ると思うよ
0344人間七七四年
2007/08/15(水) 05:15:38ID:oqYxTLB70345人間七七四年
2007/08/15(水) 18:39:13ID:0wCxkjh0両川が敵に回ってたら国人のまま生涯を閉じていただろう。
0347人間七七四年
2007/08/15(水) 19:14:32ID:/LHbtEmR多分その内釣れた釣れたとか言い出すと思うけどね。
0348人間七七四年
2007/08/15(水) 19:17:15ID:GjVYdbKo0349人間七七四年
2007/08/21(火) 07:52:34ID:6YofpmJl0350人間七七四年
2007/08/21(火) 21:46:18ID:RHRvu2p+嘘だっ!!お持ち帰りぃ
0351人問七七四年
2007/08/21(火) 22:18:16ID:jGsE1UGcと思う今日この頃
0352人間七七四年
2007/08/24(金) 01:44:48ID:9bWQ/fAT詮久の吉田郡山城攻めの際も、経久や重臣がこぞって元就侮るべからずと反対した程。
有田合戦に始まり、高橋氏討伐、郡山篭城戦、備後での尼子との攻防戦、
折敷畑山、厳島合戦と常に格上か互角の相手に勝利し続けた希代の将。
毛利を苦しめた大友も元就出陣の報を聞いた時は大慌てで逃げ帰ってる。
0353人間七七四年
2007/09/01(土) 18:49:23ID:2b2niqlT0354人間七七四年
2007/09/01(土) 20:46:41ID:HGknuvhF毛利がいなかったおかげで存続できた、東国諸大名。
って言い方も可能だと思うけどね。
0355人間七七四年
2007/09/02(日) 04:34:13ID:SfTqIn4a中国地方の丘陵風情が中部山岳地帯を縦横無尽にいけるとは到底思えんのだが wwwww
0356人間七七四年
2007/09/02(日) 04:50:47ID:SfTqIn4a武田: 信濃は群立割拠、守護・小笠原の目の行き届かぬところ多し、武田は基盤から構築しないといけなかった
0357人間七七四年
2007/09/02(日) 08:06:53ID:pq2kO/oO何が悲しくて山の中を縦横無尽に翔なきゃならんのか
0358人間七七四年
2007/09/02(日) 08:47:01ID:dxNodC7+その群雄割拠している中の一人で、支配領域も信濃の半分以下、
甲斐に及ばない程度の村上に何度も苦杯を飲ませされている信玄では、
信濃に統一的な勢力があったら、逆に征服されるだけだと思うよ。
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